第一話 オクタヴィアヌス
続きです。
主人公とオクタヴィアヌスの会話です。
客人用の寝室に通された。室内は、かなり窮屈だ。実家では、階段の下が私の寝床なのだが、ここは、さらに狭い。
だが、窮屈さは、さほど苦痛でなかった。疲労と睡魔には負け、そのまま気を失った。
夜明け前、目が覚めた。夜更かししても、身体は勝手に目覚めるものだ。外から、奴隷たちの慌ただしい仕事ぶりが聞こえる。
寝室を出ると、屋根のない広間だった。屋根がない理由は、採光と空気を確保するためだ。床の中央には、巨大な水槽があった。雨の日になると、雨水を貯めていく仕組みである。
屋根のない広間の周囲には部屋の出入り口があり、数人の奴隷たちが各部屋を行ったり来たりしている。
行き交う奴隷たちの間から、少年オクタヴィアヌスが、「やぁ、おはよう。よく眠れたかい」と、手を振った。昨夜の恐ろしい出来事など、全く記憶にないらしい。この図太さは、高貴な人間の特権と見える。
「朝ご飯、食べようよ」と、一室を指さした。
そこは台所だった。カエサル家も、ご主人様の家と同じく、朝食は台所で摂る。
「あたしは奴隷よ。高貴な貴方とは、一緒に食事なんて、できないわ」
即座に断った。奴隷が人並みに食事をするなんて、ご主人様や、家の人に怒られる。
オクタヴィアヌスは、困ったような笑みを浮かべた。
「君が誰の奴隷か知らないが、今は僕の客人だ。どうか、僕の招待を断らないでほしい」
「でも、貴方は子供。客を招く権利なんてないはず。カエサルや他の大人を無視して勝手に客を招いても、いいの?」
「カエサルは、ガリアからまだ帰ってないよ」
「貴方のお父さんは、どうなの。それに、カエサルにも子供がいるでしょう」
「僕の父は死んでいるし、カエサルには男の子供はいない。カエサルの近親者で男なのは僕だけなんだ。家の管理は、他の人がしているけどね」と、肩をくねらせ、表情に不快さが滲んだ。あまり好きな話題ではない、と見る。
「その、管理している人は?」
「ゾイラスかい? 今日は、仕事で留守だよ。責任者が不在。僕がカエサル家の家長ってことさ。臨時だけどね」
オクタヴィアヌスは片目を閉じて、笑みを浮かべた。綺麗な顔をして、悪事がお好きなご様子である。普段は、よほど厳しく躾られているのだろう、と思った。
これ以上の議論は無駄だった。
台所に入ると、巨大な竈が目に入る。竈の隣には二階へ続く階段があった。
壷が壁の前に並んでいる。壷は、地中に埋めて、食糧を保存しておくものなので、普段はお目に掛かれない。保存食を入れる作業の途中だと思われる。
台所には机があり、椅子があった。オクタヴィアヌスが椅子に座り、私も倣う。丸い顔をした奴隷が、盆を持って入ってきた。私たちと同年代の男の子で、机に朝食を置いた。
パーニスが盛られた皿。蜂蜜の入った皿、空っぽの杯。奴隷が牛乳を杯に注いでくれる。
「食べようよ」
オクタヴィアヌスと私は同時にパーニスを摘んだ。パーニスに蜂蜜を浸して口に入れると、とろけた甘みが広がった。
オクタヴィアヌスが笑っている。私が変な表情をしたからではない。私が美味しそうに食べているのを見て、心から喜んでいる。
笑顔も、美しかった。睫が長い。見る人によっては、女だと間違えわれても可笑しくない。
「ねえ、もしもカエサルが死んだら、貴方が後を継ぐの?」
私が質問する。こんな女の子みたいな人がカエサルの後継者だと考えると、少し面白かった。迫力がなさ過ぎる。
オクタヴィアヌスが、「どうして、そう思う?」と、眉を顰めた。迷惑な質問だったらしい。
「他に男の子がいないんでしょ」
オクタヴィアヌスは後継者の話は触れて欲しくないのか、「さあね。そんなことより」と、話題を変えた。
木の筒を取り出した。……私の所有物だ。
「君が持っていた、これ。この兵法書、異国のものなんだよね。東方から来た老人が、君に口述させたんだよね。なんで、そんなことをしたんだろう?」
オクタヴィアヌスは、大人の真似事をしたいらしい。遊びに少し付き合ってあげよう。
「その人は、お金が欲しかったのよ。商売しにご主人様の家に出入りしていたんだけど、売るものがなくなった。最後には、自分の知識を売ろうとしたんだと思う」
東方の老人を思い返す。蛮人らしく、髪を伸ばして、後ろに結んでいた。
「その何とかの兵法を、君は、どうするつもりだったの?」
「お爺ちゃんに頼まれて、買い主のところに届けるつもりだったんだけど……」
「途中で捕まったってわけだね。密偵と疑われて」
オクタヴィアヌスは食事を終え、伸びをした。合点がいって、満足したらしい。
いちいち確認しないといけない性格なのかもしれない。面倒くさい。
「東方、と言えばさ。パルティア遠征の生存者が言っていたんだけど。パルティアの軍旗は、黄金でできていたんだってさ」
オクタヴィアヌスが話題を変えた。話がころころ変わる。
「黄金の旗? 重たくて、はためかないでしょう」
「その黄金はね、羊毛よりも柔らかくて軽いんだって」
オクタヴィアヌスが冗談っぽく言った。くだらない嘘をついて、わたしを揶揄っている。
「奇想天外すぎて、話についていけないわ。カエサルの後継者さん」と、私は反撃に出た。あえてオクタヴィアヌスの弱点を突く。
オクタヴィアヌスは、気にした風も見せず、無想に耽った。
「黄金でできた軍旗なんて、嘘かもしれない。でもさ、僕たちの理解が及ばない不思議が、この世界には数多くあるんだよ。それを考えるのは、楽しくないかい?」
昨日あれほど落ち着いていたのに、同一人物とは思えないほど、年齢相応の動きだった。大人になったり、子供になったり、忙しい。
男の奴隷が階段の上から降りてきて、階段の陰に隠れた。
その後、用を足す音が続く。階段下は便所になっているのだ。炸裂音とともに、刺激的な臭いが、食事中の私に届いた。
ローマの裕福な家には、たいてい台所に便所が併設されている。ローマの地下には下水管が走っていて、水回りをなるべく一つにしたいという設計哲学の結果であった。調理している隣で、誰かが用を足している場面は、よくある。
ちなみに高層住宅だと、一階のみ下水管が通っている。一階は金持ちが占拠していて、二階や三階に住んでいる貧民は、瓶に用を足す。
瓶が溜まると、裏通りに並んでいる壷に捨てる。中には、窓から中身を投げ捨てる輩もいる。
便所から出てくる奴隷を横目に、今度は私が質問した。
「昨日の連中、自警団だって名乗っていたけど。どこの自警団だったのかしら?」
「どこの? 場所なんて問題じゃないよ。誰の? それが問題だからね」
「変な謎掛けは止めてよ。貴方は子供っぽい大人ね。いや、大人の真似をしたい子供かしら?」
「謎掛けじゃないよ。実際、自警団は、市民会のためにあるんじゃないよ。皆、金持ちの言いなりさ。カエサルにもいるしね」
「ということは、アグリッパは自警団なのね。……カエサルの」
「正解。よく分かったね」
「アグリッパが自警団を指揮し、その自警団を操っているのは……貴方なのよ」
「君は、賢いね」
オクタヴィアヌスは腕を組んで、感心した。少し気分が良くなった。さらに推理を続ける。
「昨日の自警団は、カエサルの密偵を捜していた。その自警団を、誰かが操っている。誰、とは、カエサルの敵ね」
オクタヴィアヌスは「ご明察のとおり」と頷いた。
ローマの自警団とは、政治的実力者のために暗躍する、実行部隊だった。
「今回は自警団同士の争い。政治的実力者の代理戦争って言ったところね」
オクタヴィアヌスは「そうなるね」と、楽な姿勢になって返事をした。
まるで年輩の中年のような動きである。戦争を指揮する将軍が、部下の話を聞いているかのようだった。
オクタヴィアヌスは、真顔でじっと私の顔を見た。私は、内部を見透かされている気がしてきた。
オクタヴィアヌスの表情は崩れ、笑顔になった。女友達同士がよくやる、笑顔の交換のようだ。この人物は、年齢も性別も、ころころ変化する。
「なんだか、僕たちって、似てるね」
似ているだろうか? 私とオクタヴィアヌスのどこに共通点があるというのか。分からない。
私の困惑をよそに、アグリッパが台所に入ってきた。慌てた顔をしている。
ありがとうございました。




