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6章 ハートをあなたに

 森の小道を抜けると、もうお城は目の前だった。

 白い壁。青い屋根。いくつもの塔が立ち並び、その天辺には旗が棚引いている。絵本の魔女のローブの色と同じ、赤い旗。

 そう言えば、アリンのドレスは屋根と同じ青い色をしているな、と腕の中のアリンを見下ろす。

 もしかしたら、魔女に奪われる前は、旗の色も屋根と同じ青色だったのだろうか。

 空は、美羽が絵本の中にやって来た時と、変わらず青く澄んでいた。魔女のお城の近くまで来たから言って、行き成り暗雲が立ち込めてきたりしなかったことに、美羽は胸を撫で下ろした。それまで晴れていた空が急に曇って雷まで鳴り出すとか、絵本や物語の中ではよくある展開だ。

「いよいよね」

「うん」

 アリンの声も、心なしか緊張しているようだった。美羽は唇を引き結びながら頷くと、アリンを抱く腕に力を込める。

「大丈夫よ。きっと、何とかなるわ。真実の愛、そして勇気よ! 美羽!」

「………………うん」

 アリンの無責任な声援にすら、今はありがたい。

 アーチ形をした木製の門の前に立つ。

 門番は、いないようだった。

 城の中は手強い異形たちが守っているから、門番など必要ないということなのだろうか。

 緊張に、胃がキュッと縮まった。

 ハートのカードは、スカートのポケットの中にあるけれど、使いこなせるかどうかは分からない。一体だけでも手こずりそうなのに、何体もの異形に同時に囲まれたら、うまく切り抜けることが出来るだろうか。

 門を開ける勇気が持てずに立ちすくんでいると、足元から声が聞こえてきた。

「むむ? 怪しい奴め! 何奴だ!」

「ここは、魔女様のお城だぞ!」

「今すぐ、ここを立ち去れい!」

「やや! アリン姫がいるぞ! さては、おまえ! 挑戦者だな!」

「われらが成敗してくれる!」

 美羽の足元に、トランプのカードに手足が生えたモノがわらわらと集まってくる。

 小学校の頃に読んだことのある本の挿絵に、こんなようなものを見た覚えがある。

「えーと、アリン。これ、何?」

「お城の兵士たちよ」

 ああ、やっぱり、と美羽は空を見上げる。

「てゆーかさ。このトランプ兵たち、ちゃんと役に立ってるの? なんか、たった今、あたしたちに気付いたみたいな感じなんだけど。もっと早くに気が付いてもいいはずだよね?」

「ああ。居眠りしていたみたいだったわよ。お城の中は異形たちが徘徊しているから、門の前に集まっているみたいなのだけど。挑戦者は、そう滅多に来るものではないから、ほとんどお昼寝しているみたいね。兵たちの目が冷めなくて、そのまま素通りした挑戦者もいたくらいよ」

「それ、役に立ってないじゃん。ここにいる意味、あるの?」

「まあ、そう言わないであげてちょうだいな。彼らも、居場所がな……いえいえ、そう、たとえ魔女にお城を奪われてしまっても、お城を守るという使命があるのよ!」

「魔女様とか言ってたし、魔女の手下になってるみたいだけど? あと、挑戦者を成敗とか言ってたけど、人形は人間を傷つけられないんだよね?」

「まあ…………早い話が、今はただの役立たずね」

「やっぱり、そうなんじゃん!」

 アリンと軽口を叩き合ったことで、すっかり緊張がほぐれていた。

 まあ、そういう意味では役に立ったのかもしれない。

「みな、怯むな!」

「かかれー!」

「やー!」

「とー!」

 足元からは威勢のいい掛け声が聞こえてくるが、爪楊枝サイズの槍をいくら振り回しても、美羽の穿いているスニーカーを貫くことは出来ない。

 それならば、と槍を投げつけてくるトランプ兵がいるが、どんなに頑張っても膝より上には届かないし、足に当たったところで傷一つつけることなく、すべて弾き返されている。痛くはないけれど、少しむず痒くはあった。

 美羽はトランプ兵を踏みつぶしたりしないように、慎重に足を動かして、つま先でトランプ兵を薙ぎ払った。

 一応は敵、とはいえ、何の脅威もない相手を踏みつぶすのは気が引ける。

「あーれー」

「うわー」

「や、やめろー」

「なにをするー」

 トランプ兵たちは呆気なく蹴散らされていく。

「よし、行くか」

「そうね。行きましょう」

 美羽には王子様を助けるという使命があるのだ。いつまでも、トランプ遊びに興じているわけにはいかない。

 深呼吸を一つしてから、美羽は思い切って、門を開けた。



 門をくぐると、直ぐに広間があった。

 足元は絨毯ではなく、何やらツルツルした不思議な石で出来ていたが、今は少しくすんでいる。

 魔女に城を奪われた後、掃除をする者がいなくなってしまったのかもしれない。

 高い天井には大きなシャンデリア。こちらも、あまりキラキラした感じはしない。

 若干煌めいて見えるのは、あちらこちらにはられた蜘蛛の巣だけだ。銀色のレース糸で編まれた蜘蛛の巣。

 広間の先には、階段が三つ。中央に大きな階段が真っすぐに二階まで伸び、その両脇にカーブを描いた少し細めの階段がある。どの階段も、同じ通路に繋がっていた。通路は一階に張り出すようにして、コの字型を描いている。中央と左右それぞれに、奥へ通じるらしき扉があった。

「アリン、階段を上ればいいの?」

「ええ。どの階段でもいいから二階に上がって、真ん中の扉を進むのよ」

「分かった」

 だったら、やっぱり最短距離の中央の大きな階段にしようと、駆けだそうとした足が止まる。

 ギィッと嫌な音を立てて、中央と左右、三つの扉が一斉に空いたのだ。

 そのまま、立ちすくむ。

 扉から現れたのは、案の定、異形だった。

 美羽と同じ中学の制服を着た女の子の形をしている、黒い影。

「オウジサマハ、ワタサナイ」

「オウジサマハ、ワタシノモノ」

「オウジサマノテキ、ハイジョスル」

 右側から、斧、剣、槍とそれぞれ武器を手にしている。

 武器と言っても本物の武器ではなく、異形の本体と同じ、黒い物体で出来た武器だった。それでも、その形状から、何の武器を模しているのかは判断できる。

 河の向こう側にいた異形よりも、影が濃い気がした。河向こうの異形は、魂が抜けた虚ろな感じがしたけれど、城の異形からは、意志のようなものが感じ取れる。

 それと、もう一つ。川向こうの異形は、ひたすらに美羽のハートを求めて『ハートヲチョーダイ』と、そればかりを言い続けていた。なのに、この異形たちは、美羽のハートについては一言もない。美羽のハートを求めているわけではないようだった。

 そのことを不思議に思ったが、今、それを考えている時間はない。

 異形たちは、揃って階段を降りてくる。中央と左右、それぞれの階段を。

「美羽! 愛と勇気よ! あなたの愛と勇気を示すのよ! あなたの愛と勇気が、異形たちの王子様への執着を上回れば、必ず道は開けるわ!」

「うん。分かってる!」

 正直、震えがくるほど怖かった。けれど、そんなことは言っていられない。

 それに、アリンにああ言われては、心を奮い立たせるしかない。

 異形たちに負けるということは、美羽の王子様への想いが、異形たちの王子様への執着に敵わないということだ。

 あの異形たちはみんな、元々は美羽と同じ女の子だ。後藤加奈と同じ女の子。王子様に恋い焦がれ、王子様を救うために魔女の絵本に挑んだ女の子たち。

 たとえそうであっても、いや、だからこそ。

 異形たちには負けたくなかった。

 王子様に選ばれたのは、美羽なのだ。

 王子様に選ばれた女の子は、美羽ただ一人。

 その美羽が、王子様を想う心で、他の女の子たちに負けるわけにはいかなかった。

 今までの挑戦者たちが異形に敵わなかったのは、王子様への愛が足りなかったから。

 でも、王子様に選ばれた自分ならば、絶対に負けたりしない。

 負けるはずがない。

(あたしが、一番、誰よりも王子様を愛している。あたしの王子様を想う心こそが、真実の愛。あたしは、他の女の子たちとは違うんだ。あたしは、王子様に選ばれた!)

 アリンを左の脇に抱え直すと、空いた右手をスカートのポケットに滑り込ませる。指の先に、カードが触れる。指先から美羽の思いが伝わったのか、カードは段々と熱を帯びていく。

(これなら、いける!)

 スカートから取り出したカードを、中央の階段を降りてくる異業に向かって構える。中央の異形は、階段の半分ほどに差し掛かろうとしていた。左右の異形は、階段がカーブしているせいもあってか、半分よりももう少し手前にいるから、後回しでいいだろう。

 もたもたしている時間はない。

 三体が広間へ下りてくる前に、少なくとも一体は、何とかしなくては。

 王子様への溢れる思いを、指先を通じてカードに流し込むように意識する。すると、カードは蛍光ピンクの光を放ち始めた。

「美羽!? それは、ハートのカード……。一体、どこでそれを手に入れたの?」

「勝手に、ポケットの中に入ってた!」

 美羽がハートのカードを取り出したことに驚くアリンに、美羽はやや適当に答える。

 嘘をついたのは、この期に及んでマネキン少女や絵本の魔女のことを隠しておこうと考えたわけではなくて、単純に詳しく説明するのが面倒くさかったからだ。

 今は、目の前の敵に集中しなくてはならない。

「ま、まあ、いいわ! まずは、一体ずつ確実に仕留めていくわよ! そのまま力を込めて、一気に真ん中の異形に放つのよ!」

 アリンも直ぐにそのことに思い至ったようで、カードの入手方法についての追及は後回しにして、対異形のアドバイスを飛ばす。

 美羽は黙って頷くと、カードに集中した。

 カードの放つ光が、大きくなっていく。

「今よ、美羽!」

「行っけぇー!」

 カードからハート型のビームが放たれて、中央の異形に直撃した。

 色はもちろん、蛍光ピンクだ。

 直撃した場所からピンクの光が広がり、異形の体を包み込んでいく。もがくように片手を上げる異形。光が異形の全身を覆ったとたん、光が弾けた。

 ピンクと黒の粒子が当たりに四散していく。

「や、やった!」

「すごいわ、美羽! 見事よ! こんなの、初めて見たわ! さあ、残り二体もこの調子で片づけちゃいましょう」

「う、うん! …………え?」

 アリンに褒められて、広がりかけた笑みが凍り付いた。

 左の階段を下りていた槍を持った異形が、手すりに飛び乗っているのが目に入ったのだ。

 異形は手すりを足場に跳躍すると、綺麗に宙で一回転をして、美羽の目の前に降り立つ。異形にされる前は、体操でも習っていたのかというくらい、ブレのない綺麗な回転と着地だった。

 あ、と思った時にはもう、異形の槍によって、ハートのカードの中央が貫かれていた。

 先ほどの異形のように、貫かれたカードはピンク色の粒子になって四散していった。

「そん……な……」

 目の前では異形が、美羽に向かって槍を構えている。

 いけると思った矢先のことだけに、状況に心も体もついていかない。

 頭の中は真っ白で、逃げようという考えすら思い浮かばなかった。

「あ……ああ…………」

 呆然と槍を見つめたまま、立ちすくむしかできない。

「ハイジョ、スル」

「っ!」

 来る、と思った瞬間、反射的に目を閉じて、両手を顔の前でクロスさせた。

 衝撃を予想して身構える美羽の耳に、カンッと何かを弾いたような音が聞こえてきた。それから、どこかで聞いた覚えのある声。

「美羽殿! 助太刀いたす!」

「ハートの騎士! 来てくれたのね!」

 続いて、何だかわざとらしいアリンの声。

 恐る恐る目を開ける。

 美羽の右隣には、木馬に乗ったハートの騎士がいた。

 ハートの騎士が槍で異形の攻撃を弾いてくれたのだ。

「ハートの、騎士……」

 美羽の目にじわりと安堵の涙が滲む。お礼を言おうと少しだけ顔を右に向けると、馬の足元が目に入った。

 木馬の足は、弓型の台座の上に乗っていた。ゆらゆらと振り子のように揺れる、よく見かけるタイプの木馬だ。

(あの足で、どうやってここまで来たんだろう?)

 疑問が胸を過る。お礼を言おうとしていたことは、すっかり忘れていた。

「美羽殿、ここはわたしに任せて、先に進むがいい! さあ、異形ども! このハートの騎士が相手になるぞ! 王子は姫のものと相場が決まっている! 王子を守りたければ、このわたしを倒してみるがいい!」

 槍の異形も、斧の異形も、美羽からハートの騎士にターゲットを変えたようだった。斧の異形も、既に広間に下りて来ていて、すぐそこまで迫っていた。

「さあ、ここはハートの騎士に任せて。行くわよ、美羽!」

「え? で、でも、あれ、おもちゃの槍だよね? 大丈夫なの? それに、人形は人間を傷つけられないって、確か言ってたよね?」

「ああ、確かに、わたしたち人形は、人間を傷つけることは出来ない。だが、人形相手なら、わたしは誰にも負けはしない! さあ、早くいけ! 異形たちの注意がわたしに向いている内に」

 そうだった、と美羽は改めて思う。

 異形は人形なのだ。元は人間だったけれど、今はハートを奪われた虚ろな人形。魔女の手下。

「さあ、美羽。早く」

 アリンに促され、美羽は頷くと、そろそろと左の階段の方へ移動する。

「オウジサマノ、テキ」

「ハイジョ、スル」

 三体とも、武器を構えて、お互いの隙を窺っている。

 異形たちの関心がハートの騎士に向いている内に、美羽は階段へと急ぐ。音を立てないように気を付けながら。美羽が階段に辿り着いたところで、打ち合いが始まった。

「今の内よ。走って」

 アリンが小声で指示を出すが、言われるまでもなかった。

 振り向く余裕もなく、階段を駆け上がる。

 中央の扉の前まで来たところで、振り返って広間を見下ろす。

 木馬は床の上を水平移動できるようで、意外とすばしこく、小回りも利くようだった。ハートの騎士は木馬を操り、巧みに異形たちをかく乱している。

 美羽が階段の上に到着したことに気が付いたのか、異形の槍を捌きながら、ハートの騎士が美羽をチラリと見上げた。

 美羽は声に出さず、唇の動きだけで、『ありがとう』と伝える。

 声なき声は、ちゃんとハートの騎士に届いたようで、顔は見えないけれど、いや多分見えても分からないけれど、ほんの一瞬だけハートの騎士が笑ったような気がした。

「王子を開放するためには、とても強いハートの力が必要になる! 王子を助けられるかどうかは、どれだけ強く王子を思っているのかにかかっている!」

 そう声援を送るハートの騎士は、もう美羽を見てはいなかった。

 それでも、美羽は力強く頷くと、さっき異形が出てきた扉を開けて、愛と勇気の一歩を踏み出した。



 王子様の元へ一気に駆け抜けたい気持ちを抑えて、美羽はゆっくり慎重に城の中を進んでいった。

 城を守っている異形は、広間に下りてきた三体だけではないのだ。

 物陰に隠れて周囲の様子を窺い、辺りに異形がいないことを確認しながら、アリンの導きの元に城の最上階にあるという部屋を目指す。

 そこは、元々の絵本でも、王子様が捕らわれていた部屋なのだとアリンは言った。絵本の王子様、アリンの王子様が捕らわれていた場所。

 だから、たぶん。美羽の王子様もそこにいるはずだと、アリンは自信満々に断言した。

 言われてみればそんな気もするし、他に当てがあるわけでもない。

 美羽はアリンの言葉を信じて、アリンに導かれるままに、城の中を進んでいった。

 なるべくなら最短ルートを進みたかったが、目当ての通路を異形が行ったり来たりしていて通ることが出来ず、諦めて引き返して別の道を探すしかないこともあった。進んだり戻ったりしている内に、美羽は自分がどこにいるのか分からなくなってきた。今から広間に引き返せと言われても、一人でたどり着ける自信はなかった。

 アリンがいなかったら、早々に迷子になっていたはずだ。

「アリンがいて、よかったよ」

「あら。今頃になって、ようやくわたしのありがたみが分かったのかしら?」

「うん。アリンがいなかったら、きっとここまでたどり着けなかったと思う」

 美羽が素直にそう言うと、アリンは美羽の腕の中で偉そうにふんぞり返った。

「ま。わたしは、何と言っても、元主人公ですからね。誰かが絵本を開くたびに、何度も困難な冒険の果てのハッピーエンド辿り着いてきたの。にわか主人公のあなたとは格が違うのよ」

「………………」

 美羽の中から、素直な感謝の気持ちが霧散していく。

 アリンを褒めるのはほどほどにしておこうと美羽は思った。

「そう言えばさ、ハートの騎士が現れたのって、映画やドラマみたいに物凄くいいタイミングだったけど。もしかして、ずっとあたしたちの後をついてきていて、出てくる機会を窺ってたってこと?」

「もちろんよ。わたしたちは、絵本の登場人物ですもの。見せ場は大切にしないとね。主人公のピンチに颯爽と現れて敵をなぎ倒す、さすがハートの騎士、分かっているわ」

「なぎ倒してはいなかったと思うけど……」

 どうりで、ハートの騎士が現れた時のアリンのセリフがわざとらしかったはずだと、今更のように美羽は思う。

「さ、無駄話はこれくらいにして、先を急ぎましょう。話し声を聞かれて異形に見つかったりしたら、目も当てられないわ」

「うん」

 しばらく、異形の姿を見かけなかったので、少し気を抜いていた。

 もうハートのカードはないのだし、ハートの騎士の手助けも期待できないだろう。異形を避けるために、時には元来た道を引き返し、その場その場でルートを変えている美羽たちを見つけ出すのは至難の業だ。

 美羽はアリンに頷くと、口元を引き締めた。


 台座の上飾られた甲冑がずらりと並ぶ廊下や、王冠を被った人形が描かれた絵画が壁に飾られた廊下を通り抜け、いくつかの階段を上がったり下がったりして、遂にあと一歩のところまでたどり着いた。

 階段を上ると、まずアリンが廊下に異形がいないか偵察に出る。

「やっぱり、いるわね」

「じゃあ、戻ろう」

「いいえ、駄目よ」

 偵察から戻ってきたアリンを美羽が抱えようとすると、アリンはふるふると体を左右に振った。首も若干動いてはいるが、首が回る造りにはなっていないので、首を振ろうとすると体ごと動いてしまうのだ。

「どうして?」

 異形を避けて他の道を探すのは、広間を抜けてからずっと繰り返してきた手順だ。てっきり、今度もそうするのだと思っていたのに、どうしたんだろうと美羽は首を捻る。

「廊下を右に折れると、突き当りにドアがあるの。その前を、異形が陣取っているんだけど」

「うん?」

「もう、察しが悪いわね。つまり、そのドアの向こうに王子様がいるのよ」

「っ!」

 美羽は目を見開いた。

 とうとう、ここまで来たのだ。

 途端に心臓が騒ぎ出す。

 しかし。

「他の道からは、行けないの?」

「ええ。ドアの向こうは一本道。あそこからしか、行けないのよ。まあ、美羽がお城の外の壁を上っていけるっていうなら、話は別だけど」

「そんなこと、出来ないよ」

「だったら、何とかして、あそこを突破するしかないわ。ドアの向こうは螺旋階段になっているの。その最上階の部屋に、王子さまはいる、はずよ」

「はずよ、っていうのが気になるけど。でも、そこが一番、王子様がいる可能性が高いんだもんね。だったら、行くしかない」

 ハートのカードはもうないが、幸いにも、ここまで来るまでの間に、武器を手に入れることが出来た。

 甲冑の並ぶ廊下で、槍を拝借してきたのだ。

 アリンの許可は得たので、泥棒ではない。

 武器は、槍の他にも、剣や斧があったが、一番リーチの長い槍を選んだ。どうせ、どれも扱ったことはないのだ。だったら、少しでも、異形から距離がとれる武器がよかったのだ。

「覚悟は、いいのね?」

「うん。ここまで来て、引き返すつもりはないよ」

 アリンの前に、握った槍をずいと突き出しながら美羽は答えた。

 戦いの意思表示のつもりだった。

「分かったわ。わたしに、考えがあるの。聞くつもりはあるかしら」

「うん」

 自信たっぷりに言うアリンに、美羽は頷く。

 美羽の方には、槍で何とか牽制しながら強引に突き進むというアバウトな考えしかなかったので、ここはぜひともアリンの考えを聞きたいところだ。

「いい? まずは…………」

 アリンの説明に、美羽は耳を傾けた。


「本当にいいんだね? アリン」

「もちろんよ。任せなさい。元主人公の力、見せてあげるわ」

「分かった。じゃあ、行くよ?」

「ええ。いつでもいいわ」

 右手にアリン、左手に槍を持って、美羽は廊下から右の廊下へ出るギリギリの場所に立っていた。

 チャンスは一度だけ。

 失敗は許されない。

 深呼吸を一つして、お腹に力を入れると、美羽は廊下の中央へと躍り出た。

「王子様を助けに来た! そこをどきなさい!」

 半分、ひっくり返った声で、異形を挑発する。

 槍を持つ手は、震えていた。

 それでも、やらなくてはならない。

 王子様のために。

 美羽の王子様を助けるために。

「オウジサマハ、ワタサナイ。テキハ、ハイジョ、スル」

 王子様へと続くドアを守っていた異形が、美羽の声に反応し、剣を振りかぶりながらこちらへ向かって歩いてくる。

 美羽のいる場所からドアまでは、10メートルほどだ。

 異形が、半分ほど進んだところで、アリンが叫んだ」

「美羽。今よ!」

「やあああぁぁぁぁっ!!」

 美羽は駆けだしながら、異形の顔に向かってアリンを投げつける。

 見事命中したアリンは、両手両足を使って異形の顔に張り付いた。

「離さないわよー。さあ、美羽、今のうちに、行くのよー!」

 異形がアリンを引きはがそうともがいている隙に、美羽は槍を右手に持ち替え、異形の左側から槍を思いきり叩きつけた。よろめいて、右の壁にもたれかかる異形。

 美羽は、廊下の左端ギリギリを走り抜け、扉へと向かう。

 異形が守っていたせいか、カギはかかっていなかった。

 ドアを押し開けると、アリンの言った通り、螺旋階段へと繋がっていた。

 そこは城の塔のどれかのようだった。右に円を描く螺旋階段は、外階段になっていて左側には手すりしかなかった。

 明るい日差しに目を眇めながらも、手すりを掴んで階段を駆け上がる。

 後ろは、一度も振り向かなかった。

 美羽の頭にはもう、王子様のことしかなかった。

 アリンのことも、異形のことも忘れて、ひたすら最上階を目指す。

 途中、四つほど塔の中へ通じるドアを通り過ぎると、ようやく次が最上階だった。青い屋根が近づいてくる。

 そして、遂に辿り着いた。

 塔の最上階の部屋のドアの前で、美羽は呼吸を整える。

 上って来たばかりの階段をチラリと見下ろしたが、アリンがうまくやってくれているのか、異形が迫っている気配はなかった。

 そうは言っても、いつ異形がやってくるのか分からないのだ。急いだほうがいいのは分かっていたが、美羽の乙女心がそれを許さなかった。こんな、息も絶え絶えな姿を、王子さまに見られたくない。

 チラチラと階段の下を気にしながら、手の甲で額の汗を拭い、荒い呼吸を繰り返す。

 何とか喋れそうなくらい呼吸が回復してきたところで、美羽は覚悟を決めた。

 乙女心も大事だが、そのせいで異形に追いつかれてしまっては元も子もない。

 ノックをするべきか迷ったが、部屋の中にも異形がいるかもしれないことに気が付き、とりあえず、ドアノブを掴みゆっくりと回してみる。

 ここにもカギはかかっていならしく、ドアノブは美羽の手の動きに合わせて、ゆっくりと右に回転した。

 ほんの少しだけ隙間を開けて、中を覗き込むが、アイボリーの壁紙が見えるだけで、中の様子までは分からない。

 中で、誰かが身じろぐ音がした。

 そして。

「誰か、いるのか?」

 忘れるはずもない、王子様の声だった。

 感極まった美羽は、乙女のたしなみもノックも異形のことも何もかも忘れて、部屋のドアを開け放つ。

「王子様! あたし、約束通り、ちゃんと助けに来ました!」

「君は、…………本当に、来てくれたんだね」

「はい! はい!」

 美羽は槍を取り落とし、両手で口元を覆った。

 熱いものが、次から次へと頬を伝い落ちていく。

 王子さまは、魔女の庭で来ていた燕尾服ではなくて、白地に金と青の飾りのついた礼服を着ていた。

 執事ではなく、王子さまの衣装。

 魔女の執事よりも、こっちの方が似合っていると美羽は思った。

「美羽」

「は、はい」

 名前を呼ばれるだけで、視界がぼやけていく。

 美羽は手の甲で涙を拭いながら、部屋の中央にいる王子様の元へと向かう。

 王子さまが微笑んでいるのが、気配で分かった。

 人形のように整った、王子さまの綺麗な顔。

 涙で滲んでよく見えないのが残念だ。

 でも。これで、王子さまは魔女から解放されるのだ。

 そう。これからは、いつでも王子様の笑顔を見ることが出来る。

 美羽に向けられた、美羽だけの王子様の笑顔を。

「美羽。君を待っていた」

「はい」

「美羽。僕は、君のハートが欲しいんだ。君の、ハートが……」

「……うん。もちろん。…………初めて会った時から、あたしのハートは、あなたのものだよ」

「ありがとう。美羽」

 王子様は左手を美羽の肩に置いた。そっと、優しく。

 そして、もう一方の手は。

 美羽は涙を拭いながら、幸せそうに笑った。

 美羽の短い人生の中で、今が一番幸せだった。

 でも、きっと、これで終わりじゃない。

 これから訪れるはずの。

 これから、美羽と王子様に訪れるはずの更なる幸せを思って、美羽は甘く蕩けた顔で、王子様の手を受け入れた。

 甘く高鳴るその胸に。

 王子様の手が、ゆっくりと美羽の胸の中に埋め込まれていく。

「あぁ…………」

 美羽はうっとりとため息を洩らした。

 痺れるような甘美なさざ波が、体中に広がっていく。

 やがて、美羽の胸から引き抜かれた王子様の手には、綺麗な蛍光ピンクに光り輝くハートが握られていた。

 美羽の、ハートが。

 王子様の唇の両端から顎に向かって、黒い線が走る。

 その黒い線に沿って、カクンとからくり人形のように、王子様の顎が落ちた。

 王子さまは上を向いて、大きく開いたその口に、美羽から取り出したばかりのハートをそっと落とす。

 コクリ、と喉が鳴って口が閉じると、黒い線はもう消えていた。

 元通りの、美しい王子様の顔だ。

「これで、僕と君はひとつになった」

「ハイ。オウジ、サマ……」

 美羽の体が、制服ごと黒く滲んでいく。

「僕を奪いに来る女の子たちから、僕を守ってくれるね?」

「ハイ。オウジサマハ、ダレニモ、ワタサナイ。オウジサマヲ、マモル……。テキハ、ハイジョ、シマス」

「ありがとう。僕の可愛いお人形さん。さあ、行ってらっしゃい。君の働きを、期待しているよ?」

「ハイ。オウジサマヲ、マモル……。テキハ、ハイジョスル…………」

 美羽の体は、完全に、制服を着た女の子の形をした黒い影になっていた。

 そして。

 かつて、美羽だったものは、王子様の手が指示した通り、部屋の外へと出て行く。途中で、取り落とした槍を拾うと、槍も黒い靄に滲み、異形の一部となっていく。

「オウジサマ、マモル……。テキ……ハイジョ…………」

 虚ろな声で繰り返しながら異形が階段を下りていくと、入れ替わりにアリンがやって来た。

「お疲れ様。今回は、無事にハートを届けられたみたいね、王子。魔女の招待ではないし、ハートのカードも持っていないというから、どうなることかと思ったわ。なぜか、途中で手に入れてたみたいだけど」

「ああ、アリン姫。会いたかった。君こそ、お疲れ様。今回は、いろいろイレギュラーだったみたいだね?」

 王子さまは、春の陽だまりのような笑顔を浮かべると、優しくアリンを抱き上げた。

 二体とも、再開の喜びに声が弾んでいる。

「まあ、終わりよければ、すべてよしよ。……わたしも会いたかったわ、わたしの王子。ふふ、これで、次の挑戦者が選ばれるまで、しばらくは一緒にいられるわね」

「前回の挑戦者は、早々に異形に捕まってしまったからね。君に会えるのは本当に久しぶりだ」

「もう、それにしても。あなたにハートを届けてから、次の挑戦者が現れる間までしか一緒にいられないなんて」

「仕方ないさ。それが、魔女様が決めたルールだからね」

「そうね、仕方ないわね。だって、わたしたちは、魔女様に造られた人形、魔女様にハートを与えられた人形、魔女様の忠実な僕、ですものね」

 青い屋根の塔の天辺で、楽しそうな人形たちの笑い声が木魂した。




★★★


 パタリと音を立てて、絵本が閉じられた。

「あなたの選んだ挑戦者は、絵本の王子にハートを食べられてしまったわね?」

「そのようですね」

「あなたの望んだとおりになったのかしら?」

 無表情で魔女の背後に控えていた3号の口元に、ゆっくりと笑みが刻まれた。

「さあ? どうでしょう?」

「そう…………。次からは、あなたの案を採用することにするわ。確かに、最近マンネリ気味だったものね。変化を望むのなら、まずはこちらが動かなければ、ね。私の選んだ挑戦者と、あなたの選んだ挑戦者。二人を競わせたら、一体どうなるのかしら? あなたのお目当ての彼女も、今度こそ、本格的に動いてくれるといいわね?」

「…………何のことでしょう?」

 3号の笑みが固まる。

「いいえ、何でも? さあ、ここはもういいわ。下がりなさい」

「…………はい」

 魔女は手を振って、3号を退出させた。

 3号は戸惑ったそぶりを見せつつも、言われた通りに部屋を出て行く。

 扉が閉まる音を確認すると、魔女は密やかに笑った。

「お人形さんなのに、絵本の魔女に懸想するなんて、いけない子ね、3号? それとも、私の本当の望みを察してのことなのかしら? だとしたら、私の造った人形は、やっぱり優秀ね?」

 魔女は閉じた絵本を、愛おし気に撫でた。


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