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奴隷少女とカエサルの後継者  作者: ビジーレイク
第五章 独宰官カエサル
12/25

第二話 騎兵長官

教科書的には、独裁官が正しいです。

       1

 カエサル軍団はローマに帰還した。カエサルは城壁の外に軍を残し、少数の部下とともに、ローマ入りすると宣言した。ブルートゥスやルクルスの姿が見える。

 久しぶりのローマだ。家に帰れる期待が、胸を打つ。

 カエサルは薄くなった頭頂部の髪を整え終わると、「そなたは陣に残れ」と、私を天幕に押し留めた。

 帰ってはいけない理由が分からない。ブルートゥスはともかく、ルクルスですら、家に帰れるのに。

 一日が経過したが、カエサルのいない天幕では仕事がない。

 二日目、三日目……。無為に過ごす日々の中で、決意が涌き上がった。カエサルに何も伝えず、このまま家に帰ろう。

 ローマを出てカエサル軍に従いていった動機は、家に人も食糧もなく生活できなかったからだ。だが、奥様……セルウィリア様がローマに戻った今、餓死の心配はない。

 奴隷の一人や二人が黙って消えたとしても、カエサルにとっては、問題がないだろう。ゾイラスの紹介状を偽造して従軍した身としては、去る理由を伝えるべきでない。

 最低限の荷物を準備して、天幕を出た。兵士たちの隙間を、素知らぬ振りをして、通り抜ける。

 門を潜っても、私を(とが)める者は誰もいない。石造りの町並みは、かつての恐慌は消え、活気を取り戻していた。

 ローマの混雑が懐かしい。家に直行する前に、路地を歩きたくなった。

 街の中心部に向かうと、混雑が一際強まった。

 広場には、太った男を市民たちが取り囲んでいる。赤いトガには金色の刺繍(ししゅう)が施されている。元老院の広報官だ。広報官が羊皮紙を片手に、甲高い声で報告する。

「元老院は、カエサルを独宰官に任命した」

 市民たちが(どよ)めいた。悲鳴や非難の叫びも混じっている。

 顛末(てんまつ)は、以下の通りだ。

 法務官レピドゥスは、元老たちの前に立った。レピドゥスはカエサルの腹心で政務能力が随一、と言われている。

「ローマの父たち、兄たち、ならびに市民諸君。諸君等のご協力で、ローマはヒスパニアの平和を取り戻した」

 「だが」、とレピドゥスは、厳しい顔つきで続ける。温厚な顔つきだが、芝居がかっている。

「現在のローマは、内政を行う機能を持っておらぬ。二名の執政官がポンペイウスに付き従い、ローマを捨てたからだ。諸君等を苦しめる政治的混乱は、終わっていない。ゆえに元老院は、非常事態宣言を宣する」

 元老の一部が拍手をした。拍手した者は皆、カエサル派であった。中立派は、渋い顔をしている。

「非常事態宣言のもと、元老院はカエサルを独宰官(どくさいかん)に任命する」

 レピドゥスの宣言に元老たちは、響めいた。だが、反対する者はいない。ローマの門外には、カエサルの軍団が待機している。

 カエサルがレピドゥスに代わって、第一声を放つ。

「独宰官を補佐する副官……騎兵長官には、ラビエヌスを任命する」

 議会は静まり返った。隣のレピドゥスが何かを言い掛けた。

 だが、カエサルは表情を変えず、何事もなかったかのように訂正した。

「もとい、騎兵長官には、マルクス・アントニウスを任命する」

 若者アントニウスが立ち上がり、カエサルの隣に着く。カエサルを越す背丈だった。アントニウスの頑強な体躯(たいく)は、剣闘士を想像させた。

 カエサルが議事の進行を続ける。

 ……私は、続きを聞くのを止めた。

 毎日、傍にいたが、カエサルが遠くに行ってしまった。もう、カエサルの周囲に、私の仕事はない。それよりも家に帰り、奴隷として、平穏に生きていたい。

 私の足は自然と広場から離れていった。初めはゆっくり、途中から駆け足になる。人混みに揉みくちゃにされながら、大通りに出た。

 道の角には、案内図が刻まれた石版があるので、迷わない。

 ようやく家に着いた。

        2

 見張りの門番がいない。ひょっとして誰もいないのかもしれない。不安が頭によぎる。その不安を振り払うため、私は叫んだ。

「あたしですっ。帰りました」

 しばらく反応がなかった。だが、大柄な奴隷が門を開け、私の顔を見る。すぐに私だとわかり、中に入れてくれた。

「そなた、生きておったのか」

 中庭に奥様……セルウィリア様が椅子に座っていた。

「どこにいたのじゃ?」

 セルウィリア様に、一部始終を話した。あのオクタヴィアヌスと出会った夜の出来事。家に帰れなかった理由。カエサルの軍にいた生活。

 私の作戦で、カエサルがイレルダ攻防戦に勝利した事実は隠しておいた。

 最後まで興味深く聞いてくれたセルウィリア様であったが、急に立ち上がった。

「わらわに従いて参れ」と、手招きした。

 セルウィリア様は、二人の奴隷を呼んで、図書室に入った。図書室は、中庭から裏庭に抜ける通路の隣にある。

 整理棚には巻物が積み上げられている。部屋の隅には大きな木の板があり、厳重な鍵が掛けられていた。

 子供のときから気になっていたが、木の板が何を封印しているのか知らない。中を見るのは、初めてだ。

 奴隷が鍵を外すと、階段が現れた。

 その階段を降りると、扉に出くわす。屈強な奴隷が、(かんぬき)の錠を外した。

 扉が開くと、中から妙な臭いが漂ってきた。

 部屋の天井に隙間があり、そこから光が差していた。その光源を頼りに、奴隷が明かりを点けた。

 地下室だった。床には赤黒い染みがついていて、天井には鎖が垂れ下がっている。鎖の先には、二枚の板を貼り合わせた手錠があった。

「ここは、どこですか? なんで、ここに来たんですか? 」と、セルウィリア様に訊いた。

「ここは、仕置場(しおきば)じゃ」

 拷問部屋が、屋敷にあるとは知らなかった。

 私の驚きなど無視して、セルウィリア様が、「お前に、頼み事があってのぅ」と冷ややかに言い放った。なにも、こんなところで頼まなくても。

「息子を無事に連れて帰れ」

 何を言っているか、分からない。何故、私がご主人様……マルクス・ブルートゥス様を連れ帰るのか。

「息子が戻ってくるまで、お前は、この家に戻ってはならぬ」

 誰かに棍棒で殴られたような感覚に陥った。

「イヤなのか」

「イヤです。今さっき戦争から帰ってきたばかりです」

「ならば、お前を仕置きせねばならぬのぅ」と、セルウィリア様が目配せをした。

 いつの間にか奴隷たちが私の背後に回っていた。私は短い悲鳴を上げるが、奴隷たちは容赦なく私の後頭部を床に押しつけた。

 床の染みは人間の血だった。臭いの源は、これだ。死臭が、私の鼻を打つ。

 顔を引き上げられたかと思うと、両手首に違和感が走った。

 手錠を()められた。

 奴隷の一人が、車輪を回す。私は、天井に吊り上げられた。両足の親指が床に触れるか触れない程度の高さだ。

 セルウィリア様が冷たい目をして、静かに命じた。

「誓うのじゃ。息子を連れて帰る、と。カエサルの(そば)にいて、息子を殺さぬよう、カエサルを操るのじゃ」

「カエサルを操るなんて、無理です」と、私は泣き叫んだ。

「お前は、女じゃ。方法は、いくらでもある。カエサルといつも行動を共にしておるのじゃろう」

 セルウィリア様が穏やかに作戦を立案した。何を言っているのだろうか。だが、呆然(ぼうぜん)としてはいけない。言い返さなくては。

「カエサルは、たとえ相手が敵将でも、命だけは許しています。ご主人様を殺したりしません」

「戦争は、事故が起きるもの。息子だけが完全に無事、という保証は、ないぞえ」

「だったら、ご主人様に手紙を送って、帰るように伝えればいいでしょう」

「そんな生意気な口を、利くようになったのかえ。家に帰れば、カエサルの味方になったとポンペイウスに誤解されるのじゃ。カエサルが敗れれば、ポンペイウスが息子を許すと思うか? 内戦が終わるまで、いやカエサルが死ぬまで、息子は帰れぬ。カエサルがポンペイウスに勝てるはずはないのじゃ」

 セルウィリア様の内部では、カエサルの敗北は確定事項になっている。

 私の両手首には全体重が掛かって、痛みが走っている。爪先は床を滑る。鎖に吊られた今の姿勢は、苦しく長く保ちそうにない。

「カエサルは勇敢で、有能です。ヒスパニアでは不利な状況だったのに、勝ちました」

「ふん。友軍のクリオが、アフリカで敗死しておるぞ。カエサル自身が強くとも、カエサルの周囲は、貧弱者ばかり。一方のポンペイウスは、違うのう。ギリシアでは、ポンペイウスの勇者たちが集結しておる。ラビエヌスがおらぬ限り、カエサルに勝ち目はない。そのラビエヌスは姿をくらました、という噂じゃ。ポンペイウスに恐れをなしたと見える」

 セルウィリア様は背を向けた。

「わらわは、もうこの血生臭い部屋にいたくない。ここから出るぞ」

 出入口で振り返る。

「この者どもに遊んでもらえ。仕置きの手練れどもじゃ。お前を退屈させぬ」

 奴隷は二人いる。一人は残忍そうな笑みを浮かべ、もう一人は腫れ物のできた顔から何を考えているのか、読み取れない。どれも卑屈で屈折した感情の持ち主で、私に慈悲を掛けるとは思えない。

 私は目を閉じた。 

「……わかりました。ご主人様を、お救いいたします」

 泣いているところを見られたくない。

「ほほう。聞き分けのよい奴隷を持って、わらわは嬉しいぞ」

 セルウィリア様は微笑んだ。その笑みを見て、私は凍りついた。

 かつての優しいセルウィリア様ではなかった。神話に出てくる、蛇の髪をした女の怪物のようだった。目を合わせた者を、すべて石にさせる。ご主人様を救おうとする母性が強すぎて、恐ろしい怪物に変身した。

 床に降ろされた。その場で崩れ落ちると、家の外に担ぎ出され、石造りの道に、乱暴に放り捨てられた。

「よいな。息子が生きて帰るまで、ここに生きて帰ってはならぬぞ」

 セルウィリア様の声とともに、門が閉まった。

        3

 生者が息づくローマの雑踏を、私は死者のような足取りで歩いた。どこをどう歩いたか記憶が定かではないが、ローマの門に辿り着いた。

 ローマの門を潜る。振り向いて、ローマの風景を目に焼き付けた。もう二度と、戻って来られないかもしれない。

 カエサルの陣に戻る。番兵は特に注意を払わなかった。天幕の中は暗く、カエサル本人の姿は見当たらない。

 無為な日々が始まった。

 指揮官カエサルがいない陣は、驚くほど静かであった。

 ローマに、ご主人様の屋敷に一人でいた頃を思い返す。

 仕事がない点では同じだが、以前はまだ望みがあった。カエサルの(もと)で働けば、食には困らない。今は、もう家に帰れず、死地に(おもむ)く運命から逃れられない。毛布にくるまって、対策を練る。

 今後、カエサル軍は、ポンペイウスとの直接対決になる。ヒスパニア以上の戦力が相手なので、カエサルが負ける可能性が高い。私も巻き込まれて死ぬかもしれない。たとえ生き残れても、ギリシアからローマまで一人で帰れるかは、疑問だ。

 カエサルが勝ち、家に帰れたとしても、ご主人様が死んでいれば、セルウィリア様に殺される。

 結局、私が生きて家に帰るには、カエサルが勝ち、さらにご主人様が生き残る……二つの奇跡が必要になる。

 しかし、どちらの奇跡も起こらない気がする。涙が出てきた。毛布の中で、うずくまった。

 もはや策も何もない。ただ思いつく神々の名前を次から次へと挙げて、救いを求めた。無駄と分かっていても、毎日やる仕事がないのだから、仕方がない。

 日にちを数え忘れた頃、静寂が打ち破られた。

 急に外が騒がしくなった。カエサルが戻ってきた。

 天幕を出ると、カエサルが兵を整列させている。ブルートゥスや他の武将たちがカエサルの後ろに控えている。

 カエサルの右隣にいる立派な体格をした男、アントニウスが最も目立った。大柄なアントニウスと比べると、カエサルやブルートゥスは小柄な部類である。

 カエサルは、厳かな表情で演説を始めた。

「兵士諸君。カエサルは、独宰官となった。職務放棄した執政官の後任を決めるためだ。セルウィリス・イザリクスと、カエサル自身を執政官に任命した」

 独宰官は独裁者を連想させるので、独裁者や王を嫌う共和制ローマでは、きわめて重大な緊急事態が起こらない限り、選任されない。

 カエサルが独宰官になった理由は、あくまで執政官を決めるための方便だ、と強調している。

「ローマは政治の安寧を取り戻した。ローマを見捨て、偽りの執政官を抱えたポンペイウスどもに、もはや政治を語る資格はない。我らの敵は、ローマの敵なのだ」

 カエサルは拳を振り下ろした。まるで勝利宣言のようだ。兵士たちの中から拍手が巻き起こる。

「賊どもを殺せ」「正義は我らにありっ」「すべては、ローマのためにっ」と、兵士たちが次々に叫ぶ。

 カエサルは、兵士たちの興奮を手で制した。

「我らは、これより、ギリシア北部のデュラッキウムに向かう。ポンペイウスどもの根城を、一挙に叩く。進軍するにあたり、アントニウスに補給を任せる。ローマはイザリクスが防衛する……」

 隣のブルートゥスに視線を移した。カエサルの目は暖かった。

「我が息子、デキムス・ブルートゥスよ。そなたは、ガリア・キサルピナに行き、西方の防衛に当たれ」

 ブルートゥスは自分の胸を打ち、拝命の意を示した。カエサルの前だと、知能を取り戻す。

 カエサルは、すぐさま陣を解体し、軍を出撃させた。

 重装歩兵たちが列を作って、ローマから出発した。

        4

 カエサルとともに、馬車に乗った。だが、カエサルは馬車をすぐには進ませなかった。ローマの街から女性が駆け寄ってくる。

 女性は、セルウィリア様だった。

 カエサルは、「何故、そなたがここに来た」と、驚いた。

「貴方の見送りに来ました。貴方は、ローマに戻っても、私の家には来てくださらなかった」

 セルウィリア様は()びた口調で、恨み言を並べ立てた。

「すまぬ。埋め合わせとして、なんでも言ってみよ。そなたの願いを叶えよう」

 カエサルは謝った。セルウィリア様は袖で自分の顔を隠した。

「ブルートゥスを殺さないで」

涙を隠しているつもりなのだ。

「息子のマルクスは、ポンペイウスに味方しました。貴方に育ててもらったのに、ご恩を忘れた愚か者でございます。ですが……」

 カエサルは、セルウィリア様の発言を手で遮った。

「そなたは、余が愛した女。何故、そなたの息子を殺せようか」

 セルウィリア様の表情は見るみる明るくなる。

「ありがとう、カエサル。戦場からの手紙は、本当に嬉しかった。まさか、直筆の手紙をいただけるなんて」

 手紙を書いたのは、私である。

 セルウィリア様は私の存在に気づいていた。私を一瞬ちらっと見て、カエサルに別れを告げた。

 ローマを離れる。

「さっきの人の息子さん、助けるの?」

 隣のカエサルに、期待を込めて訊いた。

「助けぬ」

 即答だった。私は何かに殴られて馬車から飛び出そうになった。

「セルウィリアの小僧か。奴は、無能者であるぞ。生かしておく価値があるとは思えぬ。つまらぬ小僧一人のために、兵士を危険に(さら)せるか」

 カエサルは切り捨てる。小僧だの、無能者だの、カエサルは。ご主人様の素晴らしさを分かっていない。

 私は平静さを保ちつつ、質問した。

「あなたには、その人のことが分かるの」

「父親が殺された後、小僧を養育したのは、余だ。父親以上に知っておるわ」

 カエサルには、ご主人様を助ける気が全然ない。私は気を失いそうになった。カエサルは話題を変え、私の顔をまじまじと見つめた。

「それにしても、そなたの手紙は評判がよい。手書きで手紙を送ると、女が喜ぶわ」

 女好きのカエサルに顔を見られるのは、あまり気分のよいものではない。

「そなたは、アレに似ておる」

 アレ。老人がよく使う言葉だ。誰のことだか、分からない。

「そなたに親は、おらぬのか。アレと親が同じかも知れぬ」

 普段は厳しい顔つきのカエサルが、冗談目かしい発言をした。仕事しか会話がなかったが、私が中心の話題は初めてだ。

「母親は、奴隷です。家に出入りしている客に強姦されて、私を生みました」

 説明すると、一つの仮説が思い浮かんだ。

 カエサルは、ご主人様の家に出入りしていた。女好きで有名なカエサルである。奴隷の一人や二人に気を()けても、おかしくない……。

 だが私は、雑念を頭から振り払った。無意味な妄想にすぎない。


ありがとうございました。

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