7章 あなたと私の物語
霧に包まれた森で、赤いローブの魔女が、マネキンにされた少女を見上げていた。
「……結局。お城にいる王子が偽物だと、3号とは別の人形だと気が付いたのは、あなただけだった」
霧の森の中にいても、絵本の魔女は城で起こった出来事を把握していた。
アリンとハートの騎士の助けで、美羽が無事に王子様へとハートを届けて、異形へと姿を変えたことも。久しぶりの再会を果たした姫と王子が、塔の天辺の部屋で仲睦まじく笑いあっていることも。全部。
全部、分かっていた。
全部、見ていた。
なぜなら、彼女は魔女だから。
それくらいは、容易いこと。
王子に焦がれ、王子からの愛を望んだけれど、それだけは決して手に入らない。
手に入らないと、分かっている。
どんなに魔女が望んでも。望むからこそ、手に入らない。
それが、この世界のルール。
手に入らないのなら、壊してしまおうと思った。
自分によく似た、でも自分ではない少女に、王子が微笑みかけるのが嫌だった。
たとえ、偽りの笑顔であっても。
そして、それが偽りの王子だと気付かずに、幸せそうに微笑みを返す少女たちも、許せなかった。
絵本の世界に、虚ろな人形が増えていくことよりも。
繰り返される、偽りの愛の人形劇が許せなかった。
だから、壊してしまおうと思った。
最愛の王子を。
自分の手で。
そうすることで、この絵本の世界から自由になれることは分かっていた。
でも、出来なかった。
自分で手を下すことは、どうしても出来なくて。
だから。
絵本の魔女は、挑戦者の少女を利用することにした。
今回のように、異形に襲われて、アリン姫とはぐれてしまった少女を。
絵本の魔女は、少女にヒントを与えた。
人形たちはみんな、“人形の魔女”の手下であること。そして、王子さまも人形なのだということ。
人形の魔女が支配するこの絵本の世界で、直接絵本の仕掛けを教えることは出来なかった。
けれど、少しのヒントを与えただけで、彼女はこの世界の真実に辿り着いた。
少女たちにとって、一番大切なはずの真実に。
少女は気が付いた。
お城で待っていたのは、彼女が愛した王子様ではないということに。姿形が同じだけの、別の人形だということに。彼女が愛した王子様とは、別の人形だということに。
偽物だとバレても、王子はハートを奪おうとした。少女は、途中で手に入れた槍を王子に向けた。自らのハートを守るために。
王子を、壊そうとした。
絵本の魔女の愛する王子を。
それが狙いだったはずなのに。
そのために、少女を導いたはずなのに。
気が付けば、絵本の魔女は魔法を解き放っていて。
少女は、王子を貫く寸前で、マネキンとなって固まっていた。
ああ、自分は失敗したのだと、絵本の魔女は思った。
覚悟が足りなかったのだと、思い知った。
霧の森を造って、そこへマネキンを移したのは人形の魔女だ。
ハートを狩る邪魔になると判断したのだろう。
強要されたわけではないが、絵本の魔女はそれ以来、霧の森で過ごすようになった。
霧の森で、マネキンと向き合いながら日々を過ごす。
覚悟が決まる、その時まで。
壊したい。
壊したくない。
心が定まらないのは、それが一番の望みではないから。
一番の望みは、決して叶わないものだから。
心が定まらないまま。
また、アリン姫とはぐれた少女が現れれば。
きっとまた自分は、手を出してしまうのだろう。
一番の望みではないのに。
自分以外の少女に向けられる、偽りの笑みが許せなくて。
偽りの微笑みで、簡単に幸せになってしまう少女たちが許せなくて。
いつか。
いつか、本当に。
王子を壊す時が来るのだろうか?
王子を壊して、ここから出て。
そうして、私は。
何処へ行くのだろう?
何処へ行けばいいのだろう?
まだ、もうしばらくは。
霧は晴れそうになかった。
★★★
「大分、揺れているようね。あともうひと押し、と言ったところかしら?」
ランプの灯りだけが、手元を照らす。
薄暗がりの中で、魔女は閉じた絵本を優しく撫でる。
絵本を閉じていても、分かる。
絵本の中の魔女のことなら。
「どうやら、アリンがいない時じゃないと、駄目みたいね。3号は、いい仕事をしてくれたわね。おかげで、それが分かった。あなたが動きやすいように、これからは、挑戦者を二人送り込んであげるわ。私が選んだ子には、今まで通りアリンに案内役をさせるから、あなたは3号が選んだ子を導いてあげてちょうだい?」
楽し気に、口の端を上げる。
魔女が絵本にゲームを仕掛けたのは、別に復讐のためというわけでもなかった。
人間の少女だった頃のことは、魔女にとっては遠い過去のことだった。
魔女は、人形にしか関心がなかった。
人形を作ること。
人形を造ること。
人形で遊ぶこと。
かつての女王様に似た少女たちに、思うところが何もないと言えば嘘になるかもしれないが、復讐するというほどのこともない。
絵本に魔法をかけて、ハートを狩るための人形劇を始めたのは、ほんの思い付きだった。
女王様によく似た少女を見かけて。
少女が女王様の娘だと分かって。
ふと思いついたのだ。
お姫様の役をやらせてあげようと。
少女の好みのタイプを探り、少女の理想通りの少年の人形を造った。
最初の人形は、簡単な受け答えしかできない拙いものだったけれど、少女の通う中学校に噂を流しておいたおかげで、少女はあっさり罠に引っかかってくれた。
少年は、魔女に人形にされてしまったのだと、あっさりと信じた。
魔女の仕掛けたゲームに、あっさりと乗った。
絵本の中に閉じ込められた王子様のハートを救い出すために。
絵本の中に墜とされた少女は、お姫様の役で意気揚々と森を冒険し、最後に自分によく似た容貌の魔女を倒して、最後には助けに来たはずの王子様にハートを食べられてしまう筈だった。奪ったハートは、新しい人形の材料にしようと思った。
絵本に魔法をかけた途端、絵本の登場人物に過ぎなかったはずの魔女が、あの光を見て本物の魔女になってしまったのは誤算だった。けれど、今にして思えば、それもまた必然だったかもしれない。
本来の物語では、“絵本の魔女”は人形にはならないのだが、これは人形劇なのだからと、登場人物は全員人形に変えた。
おかげで、最高の人形が出来上がった。
女王様に似せて作った人形だからと言って、“絵本の魔女”を憎んだりはしていない。
なぜならば。“絵本の魔女”は人形で、魔女は人形を愛していたから。
魔女は、“絵本の魔女”の動向を窺いながら、人形劇を楽しんだ。
奪ったハートを加工して、絵本の中の人形たちに仮初の命を吹き込んだ。そして、現実の世界で、少女たちを誑かすための王子様の人形にも改良を加え、三体目には満足のいく人形が出来上がった。
じっと息を潜めていた“絵本の魔女”が動きを見せたのは、三体目の人形、3号が出来て少しした頃だった。
案内役であるアリン姫とはぐれた挑戦者を唆し、王子を壊して絵本の世界を飛び出そうとしたのだ。
結局は。最後の最後で、迷いが生じてしまったようだけれど。
魔女は歓喜した。
閉ざされた絵本の世界を飛び出したその時こそ、“絵本の魔女”は魔女が造った最高の人形になる。
“絵本の魔女”が再び動く時を待ちながら、魔女はゲームを続けた。
きっかけを与えたのは、またしても3号だった。
どういうわけか、3号は“絵本の魔女”に関心があるようだった。
それが、人形に心が芽生えたせいなのか、それとも主である魔女の望みを感じ取ってのことなのか。それは、別にどちらでも構わなかった。
どちらであっても、3号がよく出来た人形であることには違いない。
「さあ。早く、そこから出ていらっしゃい?」
魔女は愛おし気に絵本を撫でる。
その時が、楽しみだった。
現実に現れた“絵本の魔女”と仲良くできるなどとは思ってはいない。
憎まれるのか、それとも歯牙にもかけられずに素通りされてしまうのか。
想像するだけで、楽しかった。
そうなった時に、自分がどう感じるのかを想像するだけで、胸が躍った。
“絵本の魔女”が現実の世界に現れる。
その時には。
魔女の絵本は壊れてしまうと分かっていた。
それでも、構わなかった。
そんなことは、構わなかった。
なぜなら。
「きっと、これは。あなたと私が、出会うための物語――」
(終わり)