第二話 ベテリウス
この二人はもっと早く登場させるべきでした。
1
「あたしが名前をつけてあげる。貴方は、今からベテリウスよ」
〝おじいさん〟を意味するこの名前を、気に入ってくれたようだ。ベテリウスは、無言で喜んだ。
垂れ幕の向こう側から、奇声が聞こえた。軍机を叩く音が続く。
覗くと、ポンペイウスが、軍机の前で頭を抱えていた。脚を小刻みに震わせ、時には地面を蹴る。
頭髪を掻き乱し、また奇声を発する。
相手はおらず、机上に向かって誰かに対する罵倒を、口走っている。
「貴族どもは真に不快である。どいつもこいつも金の勘定しかせぬ……。自らの命を投げ捨てて、戦う者は何処だ? 真のローマ人は何処にいる?」
歯を剥き出しにして怒っていた。狂った犬にでも噛まれたのかもしれない。
「あの人は誰?」と、ベテリウスに訊く。ベテリウスの記憶力を試したくなった。
ベテリウスは視線を天井にやり、口を開いた。
(ええと、ええと……)
必死に思い出そうとはしている。
(……だめだ)
言葉が出てこないらしい。ポンペイウスを知っているが、名前は忘れたらしい。
ポンペイウスが私に気づき、氷の瞳を向けてきた。
「そなた、その者の言葉が分かるのか」
刺すような声だった。ポンペイウスの声は氷の刃のように冷たく、好きになれない。
「似ている人が知り合いだから」
小声の知り合いがいる。主人であるマルクス・ブルートゥス様を思い返した。
隠れて見ていた私は、垂れ幕から離れて、ポンペイウスの前に出た。対面で堂々と会話しなくてはならない。弱さを見せてはならない。
「ずいぶん様変わりしたな」
ポンペイウスは私を上下に眺めて、事務的に感想を述べた。褒めているのか貶しているのか分からない。
「そなたは、カエサルの愛妾か。……違うな。愛妾にしては、幼い。もう少し色気があっても良いはずだ。見た目はどうであれ、そなたの中身は、どうも知性に傾いておるようである」
氷の瞳が燭台の灯に照らされ、輝いた。ポンペイウスは好きになれないが、氷の瞳は美しい。
「炊事場の奴隷だったな。どうせ嘘であろう。……カエサルがあんな位置に陣を置いてたまるか」
さっきの議論を蒸し返してくる。しつこい。死んでも言い続けそうだ。
「どうしてそう思うんですか? 貴方だったら、どこに陣を構えますか?」
「分かり切っておるわ。もしも私がカエサルなら、我らが眼前に陣を構えるであろう」
カエサルなら思いつきそうな大胆な発想である。この男は、本当にカエサルの分身なのかもしれない。
浅黒い肌をした背の高い奴隷が、盆を持って天幕に入ってきた。
食事の時間だ。盆から、皿を軍机に並べた。皿から湯気が立っている。
絨毯にも皿を置く。並べられた料理は、パーニスの盛られた皿、水差し、牡蠣の殻だった。
ポンペイウスは黄金で装飾された杯を奴隷に向け、赤いブドウ酒を注がせた。牡蠣の殻を静かに啜り、赤ブドウ酒を呷る。
ベテリウスがいつの間にか寝そべっていた。たるんだ腹を絨毯に載せて、絨毯の皿に手を出した。
私に牡蠣の詰まった貝殻を突きつける。
牡蠣は、香ばしく焼かれていた。上に見覚えのないタレが掛かっている。
私は唾を飲み込んだ。
敵から食事を貰う行為は、カエサルに対する裏切りである。カエサルや仲間たちは、今どんなひもじい食事をしているのだろうか? 自分だけご馳走にありつけても良いのだろうか?
多少は躊躇したものの、結局、頂いた。カエサルに申し訳ないが、空腹には勝てなかった。
牡蠣は噛むと肉厚で、口の中でとろけた。牡蠣の甘味を追いかけて、酸味の効いたタレが濃厚な味を運ぶ。
どれも経験のない味で、私は動けなくなった。ベテリウスには気を失っていると思われたかもしれない。
「このタレの名前は?」
牡蠣にむしゃぶりついているベテリウスに訊いた。
(……酢と鶏卵の混ぜ合わせ)
そんなものでできるのか。今度、作ってみよう。
ポンペイウスは食事を終えると、皿を脇に置き、仕事に戻った。書類に目を通し、指示を書いていく。
次から次へとこなしていく仕事の速さは、カエサルそのものだった。だが、決定的な違いがあった。
脚を震わせ、地面を蹴り、時おり意味不明の奇声を発して、筆を走らせている点である。常に誰かを罵倒している。うるさい男である。
ベテリウスはなにか思いつき、天幕の外に出て行った。
木製の玩具を持って帰ってきた。
(ギリシアのもの)
二対の人形が向かい合っている。片方の人形は、背中に穴が複数あった。
ベテリウスが付属の小さな棒を手にした。棒は短刀を模している。短刀を背中に差し込む。何も起きない。
短刀を手渡してきたので、私も差し込んだ。穴のどれかが弱点で、弱点に刺さると、なにかが起こる仕組みだと直感した。
ベテリウスが短刀を差し込む。人形が倒れ込んだ。倒れ込んだ先は、もう一体の人形であった。
男同士が抱き合っているかのように見える。
ベテリウスが大笑いした。私も釣られて大笑いする。ベテリウスは腹を抱えて笑った。
もう一度、遊んだら、弱点の場所を覚えてしまったので、すぐに飽きた。
(ローマに帰りたい)と、ベテリウスが呟く。
(戦争はイヤだ。もうやめたい)
「あたしも」
ベテリウスの太った腕が、あらぬ方向にねじ曲がった。ポンペイウスが、ベテリウスの腕を掴んでいた。
「指輪をよこせ」
氷のような眼差しで、手紙の封部分に蝋燭を垂らした。
ポンペイウスは、太ったベテリウスの拳を、手紙の蝋に押しつけた。ベテリウスが小さい悲鳴を上げる。
指輪の印鑑をベテリウスの拳と一緒に、熱い蝋に何度も何度も、次から次へと書類を変えて押しつけた。
罪を犯した、烙印の刑を受けている奴隷のようだった。
「乱暴はよして!」
私が叫ぶと、ポンペイウスが動きを止めた。金髪の女が天幕の出入り口に佇んでいた。
「コルネリア」
ポンペイウスがゆっくりとベテリウスから手を離す。
コルネリアと呼ばれた女は、私を見て、「誰? カエサルと一戦交えると仰っていたのは、あれって女漁りの口実だったのね」と不機嫌な表情を見せた。
「勘違いするでない。ご老体の戦功品である。……少々、騒がしいがな」
ポンペイウスが笑みを浮かべた。刺々(とげとげ)しさがなく、丸みを帯びた口調だ。女には甘く、態度が変わるらしい。この点も、カエサルに似ている。
コルネリアは、ベテリウスを見て、「年をとっても、女好きは変わらないのね」と呆れた。
「コルネリア。私を見よ」
ポンペイウスは、コルネリアを抱き寄せた。唇を交わす。
コルネリアの唇を吸いながら、ポンペイウスは私たちを見た。氷のような瞳は、邪悪な炎に燃えていた。吐き気がする。口を抑え、顔を背けた。
男女は唇を離すと、お互い見つめ合い、天幕の外に去っていった。
(寝よう。娘)
ベテリウスは、燭台の火を消し、床で寝た。
寝台はポンペイウスの所有物らしい。私もベテリウスの隣で横になった。
ベテリウスは、ある程度の距離を保って、背を向けた。まるで私を外敵から守るように、出入り口に向かって眠っている。
ベテリウスの寝息を確認して、ベテリウスの火傷した指を手で撫でた。
2
目が覚めた。ベテリウスは先に起きていた。
浅黒い奴隷が、焼きたてのパーニスと焼肉を持ってきた。
パーニスには蜂蜜が掛かっていた。一口噛むと、蜜の甘みが舌にしみ込んでいく。美味しさのあまり、ベテリウスの顔を見た。
ベテリウスは、焼いた塩漬け肉を口に運んでいる。朝から肉を食すとは、かなり豪気である。勧めてきたが、私は遠慮した。
垂れ幕から覗くと、ポンペイウスが机を前に仕事をしていた。焦燥し切った顔であったものの、美しい姿勢で、机上に木製の駒を並べている。
好奇心に負けて、ポンペイウスの隣に立った。
「面白そうな遊びね。あたしにも教えて」
「そなたのような子供に、戦術が分かるのか? 炊事場の奴隷ではなかったのか?」
と、鼻で笑われた。
そういえば、私は炊事場の奴隷だった。戦術など理解できない、そう思われている状況が望ましい。
駒を見ると、兵士や騎兵を模している。
ポンペイウスは、歩兵の駒を横二列に並べた。互いに向き合わせる。片方の列は長く、片方は短い。長い側がポンペイウスで、短い側がカエサルなのだろう。
騎兵の駒を二つ、ポンペイウス側の背後に、一つをカエサル側の背後にそれぞれ置いた。
歩兵と歩兵の列がぶつかり合う。数に勝るポンペイウスがカエサルを半包囲する。
ポンペイウスの騎兵が、回り込んで、カエサルの背後を目指す。カエサルの騎兵も迎撃する。
両者の騎兵が、ぶつかり合った。ポンペイウスの騎兵はカエサルよりも一つ数が多いため、ポンペイウスが押していく。
ポンペイウスの騎兵は駒を一つ失いつつ、カエサルの騎兵を全滅させた。残った騎兵がカエサルの背後を突いた。直進し、分断させた。ポンペイウスの歩兵が個別に包囲し、殲滅していった。
「カエサルよ。またもや私の勝ちだな。これで八勝である。貴様の首を八回も斬り落としたぞ」
満足げなポンペイウスは、軽やかな手つきで駒を払った。
脇に置いていたパーニスに手をつけ、水を呷る。私の存在を無視して、天幕の外に出ていった。
ポンペイウスが出て行く様子を、ベテリウスは見計らっていた。
(娘、従いてきて)と、太った掌で私を招く。
外に出ると、陽の光が眩しかった。
ポンペイウスの天幕は、司令官用であった。周囲に天幕が立ち並んでいる。
立派な飾りから、元老たちの天幕だと推測できた。元老たちの区域をすぎると、兵士の宿舎を通っていく。
出店が並んでいた。食品だけでなく、日常雑貨も取り引きされている。戦場、というより一個の都市だった。緩やかな雰囲気は、観光地に近い。
すれ違う兵士たちは、幼い顔つきの若者が多かった。身体も細い。冗談を言い合って、肩を叩き合っている。カエサルの兵士たちが高齢化していく環境にいた私にとって、若い兵士は新鮮だった。
木の柵で覆われた区画にやってきた。兵士たちが、それぞれ訓練を行っていた。武器庫、馬小屋もある。
(待ってて)
ベテリウスが私を置いて、どこかに行った。
馬小屋を見ると、馬の毛並みを梳いている者と目が合った。顔面には烙印が押され、右腕には銀の腕輪が日光を反射している。昨晩の解放奴隷だ。向こうは私の記憶がないらしく、作業に戻った。
「アルミラ。余の腕輪を早速つけてくれたか」
響く音楽のような声を掛けられ、腕輪と呼ばれた奴隷は振り向いた。声の主は、ポンペイウスだった。
ポンペイウスは、皺だらけの老人を背後に侍らせている。解放奴隷アルミラは、ポンペイウスに懇願した。
「此度の出撃は、是非、私も出させていただきたい」
「よい。偵察が目的である。そなたは出なくてもよい」
ポンペイウスに出撃を拒否された。ポンペイウスの言葉に、不思議と暖かみがこもっていた。
アルミラは不満げである。
「水源は、我が軍の命脈ではあります。味方のために、我が命投げ捨てる所存」
と、引き下がらない。仕事をしたくてたまらないのだろう。
ポンペイウスが目を細めて、アルミラの闘志を喜んだ。天幕で一人仕事をしている時でも、元老の前でも、コルネリアの前でも見せない、生来の表情であった。
アルミラの献身的な姿を愛おしいのだろう。あるいは、兵士と過ごす時間が、純粋に好きなのかもしれない。
「愚かな人間にとって、気に入らない未来など、目に入らないのだよ。いずれ味方の水は枯渇する。困窮して初めて私の考えが理解する、というもの」
ポンペイウスの薄い唇に、冷たい笑みが浮かんだ。味方なのに、味方を困らせる意図である。いや、味方だからこそ、か。
「そなたには、活躍してもらう局面が必ず現れる。そなたに相応しい部隊を用意してやろうぞ」
背後から、「あうあう」が聞こえた。振り返ると、ベテリウスだった。従いてこい、と手振り身振りで意志表示している。
ベテリウスが、訓練場に足を踏み入れた。泥だらけの兵士たちが、取っ組み合いをしている。場違いな気分で横を通り過ぎる。
ベテリウスは、地面に置かれた槍を指し示した。
(槍の使い方を覚えろ)
槍を軽く抓み上げ、私に投げよこす。受け取った重量で、私は前のめりになった。槍が手からすり抜け、地面に落ちる。
(いいぞ。凭れ掛かるように突け)
褒めて伸ばす教え方をされると、つい期待に応えたくなる。
地面に落ちた槍を拾う。槍が重い。なんとか持ち上げたものの、翻弄され、足取りもおぼつかない。攻撃しようにも、私の腕力では、成人男性の膝にも届かないだろう。
「なぜ、あたしに槍を教えるの? アルミラみたいに、山ほど殺せないわよ」
私の質問に、ベテリウスは表情を曇らせた。
(娘、殺される。コルネリアに)
頭を、槍の穂先で殴られたような衝撃を受けた。いつ恨みを買ったのか思い出せない。ベテリウスの苦々しい顔つきから、真剣さが伝わった。冗談を言っていない。
(コルネリアは嫉妬深い。美しい奴隷、これまで何人も殺されていった)
私が美しい奴隷かどうかは知らないが、気づかないうちに、コルネリアの機嫌を損ねたようだ。もっとも、殺人実績が豊富なコルネリアに槍で応戦するほど、私は勇敢ではない。
いつの間にか周りに、若い兵士たちが集まっていた。
「どうした、じいさん? 小娘に槍の使い方を教えて」
囃し立てる。奴隷が槍の練習をしているなんて、好奇心を刺激する状況ではある。
こちらは必死である。何か言い返したくなったが、ベテリウスに(練習を続けろ)と制止された。
3
背後から、鋭い声が聞こえる。
「出発いたす。準備を終わらせよ」
次の作戦行動を指揮する者の声だろう。
ベテリウスが、私に背を向けた。武器庫の天幕に歩いていく。
「あれあれ、太っちょのおじいさん、便所は、そこじゃないぞ?」と兵士たちが大笑いした。
兵士たちの笑い声の中、ベテリウスが戻ってきた。姿は、別人だった。
背筋を伸ばし、兜の中から鋭い矢のような眼光を見せる。
勲章のない、新兵の装備だったが、歴戦の勇者だと誰もが分かった。
笑い声は止み、兵士たちは息を呑んで静まり返った。
ベテリウスが歩き出すと、兵士たちが真剣な表情で列をなし、道を作った。口々に「御武運を」と祝福し始める。
ベテリウスは、自身の肥満体を揺らし、一人一人に手を優しく掲げた。悠然とした動き、堂々とした歩き方、まるで生来の王であった。
「どこに行くの? 何をするつもり?」
ベテリウスの脇に駆け寄って、顔を覗いた。真っ直ぐな視線だが、意図がまったく分からない。
(娘、カエサルの許に戻れ。ここにいては、殺される)
ベテリウスと私に見向きもせず、呟いた。ベテリウスがカエサルを知っている。いや、カエサルは有名人だから知らないはずがない。
ベテリウスは、そばの馬に跨った。腕を伸ばし、(乗れ)と私を引き上げる。
「貴様、なにをしとるかっ!」
私たちに向かって、百人隊長が怒鳴りつける。私は、馬上から百人隊長を見下ろし、思いついた嘘を並べた。
「ポンペイウス殿から此度の出陣に、目付として命じられました。直接の戦闘には関わりませんが、貴公らの槍働きを拝見し、報告する次第」
百人隊長が何かを反論したげだった。
だが、背後のベテリウスを見て、「失礼しました」と引き下がった。ベテリウスを上役と勘違いしたのだろう。
すぐに出発となった。防壁の隙間を縫って、軍が一列に進む。カエサルの軍団が川を堰き止めている箇所を目指した。
途中で、カエサルの軍団が、こちらの存在を確認する。
血腥い小競り合いが始まった。
矢と槍が雨となって降り注ぎ、地上に血と砂でできた煙を、巻き起こす。二つの陣形がぶつかり合い、崩れ、乱戦となった。
私は、ベテリウスとともに、丘の上で遠巻きに見ていた。
さっきの百人隊長は槍を浴びて、丘の麓で死んだ。
敵の、いや、カエサルの兵士がこちらに気づき、躙り寄ってくる。数人が槍を投げてきた。
槍が空中で放物線を描き、曇り空を背景に降ってきた。
巨大な盾が私の視界を遮る。重たい音が続き、盾が揺れた。ベテリウスが守ってくれている。
槍を防ぎきると、ベテリウスは盾を投げ捨てた。盾には、穂先が折れた槍が突き刺さっていた。
(娘、身を低くしろ)
私の背後で、ベテリウスの身体が膨れ上がった。
全身の筋肉が膨張し、巨大な弓となって、槍を発射した。
放たれた槍は、低空のまま、丘を舐めるように直線的に飛んでいった。失速するどころか、途中で速度を高めて、カエサルの重装歩兵二人を一度に串刺した。
ベテリウスが馬を駆る。勢いに押され、私はベテリウスの腹に後頭部をぶつけた。丘を駆け下りて、槍で歩兵を薙ぎ払う。
不意に盾が現れた。馬がつんのめり、前に倒れる。このままでは、地面に激突してしまう。
私は馬の背を蹴り、両足で着地した。自分でも驚くほど、無事だった。
「走れ」
声が聞こえた。いや、思い浮かんだ。
ベテリウスが、敵の胴に剣を突き立てていた。鋭い目つきで、死体から剣を引き抜く。返り血を顔に浴び、私を見た。口は動いていないが、その目は、「走れ」と訴えている。
どこに向かって、走ればいいのだろう?
前方は、砂煙で、金属音が鳴り響く殺戮空間だ。後方は何もない荒野が広がっている。
何もない場所だと、かえって目立つ。槍の的になるだけだ。
私はあえて、血腥い行為が繰り広げられている砂煙に飛び込んだ。
ありがとうございました。