第五話 黄金橋
チート炸裂回です。
1
陣付近の森で、兵士たちが木を伐る。集めた木材を組み合わせると、船が完成した。
森から川まで船を移したいが、陸上の船はさすがに目立つので、夜になるまで待つ。暗闇の中、船を二輪の台車に載せて搬送する。
川に到着すると、兵士たちを船に乗せ、対岸に送り込んだ。アフラニウスは川全体に防衛線を張っていたが、味方は敵の薄い箇所を急襲し、一帯を占領した。
敵がいない隙に、こちら側と向こう岸の両方向から橋を架ける。
味方の頑強な橋を見て、森に隠れていたガリア増援部隊が動き出す。安定した足取りで橋を踏み越えた。
ついにガリア増援部隊が、本陣に到着する。食糧を心待ちにしていた兵士たちは、声を上げて歓迎した。ガリア人に抱擁する者もいる。
補給経路が復旧した。カエサルの策が功を奏した。
ガリア増援部隊の中に、ローマ人の兵士が混ざっていた。憔悴しきった表情で、鎧は崩れ、服を着ているのかボロを纏っているのか、分からないほどだ。
靴をなくした片足を引きずり「マッシリアから来た」と、半狂乱で捲し立てている。
「デ、デキムス・ブルートゥス殿。ポンペイウス・マッシリア連合艦隊と交戦し……」と、白目を剥いて倒れた。
私は駆け寄り、兵士を揺すった。
「ねえ、何があったの。ブルートゥスはどうしたの。死んだの。負けたの」
が、返事がない。死んではいないが、意識を失っただけだ。気絶した兵士は、どこかに連れて行かれた。ブルートゥスの生死に興味はないが、マッシリアの敵がこちらに押し寄せてくるか不安になった。 カエサルは、暖かい食事を前にして喜ぶ兵士たちを素通りして、天幕に入っていく。後を追いかける。
補給経路が復旧すると、ローマからの報告も復旧した。カエサルは厳しい顔つきで机上の報告書に目を通し、空中に向かって指示を出す。私は口述筆記し、命令書を作成する。
高速で事件を処理していくカエサルであったが、一通の書類に手を止めた。
「セルウィリア」と、声を弾ませた。
私は洟水を吹いた。カエサルに私の異常を気づかれたが、顔を伏せて誤魔化す。
セルウィリア。カエサルの不倫相手で、最も有名な人物だ。
ご主人様……マルクス・ブルートゥス様のお母様でもある。
手紙を手にしたカエサルの表情は優しい。
「なんて書いてあるの」と、身を乗り出して訊いた。ご主人様の安否が分かるかもしれない。
「セルウィリアはローマを脱出して、郊外の別荘に避難していたそうだ」
郊外の別荘。そうか、混乱していて、そこまで頭が回らなかった。気付いていれば、カエサルに従軍しなくてもよかった。
「ローマの混乱も鎮まり、セルウィリアはローマに戻っておる。無事であったか」
ローマに戻れば、セルウィリア様の待つ家に帰れる。辛い従軍生活が終わり、いつもの日常が甦る。私は心の中で喜び踊った。
「セルウィリアの小僧は、ポンペイウス側についたな」
小僧、という呼び方は不快だが、安心した。
ご主人様は生きている。優しげな顔が思い浮かぶ。私にとってブルートゥスとは、やはりマルクス・ブルートゥス様である。粗野で下品なデキムス・ブルートゥスではない。
カエサルは首を捻り、手紙を放り出した。
「面妖な。セルウィリアの小僧め。何故、余に味方せぬのか?」
カエサルは、ご主人様が味方してくれると期待していた。裏切られた、と思ったのかもしれない。
「マッシリアから報告に来た兵士が、意識を取り戻しました」
兵士が間に入ってきた。カエサルは立ち上がり、天幕を出た。さっきの兵士が声を張り上げる。
「デキムス・ブルートゥス殿には、マッシリア海域にてポンペイウス艦隊を打ち破り、敗走させました」
カエサルの陣が一瞬、静まり返った。事態を把握するまで多少の時間が掛かったが、すぐに、一際ぐんと大きい歓声が響いた。
「デキムス・ブルートゥス殿、勝利っ。我が軍、勝利っ」
兵士たちはブルートゥスの名前を連呼した。永く包まれていた敗戦の雰囲気が消え、兵士たちは戦争に勝ったかのように狂喜乱舞した。
私は「たった二隻の漁船で、どうやって?」と、一人だけ冷静だった。
敵の艦隊を奪う、とブルートゥスと二人で考えてはいたが、まさかポンペイウスを撃退できるほどだったとは信じられない。誤報の可能性もある。
「これが、デキムス・ブルートゥスである」
カエサルは目を細めて、ころころと喜んだ。カエサルが見せる、初めての表情だった。まるで我が子の活躍を喜ぶ父親のようである。
さっきご主人様を小僧呼ばわりしていた態度と、かなり違う。
だが、歓喜は続かなかった。
突然、川から轟音が鳴った。大地を揺るがす体感に、誰もが川の氾濫だと気付いた。橋の残骸が、上流から流れ落ちる。
兵士たちは、「我々は神々すら敵に回したのか」と、嘆いた。
カエサルは冷静な口調で「復旧せよ」と、指示を出す。「神々が悪戯に飽きるまで、何度も作り直せばよい。神々に勝てずして、どうやってポンペイウスに勝てるのか?」
兵士たちは各自の職務に取り懸かる。だが、戦勝気分が消え失せた反動で、動きが鈍い。
誰かが、「絶対に流されない、絶対に壊されない橋は、できないだろうか……?」と、呟いていた。心からの願いである。
「黄金で造ればいいのよ」と、私は口走った。兵士の一人が私を睨む。
兵士の視線をごまかすため、東方の兵法書を開いた。
黄金でできた橋の作成方法が書いてあるかもしれない。
一番最初に目が止まった記述は「師の近くでは貴売する」であった。「駐屯地では物資が高騰する」という意味だ。今の状況そのものである。
川の氾濫といい、兵法書の著者は予言者なのかもしれない。だが、さすがに橋の造り方までは書いていない。
「手柄に見合った報償を与えよ」「敵を吸収して強くなれ」「敵を痛めつけるより降伏させよ」「敵の弱点を衝け。さもなくば敵の弱体化を計れ」……。
敵の弱体化とは、なんだろう。武器を取り上げる、とかだろうか。他には、戦意を失わせる。敵を誘導し、兵力を分断させる。
敵の分断。私の内部で、川の景色が見えた。水流は勢い強く、下流に向かって流れ落ち、橋を打ち砕く。
この橋は障害物なので、落ちても問題ない。崩れ落ちた橋の先に、答が見えた。絶対に落ちない橋の姿だ。
気付けば、私はカエサルの天幕に走っていた。軍机から地図を取り出す。……できる。絶対に壊れない橋、つまり黄金橋は実現可能だ。
そのまま夜になった。カエサルの職務は激しさを増す。カエサルも私も不眠不休だが、体力の限界は、私が先に来そうである。兵士が寝静まった頃、密偵が戻ってきた。
「敵の補給部隊が石橋を渡って、敵陣に入りました」
報告を受け、カエサルは意外そうな表情を浮かべた。
「イレルダからの補給は、なくなったのか」
全ての材料が出揃った。このときを待っていた。
この戦い、勝てる。問題は、いかにしてカエサルに、黄金橋の造り方を伝えるか、だ。
カエサルが仕事を終えて寝台に入るのを待つ。カエサルの寝息を後にして天幕を出た。
2
松明の火が揺れる。天幕の内よりも外が明るい。
兵士の影を、火が照らす。兵士の顔に記憶があった。平均的一般人のルクルスだ。
「貴方が不寝番をしているとはね」
ルクルスは私に気付くと、気怠そうな笑顔を見せた。
「なんでもやるよ。誇り高き平均的一般人は、仕事を選ばない」
早速、私は作業に取り懸かった。天幕の前で、石を積み上げる。ルクルスの訝しげな視線を感じる。
「小さい軍略家さん。君は夜遅くに石で遊んで、何をしているんだい」
「戦いの勝ち方が分かったの。勝つには絶対に流されない橋が必要なんだけど、カエサルに橋の模型を見せようと思って」
泥にまみれた手を動かしつつ、私は説明した。
「模型なんて造らずに、カエサルに直接、案を伝えればいいのに」
ルクルスが平均的一般的な意見を言う。
「駄目よ。あたしは奴隷で、しかも女。カエサルが聞き耳を持つかしら」
「そりゃ、聞いてくれないだろうね。言葉って、内容よりも誰の発言であるかが大事だって、死んだおばあちゃんが言ってた。でも、視覚に訴えるなら、上手くいくかもね……君は今こうして僕たちがいる三角州を再現しているのかい」
上流から流れる二叉の川が三角州を造っているが、これは今の現在地だ。地図の記憶を頼りに形を作る。毎日、必ず地図を見ているカエサルなら、一目で分かるはずだ。
三角州の近くに別の川を作る。二叉川のうちの一本と平行している。二本の川を跨ぐように、溝を掘る。溝に木の枝を填め込めば、完成だ。光源が松明だけなので、時間が掛かった。
「二本の川と川の間に木を埋め込んで……って、その木橋なのかい?」と、ルクルスが模型を見て不思議がった。
「違う。この木の枝を引き抜くと、絶対に壊れない橋が完成するの。つまり、黄金橋よ。敵の石橋に対抗して、黄金橋」
「平均的一般人の僕には、意味不明だよ。それに、黄金橋って、なに? 黄金ででも造るのかい? 黄金橋を造ったからといって、どうやって敵に勝つの?」
「黄金橋が完成すれば、私たちは勝てる。イレルダの食糧は、底をついたのだから」
「イレルダの食糧が、なくなるはずないよ。いっぱいあるんだから」
「食糧を口にするのは八万の大軍だけじゃないわ。貴方も言ったでしょ。住民にも取り分がある、って。大軍に住民。食糧の減る速さは、圧倒的に敵が先よ」
「確かにそうだけど。ヒスパニアはポンペイウスの政治基盤だよ。協力的だから、食糧はいくらでも貰えるはず」
「基盤だからこそ、貰えないの。アフラニウスはイレルダに、強く要求できないわ。親分ポンペイウスの支持基盤に傷をつけるなんて、怖くてできるかしら? 略奪なんてしたら、もっと大変よ」
降っている雨を背に、ルクルスは雷に撃たれたかのように驚いた。
「軍隊よりも住民の立場が強いんだね。面白いね。そういう意味で、アフラニウスの食糧は底を突いたんだ」
「だから、アフラニウスは外部から補給を頼むしかないの。補給経路は、ローマを通れないから、ローマの反対側になると思う。たぶん、ヒスパニアの奥地になるわね」
「なんで、敵の食糧がなくなるって、わかったの? 直感かい? 平均的一般人としては、直感で理論を展開するのは、受け入れ難いね」
「直感かもしれないわね。でも、直感じゃなく理論があるとすれば、石橋が根拠になるわ。戦略的価値がないはずの石橋を、アフラニウスは強固に防備していた。アフラニウスは、当初から食糧の不足を想定していたのよ」
「石橋と食糧が、どう繋がるんだい?」
「石橋は、補給経路の出入口なのよ。石橋を越えて、ヒスパニア奥地に向かうの」
驚くルクルスに、私は話を続ける。
「私たちは黄金橋を渡って、向こう岸に回り込めばいい。イレルダの石橋を抑えれば、敵の補給を断てる。私たちは、黄金橋から補給を受ける。……カエサルは、もう理解している」
「この戦い、勝てるね! ……でも、黄金橋って、絶対に造れないと思うよ」
「そのためにはカエサルが、この木を引き抜いてくれないと」
カエサルの注意を惹かなくてはいけない。
ブルートゥスから貰った布を取り出した。黄金の布……絹だ。木に巻き付ける。
周囲は明るみを帯びてきた。朝だ。
カエサルが天幕から出てきた。私たちは慌てて隠れる。カエサルは足下の模型に気付いた。雨で模型に水が溜まっていた。
気付いたカエサルは、優雅な手つきで、絹が巻かれた木の枝を引き抜いた。木を取り除くと、溝が残る。川から、溝が繋ぐ、もう一本の川に、水が流れ込む。
カエサルは驚きと閃きの表情を同時に浮かべた。兵士たちを呼び集め、工事を命じた。
陣内の兵士たちが慌ただしく作業を始めた。ルクルスがツルハシを持って、私に話しかけた。
「カエサルに、どんな魔法を使ったんだい」
「敵を弱らせる方法を知っているかしら」
私の質問に、ルクルスは頭を振った。
「敵を分断させればいいのよ」
「敵って、ヒスパニア軍団かい」と、ルクルスは頭を掻いた。
「違う。今回の敵は、川の水よ。あたしたち、一緒に見たでしょう。下流の村々には水害はなかった。下流に行けば行くほど、川が網の目のように分かれて、水の勢いが分散されるのよ」
私の説明に、ルクルスが目を見開いた。
「水路を造って、川の流れを別の川に逃がすの。三角州のもう一本の川を上流で堰き止めたら、どうなると思う?」
ルクルスは「あっ」と自分の口を押さえた。
「橋が水で流されてしまうのであれば、水そのものをなくせばいい。……絶対に壊れない黄金橋とは、浅瀬のことだったんだね」
ルクルスは息を吸い込んで、私を見つめた。
「よく思いついたね。小さな軍略家さん。君は、いったい、何者なんだい?」
「さあね。ただの奴隷よ」と、片目を瞑って応えた。
カエサルが水路工事を始めると、三角州の水位が下がっていった。
報告が入る。
「敵が、陣を放棄しました。イレルダの石橋を越えて、対岸に進軍しています」
カエサルは口元を緩ませ、命令した。
「アフラニウスめ。こちらの作戦に気付いたか。……工事を止めよ。アフラニウスを逃がしてはならぬ。出撃するぞ」
アフラニウスはこちらの作戦を見抜き、食糧を求めて逃走した。
敵の逃亡。想定外の事態だった。私であれば狼狽するところだが、さすがはカエサルである。戦術を柔軟に切り替えた。
カエサルは対岸を阻む川を見た。工事は十分に完成しておらず、水位が残っている。騎兵は渡れても、歩兵には無理な高さだ。
カエサルは騎兵を川の中で横一列に並べ、人馬で柵を作った。水流が逸れ、別の川に流れ込む。
カエサルは水位が下がるまで待ち、歩兵を渡らせた。雨に打たれ、冷たい川に身を投じる歩兵たちは、表情を凍らせる。
馬上の人となったカエサルは、「そなたは、ここに残れ」と、私に命令した。真紅の戦袍を翻し、声を響かせた。
「敵を先回りし、補給経路を徹底的に叩く」
カエサルの軍は向こう岸に渡っていった。後姿は、雨で見えなくなった。
3
カエサルが出陣して三日が経った。その後の戦況がどうなったかは、分からない。連絡もなければ、兵士たちも話題にしない。
私はカエサルの天幕にいた。する仕事もなく佇む。雨音は静かで、久しぶりの休息だ。
外から異様な雰囲気を感じ取った。これまで感じた経験のない、戦争とは別な危険が近づいている。
「早くここから出ろ」と私の内部が、警告した。だが、天幕から離れる理由がない。
数人の兵士たちが、指揮官の天幕に無遠慮に入ってきた。数は四人。カエサルの兵士だと分かるが、見慣れぬ男たちだった。
いや、一人だけ見覚えがある。村娘を強姦した兵士が処刑されたときに、笑っていた男だ。
「やあ、お嬢ちゃん。俺はクピドゥスだ。一緒に俺たちと遊びをしないかい」
笑っていた男クピドゥスが下品な笑みを浮かべる。クピドゥスは出入り口で立ち塞がり、他の二人はゆっくりと左右に広がって、私を半包囲した。
「遊びって、なにかしら。この前の村娘にやったことだったりして」
私の発言に兵士たちは表情を変えず、クピドゥスが口を開いた。
「犯人は死んでいる。もう終わったことだよ」
クピドゥスたちは事件に関係している。
「あたしが誰だか、分かっているの。カエサルの恋人よ。手を出したら、棒打ちの刑じゃ済まないわ」と脅す。声が震えるのを極力抑えたが、相手には気付かれているだろう。
「どうする、クピドゥス……」
仲間の一人が少し困った表情を浮かべ、クピドゥスに意見を求めた。
「構わんよ。いつものように、俺たちの代理を立てるまでだ」
クピドゥスは薄暗い笑みを浮かべた。やはり、この男が強姦の真犯人だ。無関係の人に無実の罪を着せ、自分たちの犯行を繰り返す。
「ねぇ、賢いクピドゥスさん」
じりじりと包囲網が狭まるのを見ながら、私は話し掛けた。
「貴方の悪事は、カエサルにバレているわよ。実は、書面を書いて、この部屋に隠した。カエサルの留守中、貴方が何もせず帰ったら、書面を破り捨ててあげる。あたしが死んだら、書面は残り、貴方たちは罰を受ける」
仲間の兵士たちが真っ青になる。
今だ。
私は彼らの横を通り過ぎ、何事もなかったように天幕を出ようとする。しかし、クピドゥスに腕を掴み取られた。
「嘘をつくな。そんな遠回しな真似を、カエサルがするか」
駆け引きは、これ以上は無駄だ。私は叫んだ。
天幕に男が、入ってきた。ルクルスだった。
「あれ、どうしたの? 皆さんで昼食の時間? 混ざってもいい?」
クピドゥスの手が緩んだので、振り払い、ルクルスにしがみついた。ルクルスに提案した。
「逃げよう。あたしは、あの人たちと一緒にご飯を食べる気はないから」
平均的一般人ルクルスは事態を把握できない。私は、ルクルスの腕を引っ張って外に出た。
「あたしを、どこか遠くに連れてって」
私の発言に、ルクルスは呆気に取られた表情を見せた。
「そのつもりで来た。カエサルの命令で、君を迎えに戻ってきたんだ。昼食を取る余裕はなくて、残念だけど」
ルクルスは騎乗し、私を馬上に引き上げた。クピドゥスたちは諦めたのか、追ってこない。
「アフラニウスが降伏したんだ。カエサルが、取り決めの文書を作るから君を連れてこいって」
ルクルスの馬が水溜まりの泥を撥ね、無人の道を駆ける。
雨は上がっていた。空を見上げると、暖かい太陽が姿を現した。
ありがとうございました。