第三話 水と食と防壁と
カエサルのデレ回です。
1
「ポンペイウスの騎兵が、現地の村を略奪しております」と報告が入る。
私たちの補給源を断つつもりだ。
カエサルは、略奪を嫌う。ヒスパニアと同じ方針で、食糧を地元の住民から現金で調達していた。
カエサルは小さく頷いて、地図を広げた。
ペトラの東を、険しい山脈が南北に縦断している。その山脈に細かい道が複数、横切っていた。
敵の騎兵が、この道を通り、村々に火を放っている。
私は地図を覗き込んだまま、「こっちも騎兵を出しましょう」と、提案した。
「敵よりも先回りして、道を塞げばいいわ。後で工兵を送って防壁を造らせる」
カエサルは「着眼点は面白い」と口元を綻ばせた。有用な意見を聞くと、笑顔になる。
「だが、封鎖するには、やや範囲が広すぎる。もう少し狭めたいものだ」
口に手を当て、瞼で噛み締めるような瞬きをする。カエサルが思考に耽るときの癖だ。カエサルの癖が分かってきた。
「敵は近隣の村に、馬に食わせる秣を用意させているはずだ。村にも入れないように、封鎖位置を敵陣に近づける。敵の馬を弱らせようぞ」
封鎖だけでなく、敵の弱体化も狙う。一挙両得の思考は、カエサルにとって、お手の物だ。
「でも、ペトラの丘を包囲するのは、止めたほうがいいわ。低い位置から高所を包囲するのは、危険だと思うの」
「そうだな。ペトラの周囲に、いくつかの丘がある。それらに兵を送り、占領しようぞ。占領してから、防壁を築いて道を塞ぐ。防壁を真横に広げ、丘の上で繋ぎ合わせる」
と、カエサルと知恵を出し合い、二人で戦術を組み立てていく。
胸に気持ちのいい風が流れ込んできた。カエサルとの共同作業が楽しい。
カエサルと一緒に地図を見る。複数の川が、高地からペトラの海岸に向かって流れている。
東方の兵法書によると「高所を占領し、草や水源を押さえれば、必ず勝つ」とある。
「向こうが、あたしたちの食糧を断つ気なら、こちらは水を断ちましょう。防壁でペトラの丘を包囲して、周囲の川を堰き止めるの」
防壁を建てると同時に、ポンペイウスから飲み水を奪う。
カエサルは、顔を上げた。内側から悩みが溶けていくような表情である。
「そなたは、賢いな。ラビエヌスと劣らぬほどである。……一度、ラビエヌスと話をさせてみたいものだな。そなたら二人がいれば、地中海の端から端まで、この世界をカエサルが物にできようぞ」
「褒めすぎよ。カエサル、貴方には人を見る目がないわね」
「ラビエヌスほどでなくても、そなたは我が息子、デキムス・ブルートゥスと同じくらい賢いぞ」
私は吹き出した。予想外の名前であった。
「意外だったか? 奴はガリアで善政を敷いておるぞ」
カエサルは、顔を緩めて褒めた。自分の子供を自慢している親のようだった。
本当に、人を見る目がないのかもしれない。
カエサルが部下を集め、説明をする。
横で説明を聞いていると、先ほどの心地よい風は吹き去っていった。代わりに苦々しい風が入り込み、私の胸に留まった。
なにかが、おかしい。この戦術には、決定的な欠陥が存在している。
急に叫びたい衝動に駆られた。叫んで、嫌な気分を吐き出すように、戦略の中止を訴えたくなった。
だが、余計な口出しをして抓み出されるのも想像にたやすい。静かに下を向いた。
2
丘の上に辿り着くと、風が吹いた。
風は力強く、私は髪を押さえた。ローマを出てから、ずいぶん髪が伸びた。
丘の上では、味方の兵士たちが材木や岩を積み上げている。兵士たちは鉛のような身体を引き摺り、黙々と作業に徹している。 隣から、馬の生温かい息づかいを感じた。
見上げると、カエサルが乗っていた。美しい姿勢を保ち、部下の仕事ぶりを監督している。
カエサルから視線を外し、丘からの外界を見下ろした。茶褐色の大地が、広がっている。
他の丘にも、味方の兵士が集まって、こちらと同じ作業をしている。遠く離れていても、防壁を築く動作から、作業音が想像できた。
防壁は未完成で、途切れ途切れであったが、輪郭を見せ始めている。
風が和らいだ。柔らかい風が、私の頬を撫でる。カエサルの戦袍が、風に、優しく揺れている。
カエサルが静かだ。寝息を立てて眠っている。職務中なのに、珍しい。
起こすわけにもいかないので、もう一度、視線を外界に戻す。
気持ちの良い風が、私の頬を撫でる。
味方の防壁は、まるで蛇のように伸びていた。蛇から離れた位置に、もう一つ輪郭があった。
敵が我々と同じく木の柵を設け、石を積み上げていた。
こちらの蛇に追いつこうと、もう一体の蛇が現れた。
「敵も防壁を造ってる!」
カエサルを見上げると、そこには、カエサルがいなかった。カエサルがいるはずの場所に、骸骨のように萎んだ老人がいるだけだった。
今まで、カエサルを観察する余裕はなかった。夜は暗く、昼は忙しすぎた。こうして、じっくり観察する機会は、カエサルと初めて出会った……サトゥルヌス神殿以来だ。
心労と空腹が、カエサルを内側から食い破った。
後退した前髪や、顔に刻まれた深い皺は、変わらない。だが、以前と比べ、身体が小さく萎んでいる。
冷たい風が、私の胸に吹き荒れた。カエサルの死は、味方の敗北を意味していた。カエサルの代わりに、誰が指揮をするのか。
不意に突風が吹いた。切り裂くような風の響きに、カエサルは目を開いた。
夥しい地鳴りが響く。大量の槍が、敵が陣取るペトラの丘から、こちらの陣地である丘の麓を目指してきた。
均質な歩幅で、草の根を踏み潰し、丘の頂上に乗り上がる。
敵兵の行進が大地を蹴って、長い大蛇のように地を這った。神話に出てくる怪物のように、首を分ける。
長い首は無数に増え、それぞれ目的の丘に登っていく。
丘の一つで作業をしている味方の兵がいる。その向かい合わせの丘に敵が陣取った。
最初は小競り合いだと思っていた。
敵の後続が丘の麓から木材を引き上げて、櫓を瞬時に組み上げた。部品を予め準備していた。
櫓から、矢の雨が降ってきた。作業中の味方は工具を捨てて、大盾の陰に隠れた。
矢の雨には、握り拳ほどの鉄の弾が混ざっていた。防御が間に合わなかった者は、顔面から血を吹かせて絶命した。
生き残った兵士たちは、鈍い鉄の雨に耐えている。
カエサルは、「あの丘を捨てよ」と命令した。
伝令が伝わると、すぐに丘は放棄された。兵士たちが列を作って戻ってくる。
だが、狭い退路に足を取られ、なかなか進まない。最後列の者たちが、背後から飛んでくる投げ槍の餌食になった。
カエサルは空に向かって叫んだ。
「アントニウスっ。障壁車を出せ」
麓に軍を構えていたアントニウスが、カエサルの怒号に震え上がった。すぐに襟を正し、配下に笛を鳴らせる。
下部で控えていた兵士たちが車輪つきの壁……障壁車を押し出してきた。逃げ切った兵士たちは、障壁車に回り込む。
味方は障壁車を盾に一息つく。背後で、槍や矢の音が鳴る。
助かった者は少数派だ。逃げ遅れた者が、まだいる。
盾と盾、槍と槍がぶつかり合う音とともに、砂嵐が巻き起こった。内部が見えなくなった。
アントニウスが必死に指揮する声が聞こえたが、殺戮の音で掻き消されていった。
何かが音を立てて、私の頬を掠めた。それが矢だとすぐに理解したが、それどころではない。
黒い馬が丘の上から現れた。敵の騎兵である。味方と同じローマの武装だが、表情には殺意がこもっていた。
カエサルを見るや、槍を向け、馬を駆った。カエサルに撤退を提案したかったが、意味をなさない言葉を叫んでしまった。
カエサルは堂々とした姿勢を崩さない。
騎兵の背後から一体、一体と敵兵が這い上がってくる。
私も応戦するしかない。だが、どうやって? 両手で顔を隠すぐらいしか仕事がない。
衝突音がした。衝突音が、一瞬の静寂を招いた。
指と指の間から、状況を確認する。
敵の騎兵が、槍で兜ごと頭を打ち砕かれていた。血と肉が剥き出しになり、騎兵は馬から崩れ落ちた。
槍の持ち主は、味方の騎兵だった。私たちと敵の間に躍り出た。
曲芸師のように槍を頭上で旋回させ、新手の敵を叩き割った。馬を細かく操って、群がる敵の刃を軽やかに回避していく。
歩兵を槍で横殴りに凪払い、崖に突き落とす。
敵が怯む。怯んでいるうちに、味方の兵士たちが集まってきた。防御陣形を作り、それぞれの大盾で、カエサルと私の周囲を覆った。
防御陣形の一部が、本体から分離して、敵に突撃していった。土煙が巻き上がる中、殺し合いが始まった。
カエサルと私は味方の兵士に守られ、敵から引き離されていく。
敵中に、あの騎兵が飛び込んでいった。
勇ましい。あの姿は初めて見る。こんな強者が、カエサル軍にいただろうか?
名前が思い浮かんだ。今、その名を呼ぶべきだ。
「ラビエヌスっ」
私の呼び掛けに騎士は一瞬、動きを止めた。だが、すぐさま、殺戮が渦巻く土煙に飛び込んでいった。
3
騎士が消えた別方面から、敵の密集隊形が乗り上がってきた。カエサルは「突撃っ」と叫んだ。
味方の密集隊形が、巨大な生物となって、敵に体当たりを食らわした。
敵の密集隊形は衝撃で、後退した。巨大生物の戦いのようだ。
カエサルはもう一度、突撃を命令した。味方の人数は少なく、体積で負けているが、躊躇もせず、大盾で敵を突き飛ばす。
敵は一瞬、動きを止めた。前列の大盾は曲がり、足下には死体が転がっている。
敵の背後から、軽装歩兵の部隊が現れた。羽虫の集団のように散らばってきた。
動物の革を鞣した鎧で胴を守り、巨大な鎌を両手で構えた姿から、大鎌部隊、と私は勝手に名付けた。
二手に分かれ、こちらの右翼、左翼についた。大鎌に全体重を乗せて、振った。
湾曲した大鎌の刃が、直立する大盾を避け、持ち主の腕を切り裂いた。
悲鳴を聞いた味方が、大鎌部隊を槍で突き殺す。だが、他の大鎌の犠牲になった。
味方の陣形が、両翼から崩れていく。カエサルは、一手を打った。
「後方の者、散開して敵の軽装歩兵を蹴散らせ」
一対一ならば、軽装の大鎌部隊など重装歩兵の敵ではない。槍で退治していく。害虫駆除でも見ているかのようだ。
カエサルは現実的な指示をしながら、「前方の者は、腕を切り落とされても盾を離すな」と無理な指示もする。
大鎌部隊の処理が終わり、「突撃っ」とカエサルは叫んだ。
何度か衝突を繰り返すと、敵味方ともに密集隊形が崩れ始めた。そのまま、乱戦になった。
軍靴が入り乱れ、金属音と断末魔が交互する中、私は身を屈めていた。
馬上のカエサルは長剣を振り、敵の頭を叩き割っている。総大将が矢面に立つとは、ほぼ負け戦にしか見えない。
「カエサル、逃げて!」
私が叫んだ。老人が自力で戦っても、そのうち限界がある。
「カエサルは、逃げぬ。そなたは、逃げよ」
カエサルは事務的に応えた。自暴自棄や蛮勇を感じなかった。強い確信を、勝利の確信を感じた。
このカエサルの胆力にはつくづく驚かされる。しかし、私には「逃げろ」と命令する。
が、どこに?
そう口に出そうとしたとき、私は何かに頭をぶつけた。
ありがとうございました。