第四話 篝火
これがやりたかったんだろう、と言われそうです。
1
「そなたらは何を考えておるのだっ」
天幕から、カエサルの一喝が突風のように響いた。天幕の入口からそっと顔を覗き込む。
金色の髭を蓄えた、ガリア人二人が立っていた。二人とも、顔面蒼白である。
ロウッキルスとエグスの兄弟。ガリア騎兵の指揮を任されている。
ガリア戦役で協力的なガリア人として、カエサルに賞賛されていた。カエサルは、兄弟の親族を元老議員としてローマに迎え入れるほど評価していた。
兄弟は、一瞬、顔を見合わせ、「カエサル。それは誤解。俺たち、何も悪いこと、していない」と、弁明する。
「嘘を申すな。証拠なら、あるのだぞ」と、カエサルが、机を叩いた。
机に載ったパピルス紙が舞い上がる。帳簿だった。兄弟二人は軍の中核人材なのに、扱いがまるで犯罪者である。
「証人も、おるのだ」
カエサルの隣で、ガリア人の兵士二人が身体を震わせていた。
兵士たちは最初こそ戸惑っていたが、無言のカエサルに威圧され、堰を切ったかのようにガリア人兄弟の悪行を口々に言った。
兄弟たちは、食糧の上前を撥ね、戦利品を着服し、実際の数字とは違う帳簿をカエサルに提出していた。
証言が終わると、カエサルはガリア人兄弟に反論する機会も与えず、叫んだ。
「このカエサルを裏切る気か、そなたらは! 不正を持って、恩に報いるとは何事だ」
天幕が揺れるほどだ。天に住まう、父神が雷を落としたのかと思った。
出入り口の傍にマルクス・アントニウスが立っていたが、自分が怒られてもいないのに、涙目になっている。
カエサルは、「今日のところは、ここから出ていけ。追って沙汰を待つがよい」と、手で払った。
ガリア兄弟は弁明せず、青ざめた表情で出て行った。他の関係者も後に続く。
アントニウスはローマ式の礼をして、目を真っ赤に腫らして去っていった。全員が死刑宣告を受けたようだ。
私以外、無人となった天幕で、カエサルと視線があった。私は出て行く機会を完全に失い、中に入る。ルクルスの姿は既にどこにもない。
カエサルと二人きりになった。カエサルは全身から怒りを煙のように噴出させ、「こんな夜分まで、どこに行っていた」と、矛先を向けてきた。
「これを探していました……」と、カラクスを差し出す。
直感的に、無駄だと悟った。怒っているときに野草を見ても、気分が良くなるはずがない。
カエサルは意外な表情でカラクスを眺めていたが、怒る気をなくしたのか、寝台に向かい、横になった。
朝が来た。
よく眠れなかった。カエサルは早朝から机 カエサルの口元が歪んでいる。昨日の怒りが晴れていない。ガリアの兄弟が裏切った事実が、相当に応えたと見える。
私は顔を洗いに行くふりをして、天幕の外に出た。
カラクスを隠し持って、厨房に入る。厨房とは言っても、簡易の竈に、簡易の天幕を張っただけの代物であるが。
カラクスを鉢で擂り潰す。粘りができた。水で溶いた小麦粉に似ている。見た目が一緒ならば、パーニスができないだろうか。パーニスには、牛乳が必要だ。
縄で縛られ、涙を流す羊を思い出した。羊小屋に行くと、兵士たちが羊を捕まえていた。
「待って! 殺さないで。少しだけ、その子を貸して。パーニスを作るから」
パーニス、と聞いて、兵士たちは羊を手放した。
どこからともなく、兵士たちが集まった。兵士たちが見守る中、羊から乳を絞る。飢えた兵士たちの視線が怖い。上手くやらなければ、羊だけでなく私が解体される。
羊の乳を擂り潰したカラクスに混ぜる。さらに塩を加え、掻き混ぜる。焼けた鉄板の上に載せると、見る見る焼けていき、パーニスとなった。
試食してみる。少し青臭いが、味も、パーニスだ。パーニスは葡萄酒で発酵させて作るが、手持ちはない。実際のパーニスとは違うだろうが、パーニスである、と自分に言い聞かせて、焼いていく。
羊を抱えた兵士の口に一つ押し込んだ。兵士は、一瞬にして食べ終わり、満足げな表情を見せた。
周囲の兵士たちが「俺も俺も」と大騒ぎして、私に群がる。
私は揉みくちゃにされながらも、「外に行けば、材料はいっぱい生えているから」と、声を絞った。
カラクス探しが、一気に伝播した。カラクスはどこにでも生えていて、兵士たちはこぞって掘り続けた。
あのルクルスも、砂まみれになって掘っていた。略奪は、もう必要ない。
兵士たちが、カラクスで作ったパーニスを焼き始める。カエサルの陣が、全体的に活気を取り戻し始めた。
偽パーニスを、カラクスと一緒に皿に載せ、仕事中のカエサルに献上した。カエサルは横目で皿を認識し、脇にどけた。そのまま、作業に没頭する。
お気に召さなかったのだろうか?
私が首を傾げていると、間者から報告が入る。
ポンペイウスの陣内で、傷害事件が起こった。原因は、飲み水の奪い合いだった。報告が続く。悪疫が蔓延し、家畜が死んでいる。
カエサルの横顔から、強張りが取れた。
勝った。敵の水が尽きた。こちらの堰き止め作戦が、ついに成功した。
たとえ敵が船で別の場所から水を運んだり、井戸を掘ったりしても、大軍の消費には追い付かないだろう。
ポンペイウスの食糧がいくら豊富であっても、我々にはカラクスがある。作物の収穫時季まで先に飢える危険はない。
水と聞いて、ベテリウスの用意したお湯を思い返す。ベテリウスは元気だろうか。ポンペイウスに虐待されていなければいいが。
カエサルは空中に向かって喋り出した。私は慌てて筆記する。だが、カエサルは最初の数語で、口を閉じた。私を通さず、自分で文書を書き始めた。
私は仕事がなくなった。片足の指に石が挟まっていないか確認するなどして、時間を費やした。
カエサルは文書を完成させると、指輪で封書に押印し、使者を呼ぶ。カラクスも手渡していた。
手紙の内容は分からない。でも、和解だと推測できる。食糧も水も、有利な戦況で戦争を終結させたい。カラクスは、カエサル優位の象徴であった。
すぐに返事が戻ってきた。
カエサルは巻物を広げると、目を見開いて、地面に投げ捨てた。整理整頓好きなカエサルには、珍しい。私は拾って、中身を読んだ。
「このような草木、食すは獣のみ。当方に獣と和平する言葉はない。もし、そちらに人間がいれば、カエサルの首を寄越せ」
ポンペイウスが、あの氷の瞳を燃やして、この文書を書き散らす情景が、思い浮かぶ。まさか私が今こうして読んでいるとは、思ってもいないだろうが。
カエサルは、脚を揺らした。カエサルの不機嫌さが波のように拡がってくる。この場から逃げたくなった。
「そなたは」と、言葉を切った。カエサルは脚を揺らしたまま、沈黙している。カエサル内部で何かが煮え滾っているかのようだ。脚の動きを止めた。
「マルクス・ブルートゥスの奴隷だな」と、吐き出すように叫んだ。
予想外の発言に、私は背を反らした。
「そなたについて、ゾイラスに問い合わせたのだ。だが、ゾイラスは、そなたのような者は知らぬ、と申した」
私は、足下が沈んでいくような、感覚に陥った。ゾイラス宛の手紙は、手紙を載せた船は、沈んでいなかったのだ。
「後に、ゾイラスに調査をさせた。聞き込みの結果、そなたがマルクス・ブルートゥスの屋敷に出入りしている姿を、何人かが、目撃しておったぞ」と、カエサルが低い声で続ける。
表情を見る勇気が私にはない。
私は「いつから……」と声を絞り出した。不用意な発言は控えるべきだと思うが、聞かずにはいられなかった。
「防壁を建てる少し前に、ゾイラスからの調査結果が来たのだ。これまで黙っていたが、この際である。真実を申せ」と、カエサルは怒っているとも、困っているとも解釈できる口調で詰問してきた。
説明も反論も弁解も出なかった。全身から汗が吹き出る。口が乾き、胸が激しく打つ。
全身は汗で冷たい。脚は、震えるばかりだ。棒で殴り殺され、十字架に張りつけられた第九軍団の兵士たちを想像して、ただ時間が経つ。
カエサルは、ずっと私の秘密に気づいていた。なぜ、黙っていたのだろう。
「そなたも、余を裏切るのか……第九軍団といい、ガリアの兄弟といい、……あの男といい」
私は、裏切っていない。裏切る利益もない。騙しただけだ。騙したけれど、決してカエサルに害を与える行為ではない。
「そなたの服。なぜ、ユリアのものなのか。余を苦しめて、楽しいか。余になんの恨みがある。どこから手に入れた。ポンペイウスの陣で何をしていた?」
以前は着ていてもいい、と許可したはずなのに、今度は着るな、と命令する。
カエサルは天幕の外に誰かいると気づき、「どうした」と叫んだ。
咳払いの後、「お取り込み中、失礼します。緊急の報告でございます」と消え入るような声が聞こえた。
カエサルは更に腹を立て、「入れ」と苛ついた。
声の主はアントニウスだった。
「防壁が突破されました」と、上目遣いで報告する。
2
カエサルが「なんだと? アントニウス、また貴様、なにかをやらかしたのか?」と、怒りの目を剥き出しにした。アントニウスは小さくなる。
アントニウスがカエサルに怯えていた理由が分かった。失敗続きで、またいつ怒られるか、心配だったのだ。
だが、今回は、アントニウスの責任ではなかった。
「ガリア人兄弟が、敵に寝返りました! その際、我が防壁の一部を破壊した模様。敵がその穴を通ってきております」
アントニウスが地図に示した位置は、この陣から一番離れた箇所だった。
敵は海岸沿いからも戦艦で上陸し、海陸二面攻撃を仕掛けている。
カエサルの顔は赤く茹であがり、食い縛った歯から小さく泡が出ている。
「出かけるぞ」と、カエサルは立ち上がった。外は夜だ。
歩き出した瞬間、カエサルの身体が、風に煽られた枝のように揺れた。ゆっくりと前に倒れる。
アントニウスが、抱き抱えるように受け止めた。
最初、なにかに躓いたのかと思った。カエサルの目は閉じていて、全身の力が抜けている。
アントニウスが瞬きをして「カエサル?」と問いかけた。
だが、返事がない。アントニウスが何度も呼び掛け揺さぶるが、返事がない。
「カエサルが動かない!」と、アントニウスが、気の毒なくらい狼狽している。アントニウスの哀れな態度を見ていくうちに、私は冷静になった。
「眠っているだけよ。疲労が続いたのだから、休ませてあげましょうよ」
まるで自分とは違う、別人が話しているかのようだった。
「カエサルが目覚めるまで、私たちで、今の問題に対応しましょう」
と、アントニウスの顔を覗き込む。迷子のような表情である。
「でも、俺には無理だ」
アントニウスが首を振った。迷子を安心させなくては。
「あなたは、カエサルの分身でしょ? カエサルの下でずっと働いていたのだから、いつものようにやれば、充分よ」
と、子守のような気持ちでアントニウスをあやした。
アントニウスの顔から、暖かい光が灯った。カエサルの分身、が効いたようだ。
「カエサルが目覚めるまで、みんなに知らせずにいましょう」
アントニウスはカエサルを寝台に寝かせた。細くなったカエサルが、まるで人形のようだった。
出入口に、兵士が立っていた。平均的一般人ルクルスだ。
アントニウスは身を屈めて、ルクルスに体当たりを食らわす。崩れ落ちたルクルスに馬乗りになって、拳を振り上げた。
「見られたな。どうする? こいつを殺してしまおうか?」と、私に同意を求めた。
「殺しちゃだめよ。この人は友達」と、私は止めた。反乱の首謀者であるが。
「アントニウス、もう行って。カエサルの面倒は、あたしが見るから」
アントニウスが出ていった後、「どこから見ていたの?」とルクルスに訊いた。
「最初から最後まで。君がマルクス・ブルートゥスさんの奴隷だったところから、カエサルが倒れるまで」と、ルクルスは服装を正した。
「みんなに言う?」
ルクルスの腰を見ると、剣を下げている。
「言わないよ! 別に、カエサルに困って欲しいわけじゃない」
私の視線に気づいたのか、慌てて弁明する。今の緊急事態であれば、たとえルクルスでも安心できる仲間である。
「ただ、略奪をさせて欲しかっただけだ」と、ルクルスは続けた。信頼していいのかよく分からない。
このような状況下では、どう行動すればいいのだろう。
東方の兵法書。背中に手をやるが、空を切った。ポンペイウスに奪われたまま、敵陣に置き忘れてしまった。
なにか有用な一文を思い出せないだろうか。私は静かに目を閉じた。
「兵は走る」と、兵法書の一節が浮かんだ。
走る、とは逃げるという意味だ。
このままカエサル不在の状態で戦えば、兵士たちは逃げるだろう。カエサルが目覚めれば問題ないが、目覚めなかった状況を、想定する必要がある。
逃走経路の準備だけでも、しておこう。
場所はどこだ。カエサルの地図を広げた。
ゴンフィスが目に入った。ギリシアの中でカエサル支持をいち早く表明した、ギリシア半島の南東部にある都市だ。
今、私たちのいるデュラッキウムは、半島の北西部にある。だから、そのまま南東に向かって逃げればよい。最速で逃げれば、ポンペイウスに回り込まれる可能性は低い。
どうやって兵士を誘導する?
篝火だろう。
今は夜。一番近い兵士たちに手紙を送って、敵襲の際は、篝火に向かって走れ、と指示をする。敗走してくる味方も、それに釣られて篝火に向かう。
篝火を焚く。篝火に走る。二通の指示書をカエサルの文字で書いた。
指輪はカエサルの指から、失敬する必要がある。指が痩せていて、驚くほど簡単に抜けた。封書を作って、押印する。
「ルクルス、これを使者に渡して」と二通の指示書を渡した。
「対応の早さが、なんだかカエサルみたいだね」と、ルクルスは驚いた。
天幕を出ると、兵士たちの半数が消えていた。アントニウスに従いていった。
残された兵士たちは整列して、敵の襲来を待ち構えている。
包帯を顔に巻いた者、病気で槍を杖代わりにしている者……残された兵士たちの顔が、揺れる火に照らされていた。誰もが勇気を失っていなかった。
「前線より、伝令!」と、早馬が転がり込んできた。
「敵の先陣、先頭を走るは……!」
驚く名前があがった。
「ティトゥス・ラビエヌス殿!」
ありがとうございます。