第五話 軍旗
書いていて楽しいキャラクターです。
1
列が動揺した。列を乱し、中には伝令の顔を覗き込む者もいる。
「嘘だっ。ラビエヌス殿が裏切るはずがない!」と、誰かが叫ぶ。否定、というより願望であった。
「嘘じゃない! 目撃者はラビエヌス殿の部下でした。見間違えるはずがありません」
列をなす兵士たちの表情から、闘志が消えていく。
ラビエヌス――カエサルの口から何度も聞いた言葉だった。まさか敵の一番先頭で軍を率いているとは、想像もつかなかった。
百戦錬磨で勇猛果敢なカエサルの兵士たちが萎縮している。これまでに何度も恐怖を味わったが、比べものにならないほど、異常動作を繰り返していた。行動そのものを止めようとしている。思考が止まっていた。
ラビエヌス。防壁の突破も手伝ってか、名前だけでカエサルの軍団は動揺している。
しかし、何故、ラビエヌスが敵の先頭にいるのだろう?
「敵が、この丘に攻め上がってきたぞ」と、誰かが声を出す。私に考えさせる時間を与えてくれない。
「まさか、どこから?」と、泣きそうな声が聞こえる。
「ペトラの丘から直接こっちに来たんだ。もうすぐ、ここに来る!」
どうも現実味のない情報である。どうやって防壁を越えて来たのか分からない。だったら、なぜ、これまで越えて来なかったのか。
臆病になった者は、臆病な憶測をする。臆病な推測はたとえ非現実的であっても、臆病者の集団に循環する。判断を狂わされ、兵士たちの列は崩れ去った。
「ラビエヌスがやって来る!」
カエサルが動けない事実が知れ渡るよりも、兵士たちは戦意を失った。
ルクルスが「まさか、ラビエヌスが敵に寝返るなんて」と、周囲を見回した。
兵士たちが肩をぶつけ合い、自らの逃走先を探している。陣は崩壊した。
「カエサルを荷車に乗せて逃げましょう」と、私はルクルスに提案した。
ルクルスと力を合わせ、カエサルを荷車に乗せた。カエサルの上に毛布を掛け、馬を繋いだ。裏口から出る。
行き先はゴンフィス。誰かが向かってくれればいいが、誰も向かっていないのなら、私たちで行くしかない。
丘を下る。敵は、もちろん来ていなかった。駆け下りる味方の兵士たちを横目に、慎重に降りていく。
暗闇の中を歩く。
背後から戦況が聞こえてくる。
防壁が崩壊していく。アントニウスが軍を纏め、敵の突破をくい止めようとした。だが、ラビエヌスに蹴散らされた。
私たちの周りに、味方の兵士たちが集まってきた。逃走経路が明確な私たちから、確信めいた感情を感じ取ってもらうしかない。
小高い丘の上で、篝火が焚かれていた。私の命令書どおりだ。
炎の隣に、鷲の飾りがついた軍旗が立っていた。「軍旗は無事だ」と、味方が喜びの歓声を上げる。
篝火の隣で、一人の兵士が軍旗に寄り掛かっていた。足下にある壷から、水を汲んでいた。
「水、旨し」と水を飲んでいる。
味方の一人が、「助かった」と私たちの列から離れ、軍旗に駆け寄った。が、すぐに倒れた。倒れた兵士の足下から、赤い血が流れる。
敵だ。味方たちは槍を構えた。
丘を半包囲して、敵兵の近くまで接近して、一斉に飛び掛かった。血風が巻き起こり、兵士たちが崩れていく。
立っている影は一体のみだった。全身は、返り血に塗れていた。槍を縦に振り、血を払った。先ほどと同じ姿勢に戻り、杯を口に運ぶ。
銀の腕輪が、炎で煌めいた。ポンペイウスの陣で見た、解放奴隷のアルミラだった。
ルクルスが目を見開いた。アルミラを知らなくても、危険な存在だと、本能的に察知した。
アルミラが、杯を宙に投げた。全身を反らして、槍を投げた。放物線を描き、私に向かって飛んでくる。
「危ないっ」
ルクルスに突き飛ばされた。地面に手を突く。
槍の轟音が、悲鳴に混ざる。ルクルスは腹に槍を受けていた。
私に何かを話し掛けている。だが、口から血が泡になって吹き出し、思うように話せない。
血飛沫が私の顔に掛かる。ルクルスは白目を剥いて、そのまま倒れた。
誰かの悲鳴が聞こえた。丘の上を見ると、アルミラの背後から、数人の兵士たちが姿を現した。敵兵が潜んでいた。
私の思考は、敵に読まれていたのだ。
敵も味方も、素早く密集隊形を作った。敵は「すべては、ローマのために!」と、自信に満ち溢れた声で、丘を駆け下りて来る。
少数ながらも、装備は充実し、表情は勝利を確信していた。味方は悲壮な表情で、着の身着のまま逃げてきた姿で迎え撃つ。
両者が激突した。結果は当然、味方が吹き飛ばされた。
陣形が乱れる。乱れたところを、敵が散開して槍で殺される。
乱戦になり、敵の一人が私に気づいた。
私はルクルスを揺り動かした。ここで寝ていたら、危ない。カエサルを連れて逃げなくては。ルクルスと一緒に、逃げるのだ……。
敵兵の槍が私に迫る。
いや、ルクルスは死んでいる。私は何を考えているんだ!
「こらこら、いけませんよ」
頭上から声が聞こえた。
2
一体の騎兵が、私の前に立ちはだかった。
「戦場の掟、その一」と呟いた。曲芸師のように槍を頭上で振り回し、敵兵の頭を粉砕した。
「余所見をしては、いけません」
兜から、見知った顔が見えた。
「あなたは……」と、私は息を呑んだ。
「デキムス・ブルートゥス?」
あのブルートゥスが、目の前で暴れている。亡霊か、と思った。
ブルートゥスは、「戦場の掟、その二」と、身を反らし、槍を投げつける。敵の大盾に突き刺さり、穂先が折れ曲がった。敵は、重心の狂った大盾を放棄した。
「盾を失ってはいけません」
ブルートゥスは、自分の大盾を敵兵の顔面を叩き潰した。
敵兵が集まって、槍で一斉にブルートゥスの馬を突き殺した。
ブルートゥスは、横倒しになる馬を蹴って、地面に着地する。いつの間にか、敵兵一人を槍で殺していた。
槍を捨て、剣を抜く。槍を構えた敵が一斉攻撃を放つ。
「戦場の掟、その三」
身体を一回転させ槍を避け、敵一人の背後に回り込んだ。
「足下にご注意ください」と脛裏を切りつけた。ギリシアの英雄アキレスよろしく、腱を切られた敵兵は地面に這い蹲り、苦痛に悶えた。
敵味方ともに、身を引き、ブルートゥスの周囲に空間ができた。
ブルートゥスは、視線を感じた。丘の上で、カエサルの兵士を虐殺しているアルミラだ。
二人は一瞬にして、通じ合った。
アルミラは、海でも泳ぐかのようにカエサルの兵士を殺しながら、ブルートゥスに向かって歩き出した。ブルートゥスも剣を振り回し、敵の血飛沫を海水浴しながら、距離を縮めた。
それぞれが最後の一人を殺し終えた。瞬間、遠くから銅鑼が鳴った。
誰もが動きを止めた。
また響いた。
アルミラはブルートゥスに背を向け、丘の上に歩き出した。
ポンペイウスの兵士たちが「退却だ……」と、ざわついた。ポンペイウスの兵士たちが身を引いて、去っていく。味方は追撃しなかった。余力がなかった。銅鑼のおかげで命拾いした、といえる。
丘の上では、馬上のアルミラが片腕で軍旗を地面から引き抜いた。自らの戦利品だと誇示すべく振り回しながら、馬で丘を駆け下りる。
走り去るアルミラを遠目に、ブルートゥスが悔しそうに肩を怒らせていた。
3
「あのう、すみません」と、私は遠慮がちに声を掛けた。あまりにブルートゥスが自然にいすぎる。
「お前か。なんとか無事だったようだな。敵は逃げちまったが、俺たちはどこに逃げるんだ?」
「どこに逃げる、とかじゃなくて。なんであなたがここにいるの? ガリア・キサルピナの属州総督なんでしょ?」
「ガリアが暇だったからな。途中で抜けてきたんだ」
ブルートゥスは、口に手を当て目を逸らした。何を考えているのかよく分からない。
「属州総督が勝手に属州から離れたら、軍法会議ものよ。死罪だわ」
「いんだよ。人間、追い込まれたら、普段以上に力を発揮するのでね」
ブルートゥスは手を振って、大笑いをした。この男から知性を感じない。頭が悪すぎる。頭が悪すぎて、思考がまったく理解できない。
「いつからいたの?」
「兵士に紛れて、ローマから船に乗ったよ。鎧を失った奴を覚えているか? あのときの鎧泥棒は、俺だから」
まったく覚えていない。目の前で下品な大笑いをする。話をしても無駄だ。
「ルクルスを連れて行かなくちゃ」と、ルクルスの亡骸に目を移した。
ブルートゥスは声を低めた。
「やめとけ。敵がなんで退却したかも分からねえ。いつ気が変わって攻めて来るかも分からんぞ」
カエサルを乗せた荷車に、顎を向けた。
「その大事な荷物も、早く届けなきゃいけないんだろ」
頭は悪いが、勘は良い。
敵味方の死体を放っておく。これほどの屈辱はない。誇り高きローマの軍ではなくなった。ただの野獣の群れである。
「ルクルスはね、反乱の首謀者だったの」ゴンフィスに向かって、荷車の馬を曳いた。
「反乱って、第九軍団のか」と、ブルートゥスが馬上で応えた。
いつの間にか、馬を調達している。装備を一新させていた。
私はブルートゥスにルクルスの話をした。
「変な人だった。自分を平均的一般人だの、カエサルは略奪すべきだの。でも、いい人だった」
最期は私に身を挺して庇ってくれた、本当の友人だった。
「変じゃねえよ」と、馬上のブルートゥスが口に手を当てた。
「略奪がどう、とかいう件だが。ルクルスが正しいぞ。お前が間違っている」
「略奪なんかしたら、住民から嫌われるわよ」
「ほおん。じゃあ、どうやって兵士に給料払うんだ?」
「兵士の給料ですって? 税金でしょ」
「出るっちゃ出るけど。日当をパーニスでいったら、一、二枚分くらいかね。そんなんで、家族を養えますかってんだ」
ブルートゥスが大げさな手振り身振りで反論する。子供の言い争いのようだ。あるいは、馬鹿にされているのかもしれない。
「そんなに少ないの」
「そりゃそうよ。税金で兵士の懐を賄っていったら、市民が重税で死ぬだろうが。だいたい戦争中は誰も働けなくなるぞ。隣で殺し合いやってんのに、お店を開けますか? 畑を耕せますか?」
戦争が始まったとき、ローマの生産や流通は停止した。買い占めが横行し、小麦粉の値段が高騰して、市民の生活は一気に苦しくなった。
「戦争で人殺した奴に、あー、いつもお世話になっております。今回は、よくうちの兄を殺してくれましたね、お金を差し上げます、なんて奴は、いるか? 人殺しそのものは、金にならねえ。何も生み出さねえからだよ。じゃあ、どうやって兵士たちは自分の給料、いんや自分が働いた分を稼げって言うんだよ」
ブルートゥスの発言に、反論できない。
「奴隷の娘っ子。お前こそ、略奪が兵士の給料である証拠だよ」と、ブルートゥスが私を指さした。
私は奴隷である。厳密に言えば、奴隷の子供であるが。
兵士たちは侵略先で金品を奪い、住民を攫い、売り捌いていく。奴隷は、安価な労働力であり、商品そのものだ。
古来より、略奪は兵士の給料だった。ローマのため、名誉のため、色々と大義名分はあっても、給料がなくては生きていけない。むしろ兵士たちの中には、略奪目的で従軍している者もいる。
プラケンティアで第九軍団が略奪を行ったのも、当然の権利だった。死に物狂いで働いたのに、故郷にはパーニス数枚しか貰えないのだ。第九軍団やルクルスの気持ちは、いかなるものだったのだろうか。
「ルクルス……。あなたは平均的一般人じゃないわ」
ルクルスは、心のどこかで、カエサルを憎んでいた。それでも、カエサルに仕返しをしなかった。その気になれば、私を殺して、カエサルをポンペイウスに突き出せたはずだ。それをしなかった。
「……立派で誇り高いローマ人よ」
私たちは、ゴンフィスに着いた。
ありがとうございました。




