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奴隷少女とカエサルの後継者  作者: ビジーレイク
第一章 運命の少年
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運命の少年

古代ローマは、とっつきにくいテーマですが、ぜひ読んでください。

 今夜のローマは、黒く濁っていた。闇から巨大な手が伸びてきて、私を突き飛ばした。

 石畳に倒れ込み、背負っていた荷物が無残に飛び散った。巨大な手は私の頭を無遠慮に取り押さえた。

 抵抗など、できるはずもない。私は女で、しかも子供なのだ。

 腕を取られ、後ろ手に縛られた。顔に麻袋を掛けられ、視界を遮られる。

 男は私を荷物か何かのように肩で担ぎ、歩き出した。誰かと話をしている。誘拐犯は複数いる。

 冷たい空気を素足に感じる。だが、なすすべがない。抵抗など、恐ろしくて無理だった。いったいなにが起きているのか。この誘拐犯たちに慈悲の心があることを、ただ願うばかりだ。

 顔を覆う袋が、呼吸の邪魔をする。麻の布が口に纏わりついて、息苦しい。

 男の歩みは止まった。止まったかと思うと、次に下へ降りていく感覚。階段を下へ進んでいる。

 降りた先で、私は床に投げ捨てられた。積み荷のような扱いである。

 顔から袋を外され、普段の呼吸を取り戻せた。周囲を見回すと、そこは地下室だった。光源となる松明の数は少なく、部屋の内部は見えづらい。食糧を貯蓄する地下倉庫だった。

 本来ならば貯蔵されるべき食糧はなかった。その代わりに、人々がいた。私と同じように拘束されている。ここまで連れてこられた人たちなのだ。

 皆、不安そうな表情で、一点を見つめていた。

 見つめた先には、若い男がいた。二人の屈強な男たちに、太い縄で首を絞め上げられている。

 若者は声にならない声で悶え、両足を床に滑らせていた。市民らしく短い袖の上着(チュニカ)を着ていている。顔には時間の経過を示す髭が目立つ。

 男の苦しげな表情から、私は目を背けた。

 松明の火が石造りの壁を照らし、死にゆく男の影を映し出している。

 次の番は、私だ。いや、次の次だ。順番はあまり関係ない。殺される未来は、確実なのだから。

 若い男は、崩れ落ちた。息絶えた。

 殺害の現場に直面して、私の口から冷たい息が漏れた。

 吐き気がする。

 溢れる胃液に負けないように、首を回した。両腕を縄で縛られているので、それしか、やることがない。

 地下の殺人鬼どもは、死体を部屋の脇に寄せた。そこを死体置き場にするつもりなのだ。死体はまだ一つだったが、死体の山を予想できた。

 殺人鬼のうちの一人が私たち囚人に近づいてきた。次の被害者を誰にするか、品定めをしている。

 私は自分が選ばれないように天の神々に祈った。

 祈りも虚しく、選ばれたのは私だった。髪を引っぱられ、力の働く方向へ誘導される。容赦のない痛みに、涙目になった。

 抵抗できない。

 涙でぼやけた瞳で、人々に助けを求めた。視線を合わせようとする者など、誰一人としていない。

 だが、一人だけ例外がいた。 目を引くほどの美少年。一瞬、女の子と見間違えた。アゴが細く、とろけるような金髪で、蒼い瞳はクルミのように丸く大きい。

 美しい顔をじっと見つめても、無意味だった。残念ながら、この美少年は私と同じ囚人で、しかも子供だ。なのに、何ができるのか。

 いや、何かを伝えようとしている。

 少年は私に何か口を開いたり、閉じたりしている。なにかの合図を送っている。何を言っているのか分からない。

 読み取ろうとする暇もなく、男たちの前に引きずり出された。

 中心には、この地下室の主らしき男が、椅子に腰掛けていた。

「市民会の名において、これより取り調べを始める」と、口を開いた。

 市民会。ローマをいくつか区分けして、近所隣同士の決まり事を決める、小さな元老院といったところだ。

「ということは、あなたたちは、この地区の自警団なのね」

 市民会で結成された自警団。犯罪者を取り締まったり、税金の徴収をしたりする、いわば市民会の手足である。

「あたしが逮捕された理由は何?」と、抗議した。ただの破落戸(ならずもの)でないので、多少は強気に出ても良いかと思った。だが、自警団の主は、

「黙れ。お前に質問する権利などない」と、ドスの利いた声で言い返してきた。この自警団は暴力団も兼業しているらしい。

「おい。お前の名前は」

 答に窮する質問である。奴隷の私に名前などない。私の母親は、ガリアから連れてこられ、ここローマで私を産んだ。

 私はふと右手の甲にあるアザを思い出した。そのアザの形にちなんで、「ステラ」……ラテン語で「星」を意味する言葉……と、名乗った。

 そのあと、身分が奴隷であったので、御主人様の名前と住まいを訊かれた。「ご主人様の名前は、マルクス・ブルートゥス様よ」と、答える。

 自警団の長は子分に合図して、木の筒を持って来させた。長は筒の中からパピルスを取り出し、私に突きつけた。

「これは、お前が持ち歩いていたものだ。この文書は何なんだ」

 正直に答えるべきかどうか、一瞬、迷った。だが、何も答えないほうが不利になる。

「東方の兵法書よ。ラテン語に訳したもの」

「なんでお前が、そんなものを持っているのだ」と、怪訝(けげん)な目で(にら)んでくる。

「東方の国から、おじいちゃんがやって来て、本を書きたいんだけど、こっちの字を知らないの。あたしが口述筆記してあげたの」

「口述筆記だと。お前は、文字を書けるのか」

 学べさえすれば、たとえ奴隷の子供であっても、字は書ける。金持ちであるならば、口述筆記できる奴隷が一人や二人いても、おかしくない。

「ふん、東方とは、怪しいな。そこは、どこだ。パルティアか」

「分からない。もっと東だと言っていたから」

「パルティアよりも東だと。そんなところに、国があるものか」

「マケドニアのアレクサンドロス大王を知らないの。パルティアは、そのときは、もっと違う名前だったけど。大王は、そこよりも、もっと東の国に行ったのよ。そこで病気になって死んだはず」

 自警団の長は、口を結んで、気分を害していた。奴隷で、しかも女の子供である私に歴史の講義をされたのだから。

 私にとってみれば、御主人様のお坊っちゃんと一緒に歴史を学んだだけだ。強かったアレクサンドロス大王があっけなく死んだ話を、歴史の授業で聞いて、とても衝撃的だった。

 自警団の長はパピルスを広げ、「よく分からんことが書いているな」と、話題を変えた。

「これは、暗号文だろう」 

 違う。  

 否定した。

 そのとき「暗号」という言葉から、ある推測が立った。

 この自警団は、他国の密偵を探しているのかもしれない。

 たとえば、東方の国パルティア。

 私の脳裏に映像が浮かんだ。砂漠を駆ける騎馬集団。それは、馬上から矢を射るパルティア軍だ。

 対するローマ軍の主力は、鈍重な重装歩兵。ローマ軍は砂漠の太陽が放つ熱と、パルティア軍が容赦なく繰り出す矢の雨に、為す術なく倒れていく。

 ローマはパルティアに惨敗した。人々がパルティアの侵略を想像して、都市ローマが、一時期、恐慌の渦と化した。最近の出来事で記憶に新しい。

 パルティアの密偵だと誤解されてしまえば、確実に私の命はない。

 自警団の長が、「『廟算(びょうざん)して勝つ』とは、なんだ」と、兵法書の一部を読み上げた。

 睨む目は私を明らかに疑っている。疑いを晴らすため、私は説明を始めた。

「……廟算とは、お墓参りのことよ。東方では、戦争の前にお墓参りするの」

「なんでだ」

「ローマでいう、戦勝占いだと思う」

 古来ローマでは鳥が餌を(ついば)む様子を見て、戦争の勝敗を占っていた。東方にも似た風習があるに違いない。

「東方の執政官が、墓参りするのか?」

「そうよ。その段階で勝利を確信できないなら、戦争は、してはいけない」

 なるべく平静を装った口調で説明する。

 自警団の長を見ると、驚きの表情を浮かべていた。聞いた覚えもないような話だからだろう。説明を続ける。

「雨が降っている日に、川の上流を見なさい。上流が泡立っている場合は、兵隊に川を渡らせてはいけません。雨で川が泡立つのは、洪水の前触れだから」

 自警団の長は黙って聞いている。殺されずに済むかもしれない。少し、元気が湧いてきた。

「戦争が強い国は、政治がしっかりしている。なんのために戦争をするのかが、明確だから。政治で戦争が回避できるなら、それはそれでいい」

 目を閉じて、内容を思い出す。

「戦争は、勢いがある軍が勝つ。相手に勢いがある場合は、相手の長所を潰すこと。あるいは、短所を攻める」

 話に勢いが出てきた。東方の兵法書どおりに攻める。

「正攻法では勝てない場合には、奇襲すること。相手が予想できない方法で」

 自警団の長は手を振って、私の発言を遮った。

「この兵法書は暗号文ではないようだな」と結論づけた。

 どうやら疑いは晴れたようだ。私は胸を撫で下ろした。もっとも後ろ手に縛られているが。

「死ね」

 意外な結論が下された。何を言っているのか分からない。私は、密偵ではない。疑いは晴れたはずなのに。

「あたし、パルティアの密偵なんかじゃない」

「パルティアだと。そんなものに、興味はない。我々が探しているのは、カエサルの密偵だ」

 カエサル。

 意外な名前が出てきて、更に混乱した。あの政治家カエサルが、どうして今この状況下で出てくるのか。

「カエサルの密偵でないなら、お前など、用なしだ」

 密偵であろうとなかろうと、どちらにしても殺されるのだ。

 自警団の長は左右の子分に命じた。

 誰か助けてくれないだろうか。周囲を見回す。

 その気持ちに答えるかのように視線を投げ掛ける者がいた。さっきの美少年だ。また何かを言っている。

 悲痛な表情をしているが、何を訴えている。

 助けてくれるかもしれない。あるいは助かる手がかりを教えてくれるのかもしれない。

 少年が何を言っているか口の動きを観察した。

 自警団の一人が私の首に縄を巻き付ける。縄の触感が、忍び寄る死を実感させた。それでも私は、少年の唇を凝視した。

 私には読唇術の心得はなかったが、何を言っているか、ようやく分った。

「も・っ・と・引・き・延・ば・し・て」

 私は、「ふざけるな」と叫びたくなった。こんな状況で、何をやれと言うのだ。

 だが、あえて指示をするのには、何か意図があるに違いない。悲痛な表情から見て、少年は、自分だけ助かりたいわけではない。だったら、乗らせてもらおう。

 二人の男が、それぞれ縄の両端を持った。反対方向に引っ張って、私を絞殺する気だ。さっき殺された男と同じやり方だった。

「ちょっと待って」

 一段と大きい声を張り上げた。首を絞められて声が出なくなる寸前まで待ってから、である。

「思い出した、思い出したから」

 何事かと、自警団が動きを止めた。

「あいつのこと、知っている」

 少年を指さそうとしたが、後ろ手を縛られているので無理だった。少年の方向に向かって、顎を(しゃく)ってみせた。少年が何を考えているのか分からないが、この際、巻き込んでやろう。

「あいつに、騙されたのよ」

 自警団は顔を見合わせている。

「全部、あいつが悪いの」

 もっと時間を稼ぎたいが、他に方法はないものか。材料が少なすぎる。

 次どうやって引き延ばすか思案していると、頭上から派手な音が鳴った。

 皆が同時に見上げた先、天井の一部から光が差し込んだ。光は松明(たいまつ)の炎だ。松明を掲げ、武装した男たちが地下へと雪崩込(なだれこ)んできた。

 私が驚く間もなく、戦闘が始まった。いや、一方的な殺戮(さつりく)と言うべきか。呆気にとられている自警団が、斬殺されていく。

 血飛沫(ちしぶき)がそこら中に舞い、囚人たちの悲鳴が飛び交った。

 状況の変化を飲み込めず、私はしばらく硬直していた。取りあえず首を振って、巻き付いていた縄から抜け出す。

 この場から立ち去ろうとしたが、後ろから強い力で引き寄せられた。振り返ると、自警団の長だとわかった。私を盾にする気だ。

 殺戮集団が、私たち二人を包囲する。他の自警団は殺されたのか降伏したのか、姿が見えない。

 殺気を帯びた視線が、私たちに集中している。誘拐犯たちが虐殺される理由は分からない。が、私を助けてくれるとは、もっと思えない。私が死んでも、心を痛める必要はない。

 自分の身は、自分で守るべきだ。

 私を盾にしている自警団の長が叫んでいる。内容は意味不明だ。追いつめられて発狂しているのだろう。身振り手振りで殺戮集団になにか訴えている。私の顔の前を、男の手が通り過ぎ過ぎる。

 躊躇(ちゅうちょ)なく噛みついた。

 男は悲鳴を上げ、私の後頭部を何度も叩いた。ものすごい衝撃だったが、それでも噛んで離さない。

 そのとき、長の手が止まった。他の顔と目が合う。私と目が合ったのは、鷹のように鋭い目をした少年だった。

 少年が自警団の脇腹から何かを引き抜いた。それは銀色に輝く……短刀(プギュラ)だった。男たちが次々と自警団の長に群がって、身体に短刀を刺していく。自警団の長は血を吹き出して、後ろに倒れた。

 私も死体もろとも床に倒れた。長の死体が緩衝(かんしょう)となって、床に叩きつけられる痛みを免れた。私は死体の腹の上で周囲を見回し、危険がないか(うかが)った。 

 自警団の長を殺した人物……少年だった……が、血塗られた剣を持って囚人たちに近づく。囚人たちは「うわぁ」と、後ろ手に縛られたまま、逃げ散った。

 一人だけ逃げなかった者がいる。さっきの美少年だった。

 鷹の目をした少年は、美少年の前で立ち止まり、拘束を外した。

「アグリッパ。ずいぶん遅かったね」

 美少年が鷹の目の少年……アグリッパに、控えめな口調で文句を言った。

「オクタヴィアヌス様。申し訳ございません。見張りの処理に手間取りまして、お助けに遅れました」

 アグリッパは頭を掻いた。鷹のような目が、少し情けない。

 美少年オクタヴィアヌスが私を指さし、「あの子を自由にさせてあげて」と指示をした。

 拘束を解かれ、自由になったのに、私は震え出した。恐怖と安堵が入り混じった複雑な感情に支配され、私は泣き出した。

 私が大泣きした後、少し治まってきた。

 オクタヴィアヌスが私の近くまで寄ってきた。

「怖い思いをさせたね。……もっと早く助けてあげられればよかったんだけど」

 オクタヴィアヌスが優しく抱きしめてくれた。何が起きているのかよく分からず、アグリッパを見ると、バツの悪そうな顔をしている。オクタヴィアヌスの抱擁(ほうよう)は柔らかく、暖かった。女の子のようだ。

 私たちは外に出た。今までいた場所は、高層住宅の地下室だった。見張りらしき死体が外で散らばっている。

 武装集団一行が夜、下町を歩く。私は従いていくしかなかった。一人で歩くには、ローマの夜は危険すぎる。

 しかし、この集団は、どこに行くのだろう。暗くて周囲がよく見えないので、前を進む者に従いていくしかなかった。

 しばらく進むと、丘を登り始めた。

 高級住宅に向かっている。

 この集団は金持ちの家来たちなのだろう。前傾姿勢で歩く姿を見ると、アグリッパはいかにも平民という感じがする。一方のオクタヴィアヌスは、背筋を伸ばした堂々とした歩き方で、どこか気品がある。ひょっとして、貴族なのかもしれない。

 私たちは巨大な邸宅の前に着いた。扉は見上げるほど高く重厚で、邸宅というよりもむしろ要塞だった。

 オクタヴィアヌスは振り返って、私に言った。

「今日は、ここに泊まりなさい。君のご主人様には、明日、事情を説明するよ」

 豪邸に圧倒された私は、「あなたは誰なの? ただの美少年には見えないけど」と訊いた。

 美少年とはいえ、殺戮部隊を(よう)しているので、できるだけ失礼な発言を抑えたつもりだ。

「カエサルを、知っているよね」と、オクタヴィアヌスは涼しげな表情を見せた。

「このローマに住んでいれば、たとえ犬でも知っているわよ」

「カエサルは、僕の大叔父様だよ」

 オクタヴィアヌスが悪戯(いたずら)っ子のような笑みを浮かべた。

ありがとうございました。

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