第一話 戦わずして勝つ
アテナはラテン語ではミネルバ、といいます。
1
ブルートゥスが、門前で声を張り上げた。
「ゴンフィス市民諸君。カエサルが参った。しばし休息を頂きたい。城門を開けられよ」
真紅の戦袍を身に纏い、カエサルの兜で顔を隠している。立ち振る舞い、声質はカエサルに似せていた。
だが、早口で、微妙に話す内容が、似ていない。物真似作戦も長期戦になると、味方に気づかれるだろう。ブルートゥスが味方に八つ裂きにされないよう祈るばかりだ。
「しばらくお待ちください」と、城門の上からゴンフィスの兵士が戸惑った声を上げた。
ゴンフィスの内部で、私たちを受け入れるか否か、審議が始まった。
朝のうちに着いたのに、夕方になっても返事が来ない。
アントニウスが兵を連れてきたので、合流する。
これまでの経緯を報告すると、「あれ、カエサルが元気になった?」とブルートゥスの存在に気づいた。
私は「違います、そっくりさんです」と、間に入った。
「私はカエサルです」と、兜の中から、ブルートゥスはカエサルの声真似をした。
兜の中を覗き込むアントニウスから、顔を逸らしている。ブルートゥスの存在は、ここでは秘密である。
ゴンフィスの外で野営をする。
ブルートゥスに、荷車から毛布にくるまったカエサルを運んでもらった。
天幕の中で、毛布を外す。
「誰かと思えば、カエサルか。なんで寝てるんだ?」と、カエサルの姿で、飛び上がった。気づいていなかった。
事情を説明し終えると、ブルートゥスは首を捻った。
「なんて病気だろう。刺されても死なないようなカエサルが、急に倒れるものかね?」
私は「癲癇よ、きっと。意識がなくなる点で、同じ」と、答えた。
ブルートゥスは不可解だ、と言わんばかりの表情を見せた。
「癲癇は、なんかバタバタもがいて、気を失ったかなー、と思ったら、いきなり目を覚ます奴だろ。これとは違うぞ」
分かりやすく動きを合わせて説明した。動きは余計である。
「カエサルは、癲癇持ちなの。そういう噂を流しましょう」
兵士たちが知られるところになったら、そう説明するしかない。
ブルートゥスは「カエサルが癲癇だなんて、初めて聞いたぞ」と手を振って、この話題を終わりにした。難しい話は嫌い、というより、結論の出ない話に興味を失った態度であった。
これまでの会話が誰かに聞かれてないか、心配になった。天幕の出入り口から、外の様子を見る。
兵士の一人が、自分の肩に鳩の糞を塗り込んでいた。鳩の糞は槍傷によく効く、と信じられていた。今のローマの医学知識では、カエサルの病状を説明できない。
「それとだな……」と、ブルートゥスが声を出した。いちいち声が大きい。
「なんで、あのとき、敵は退却したんだろうな?」
もっともな疑問である。敵は篝火の許に伏兵を置き、優勢だった。あのまま退却しなければ、敵の勝利である。
ふと、あのポンペイウスが喚いている様子が思い浮かんだ。元老たちは聞こえぬふりをして、やり過ごしている。
「元老たちはね、ポンペイウスを妬んでいたわ。ポンペイウスに手柄を一人占めにされたくないから、退却命令を出したのよ」
「お前、本当は頭が悪いだろう。あのポンペイウスが、妬まれるはずがねえぞ」
ブルートゥスは呆れた表情を見せた。
「頭が悪い」と一番言われたくない人に言われた。
「そろそろ兜を脱いでいいか? 落ち着かないんだが」
「駄目に決まっているでしょう。カエサルが眠っている間は、あなたがカエサルなのだから」
どっちの頭が悪いのだろう。目の前が真っ暗になった。
ブルートゥスの姿が、私の視界から瞬時に消えた。天幕を見回しても、ブルートゥスはいない。
天幕には私の他に、眠っているカエサルだけだ。
しばらくすると、ブルートゥスが嬉しそうな足取りで天幕に戻ってきた。
「何しに行ったの?」
「兵士を集めて叱り飛ばしてきた。軍旗を奪われるとは、最大の恥だって。おめおめ生きて帰れると思うなよって、いびり倒したら、大半の奴らが泣き顔になってよ。カエサルのふりするの、楽しいーっ」
肩を揺らして笑った。カエサルのふりをして、なんて大胆なのだろう。
「もう一回、行ってくるわ。オカマになったカエサルが、ポンペイウスの子供を妊娠して怒り狂っているときの物真似を披露してやる」
私は机に両手を叩きつけ、「ふざけないで」と叫んだ。
いつの間にかブルートゥスが、私の目の前にいた。人差し指で私の襟を引っ張った。「ほほう、なかなかオムネが育っているようで」と、中を覗き込む。
物音を聞きつけ兵士が一人、「なにか問題でも?」と、困惑した表情を浮かべ、天幕に入ってきた。
ブルートゥスは私の胸から一切、目を離さず、「そなた。なに勝手に入ってきておる。余は業務中である。これからは声を掛けて入って参れ」と、カエサルの声真似をする。
兵士からすれば、カエサルが私の胸を覗き込んでいるようにしか見えない。
「し、失礼しました!」と、顔を真っ赤にして出ていった。
「これで……」と、ブルートゥスは私から指を離し、兜に手をつけた。「兜を脱げるな」と、片目を瞑って笑った。
私は、自分が屈辱と怒りで顔が燃え上がっている事態に気づいた。この男のせいで、カエサルと私の名誉が侵害されている。完全に人選を誤った。
天幕の外から、「申し上げます!」と、伝令の声が聞こえた。「ラビエヌス殿、我が軍の捕虜を虐殺している、とのことです」と、続ける。
よく分からない。捕虜でも、ラビエヌスとは旧知の仲であるので、麾下に組み込んでもよいと思う。人質としても活用できる。捕虜は生存していて価値がある。
天幕の外から、冷え込んだ空気が入ってきた。天幕の出入り口から顔を出して外を見ると、兵士たちの誰もが恐れおののいていた。
天候ではなく、人間が発する空気だった。恐怖一色の異様な空気から、私は、顔を引っ込めた。
勇猛果敢なブルートゥスであれば、怖くないだろう。
天幕の内部に目を移すと、ブルートゥスは指を噛んで、固まっていた。
「ブルートゥス、あなたも!」
捕虜虐殺の意図は理解しがたいが、カエサルの軍団に恐怖を与えるに充分だった。
私は「なんで、そんなにラビエヌスが怖いの?」と、ブルートゥスに問いつめた。
が、反応がなかった。一点を見つめている。しばらくして、口を開いた。
「ラビエヌスが騎兵を指揮したら、誰も止められねぇよ。ラビエヌスこそ、地中海最強の指揮官だ。……一緒に仕事をしていた奴なら、みんな知っている」
カエサルは、ラビエヌスの離反を知っていた。
いや、必死に否定していた。兵士たちを動揺させないために、なるべく伝えておかなかったのだろう。
ゴンフィスから、封書が届いた。
「昨今、我らゴンフィスを取り巻く政治状況は、とても厳しく、どちらの勢力に与するわけにはいかず、今回の受け入れは見送りとさせていただく」
ブルートゥスに見せた。
ブルートゥスは、「さすがギリシア人だな!」と羊皮紙を放り捨てた。
「……って、おい」と、私の顔を見て、困った表情を見せた。ブルートゥスの困った顔は初めてだ。
「そんなに怒るなよ……」と宥めてくる。
私は言葉が出なかった。ゴンフィスはカエサルの支持をいちはやく表明したのに、こちらの旗色が悪くなると、すぐに翻した。
なんて卑怯な人たちなのだろう。
「略奪しましょう」
2
「待て」と、ブルートゥスが口ごもった。
「……それはカエサルが許さないだろう」
ブルートゥスは、ゴンフィスに対して、というより私に困惑していた。真面目な表情をしている。
私は、私自身が思っている以上に、怒っていた。
「あたしのせいにしても構わない。どうせ殺される身よ。……カエサルを裏切り続けたからね。いいから、今から、ゴンフィスを攻めるの」
カエサルの兵士たちは動き出した。近くの森から木を伐採し、破城槌を製作した。振り子の原理で、ゴンフィスの城門を軽々と破壊する。
「すべてはローマのために!」
兵士たちは、ゴンフィスの内部に殺到した。
火を放たれ、ゴンフィスは一夜にして、住民が逃げまどう恐慌の都市となった。
焼ける街を外から見ていると、城門から、女が飛び出てきた。だがすぐに取り押さえられ、街の内部に引きずられ、姿が見えなくなった。
誇り高いローマの兵士も、略奪行為をすれば、ただの獣である。女の痛みが、伝わってくる。
私は横で槍を弄んでいるブルートゥスを見た。我関せず、の態度である。
「槍の使い方を教えて」と、頼んだ。
「なんでだ? 次の戦いに兵士として出るのか? お前はカエサルが残した最終兵器だったのか」
ブルートゥスは眉を顰めた。こちらが眉を顰めたくなる発想である。
「用心のためよ」と、私は目を下げた。ゴンフィスの女が他人事と思えなかった。
略奪に参加しなかったブルートゥスは暇だったのか、手にしていた槍を私に寄越した。私は槍の重さに、身体を持っていかれる。
「脚を開け」と、低い声で言った。普段から兵士を訓練し慣れている感じだ。
ブルートゥスは片足をあげ、足の裏を指さした。
「爪先から踵に向かって、線を引け。両足だぞ。その線を更に引っ張って、交差する場所があるだろ。そこに、ケツを軽く落とせ」
言われたとおりにすると、槍の重みが全身に行き渡り、姿勢が安定した。初めての体験だった。
「敵に近い側の足を、一歩、踏み込め」
槍の穂先が、踏み込んだ先に動く。目の前には誰もいないが、深く突き刺さった感じがする。
何度か練習した。槍を前方に突く動作だけなら、ほぼ習得できた。
「お前は頭が悪いが、意外と身体能力はいいよな」と、お褒めにあずかった。素直に喜んでいいのか分からない。
「どこかで練習した経験があるだろ?」
複雑な気持ちになった私を無視して、鋭い分析をする。ベテリウスを思い出した。
「ねえ、ついでなんだけど、落ちている槍を拾い上げるには、どうすればいいの?」と、質問してみた。
ブルートゥスは口に手を当て、「ずいぶん実戦的な質問だな」と眉を顰めた。この男の癖だ。まるで私の心を覗き込んでいるようにも見える。
「武器はすぐ壊れるもんだ。落ちている武器を拾っていかねえと、すぐに丸腰になっちまう」と、普段は頭が悪いが、殺し合いの話になると、頭がよい。
「槍を掴んだら、さっきのケツに向かって全体重を乗せろ。後は勝手に引っ張り上げられる」
槍が、宙に浮いたのかと思うほど軽く持ち上がった。力は一切つかっていない。テコの原理に近い。
私の身体が支点で、体重を掛けた腰が力点で、槍を持つ手が作用点と言える。
槍を拾い上げ、突き刺す。反復練習の結果、習得できたような気がする。
「腕力だけじゃ喧嘩はできねえよ。テコの原理を発見したギリシア人に、感謝しなくちゃな」と、ブルートゥスが宣った。テコの原理を知っていたとは、意外である。
3
「これからどうするんだ?」と、ブルートゥスは、いつのまにか地面に寝そべっていた。頬杖を突いている。カエサルに似せる気が全然ない。
「ポンペイウスとの喧嘩だよ。こんな生活は、もう飽きた。そろそろ決着つけようぜ」と、口に手を当て、欠伸をした。
私は背中に手をやるが、空を切る。ポンペイウスの陣に兵法書を置きっぱなしにしていた。記憶に頼るしかない。
目を閉じた。暗闇の世界が広がる。白髪の老人を、思い返した。目が細く、顎が尖っている。東方の兵法書を、筆写を依頼してきた。
老人が、発音の怪しいラテン語を話し始める。いつもなら口述筆記をしていくが、今回は、一つずつ心の中で反芻した。
廟算して勝つ。
戦争とは、勢いで勝つ。それは、岩をも砕く水のような勢いである。
相手を利益でもって誘導する。正攻法と、状況に合わせて変化する奇法を織り交ぜる。
闘いの極致は、無形。形がないから、敵は予想できない。
ここで、言葉が途切れた。
廟算して勝つ。戦いが始まってから、勝機を窺ってはいけない。戦う前から、勝たなくてはいけない。
今の状況に置き換えると、現地点、つまりブルートゥスの眼前で勝つ戦術を編み出さなくてはいけない。
戦争は勢いのある側が勝つ、と兵法書にはある。正直なところ、味方には勢いを感じない。敵は確実に勢いづいている。
闘いの究極が、無形である。ここは一瞬、理解できなかった。でも、既存の戦術を真に受けてはいけない、疑うくらいの認識で構わない、との意味だと思う。
敵の形は崩せないけれど、自分たちの形は崩せる。いや、敵の形を崩すために、自分たちの形を崩す。
相手の形は、どのようなものなのだろうか? 相手は、自身の利益のために行動する。
ポンペイウスは、とにかく、こちらの背後に騎兵を送り込みたい。
目を開いた。
私は、「騎兵の指揮官は、ラビエヌスでいいのよね? ……敵の話だけど」と、ブルートゥスに確認した。
ブルートゥスが「そうだが? 急になにを言い出すんだね、君は?」とカエサルの物真似を失敗したかのような返事をする。
「この戦い、ラビエヌスをやっつければいいの」
ブルートゥスは「なにっ」と頬杖から顔を落とした。
私は、天幕を出て、石を拾ってきた。ブルートゥスの目の前で、石を二列、並べた。敵味方の歩兵である。
それぞれの列の背後に、大きめの石を置く。片方は二つ、もう片方は一つで、量の違いを表現した。騎兵である。
ペトラの丘で見た、ポンペイウスの並び方を再現した。
「横陣のつもりか? ローマの古典的な配置だな。教科書どおりって奴」と、頬杖のブルートゥスが感想を述べた。眠たげである。
「どっちが勝つと思う?」と、顔を覗き込んだら、ブルートゥスは、「そりゃあ数が多い側よ」と、眠りかけている。
ブルートゥスにポンペイウスの役、つまり、数が多いほうをやってもらった。私は、カエサルである。
ブルートゥスが歩兵を、横一列に進軍させる。私は自分の歩兵に、ある細工をした。
私の歩兵がブルートゥスの歩兵に押されていく。私は騎兵を動かした。
「俺の勝ちだ」と、ブルートゥスも騎兵を、私の騎兵にぶつけようとした。
私はすかさず、さっきの細工を発動させた。ブルートゥスの騎兵が動揺する。私の騎兵が先にブルートゥスの背後に回った。
ブルートゥスは驚きのあまり、飛び上がった。
「お前、頭が良いな。誰に似たのやら……。これなら、相手がラビエヌスでも勝てる」
4
地図から、決戦の場を探す。
私たちがゴンフィスに向かう途中、広大な平原の横を通り過ぎた。会戦をやりたいポンペイウスにとって、理想的な場所である。
ここに、敵を誘い込む。平原の名前は、ファルサルス、といった。
命令書を書いた。カエサルから指輪印を抜き取り、封書を作る。
ブルートゥスが寝そべって、「一つだけ問題があるぞ」と、石を弄った。ポンペイウスの騎兵を二手に分け、歩兵の両端に置いた。
「片方の騎兵が囮で、別働隊が背後に回ってきたら、どうするんだ?」
そこまで、考えていなかった。
だが、ブルートゥスの考えは、こちらの戦術を知っていなければ前提が成り立たない。私たちの思考を読まれない限り、ポンペイウスとラビエヌスは、兵力を集中すると思う。
「彼らの賢さに、賭けましょう。賢いポンペイウスとラビエヌスなら、兵力を分散させる愚は、しないはず」
私は自分に言い聞かせるように提案した。
「ま、そうだな」と、ブルートゥスは明るく賛成した。
「喧嘩なんぞ、ビビったもん負けだからな」
ブルートゥスは顎に手をやって、鼻の下を伸ばした。
「ラビエヌスを怖がっていた人の発言だとは思えないんだけど……」
「しかしだな……」と、ブルートゥスは視線を落とした。
「なんで、ラビエヌスは、カエサルを裏切ったんだ?」
ありがとうございました。




