Cirque du abime -Prologue-
青屋ういろうが主催するホラー企画「Cirque du abime」の作品です。
一部、企画参加者様のキャラクターをお借りしております。
暗闇である。
街灯のない真っ暗な道を、徹を乗せた車は走っている。ヘッドライトの灯りだけが頼りだ。前方に向けられた光が側面まで薄らと漏れて、道端に佇む木々を僅かに照らす。
車は山道を走っていた。舗装もされていない、細く険しい道である。タイヤが枯葉を踏みつける感覚が、エンジンの振動に紛れて尻に伝わるようだった。
自分なら先が見えないのを恐れて徐行しそうだが、運転手には慣れた道なのか、ハンドル捌きに迷いはない。見事な技術である。
徹は窓の外から、手元の紙切れへと視線を移した。上質な黒の厚紙に、金の文字で「Cirque du abime」と印字されただけの、シンプルなチケットである。それは高級感の他に、ほんの僅かな怪しさを持って、徹の指先に挟まれていた。
会社の同僚から譲り受けたものだった。とにかくレアなサーカスの興行だが、同僚はここ最近見るからに忙しそうで、この公演にも行けないと言う。
一人でサーカスというのも、妙な気がしてはいる。それでも、同僚自身が元から一人で行こうとしていたことと、一人でも十分に楽しめるという彼の後押しで、徹もなんとなく行く気になった。
チケットには注意書きどころか、会場の場所すら書かれていない。サーカス名の他は、裏面に公演日と思われる日時が小さく記載されているだけだ。聞けば、チケットを手元に置いて、ただ自宅で待っていれば迎えが来るなどと、奇妙なことを言う。
疑心暗鬼になりながらも、譲った本人が言うのだからと、同僚の指示に従った。それで行けなかったとしても、徹に大した損害はないのだ。
記載された時間は、金曜の深夜である。帰宅した徹は、言われた通りにチケットだけを用意し、迎えを待った。
呼び鈴が鳴ったのは、完全に日が落ちてからのことだ。
インターホンの通話ボタンを押すと、小さな液晶画面の中に、女の姿が映し出された。結い上げられた黒髪から、艶かしく後れ毛を揺らし、鮮やかな色合いの着物を着崩している。俯いていて、表情は見えない。
「はい、どちら様でしょうか?」
徹が応じると、女は緩慢な仕草で面を上げた。芸者のような化粧が、よく似合う美しい女だった。
「お待たせ致しました。Cirque du abimeでございやす」
女は微笑みながら、ゆったりとした動作で小首を傾げる。女の色香が、液晶越しに徹を襲うようだった。
「お迎えに上がりやした。お車を用意してございやす。チケットをお持ちになって、おいでくださいな」
「あ、分かりました。すぐ、すぐに行きます」
「へえ、宜しくお願い致しやす」
女の美しさに当てられている。そう自覚しながらも、徹は急いで支度を整え、玄関を出た。
徹の住むマンションの前に、見たこともないような高級車が停められている。女はその高級車の脇で待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ、急かしてしまったようで、申し訳ございやせん」
勢いに任せて階段を下ってきた徹は、少々息が切れていた。女はそれに気づいたらしい。
「初めてだったので、少しテンパってしまいまして」
「可愛いお人ですなぁ。こんな素敵なお人だったら、無条件でお迎えしたいわ。念のため一度ここでチケットを確認してるんです。拝見しても?」
「あぁ、どうぞ」
チケットを取り出すと、女はそれを受け取りもせず、一瞥しただけで満面の笑みを浮かべた。
「確かに、うちのチケットでございやすな。さぁ旦那、こちらへどうぞ」
「それだけでいいんですか?」
「えぇえぇ、十分でございやす。見分けるコツがあるんです。これは企業秘密なんで言えやせんが」
「そうですか。気になってしまいますね」
女が後部座席のドアを開けた。黒く光る車体は、美しく磨き上げられている。
「驚きました。こんな車で迎えに来てもらえるなんて」
「この車は私と一心同体なんですよ」
女は白くしなやかな手で、車のボディを撫でた。流し目がひどく扇情的である。
「さあ、中へ入ってくださいませ。ゆっくり奥でお寛ぎになって」
妙な気持ちになりながら、徹は車中に身を滑らせた。
徹が広い車内の奥に落ち着いたのを満足気に確認し、女は運転席に乗り込んだ。驚くことに、この女が運転手らしい。着物の袖を襷でたくし上げながら、女は首だけで徹を振り返った。
「他のお客さんも拾っていかなきゃならないんで、少々長いこと座りっぱなしになりやすが、宜しゅうございやすか?」
「えぇ、大丈夫です」
「ありがとうございやす。そいじゃあ、出発」
それから他の客を途中で拾い、車は山中へ入ったのである。
乗り込んできた客は、老若男女様々だった。徹のような若い男もいれば、裕福そうな中年の夫婦や子連れの女もいる。
それなりの人数が同席しているにも関わらず、車中は不思議と静かだった。知らない者同士が、狭い空間に押し込められた時の気不味い空気とは少々違う。静寂の中で、着々と高まっていく昂奮と、糸を張り詰めたような緊張が綯交ぜになっている。
「皆様、お待たせ致しやした。そろそろ到着ですよ」
飽和状態だった車内の空気を抜いたのは、運転手の女の声だった。否、抜けたと思ったのは徹だけのようだ。他の客たちは一様に、表情を硬くしていた。生唾を飲む音が聞こえる。
女の予告から数分後、車は徐々に速度を下げ、数メートルほど徐行してから停車した。車内から外を伺っても、未だ暗闇の中である。
車のドアを開けたのは、運転手の女ではなく、到着を待っていたらしい男のスタッフだった。燕尾服をきっちりと着こなし、ランタンを片手にしている。
「お待ちしておりました。皆様、どうぞ外へ」
レディファーストと言わんばかりに、最奥へ座っていたはずの女が、真っ先に車外へ出ようとした。
すぐに、悲鳴が上がった。外に出ようと足を伸ばした、女の悲鳴である。
女は悲痛な叫び声を上げながら、車外へと飛び出していった。高そうなドレスがドアの隙間に挟まり、千切れるのも構わない。
焦げ臭い。何かが燃えている。女だ。女が燃えているのだ。
理解した瞬間に胃から込み上げてくるものを、徹は必死の思いで堪えた。人の肉の焼ける臭いが、鼻を刺激する。
「おや、これは失敬」
出迎えの男が言って、車の端から地面へ板をかけた。
「これで大丈夫でしょう。さあ、お次の方、どうぞ」
安堵した表情で他の客が降りていくのを、徹は唖然と見ていることしかできなかった。車内からでも、闇の中で燃える女が見える。開いたドアの向こうにいる客たちは、それを無視するか、好奇の目で見つめるかしている。
なんなのだ、この光景は。理解し難いものを、目の当たりにしている。自身の心臓が煩く暴れ、女の悲鳴が遠くなった。
「旦那」
運転席から、運転手の女が声をかけてきた。鈍くなった脳を必死に働かせ、なんとか振り向いた先には、あの美しい微笑みがある。
「早く降りてくださいな。他にも迎えに行かなきゃならないお客さんがいるんでね」
最早、思考することなどできはしない。徹は言われるまま、車外へと足を踏み出した。
足元が熱い。車の下から炎が上がっていた。女はこれに焼かれたのだ。不思議なことに、地面に敷き詰められた枯葉は一枚も燃えてはいない。
定まらぬ視界の中で、タイヤが一つしかないように見えた。確かめる間もなく、車は次の客を迎えに、颯爽と走り去ってしまった。
「さあ、ご案内致します。もう一度チケットを確認させて頂きますので、お手元にご用意ください」
燕尾服の男は、一同の先頭に立って歩き出した。男の向かう先に、大きな影がある。降りた時には気が付かなかった。
客はそれぞれチケットを手に、男へついて影へと向かっていく。
女は、まだ燃えながら転げまわっていた。足だけを燃やしていた炎は、最早体中を覆い尽くしている。女の体を、余す所なく燃やし尽くすのだろう。
転がる女の火が、目前の大きな影を照らした。
屋敷がある。古い、洋風の屋敷だ。男が扉を開いて、客は次々にその中へ飲み込まれていく。
最後の一人が入っていくのを、徹はただ黙って見ていた。それに続くことができないでいる。逃げることも叶わない。恐怖で足が竦んでいるのだ。足に力を入れようとしても、脹脛が痙攣するだけだった。
「おや?」
後ろから、声がした。自分の後ろには、誰もいなかったはずだ。
「どうしたのかな、お客さん。置いていかれてしまったのかい?」
男の、低い声だった。枯葉を踏む足音が近づいて、徹の背後で止まる。気配が、大きい。硬直したままの徹は、振り向くこともできないでいた。
「あぁ、案内役が待ってくれているね。さぁ、チケットを。私が確認しよう」
徹が手に持ったままだったチケットを、大きな手が上から攫っていった。
「あ、」
「ふむ、確かに。さあ、行こう。楽しいのは、これからだ」
振り返ると、徹より頭三つは高い位置で、顔色の悪い男が微笑んだ。