第一話 属州総督
閑話休題的な内容です。
1
丘の麓で、カエサルとヒスパニアの軍団が、対面した。
横一列に並ぶ二つの軍団であったが、顔つきが対照的だった。カエサル軍は血色よく、意気揚々としている。ヒスパニア軍団は、追撃され続けた結果、弱っている。泥だらけの姿、頬は痩せこけ、髪は乱れている。
報告の兵士が、カエサルに耳打ちした。
「マッシリア海域にて、ポンペイウス艦隊が我が軍を強襲。デキムス・ブルートゥス殿が応戦しておりますが、少数にして、圧倒的不利でございます」
カエサルは「わかった。すぐに救援に向かうと伝えよ」と兵士を送り出した。
マッシリアで味方が危機に陥っても、優雅な足取りで、軍と軍と中間に歩いていく。私も書記として同伴した。他に護衛をつけていない。
ヒスパニア軍団の中から、老将アフラニウスが目の下に大きな隈をつくり、死人のような足取りで、敵味方の兵士が見守る中、カエサルの足下に平伏した。
「今回の戦、この老骨に、責がございます。兵に咎はありません。閣下におかれましては寛大なる処置を賜うよう……」と、力なく頭を下げた。
カエサルはアフラニウスを助け起こし、優しく諭した。
「そもそも此度はポンペイウスの一方的な猜疑心が引き起こした戦である。御身は職務に忠実であっただけにすぎぬ。何故、責があると言えようか」
息を吸い込み、声を張り上げる。
「アフラニウス、ペトレイウスの両将を、無罪放免とし、ポンペイウスの許に戻ることを許す。ヒスパニア軍団は解散、兵は武器を捨て帰宅せよ。カエサルの軍に加わりたい者は、ここに残れ」
生命の安全を保障され、ヒスパニアの兵士たちは喜んだ。歓喜が響く中、私は公文書にカエサルの宣言をしたためる。
「カエサル及びその兵は勝者の権利を行使してはならない。すなわち、ヒスパニアの兵を追撃してはならない。近辺の村々を略奪してはならない。婦女子を陵辱してはならない」
最後の一言に、クピドゥスの件を思い返した。私は硬直した。カエサルの視線を感じ、異常に気付かれないように平静を装う。
カエサルとアフラニウスは、各自の指輪を取り出し、調印した。
ヒスパニア軍団の解散を見送った後、カエサルは即座に次の行動に移った。
マッシリアに背を向けて、ヒスパニアの奥地に向かう。そこは、ポンペイウスの腹心のヴァッロが守備していた。
このヴァッロは、作家として高名な人で、ポンペイウスに演説原稿を任されるほど信任が厚かった。だが、軍事的才能はなく、カエサル軍の接近を知ると、すぐに降伏した。
カエサルは、この文人ヴァッロも許す。兵士を帰宅させ、ヒスパニアの武装解除は完了した。
カエサルは取って返し、マッシリアを目指す。
マッシリアの包囲戦は、まだ終わっていない。カエサルに焦りが見えた。ヒスパニアでは戦後処理を手短に済ませたものの、攻略に時間を掛けすぎた。
行軍が止まる。天幕でもカエサルは休まない。報告書に素早く目を通し、指示を出す。
私が書類の整理をしていると、クピドゥスが書いた報告書が目に留まった。クピドゥスの字を見ると、怒りが込み上げてくる。
カエサルの目を盗み、悪事を働くクピドゥスの笑う姿が、許せない。
「ねぇ、カエサル……このクピドゥスなんだけど」
他人に罪をなすりつけて村娘を強姦したり、私も襲おうとした……。だが、言葉が出ない。
告発は、同時に告白でもある。自分が襲われそうになった事実を思い返し、私の身体が震え出した。
「どうした。クピドゥスが、何だ? そなたら知り合いか?」
言い淀む私をカエサルが訝しげに見る。
事実を伝えるべきだ。だが、告白したくない。身体が拒絶している。あのときは何も感じなかった不快感が、私を襲った。
「伝令、伝令っ。マッシリアより、伝令っ」
外から、兵士の叫び声が聞こえる。悲痛な声から異常を感じ取った天幕の兵士たちが、一斉に飛び出た。
カエサル軍は息を呑んだ。報告の兵士が、深呼吸して、叫んだ。
「ブルートゥス殿、またも勝利! ポンペイウス艦隊は敗走。マッシリアは補給を断たれ、降伏しました」
歓声は起こらなかった。爆笑だった。笑い声が陣を包む。少数のブルートゥスが、多勢のポンペイウスを二度も追い払った。もはや、喜劇であった。
クピドゥスの件は有耶無耶になった。
2
マッシリアの門外には、兵士の死体が累々と積まれ、煙を立てて燃え上がっている。城門を潜ると、街の内部自体は無傷であった。
住民たちは身を寄せ合い、怯えていた。最近まで激しい抵抗をしてきたので、カエサルの苛烈な処置を想像していた。
だが、カエサルの処置は、ヒスパニアの場合と同じだった。
「マッシリアの諸君よ。これまで通り、諸君の自治を認める。カエサルとその兵は、そなたらを傷つけなどはせぬ」
マッシリアの人々は抱き合って喜んだ。街の有力者たちはカエサルの寛大さに、感謝の意を表した。
反対にカエサルの兵士たちは、不満で肩を落としている。勝者なのに、敗者のようだった。
マッシリアは地中海でも屈指の海港都市で、金銀財宝に溢れているのに、略奪できない。
略奪や強姦といった勝者の権利は、敗者である住民の猛反発を招く。カエサルは内乱を平定した後の政局を見通して、勝者の権利を禁止している。
落胆している兵士たちはカエサルの意図を理解していない。
次にカエサルはデキムス・ブルートゥスを呼び出した。
「デキムス・ブルートゥスよ。そなたは、ローマ史上最高の勇者である。これより、余を父と呼ぶがよい」
ブルートゥスは呆然としている。何が起きているのか、理解できていない。
カエサルは真紅の戦袍を自分の肩から外し、腰から宝剣の入った鞘を併せてブルートゥスに手渡した。
「これが、その証だ。我が息子よ、受け取れ」
戦袍と宝剣を手にして、ブルートゥスは数歩あたふたと後退し、石畳の道路に平伏した。
「身に余る光栄、慎んで承ります!!」
ブルートゥスの叫びがマッシリアに響き渡る。
「ローマの法務官レピドゥスに伝えよ。デキムス・ブルートゥスを、ガリア・キサルピナの属州総督に任命する」
これには兵士たちも響めいた。異例の抜擢である。
「我が息子、デキムス・ブルートゥスよ。マッシリアを拠点とし、ガリア・キサルピナに善政を敷け」
カエサルは、暖かい眼差しを向けた。ブルートゥスは、平伏しすぎて地面と一体化している。
カエサルは戦後処理を早々と済ませ、門を出る。街の外で陣を構えた。
「あれ、誰もいねえ」
ブルートゥスが、我に返った。石畳に膝をつけたまま、周囲を見回した。
「カエサルなら、もう出て行ったわよ」
私はブルートゥスの起床を待っていた。ブルートゥスは顔を上げ、嬉しそうに笑顔を見せた。
「お前、生きていたのか」
私は、この男が生きていても、嬉しくない。
本当に大軍を追い払ったのだろうか。気になったので訊いた。
「ブルートゥス。漁船二隻で、どうやってポンペイウスに勝ったの? 戦艦を奪う戦術だったけど」
「そりゃ、お前。敵とお友達になれっつったのは、お前だろ? これ、漁船な」
掌を見せる。船に見立てているつもりらしい。左右で二隻だ。例の漁船二隻らしい。
「お魚をいっぱい獲った」
「本当に釣りをしていたの? 戦争中に?」
「獲った魚をマッシリアの商人に売り払った」
「商売しているし」
「マッシリアの商人と仲良しになったら、漁船を改装し、商船にした。今度はポンペイウスの兵士たちと仲良くなった。……で、兵士たちに商品を売った」
「魚を売ったのね」
「違う、カエサルの情報だ」
「ブルートゥス、カエサルを裏切ったのね!」
なんという男だ。ブルートゥスが手を振って否定した。
「偽情報だよ。信頼してもらうために、多少は真実も混ぜたけどな……戦艦の中を自由に歩かせてもらった。内部が分かってしまえば、後は忍び込むだけ」
「そうやって、戦艦を奪っていったのね」
「岸に孤立している戦艦を奪ったりもしたけどな。結構な苦労をしたが、敵の兵力も削れるから、楽しかった」と、子供のような感想を述べた。
「実際ポンペイウスとドンパチになったとき、マッシリアに停泊している船に火を点けた。燃えて燃えて面白かったぞ。敵の援軍が慌てまくって、邪魔してやったら、陣形が崩れた。そこをボコ殴りよ」と、両手をひらつかせ海戦を熱心に説明している。
だが、さっぱり意味が分からない。
「そんで、グワッシャーとやったら、勝てた。まあ、とにかく一生懸命に頑張れば、人生なんとかなるっつーことだ。ぶはは」
腹の底から笑っている。
デキムス・ブルートゥス。この男は、本当に愚か者だ。
「しっかし、マッシリアってぇのも辛気くせぇ名前だよな。俺が総督になったから、改名してやる。お洒落な感じがいい。そうだな……マルセイユとか」
「勝手に変えないで!」
戦争は強いかもしれないが、ブルートゥスに政治を任せてはいけない。黄金の布、絹を貰ったお礼をしたくて待っていたが、馬鹿馬鹿しくなってきた。
ブルートゥスに背を向け、街の外に出る。後ろから、ブルートゥスが「待てよ」と喚いて追いかけてくる。
「なんで、従いてくるのよ。貴方は、マッシリアに残るんでしょ」
「俺も、ローマに帰る必要があるんだよ」
3
陣には、カエサルがいなかった。
カエサルの居所を兵士に聞くと、「ここから北東の都市、プラケンティアで暴動が起きた。カエサルは、そこの鎮圧に向かった」と、答が返ってきた。
ブルートゥスは私を馬に乗せ、自身も馬上の人になった。
「カエサルを追いかけるぞ」と、私の背後で叫ぶ。
私の意向など気にしない。太くて逞しい腕が私の両脇から這い出てきて、手綱を掴んだ。
ブルートゥスの掛け声とともに、馬が発進する。街道を突き進む。速い。まるで矢になったようだ。
ルクルスに乗せてもらった経験があるが、ルクルスの場合と比べたら、速さが違う。
振り降ろされまいと、私は必死になって馬にしがみついた。
だが、ほどなくして、馬の速度は徐々に落ちていった。ブルートゥスは、「乗り換えるぞ」と、私を降ろした。
目の前には、宿場があった。
ローマの街道には、宿場が等間隔に設置されており、早馬の旅人は、ここで馬を乗り換える。
街道を照らす太陽が沈み、空は赤みを帯びてくる。
速さに身体が慣れてきた。風が爽快だ。蹄の音が心地よい。馬に乗る楽しみを理解できた。
ブルートゥスの手綱を捌く腕の動きは、普段のブルートゥスから想像できないほど、無駄がなく、繊細であった。
馬を乗り継ぎ、プラケンティアに到着する頃には、すっかり暗くなっていた。
プラケンティアは静かだった。街の外でカエサル軍と暴徒たちと思しき集団が向かい合っている。
意外にも、暴徒たちは拘束されていない。整列して、その場に座り込んでいる。
松明の明かりに照らされ、暴徒たちの顔が見えた。見覚えがある。意外な犯人に、ブルートゥスは声を上げた。
「お前ら、第九軍団か」
暴徒とは、カエサル軍の精鋭部隊、第九軍団であった。カエサルは第九軍団に問い質した。
「市民諸君。そなたたちは何故、暴動を起こしたのか。諸君の義務はローマの安寧ではなかったのか。その職務に背くのか」
第九軍団の誰かが叫んだ。
「背いてはおりません。ただ権利を主張しただけです」
一声を皮切りに、口々に申し立てた。
「ガリア遠征が始まって以来、一度も休んでいない」「我々は市民であって、奴隷ではない。休む権利がある」「貴方には、これ以上ないほどの忠勤を捧げた」「苦労の割には報酬が少なすぎる」……。
これまでの不平不満が堰を切って溢れ出た。休暇と報酬を求めて、暴動を起こしたと主張する。
カエサルは静かに聞いていた。第九軍団の訴えをすべて聞き終え、口を開く。
「第九軍団を十分の一刑に処せ」
周囲は一瞬、唖然としたが、慌てて止めに入った。
「おやめください。十分の一刑は極刑です。我が兵は少数。主力である第九軍団を失っては、これからの戦に勝てませぬ」
「構わぬ。ローマの兵が、無辜の民を襲うとは何事か。クジの準備をいたせ」
聞き慣れない単語を聞いて、私は隣のブルートゥスを突っついた。
「十分の一刑って、なに?」
「十人の兵士にクジを引かせる。アタリを出した奴を棒で打ち殺す。……他の九人が打ち殺す。反逆罪とかにやる、一番重い刑罰だな。実際に運用されるのは、初めて見る」
カエサルの怒りは収まらない。雷鳴のように喚いた。
「首謀者は誰だ。煽動した者がいるはずだ」
あまりの怒気に、第九軍団はお互い顔を見合わせた。兵士の一人が、震える指を突き出す。方向は第九軍団ではなく、カエサルの背後だった。
「あの男ですっ」
一人の男が、皆の視線を集めた。平均的一般人のルクルスだった。
ルクルスの顔から血の気が引いていく。細い足が震え始めた。
周囲の兵士たちに両脇を抱えられ、連れて行かれた。
その様子をクピドゥスが見ていた。嘲笑っている。強姦犯のときと同じだ。
今回も、クピドゥスの仕業に違いない。無実のルクルスに自分の罪をなすりつけた。
怒りが込み上げてくる。我慢できず私は走った。クピドゥスに飛びかかりたいところだが、女の私では返り討ちに遭うだけだ。
カエサルの天幕を見つける。陣の中央にあるので、わかりやすい。中に入り、明かりを点けた。
心を落ち着かせてクピドゥスの筆跡を思い返す。
白紙のパピルスに指示書を書く。第九軍団に向かって、叛乱を唆した内容である。最後はルクルスに罪を被せる……。
署名は、クピドゥス。怒りに任せて、一気に書き上げた。指輪印は必要ない。非公式の文書だから。
天幕を出て、走った。
息を切らせて、ブルートゥスに「これを、カエサルに渡して」と、パピルスを渡す。ブルートゥスは文書に目を通し、首を捻った。
「これ、本当にクピドゥスって奴が書いたのか。あからさまにクピドゥスを犯人に仕立て上げようとしているぞ。証拠過剰ってやつだ」
この男、妙なところで鋭い。議論している暇はない。ありのままを話した。
「クピドゥスは、強姦の常習犯なの」
私はクピドゥスの悪行を、訴えた。他の人に強姦の罪を擦り付けたり、私を襲おうとしたたりした。ブルートゥス相手だと、何故か抵抗なく告白できた。
私がすべてを言い終える前に、ブルートゥスは、飛び出していた。カエサルにパピルスを突きつけた。
私の偽造文書を読み、カエサルは即座に叫んだ。
「クピドゥス、どこにおる。そなたが首謀者であったか!」
雷に撃たれたかのようにクピドゥスは背筋を延ばした。
周囲の兵士たちは、巻き込まれたくないとばかり、さっとクピドゥスから離れる。クピドゥスが、弁解した。
「違います。何かの間違いです。カエサル、私が貴方に逆らうはずがありません」
「証拠は、ここにある。何を弁解するか」
カエサルに見知らぬ文書を見せられ、クピドゥスの目が泳ぐ。クピドゥスは私に気づいた。
「お前の仕業だな。お前が何かをしたな。俺になんの恨みがあるって言うんだ?」
だが、次の言葉は悲鳴になった。後ろにいたブルートゥスに羽交い絞めにされた。処刑場に連行されていく。
ルクルスが、クピドゥスの入れ替わりに戻ってきた。
棒打ちされる前に救出できたので、身体は無事だった。だが、目は死人のようだ。私が呼んでも、返事をしない。
刑が始まった。棒を打つ音と兵士たちの断末魔が夜空に響く。私は耳を塞いだ。
ヒスパニア軍団やマッシリアを許した寛大なカエサルは、どこに行ったのか。
クピドゥスは自業自得だが、第九軍団は、自らの権利を主張したにすぎない。敵を生かし、味方を殺す。カエサルの思考についていけない。
私はブルートゥスに縋りついた。
「ねえ、ブルートゥス。カエサルの考えが合理的だと、思えない。カエサルは怒りで気が触れたのかしら」
ブルートゥスは少し考えて、説明した。
「カエサルは、かなり冷静だぞ。第九軍団の全員を里帰りさせるより、十分の一を殺したほうが、マシだろう。十分の九が残るって計算だわな」
ありがとうございました。