第一話 氷の瞳
ついにラスボスとメインヒロイン(?)の登場です。
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頭が痛い。
巨大な天幕の中で、男たちの声が聞こえる。
「父にして兄たちよ。次の議題に進みます」
両手首も痛い。木製の板に、首と手首が固定されている。囚人用の首輪である。
カエサルに填められたのだろうか。
いつもの天幕より天井が高い。中は広く、明るい。
足下には幾何学模様の絨毯が広がっていた。青銅の軍机の縁には女性の姿が象られている。
見慣れぬ中高年の男たちが、横一列に立っていた。革製の鎧を身につけ、顔艶がよく、髪に乱れがない。
「父にして兄たち」と、お互いに呼び合っている。「父にして兄たち」とは、元老の正式名称である。
この男たちは元老で、この場所は元老院である。
元老たちが集まれば、元老院になる。元老院は、ローマの最高意志決定機関であって、建物を定義しない。そこが神殿であっても、広場であっても、元老たちが議論すれば、元老院なのだ。
「そなた」と威厳のある声が響く。
この喋り方は、カエサルそのものだった。カエサルと私だけが、元老院に移動したような妙な感覚に陥った。
声の主を辿ると、カエサルではなかった。
カエサルに似ているが、似ていない。特徴的な瞳が目立った。白目は透き通っていて、氷のようで、氷の中に青い瞳が浮かんでいる。異相の持ち主である。
「そなたは何者であるか? カエサルの軍にいたが」
動作や話し方が似ている。顔こそ違うが、背筋を伸ばし、優雅な動きはカエサルそのものだった。
「炊事場の奴隷です」と、咄嗟に嘘をついた。カエサルに近い者だと知られたくなかった。
「なぜだ。なぜ炊事場の奴隷が最前線にいたのだ? カエサルの陣とは離れているぞ」
氷の瞳で、私を見下ろす。氷の瞳は、ギリシアの職人が産んだ硝子細工のようであったが、冷酷さを帯びていた。
「カエサルが陣を移すから、従いていっただけです」と、私は目を閉じて応えた。氷の瞳に、すべてを見透かされているようだ。
「あんな場所が陣になのか? それに、炊事場の奴隷だとして、そなたは調理器具を持っておらぬぞ」と、カエサルに似た動作で、筒を私に突きつける。
私の所有物で、東方の兵法書が中に入っている。氷の槍で、胸を抉られたような痛みを感じた。
「何故そなたが、かような書物を持っているのだ?」と、低い声で私を追い詰める。相手の圧迫に、負けてはいけない。
「カエサルに持つよう命じられただけです。何かは知りません」
動揺を隠し、私も声を低くして応えた。冷静すぎて逆に不自然である。
「嘘をつけ。何か知っているようだな。『廟算して勝つ』と書いておるが、これはなんぞ」と、意地悪な口調で問いつめる。
氷の視線が、私の心を凍りつかせた。私は唇をなめ、思いつく限りの嘘を捻出した。
「カエサルは兵士の前で訓辞をしていました。その原稿だと思います」
我ながら、苦しい。
「ならば、他にも捕虜はおる。カエサルが実際にこの書物と同じ訓辞をしていたか、問い合わせるぞ」
とどめを刺しに来た。執念深い。
「もうよい」と、他の元老が手を振って制止した。
「しょせん子供の奴隷。なにも知らぬだろう。次の議題に入りましょう」
「ですが」
「子供と喧嘩をしたくば、外でされるといい。ここは、父や兄たちが集まる元老院ですぞ」
元老の冗談に、他の元老たちが笑う。
カエサルによく似た男が引き下がる。無表情で、悔しんでいるのか、怒っているのか読み取れない。
元老の一人が声を上げた。
「ところでマルクス・ブルートゥス殿のお姿が見られませぬが?」
私の全身が、ご主人様の名前に反応した。兵法書の件で問いつめられたときよりも、動揺が身体に出てしまった。
「本日は具合が悪くて、自室で静養されておられる」
「どうもご静養がお仕事らしい」
元老たちが笑う。ご主人様は、なんとか生きているようだ。私は安堵した。だが、氷の視線を感じ取り、興味がないふりをした。
戦果の話題になった。
元老が、各自の麾下を紹介する。自分の麾下は、これだけ戦果を挙げた。故に、いくらいくらの報償を渡すべきである、と。
元老たちは、自分の麾下を紹介して、自らの戦功を主張した。
それぞれの元老が報償を手にしていった。最後にはカエサルに似た男が、一人の男を紹介する。
元老たちは、その男の容姿に「おおっ」と唸った。
頭部は丸く刈り込まれ、顔面は、烙印で焼かれていた。焼き跡は二本の線となって、それぞれ両目の端から始まり、鼻で一度交差して、頬で止まっている。奴隷が受ける罰だ。過去に、なんらかの罪を犯して、主人から制裁を受けた奴隷である。
「この男、カエサルの兵士を数多く殺しました」と、紹介する。
烙印の奴隷は麻袋を取り出し、中身を絨毯にばらまくと、首塚ができた。
漂う異臭に、元老たちは後ずさった。首塚の一部が崩れ、首の一つが私の足下に転がってきた。カエサルの軍中で見た記憶がある人物だった。
「……この者の武功を称え、金の腕輪を与えたい。ご承認を」
カエサルに似た男が諸手を広げて、元老に共感を求めた。だが、どうも反応が薄い。「賛成しかねる」と、元老の一人が声を張り上げた。
「これはメテルス・スキピオ殿。なぜ、そう思われるか」
メテルス・スキピオ……北アフリカを征伐した偉大な祖先を持つ……が、敵意に溢れた表情で問いかけた。
「見るに、その者、奴隷でしょう? 奴隷に勲章など似合いませぬ。そもそもポンペイウス殿の、子飼いの奴隷なのか?」
ポンペイウス! この氷の瞳を持った男、カエサルによく似た男。この男こそがポンペイウスだったのか。
「この者は、ブルンディシウムで馬番をしておりました。人並みはずれた膂力に加え、乗馬の才にも優れていたため、私が出資して、解放いたしました。今般、平民以上、いや騎士や貴族以上の槍働きをした次第」
解放奴隷だという。ポンペイウスは解放奴隷に職を与えた。
「つい先ほど馬小屋の奴隷だった者が、貴族以上に活躍したと申すか? それが問題なのだ。金の腕輪は、一般兵にとって、最高の賛辞である。せめて銀の腕輪にされよ」
メテルス・スキピオは口を尖らせた子供のように文句を言った。
反対する意図が読めた。メテルス・スキピオは、偉大な先祖を持つ。メテルス本人はカエサルとの戦いではなかなか戦果を得られず、強い劣等感を抱いている。
一方で、元奴隷が自分たち以上に仕事をした。気に入らない。
「では、金の腕輪は取りやめ、金貨を送りましょう」
ポンペイウスが、カエサルが考えつきそうな代替案を提案した。
「それなら問題はない」と、元老たちは顔を合わせた。
それでも、「金貨は要りませぬ」と、反対する者がいた。
「銀でも構いませぬゆえ、腕輪を賜りたい」
功を上げた解放奴隷、本人だった。ポンペイウスが、心配そうに訊いた。
「銀の腕輪は、金の腕輪や金貨よりも価値が遙かに劣るぞ。それでも構わぬのか?」
このポンペイウス、何らかの親心に近い感情を持っている。
「是非もなし」
解放奴隷は、目を伏せて返事をした。少し嬉しそうである。金品よりも名誉を重んじる性格だった。
議題が変わる。
「次回の出撃ですが、敵の奥深く、まだカエサルが防壁を敷いていない地に兵を進め、水源を確保したく」
白髪で小柄の元老が、作戦の説明をする。
「こちらも防壁の建設のため、人数は割けられませぬ。少数の兵で迅速に場所を確保し、援軍が来るまで決死となりますが、兵を率いるお方は、おらぬか?」
天幕の中が静まり返った。
「ポンペイウス殿の兵を出すべきかと」
誰かが答える。
すかさずポンペイウスが、「御意」と、カエサルのように背筋を伸ばして応じた。
「では、私以外で兵を出す方はおられぬか?」
ポンペイウスが切り返す。反応の良さもカエサルのようだ。
だが、誰も反応しない。下を向いて、他人事のようにやり過ごしている。
「なに? カエサルめの狙いは、我らが水源。我らの命運と等しいと、明らかなのでは?」
ポンペイウスが、低い声で嫌悪の気持ちを表した。英雄の子孫メテルス・スキピオすら下を向いている。誰もが、手持ちの兵士を失いたくない。
「父にして兄たちよ、水源の確保こそ、我らの存亡が懸かっておるのですぞ? 戦わずして、いつ勝てますか?」
情けないものを見るような表情で元老たちに畳み懸ける。
「貴公のような武人、他におらず。我らは足手纏いになるだけで」
元老たちが情けない理由を異口同音につけて、危険を押しつけた。
「では、次の出撃は、ポンペイウス殿の軍に一任する。父にして兄たちよ、よろしいかな?」
結局、元老の一人が、強引に審議を諮った。
誰も臆病者の仲間だと思われたくなかったのか、拍手は疎らだった。
異論もなかったので、なし崩し的に可決した。
元老院の意思決定は、投票や拍手の数で決まるのではないらしい。人間関係的な力学が作用している。
主要な議論は終わったのか、場の緊張は解けた。元老たちは雑談し、肩を叩き合い、笑っている。
ポンペイウスは、平静を装っているが、身体中を細かく震わせている。歯を食い縛り、氷の瞳は、怒りと不満で赤く燃えていた。いつ剣を抜き、周囲に斬り懸かるか分からない。
業火のような怒りを感じ取って、私は身を震わせた。
元老の一人が、「この娘、どうする?」と、私を指差した。
「痩せ細った娘、なんの価値がある?」
誰かが言うと、大笑いが上がった。「要らぬ要らぬ」と手を振っている元老もいる。
私からもお断りである。
「あうう」
一人老人が前に出た。顔の皺が垂れ、体型は大きく、肥満型。頭髪は左右を残して消滅している。
「ご老体、この娘が気に入ったか」
「あうう、あう」
太った老人が、脂肪でできた身体中を振わせて頷いた。言葉が喋れないらしい。元老たちが笑う。
「では、この娘をご老体の戦利品とする。父にして兄たちよ、よろしいかな?」
元老たちの大笑いと、盛大な拍手が天幕に巻き起こった。さっきの臆病な拍手が不思議なくらいだった。下品な笑い声が、気分が悪い。
首輪の先の鎖を引かれ、私は老人に従いていく。天幕の外ではなく、内部深くである。天幕の隅に、垂れ幕が掛かっていて、老人の個室だと思われる。
元老たちの前を通っていく。誰か助けてくれないかな、と見たが、誰もが笑っている。笑いもせず、私を睨みつけている者がいた。氷の瞳を持つ、ポンペイウスだった。
2
私は、絨毯の上に座らされた。
老人が、筋肉が弛みきった顔に不気味な笑みを浮かべ、手を私の首輪に伸ばした。
後ろに逃げるが、鎖を掴まれているため、逃げられない。老人の指が首輪の裏側に回った。
何かを引き抜く動作をした。
拘束具が、二枚の板となって、私の手首の上で崩れた。
私は解放された。首と手首を振って、関節を暖める。
垂れ幕の裏側から、元老たちが出て行く物音が聞こえる。元老院はお開きになった。
老人は、燭台に火を灯した。呆けた目つきで「あうあう」と言っている。なにを言っているか分からない。
しばらくすると、背の高い奴隷が、入ってきた。黒く日焼けした細長い腕が、盥と換えの服を持っていた。
植物の意匠が施された盥には、お湯が張られている。太った老人は布を絞って、私の顔を拭く。
多少、熱いが、気分はよい。
太った老人は、私に換えの服を押しつけ、大きな背を向けた。「あうあう」と、垂れ幕の外に出て行った。
「向こうにいるから、その間で身体中を拭け。その後、着替えろ」と言っているらしい。
裸になって、身体を拭く。汚れが落ちていく。獣だった自分が、人間に戻れたときのような気分の良さだった。服は女性用の半袖服だった。
指でなぞると、生地もよく、細かい刺繍が施されている。
袖に腕を通すと、獣から人間に戻った気がする。注意が自分から周囲に移った。
寝台と、いくつかの壷。それら日常品よりもずっと特徴的な物体があった。黄金の光を放っている、兜と鎖帷子だった。
兜の頭頂部には、黄金の髪飾りが横向きに装着されていた。真正面から見ると、黄金の孔雀が翼を広げているようだ。
鎖帷子には、大量の勲章が胴体部分を見えなくなるほど飾られていた。勲章は、円盤で、倒した敵や占領した土地の特産品などが象られている。
たいていの勲章は銀や鉄で製作されるが、この鎧の勲章は、すべて黄金に輝いていた。持ち主は、かなりの武功を上げてきた軍人に違いない。
「着替え終わりました」
と報告すると、老人が垂れ幕を潜って戻ってきた。私の姿を見ると、弛んで呆けた表情が、みるみる生気を取り戻していく。
(……妻)
微かだが、老人の声が聞こえた。目や口の動きだけでなく、心の中で直接、聞こえた気がする。
「この服は奥様の服なの?」
私は、老人の趣味に多少の疑念を抱いた。自分の奴隷に妻の服を着させる、少々困った趣味をお持ちになられる貴族もいらっしゃるためだ。
(いや、娘。……娘)
大きな目、半開きの口が微妙に動作している。老人の考えが推測できる。
この人には、人格がある。思考がある。言葉が話せないだけで、他の人間と変わりない。
老人は、手に櫛を持っていた。私の髪を梳いてくれる。
私は捕獲された野生生物のように大人しくしていたが、この老人は手慣れている。髪梳きの奴隷なのかもしれない。
太った老人の太った指が、私の髪を器用に編み、結んでいる。
途中、老人の指輪が目に付いた。菱形の黄金で、太い十字が走っている。他国の王族が身につけても可笑しくない、立派な指輪だった。
作業が終わった。
「ありがとう。あなた、お名前は?」
老人は、空を見た。天幕には、布と骨部分しかないが、なにかを探している顔つきだ。
(分からない……)
声が聞こえる。記憶がないのか、それとも思い出せないのか。そもそも奴隷だから、名前がないのだろうか。
ありがとうございました。