第三話 カラクス
この植物は、絶滅しています。
1
「そなたは何者か?」
天幕の中で、カエサルは片方の眉毛を、吊り上げた。地獄から帰ってきた死者のような扱いである。
カエサルは痩せ、目の周辺にクマをつけ、より老化の一途を辿っていた。記憶力さえも失ってしまったのか。
「あたしを忘れたの? あなたの筆記奴隷よ?」
ベテリウスから貰った服がいけなかったのか。奴隷の姿に戻らないと、私だと識別できないのかもしれない。服の換えは、あっただろうか?
「違う。脱ぐな。着ておれ」
カエサルが、慌てて私の脱衣を止める。
「そなたは、あれに似ておったからだ。一瞬、あれが来たのかと思ったぞ」
「あれ、とは誰でしょうか」
「……我が娘、ユリアである」
カエサルは補足した。私を見て、自身の娘を連想したらしい。顔を背け、黙り込む。
痩せこけた頬は暗く、苦悩が滲み出ている。普段いつも勇ましいカエサルには珍しいほど、弱々しい態度であった。
察するに、これ以上、娘の話題を出すべきでない。
「あたしね、どうやってこの包囲を突破したのかというと……」
と、話題を変えた。
沈んでいたカエサルが、興味を示した。カエサルの反応に、私は気分がよくなった。
「逃がしてくれた人がいたの。コルネリアが、あたしを殺すって言っていたの」
と、続けた。自分で話をしていても、なんだか信じがたい内容であるが。
「コルネリアか。ポンペイウスの妻だな。……今の妻である。メテルス・スキピオの娘であったな。気の強い女ゆえに、ポンペイウスは頭が上がらんらしい」
カエサルは、ポンペイウスの苦労を想像してか、口元を緩ませた。
ポンペイウスがコルネリアと抱き合っている様子を思い返した。メテルス・スキピオは、ポンペイウスを監視するために自分の娘を嫁がせたのだろう。
「ポンペイウスは、元老の中ではあまり意見を尊重されていなかったわ」
メテルス・スキピオと報償について言い争ったり、決死隊の協力を求めていたりしていたが、どれもポンペイウスは元老からの支持を得られなかった。
私の説明に、カエサルは首を小さく捻った。
「あのポンペイウスがか? そこまで影響力を失っておるとは、信じられん」
動きを止め、熟考し始めた。娘問題は消えたようで、少し安心した。
「カエサル。あなたがポンペイウスなら、私たちとどう戦いますか」
不意に、そんな質問が浮かんだ。
「野戦に持ち込む」
カエサルは言い切った。この男、相変わらず、反応が早い。
「余がポンペイウスならば、歩兵で横陣を作り、我らの背後に騎兵を走らせるであろう。騎兵同士が衝突するが、数に勝るポンペイウスが有利である」
と、何事もないように続けた。
ポンペイウスと、戦術が一致している。あのポンペイウス、立ち振る舞いだけでなく、思考もカエサルに似ている。
カエサルは立ち上がり、事務的な表情で「出かける」と出発の準備を始めた。仕事を思いついたらしい。
「ところで」
出入り口で、背を向けていたカエサルが振り向いた。差し込む太陽の光が眩しく、真紅の戦袍が風になびく。
「途中で、ラビエヌスに逢わなかったか?」
ラビエヌス? 一瞬、言葉を失った。なぜラビエヌスが出てくるのか、理解できない。
曲芸師のように槍を振り回す騎士の姿が、頭に思い浮かんだ。
「いいえ、見なかったわ」
私は、ラビエヌスの顔を知らない。
2
カエサルは無言で出ていった。
出ていったまま、数日が経過した。
カエサルの陣に復帰したものの、カエサルは出かけているため、広い天幕の中で一人だけだ。
仕事と言えば、食事くらいである。お椀の中を見ると、お湯に豆が数粒、沈んでいた。
木製の匙で豆を一つ掬い、噛みしめた。噛みきれず、苦い。
「歯応えがあって、美味である」
本人の不在を利用して、カエサルの物真似をした。
小麦が底を尽き、馬や羊の餌が配給されている。ポンペイウスを包囲したはずのカエサルが、食糧の補給を断たれている。
「ポンペイウスの捕虜がよかった」
ポンペイウスの天幕で食べた暖かい料理を思い返した。
パーニス。不思議なタレのかかった牡蠣。思い出は空腹を助長するだけだ。私は伸びをして、想像上の食事を追い払った。
ベテリウスには、カエサルの許ではなく、ご主人様の許に連れて行ってもらえばよかった。二人で脱出して、ローマに帰る。それで、すべて解決する。
だが、ポンペイウスが負けてしまったら、ご主人様も私も、カエサルに殺されるかもしれない。
薄暗い天幕の中、家畜と同じ食事を目の前に、暗鬱たる気持ちになった。
冷たい隙間風が、天幕に入り込んできた。
季節は冬だ。作物が実るまで、いくつ日数が掛かるのだろう。それまでに家畜の餌で、生活しなくてはならない。
洗い物のため、天幕を出る。
痩せ細った兵士が、鍋を抱えて眠っていた。強靱なローマ兵も、家畜の餌では満足できない。カエサルの兵士たちよりも、内戦以前の私が、よほど良い食生活をしていた。
離れたところから、獣の叫び声が聞こえる。
羊が縄で縛られ、吊されていた。痩せこけた兵士が、集まってくる。兵士の一人が幽鬼のような目つきで、羊の首に短刀を刺した。赤い線から、血が溢れ出す。
私は目を背けた。
羊の様子が、頭から離れない。うつむいて、道を急ぐ。
背後から声が聞こえた。
振り返ると、自称一般人ルクルスが立っていた。
顔は土や埃で黒くなり、窪んだ瞳は生気を失っていて、騎士というより、戦災孤児のようだ。
「やあ」と、卑屈な笑みを浮かべた。不自然すぎる。
私は、一歩ぎょっと後ずさった。
以前は話を聞きたかった。反乱の理由を教えて欲しかった。
だが、今のルクルスとは、話をしたくない。ローマ人の代弁者たる、平均的一般人は、もういない。過去に反乱を企てた者の、なれの果てにすぎない。
私の前に回り込み、「どこに行くの?」と乾ききった唇を広げた。
底知れぬ恐怖が、背中を冷やす。
「出かけるの。……見回りよ」
と、私は背中にお椀を隠した。
「従いていくよ。馬の準備をするから、待ってて」
ルクルスは陣の外に駆けていった。表に繋げている馬を取りに行った。私は、振り切るように歩を進めた。
陣の外を出る。ルクルスの姿は見えない。
一人になったところで、行く宛などない。
カエサルの陣は、丘の上にあった。灰色の曇り空の少し向こうにペトラの丘が見えた。柵や旗が見える。以前まで私がいた、ポンペイウスの陣だ。暖かで、にぎやかで、食糧が豊富で、懐かしい故郷の感じがする。陣ではなく、小規模な都市である。
自分がカエサルなら、目の前に陣を置く。ポンペイウスの予見は当たった。カエサルもカエサルで、野戦に持ち込むポンペイウスの思考を読んでいた。あの二人、本当は仲良しなのかもしれない。
行き先もないが、丘を降りる。
貧弱な雑草が目に付いた。不毛の地でも、なんらかの草木は生えているものだ。
しばらく進むと、後悔した。空腹で力がでない今、陣で静養すべきだ。臆病なルクルスであれば、カエサルの天幕で私を襲ったりはしないだろう。陣外に出る行為は、体力の無駄遣いである。
陣に引き返そう。
馬の蹄が聞こえた。ルクルスだ。
馬上のルクルスは何も言わず、私を見つめた。目つきは生気を失っており、無理矢理どうにか笑顔を作っている。
こちらの生命を吸い取られるようだ。思わずのけぞった。引き返すのを止め、丘を降り始めた。
またもや後悔した。身を躱して陣に戻れば良かった。他人目がある場所が、安全だったのに。このまま降りていけば、ルクルスと二人きりになってしまう。
ルクルスが、自身の馬を私の隣に歩かせた。
「どこに行こうというの? その先には、なにもないよ」
馬上だから、私に追いつくのは造作もない。私は歩を早めた。
「まさか逃げている?」
ルクルスが心配の声を上げた。ルクルスは私ではなく、自分自身が心配なのだ。
「逃げていない。見回りよ」
私は咄嗟に言い返した。お椀を隠したが、ルクルスに気づかれた。
「嘘だ。君は僕から逃げている。僕が反乱の首謀者だから?」
図星を刺されて、私は反論できなかった。自分の過ちを告白している。ルクルスに害はないのかもしれない。
だが、騙されてはいけない。この男は、自分を平均的一般人だと何食わぬ顔で私に近寄り、その裏で反乱を企てていた裏切り者なのだ。
「今の君は、おかしいよ。いつもの理知的な君は、どこに行ったんだい?」
自分こそ!
「変なのは、あなた」
「僕は変じゃない。……食べていないだけだ」
と、ルクルスは静かに弁解した。
異常者は、自分を正常だと思っている。自分がおかしくないと感じている時点で、おかしい。
私は駆け出した。ルクルスと話をしたくない。
すぐに足が疲れた。普段よりも歩けなくなっている。これもすべて、食糧不足のせいだ。
「もう帰ろうよ」
と、ルクルスが宥める。甘い声で私をおびき寄せる気だ。
「あなたは、カエサルが嫌いなのね」
「なんで今の発言で、カエサルの話になったんだい?」
ルクルスが困惑の表情を見せた。カエサルを持ち出せば、嫌がると思った。ルクルスを困らせてやりたい。
「ルクルス。あなたがカエサルだったら、どうしますか?」
カエサル以上の知恵は出せない。そんなルクルスに、反乱を起こす資格はないはずだ。
だが、ルクルスは即答した。
「略奪する」
カエサルも驚くほどの速さだった。
「略奪?」と、私は言葉を詰まらせた。
「なにを考えているの? 罪もない人たちから奪え、と言うの? 強盗と同じよ。あなたは間違っているわ」
私が早口で捲し立てても、ルクルスは平然としている。
「いいや、君もカエサルも間違っている。周辺の村々を略奪すべきだ」
議論を打ち切りたいのか、ルクルスは馬上から手を差し伸べてきた。
「ここにいても、無駄だ。……帰ろう。乗りなよ」
うるさい!
「あなたの馬なんて、絶対に乗らない」と、私は冷たい大地に腰を降ろした。「あたしは、ここから動かない」と、そのまま寝転がった。砂や土の関係で、背中が痛い。
ルクルスの馬が、右往左往した。どうしていいか分からないようだ。ルクルスの馬も弱々しくなっていた。肋骨が浮き上がっている。
私ができるだけ冷たい声で「行って」と言い放つと、ルクルスは肩を落として、去っていった。
曇り空を見る。空に向かって手を翳す。腕が細くなっていた。こんなに細かっただろうか? 薄い皮から、骨が透けて見える。
周囲が暗くなっていく。遠くで、野犬の声が聞こえた。
どうでも良くなった。風は冷たいが、身体が動かない。いや、動かしたくない。このまま、眠っていたい。私は目を閉じた。
向こうに、光が見える。私は光に向かって歩き出した。
最初は何もない、ただの光の中だった。床が現れた。クラゲが描かれている。アジ、タコ、イセエビ……私の食糧事情を察してか、海洋生物ばかりだ。
ここは台所。私は、ローマの家に帰ってきたのだ。
机に向かって、一人の若者が巻物を広げている。ご主人様、マルクス・ブルートゥス様だ。ローマでも勉強家として、名高い。
私を見るなり、手招きして、口を動かした。
(こちらに来なさい)と声が小さい。ご主人様はお話が苦手で、他人によく聞き返される。
私は生まれてきた頃から、ご主人様の声を聞いていたので、難なく聞き取れる。おかげで、ベテリウスと意思疎通ができた。
ご主人様は、自分の膝上を指さし、(座りなさい)と命令した。私にとっての定位置だ。ご主人様の脚は、骨っぽい感触だった。あまり外に出歩かないからだと思う。
巻物には、植物の絵が描かれていた。
ご主人様が植物の名前を一つずつ説明する。正直、頭に入ってこない。
一つを指さす。貧弱な草をつけた、長い球根。ご主人様は、こう呼んだ。
「カラクス」
私は、ご主人様の手に自分の手を載せた。
光の世界が消えていく。
私は、いつの間にか、暗い大地の上で眠っていた。私が握っていたご主人様の手が、草になっていた。この辺りでよく見かける、貧弱な草である。
私は、この草の根を見たくなった。手にしたお椀で草の周辺を掘る。
手探りで、根が出てきたと分かった。土を払って、食いついた。口に含んだ瞬間、硬い球根が水分となって崩れた。
……球根は、食べられる。かすかに甘い味がする。
人差し指と親指に粘着質が残っている。なにかと混ぜれば、食品に加工できるだろう。空になったお腹の中が、心地よい感覚で満たされていく。
力を取り戻した。身体が動く。
私は、同じ種類の草……カラクスを探した。
すぐに次のカラクスが見つかった。いや、そこらじゅうに生えている。二つ目を掘っていると、馬の息遣いが聞こえた。
「ずいぶんお土産探しに時間が掛かったようだね」
ルクルスだった。暗くなっても、私を見捨てず、待っていてくれていたのだ。
ルクルスは、死者のように痩せ細っていたが、以前の友人だった頃と変わらない。
「あのカエサルを満足させなきゃいけないのよ。仕方ないでしょ」
自然と普段通りの話し方ができた。どうも私は狂っていたらしい。これもすべて、空腹のせいだ。
馬上のルクルスが、松明に火を点け、周囲を照らした。同乗を勧めてきたが、私は拒否した。まだ許してはいない。
寂しげに肩を落とすルクルスではあったが、的確に帰り道を辿っていく。私は、後を追う。
空腹と疲労があったものの、新しい食糧が見つかって、足取りが軽かった。
ありがとうございました。