第二話 ポンペイウス包囲網
知能戦が続きます。
1
アプスス川西岸に到着すると、味方の援軍が待っていた。
海水で濡れた兵士たちの姿が、船上の苦難を物語っている。私たちを確認すると、表情が明るくなった。
兵士たちの中から、アントニウスが姿を見せた。立派な体格は、痩せ細り、髪は潮風で乱れ、眼窩は黒く窪んでいた。
カエサルは「よくやった」とアントニウスの肩を叩き、勇気を称えた。
日が暮れ始める。カエサルは疲れ切った兵士たちを前に、「ここで陣を張る。解散」と声を張り上げた。
緊張が解けた兵士たちは荷物を降ろし、戦友と手を叩き合った。
天幕が設置される間、カエサルはアントニウスに今後の方針を話した。アントニウスは意識朦朧とした中、不屈の闘志で、カエサルの言葉を一字一句、噛み締めていた。
カエサルは一通り命令を終えると、哀れなアントニウスを解放し、一人で天幕に入っていく。私も後を追う。
軍机を前にしたカエサルは背筋を伸ばし、事務を始めた。
天幕の外が騒がしくなった。
「ポンペイウス軍、北に退却っ!」
兵士の一人が興奮した口ぶりで、報告してきた。
カエサルは表情を変えず、黙々と事務を続けている。危険が去ったと喜んでもよいのに、平常心を保っている。
突然、顔を上げるや「そなたは優秀である」と、私を誉めた。珍しく顔が優しい。
「此度の時間稼ぎは、そなたの機転によるところが大きい。いや、これまで、何度も余の危難を救っておった。……ゾイラスの見立ては正しかったのだな。奴めに手紙を送るぞ。そなたの仕事ぶりを伝えなくてはな」
ゾイラス。
その名前を聞くと、喉から苦い味が込み上げてきた。私は動揺をごまかそうとしたが、無駄だった。嫌な汗が額を伝って流れる。
カエサルは不思議そうに、私の顔を覗き込む。
「そなたはゾイラスの紹介で、余の書記をしておるのではなかったか?」
カエサルの理解は事実と違うが、否定できない。
私の逡巡など気にも止めず、カエサルは、手紙の文面を喋り出す。
視界が歪む。
もしも、この手紙をゾイラスが手にすれば、「書記を紹介した覚えはない」とカエサルに報告するだろう。私は殺される。
騙された、とカエサルは怒り狂うはずだ。プラケンティアで処刑された、兵士たちの無惨な姿が頭に思い浮かぶ。
この手紙は、死刑執行文である。被告人は、私自身。署名者も私だ。
手紙の内容は途中から、家庭内の雑多な指示に変わっていった。私の件だけ手紙から抜き取ってしまおうか、と一瞬ちらっと考えがよぎった。
だが、カエサルは内容を後で確認するので、無意味だ。
手紙を書き上げた。動揺を悟られまい、と震える手を抑えて、カエサルに渡した。
カエサルは手紙を受け取ると、瞬時に目を通し、丸めた。拳を握って、指輪印で封印を作った。外の兵士を呼び、手紙を手渡した。
私は、神々の名前をありったけ、ひたすら祈った。生贄として捧げる小動物が手元にないので、祈っても効果は薄い。
夜が明けると、カエサルは自分の軍団を纏め、「ポンペイウスを追いかける」と号令した。
アプスス川を越える。深い森を突き進み、抜けた先は緑の平原だった。ポンペイウスの大軍が、陣を構えていた。
敵の全貌は、初めて見る。味方の兵士たちは「我々は、こんな大軍を敵に回していたのか」と、息を呑んだ。
指揮官カエサルの反応は違った。真紅の戦袍を翻し、「今こそ決着のとき」と、声高らかに会戦を叫んだ。さっきまで大軍の数に圧倒されていた兵士たちだったが、カエサルに応じて、鬨の声を上げた。
このカエサル、どこまで大胆不敵なのだろうか。
だが、敵の反応は冷淡だった。槍一つ動かさず、静かに隊列を維持している。
カエサル側の兵士が剣と盾を打ち鳴らして挑発したが、一切、取り合わない。
次の朝になると、大軍の姿は消えていた。
カエサルは無人の地を見下ろして、私に問い掛けた。私を試すような表情だった。
「なぜ、ポンペイウスが逃げたか、分かるか」
「カエサル。増援に成功した貴方に勢いがあるから、ですか」
「違う。ポンペイウスは、アドリア海を抑えておる。補給では奴が勝っておる」
ギリシアとローマを繋ぐアドリア海はポンペイウスの支配下にある。アドリア海が唯一の補給経路であるカエサルにとって、長期戦は、危険すぎる。食糧が足りなくなる展開は明らかだ。
ポンペイウスの退却は当然の選択、と言える。
「追うぞ。慎重さは、臆病の裏返しでもある。ポンペイウスが会戦を嫌うのなら、会戦を挑み続けるまで」
と、カエサルは戦袍を翻した。ポンペイウスの嫌がる行動に出る。
2
ポンペイウスは、ギリシアの北西部にあるデュラッキウムに入った。頑強な岩壁に囲まれた、天然の要塞にして、大規模な海港都市である。
ポンペイウスは、地中海世界で最も強固な要塞を、補給基地として選んだ。カエサルはポンペイウスを追う。
進軍するたび、周囲の風景から草木が減り、岩肌が増え始めた。荒野が続き、緑は疎らに茂みがある程度になった。いわば、不毛の大地だった。
空気は乾き、日光が容赦なく降り注ぐ。兵士たちは、大粒の汗を垂らして、重たい歩を進めていた。
天幕の中で、カエサルは地図に目を通し、呟いた。
「誘い込まれた、か……」
弱気な発言に聞こえた。カエサルにしては、珍しい。
「いいえ、カエサル。物事には陰陽、つまり裏と表があるの。貴方は誘い込まれたんじゃなくて、ポンペイウスを追い詰めた……」
私は思わず手で口を隠した。
カエサルは地図から目を離し、問い詰めるような表情で私を見詰めている。口元が徐々に緩んでいき、笑みを噛み殺した。
「奴隷の分際で、余に意見を申すのか。罰を与えなくてはな」
余計な発言だった。私は自分の頭を軽く叩いた。
東方の兵法書に書いてあった内容が、つい、現状に適応するよう変換されて、私の口から出た。
カエサルの目を盗んで、何気なく兵法書に目を通していた。普段の習慣が、意図せず、言葉として出た。
「我らの遙か後方……マケドニアにメテルス・スキピオがおるのを、知っておるな」
カエサルの質問に、私は頷いた。
ポンペイウス派のメテルス・スキピオ。アフリカを征伐した英雄の子孫だ。ポンペイウスに古都マケドニアの守備を任されている。カエサルの背後を脅かそうと、軍を動かしている。
「そなた、物事に裏表があると言ったな。我らの表と裏は敵に挟まれておるが、どう対処すれば良いのだ?」
カエサルの下した罰に、私は口に手を当て、思考の世界に浸った。
外が騒がしい。この天幕は、カエサルと私しかおらず、しかも、二人とも無言なので、外の騒音しか聞こえない。
「誰だっ」
天幕を突き破るような強い叫び声に、私は目を開いた。
「盗っ人野郎は、誰だっ」
声の主は怒り狂っている。私はカエサルの了解を得て、外に顔を出した。
裸の男が声を荒げ、暴れている。
「どこだ、出てこい」
足下の鍋を蹴る。空の鍋は低く飛び、近くに座っていた若い兵士の背に当たった。
若い兵士は突然の痛みに逆上し、裸の男に飛びかかった。二人は組み合ったまま、地面を転げ回った。
周囲の対応は素早く、すぐに二人を引き離した。裸の男は取り押さえられると、大人しくなった。
駆けつけた年配の百人隊長が「何が原因だ」と問い質す。裸の男は、小さくなって答えた。
「……俺が川で水浴びして戻ったら、鎧がなくなっていたんでさ。新しく入ってきた奴らの誰かが、盗みやがったに違いねぇ」
新しく入ってきた奴らとは、アントニウスが連れてきた増援である。
不審者探しが始まったが、結局、見つからなかった。
3
天幕にアントニウスが入ってくる。カエサルに軍の補佐を命じられて、陣に留まっていた。
蒼褪めた顔を浮かべ、報告する。
「ローマに帰還中の補給艦隊っ。アドリア海で敵に落とされました」
アントニウスはカエサルの怒りを恐れていた。補給部隊の全滅は自分の責任、と思い込んでいる。
意気消沈するアントニウスとは反対に、私は気が晴れてきた。
補給艦隊は、ゾイラス宛の手紙を乗せたまま、沈んだ。結果、私の正体がカエサルに露見する可能性も、綺麗さっぱり消えた。
嬉しさのあまり、あやうく小躍りしそうになった。が、すぐに衝動を抑えた。
カエサルが、じっと私を見ている。カエサルは、首を捻り、眉を顰めている。私から、なんらかの異常を感じ取っていた。
兵士が一人、天幕に飛び込んできた。表情からも、よくない知らせだと分かる。
「オクリウムに停泊中の我らが戦艦、焼き払われました」
帰りの船が襲われた。カエサルは表情を動かさず、「誰の仕業だ」と低い声で訊いた。
「エジプト海軍司令、グエナウスっ」
グエナウスは、ポンペイウスの実子である。父のポンペイウスほど戦略の才はないが、堅実に仕事をこなす安定感の持ち主である。
ビブルスが死んでも、優秀な後任はいる。敵の人材は豊富であった。
カエサルがポンペイウスと対峙している間に、静かにエジプトから海上戦力を率いて、オクリウムを襲った。
もはや、鎧泥棒の騒ぎではない。カエサルは補給経路のみならず、海上の出入口も断たれた。ローマから、完全に孤立した。
さらに報告が入ってくる。
「ポンペイウス、軍を率いてデュラッキウムを出発っ」
ポンペイウスが、海上戦力の軍事的成功に呼応した。逃げ場を失ったカエサルに止めを刺す狙いだ。
アントニウスは、カエサルに助けを求めるように、視線を送った。だが、カエサルは、アントニウスを無視して、私に話し掛けた。
「どうした。そなたは物事の裏表がわかるのではなかったのか。表にはポンペイウス、裏にはメテルス・スキピオがおる。賢いそなたであれば、かような苦境を打破できるのではなかったか」
カエサルの圧迫に負けないよう、私は思考を巡らせた。
アントニウスは状況を把握できず、カエサルと私の顔を見比べている。この男、立派な風体に似ず、あまり知力が機能していない。
ガリア戦役の頃、カエサルはラビエヌスと会話しながら軍略を組み立てた。震えているだけのアントニウスよりも、私を行方不明のラビエヌスの代わりに見立てているのかもしれない。
「ポンペイウスか、メテルス・スキピオ。どちらかの攻撃を逸らせばいい、と思います」
苦し紛れで思いついた提案であったが、カエサルの興味を惹くには充分だった。口元に手を当て、私をじっと見ている。
カエサルの視線を避けながら、話を続ける。
「マケドニアの背後に兵を送り込んで、メテルス・スキピオを攻撃するの」
我々の裏にいるスキピオの更に裏を狙う。カエサルは、手を振って否定した。
「それでは時間が掛かる。人数的にも余裕がなかろう」
顔が笑っている。危機的状況なのに、議論を楽しんでいる。
「忘れたか。ここはヒスパニアではない。ギリシアであるぞ」
そうだった。
「檄文を書く」
私の口から自然と言葉が出た。
「マケドニアの住民を味方につければ良いでしょう。メテルス・スキピオも、市中に反対勢力がいると知れば、迂闊に私たちを攻撃できない」
私の提案に、アントニウスは飛び上がるように驚いた。
カエサルは深く頷いている。私の提案を補足した。
「メテルス・スキピオはマケドニアに税を課し、金品財宝を接収しておる。ポンペイウスや自分が正当な政治的権力を持っておらぬのにな。彼奴らはマケドニア、いや、ギリシア全体に憎まれておる」
「でしたら、ギリシア全土に檄文を送りましょう。ポンペイウス包囲網を作るの」
カエサルは肯定した合図として、すぐに檄文の内容を喋り出した。私は慌てて筆で追いかける。
カエサルはポンペイウスたちの所業を悪意に誇張し、ときには捏造した。何が正しいか、よりも、どうやって住民の怒りを煽るかが、優先事項だった。
そのうえ、「税として徴収された金品を取り戻す」と付け加える。
大量の檄文をアントニウスに持たせ、「ギリシア半島にばらまけ」と命令した。
アントニウスに書類を任せた途端、カエサルは突然、立ち上がった。
「出撃するぞ」と、夜にもかかわらず、陣を畳ませる。
「急げっ。ポンペイウス目がけて進軍せよっ」
声を張り上げるカエサル。いきなりの命令に、兵士たちは驚いた。
ポンペイウスがこちらに向かって直進している。大軍に向かって「ぶつかれ」と命令している。
小さい蛇が、大きな蛇に噛みつこうとしている。見える結果は、死だ。
以前の私なら、馬車から降りて逃げたくなっていただろう。過去にカエサルがアプスス川行きを決意したときから、カエサルの大胆さに慣れてきた。
だが、先に異変が起きたのは、ポンペイウスだった。カエサルの接近を知ると、右、つまり南に針路を変えて、衝突を避けた。
報告が入る。
「ポンペイウス軍、ペトラに到着。陣を張っております」
ペトラとは、デュラッキウムのやや南東にある、小高い丘である。
報告を受け、カエサルは「北に向かえ」と方向転換した。大と小の蛇がぶつかり合う瞬間、お互いが別方向に身を逸らした。
小さい蛇、カエサルが辿り着いた先は、ペトラとデュラッキウムの中間地点だった。敵と敵の補給基地の間を滑り込み、陣を敷いた。
「防壁を作れっ。敵を一兵たりとも通すな」
兵士たちが塹壕を掘り、木を伐り倒して柵を建てた。
ポンペイウスを誘い出して、補給経路を断つ。カエサルは、今までの危険な状況を、すべて利用した。
カエサルが、台の上に地図を置いて見ている。
ペトラの丘と、丘の背中には海岸が広がっていた。複数の川が陸地からペトラを通って、海岸に流れ込んでいる。
兵士が報告を持って、天幕に入ってきた。顔つきは落ち着いている。
「ゴンフィスより、伝令っ」
ゴンフィスは、ギリシアの都市の一つだ。
「微力ながら、ゴンフィスはカエサルの味方をいたします」
ゴンフィスを皮切りに、次々と都市がカエサルの支持を表明し始めた。
ありがとうございました。