4章 絵本の魔女
くしゃんと一つ、可愛いくしゃみをして、美羽は目を覚ました。
肌寒さに震えながら身を起こす。
辺りは薄暗く、霧がかかっていた。
どうして自分はこんなところで寝ていたのだろう?
ぼんやりと記憶をたどり、思い出した。
異形に襲われて森の中を逃げ回り、追い詰められて崖から河へと飛び込んだことを。
美羽は、慌てて自分の体を見下ろした。
スカートから除く足は、いつもと同じ美羽の足だった。手のひらも、手の甲も、ちゃんと人間のそれだった。何度も手を返して、おかしなところがないか確認して、ほっと肩から力を抜く。
「よかった……。ちゃんと、まだ、人間だ。何ともなってない。よかった……」
生きていることよりも、異形にならずに済んだことに安心して涙ぐむ。
ぐすりと啜りあげてから、また一つくしゃみをして、ふと気が付いた。
「あれ? 河に落ちたはずなのに、どうして服が渇いているんだろ?」
霧が出ているせいで肌寒いが、濡れたはずの制服はなぜか乾いていた。制服だけではない。髪の毛もだ。霧のせいで、少しだけしっとりしてはいるが、とても河に落ちたばかりとは思えない。
「ねえ、アリン。あたしたち、河に落ちたんだよね? どうして、服が濡れてないんだろ? …………アリン?」
呼びかけても、アリンからの返事はない。
「アリン。アリン? ねえ、どこにいるの? 返事をしてよ!」
名前を呼びながら辺りを見回すが、何処にも姿は見当たらなかった。
「そんな…………」
どうやら、河に落ちた時にはぐれてしまったようだ。
途端に心細くなってくる。寒さが一層、身に染みて、美羽は体を震わせた。
背中を丸めて、両腕を擦りながら不安そうに瞳を揺らす。
アリンとはぐれて一人ぼっちになってしまったことだけでなく、森の異質な雰囲気に身を竦ませていた。
森の中であることは変わりないけれど、そこは河に落ちる前とはまるで別世界だった。
死んだ森みたいだと美羽は思った。
すべてが枯れ果て、死に絶えた森。
生き物の気配が、まるで感じられなかった。
あんなにいい天気だったのに、空はいつの間にか分厚くて重そうな雲に覆われていて、一片の光も射し込まない。霧のせいで見通しも悪く、四方を見渡しても、お城の姿を確認することは出来なかった。
霧の向こうに、立ち枯れた木々が続いているのが朧に見える。
倒れた枯れ木は苔むしていたが、その苔もどこか作り物めいていた。
物音ひとつしない。
自然そのものが死んでいる。
いや、死んでいるというよりも、最初から造り物の森のようだった。
人形を飾るために造られた森。
アリンたちのような人形ではなくて、お店のショーケースの中に飾られているような、物言わぬ本物の人形を飾るために造られた森。
この森には、ほのぼのとした布製の人形やぬいぐるみではなく、どこか退廃的な雰囲気の漂うビスクドールがふさわしいと思えた。
もしくは。魂のない虚ろな人形、異形たちの森。
そう考えた途端、氷の矢で体を貫かれたような感覚が走り抜け、美羽は自分で自分を強く抱きしめる。
よりにもよって、こんな場所で一人きりになってしまうなんて。
今すぐにここから逃げ出したいのに、どちらへ向かえばいいのかが分からない。
「アリン、どこにいるの? 早く、出てきてよ。どっちに行けばいいのか、分からないよ。ここ、何処なの?」
やたらと自信に満ち溢れたアリンの声を聞きたくて堪らなかった。「こっちよ、美羽」と、美羽が進むべき道を指し示して欲しかった。
アリンがいないことが、こんなにも心細いなんて。
溢れてくる涙を拭っていると、少しだけ霧が晴れてきた。
もしかしたら、お城が見えるかもしれない。
微かな希望を抱いて顔を上げた美羽は、霧の向こうに人影を見つけて、凍り付いた。大きく見開いた目で影を見つめ、それから首を傾げる。
「あれ? 影人間じゃ、ない? 異形じゃない……人間の、女の子?」
ごくりと唾を飲み込んで、美羽は身をかがめて人影を見つめる。
霧の合間に見える姿は、やはり、影人間ではないようだった。美羽と同じ中学の制服を着た、人間の女の子に見える。美羽からは、後ろ姿しか見えない。
もしかして、あの子も魔女のゲームの挑戦者なのだろうか?
だとしたら、仲間になれるだろうか?
女の子が挑戦者なのだとしたら、美羽とは王子様を巡るライバルになるのだが、一人ぼっちの心細さが勝って、そこには目を瞑ることにした。最終的には王子様をかけて争うことになるかもしれないが、それはそれだ。今は、この薄気味の悪いところから出るための、異形と戦うための仲間が欲しかった。これからどうすればいいのか、相談できる相手、話し相手が欲しかった。
あの子も迷っているのだろうか、さっきから一歩も動かない。そのことに親近感を抱き、美羽は勇気を出して立ち上がると、一歩足を踏み出した。
その足元で、パキリと音が鳴る。
枯れ枝を踏み鳴らしてしまったのだ。
ひゅッと喉の奥で息を吸い込んで、立ち止まる。
元からあの女の子に声をかけるつもりではあったが、不意の物音に動揺してしまう。
心臓が、早鐘のように鳴り響いていた。口元を両手で押さえ、冷や汗をかきながら女の子を見つめる。
「?」
だが、しばらく経っても、女の子は何の反応も示さない。美羽に背を向けたまま、身じろぎひとつしないのだ。まるで、人形のように。
美羽はわざと枯れ枝を踏みつけ音を立ててみた。美羽から女の子までは、本の数メートルほどだ。この距離ならば、間違いなく女の子まで音が届いているはずだ。それでも、やはり、女の子は動かない。
少し迷ってから、美羽は思い切って、女の子の前に回り込んだ。
魔女の仕掛けた罠かもしれないと思うと恐ろしかったが、女の子がどうなってしまっているのか、確かめずにはいられなかった。
見計らったかのように、美羽と女の子の周りから霧が晴れていく。
「マネキン……?」
それは、美羽と同じ中学の制服を着た、マネキンだった。
足を肩幅に開いて、剣を持った右手を前に突き出そうとしている、その途中のようだった。腕は伸び切っておらず、肘が丁度、胴の脇にある。
そして。
そして、鳩尾の前あたりにある左手には、カードが握られていた。
「このカード、もしかして…………」
真ん中に、蛍光ピンクのハートが大きく描かれた、トランプのようなカード。
美羽は恐る恐る、マネキンが握りしめているカードに手を伸ばす。そっと掴んで上に引っ張ると、意外とあっさりとカードを引き出すことが出来た。
「これが、ハートのカード……? ハートのカードを持っていたってことは、このマネキンは、ゲームの挑戦者ってこと? でも、どうして、マネキンに……? 異形にやられたわけじゃ、ないってこと?」
考えても、さっぱり分からなかった。
どうして、こんな時にアリンがいないのだろうと唇を噛みしめる。
アリンがいれば、何か教えてもらえたかもしれないのに。
「カードがあれば、異形と戦える、はず。でも、この子は何と戦っていたんだろう? 異形と戦って負けちゃったんなら、自分も異形にされちゃうはずだよね? 異形の他にも、敵がいるってこと?」
ぶつぶつと疑問を呟きながら、女の子の顔を覗き込む。
目鼻立ちのはっきりした、派手なタイプの綺麗な子。後藤加奈と、同じタイプだ。女の子としての自分に、揺るぎない自信を持っている、そんな女の子。
華やかな顔立ちは、くっと唇を引き結び、険しい表情をしている。泣きたいのを我慢しているようにも見える。決意と覚悟が伝わってきた。
何とも言えない思いで、少女の顔を見つめる。
「王子様は、あたしが必ず助けるから。だから、このカード、使わせてもらうね」
真っすぐに少女の目を見つめて、厳かに宣言する。
すると、マネキンの少女の目が、動いたような気がした。
「え?」
気のせいかとも思ったが、一歩近づいて、もう一度、まじまじと少女の目を見つめる
「ひっ」
気のせい、ではなかった。
マネキンの瞳はゆらゆらと揺れたかと思うと、ゆっくりと美羽に焦点を合わせる。
美羽は胸の前でカードを握りしめ、マネキンと見つめ合いながら、ゆっくりと後ろに下がる。カードを取り返されるのではないかと警戒したが、マネキンの少女が動かせるのは、瞳だけのようだった。瞳以外はピクリともしない。カードを抜き取られた左手も、そのままの形で止まっている。
「か、勝手に取って、ごめんなさい。でも、あたし、カードを持ってなくて、それで、その…………。か、必ず、必ず王子様を助けて見せるから、だから、このカードを、あたしに使わせて。お願い」
カードを胸の前に掲げて、必死に言い募った。
マネキンが動けないなら、そのまま逃げてしまえばカードを手に入れることは出来るけれど、それでは盗んだようで気が引ける。
何とか許しをもらえないだろうかとマネキンの少女を見つめていると、微かに声が聞こえてきた。
「え? 何? 何て言っているの?」
声を聞き取ろうと、もう一度マネキンに近づく。
「キヲ、ツケテ……。ニ、ンギョウ、タチハ、マジョ、テシタ……。オウジ……サマハ、ニ…………ノ。ダマ、サレ……ナイ……デ…………」
「え? 人形たちは、魔女の手下? 王子様は、何? どういうこと? どういう意味?」
意味が分からず問い返すが、声はそこで終わってしまった。
いくら呼び掛けても、答えは返ってこない。
代わりに、人形の瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
「泣いて……るの? ねえ、今の、どういう意味? 誰にやられたの? ねえ? ねえ!」
マネキンの肩を掴んで揺さぶってみるが、人形の冷たく固い感触が返ってくるだけで、返事はない。
「人形たちは、魔女の手下って、どういうことだろう? 人形って、異形のことを言ってるんだよね? アリンたちのことを言ってるわけじゃないよね……?」
ふと疑念が胸に浮かんだ。
マネキンから手を離し、これまで出会った人形たちのことを思い返してみる。
テディベア、日本人形、そしてアリン。そう言えば、テディベアは、嘘つきがいると言っていなかっただろうか。その嘘つきとは、もしかして?
いや、でも。アリンは、性格に問題はあるような気はするが、不審なところはなかったように思う。ちゃんと、お城への道へ案内してくれていたし、異形と遭遇した時も、役に立ったかどうかは微妙だが、アドバイスはしてくれた。それは、アリンなりの精一杯のアドバイスで、美羽を危険に陥れるものではなかったように思う。
他に出会った人形たちは、タマゴーズに黄色いワニと白いサル、フェルトの妖精。それから、村娘。村娘は、確かに敵と言えば敵だが、魔女の手下とは思えない。振り回していた斧も厚紙だった。あれでは、当たったところで怪我なんてしないし、大して痛くもないだろう。
異形は、確かにおぞましく恐ろしかった。いかにも、魔女の放った刺客といった感じだ。
それに比べると、人形たちはみな、どこか呑気で長閑だ。ただの絵本の世界の住人。それ以上でも以下でもない。
思い返せば思い返すほど、アリンたちが魔女の手下だとは思えない。
「やっぱり、異形のことを言ってるのかな。異形は、魔女の造った人形だってアリンが言ってたし。それとも、まだ他にも人形がいるってことなのかな。あの子は、そいつにやられちゃったの?」
「半分だけ、正解よ」
「だ、誰!?」
突然、背後から声をかけられた。高く澄んだ、女の子の声。
驚いて振り向くと、赤いローブを着た女の子の人形が、枯れ木の枝に腰かけてじっと美羽を見つめていた。
赤いローブに、赤い尖がり帽子。豊かな焦げ茶色の巻き毛。身長は、美羽の腰の下あたりほどだろうか。華やかな顔立ちの、美しいビスクドール。後藤加奈や、マネキンの少女を思わせるような、華のある美少女。
「あなたは、誰? 一体、いつの間に……」
「私は、絵本の魔女」
「絵本の魔女?」
「そうよ。この絵本の世界に元からいた魔女。アリン姫から王子様とお城を奪い、みんなを人形にした悪い魔女。それが私」
そう言って魔女は、フフッと笑った。仄暗く妖しい魔女の笑み。
異形とも、アリンたちとも違う存在のように思えた。
異形たちのように虚ろではない。そうかと言って、アリンたちとも相いれない存在。人形たちはみな、あの村娘でさえも、どこか日向の匂いがした。
けれど、この赤いローブの魔女からは、日向の匂いは一切しない。この薄暗い霧の森が、魔女には似合っていた。
「あなたが、絵本の中の魔女なら、どうしてあなたも人形なの? 自分で自分を人形にしたの?」
警戒しながら、美羽は尋ねた。
アリンは、悪い魔女が魔法でみんなを人形にしたと言っていた。だったら、魔法をかけた張本人である魔女が人形であるはずがない。
「いいえ。私を人形にしたのは“人形の魔女”。この絵本の世界には、人形しかいない。人間は、魔女に招かれた挑戦者だけ。人形の魔女は名前の通り、人形が大好きなの」
「じゃあ、あの子を人形にしたのも?」
「いいえ。あの子を人形にしたのは、私」
「どうして? どうして、そんなことをしたの? あなたは、魔女の手下なの?」
「いいえ。私は“人形の魔女”の手下ではないわ」
「その“人形の魔女”って、絵本を乗っ取った魔女のこと…………?」
「そうよ」
「…………魔女の手下じゃないなら、どうして? 何のために?」
絵本の魔女と名乗ったビスクドールは、じっと美羽を見つめながら、瞬きを一つした。
それを見て、美羽はアリンと絵本の魔女の違いに気が付いた。
アリンは、刺繍された笑顔から表情が動くことはなかった。声の調子や身振りで感情は伝わってくるけれど、刺繍された目や口が動くことはなかった。喋っている時も、口は笑った形のままで動かない。
なのに。魔女は瞬きをした。喋っている間、唇は滑らかに動いていた。唇の形も、ちゃんと発音の通りに動いていたように思う。
魔女は美羽から視線を逸らしてから、その愛らしい唇を動かした。
それは、美羽に答えているというよりも、独白のようだった。
「王子のことが好きだから、だから、どうしても。やっぱり、それだけは許すことが出来なかった。たとえ、私が王子に選ばれることがないとしても、それでも。王子を愛することだけが、私の存在理由。王子に焦がれ、それがゆえに決して王子に選ばれることはない。それが、私。でも、それでも。いいえ、だからこそ。どうしても、許すことが出来なかった。…………そうなることを望んで、この子に声をかけたのに、最後の最後で、私は……。私は、この子を裏切った。私の王子を守るために、この子に魔法をかけた。この子を、人形にした」
絵本の魔女は、枯れ木の上でどこか遠くを見つめている。
もしかしたら、その方角に王子様の心が捕らわれているお城があるのだろうか。
美羽は魔女の視線を追ってみたが、霧が立ち込めるだけで、何も見つけることは出来なかった。
魔女の言っている王子様とは、絵本の登場人物、アリンの王子様のことなのだろう。それは、何となく美羽にも分かった。つまり、マネキンにされた女の子が、絵本の王子様を傷つけようとしたから、守るために女の子を人形にした?
そういう意味に聞こえる。でも、何故、絵本の王子様を挑戦者が傷つけようとしたのだろう? 一体、挑戦者の女の子と絵本の王子様の間で、何があったのか。その時、アリンもそこにいたのだろうか?
疑問がぐるぐると渦を巻いているが、どれも問いにすることは出来なかった。
絵本の魔女は、美羽のことなんか忘れたかのように遠くを見つめている。何となく、声をかけづらい雰囲気だった。
魔女の足が、木の上でユラユラと揺れている。まるで、人間のように自然な動きだ。
「私は、許せなかった。人形の魔女にこの世界が利用されることが。何より、……が利用されることが。どんなに望んでも、私が決して手に入れることは出来ないもの。それなのに、それなのに…………。だから、壊してしまおうと思った。」
そう言って魔女は顔を美羽の方に向けた。だが、その視線は美羽ではなく、その背後にいるマネキンの女の子に向けられているようだった。
「その子も、あなたのように異形に追われてアリン姫とはぐれてしまったの。そして、私と出会った。私はこの子に、この世界に関するちょっとしたヒントを与えた。頭がよくて、カンのいい子だった。だから、ほんの少しのヒントだけで、この世界の真実に辿り着けた。あとは、そうね。真実の愛の力、のおかげなのかしら? でも、運は悪かったみたい。味方だったはずの魔女に、最後の最後で裏切られてしまったのだから」
絵本の魔女は淡々と語った。
何かを、悔いているように、美羽には感じられた。
絵本の魔女は、最初から女の子を裏切るつもりではなくて、女の子をマネキンにしてしまったことを、後悔している。そういうことなのだろうか?
絵本の魔女が女の子を裏切ったのは、女の子が絵本の王子様を傷つけようとしたからで、絵本の王子様を守るためには、そうするしかなかったということなのだろうか。
でも、それでは、何故。何故、挑戦者の女の子は、絵本の王子様を傷つけようとしたのだろうか?
絵本の魔女は、肝心なことは何も話さない。
分からないことばかりだ。
「絵本の世界の真実って、一体、何なの?」
緊張で掠れた声で美羽は尋ねる。
何となく、そこに理由があるのかと思ったのだ。
絵本の魔女は、今度はちゃんと美羽の目を見て答えた。
「それを、私の口から伝えることは出来ない」
答えにはなっていなかったが。
「どうして?」
「人形の魔女が、それを許さないから。私よりも、人形の魔女の方が、力が強い。この絵本の世界で、私の出来ることは限られている。答えは、あなたが自分で見つけなければならない」
絵本の魔女が回りくどい話し方をするのは、勿体ぶっているわけでも、美羽を惑わそうとしているわけでもなく、人形の魔女のせいだということなのだろうか。
赤いローブの魔女は、スルリと木から飛び降りた。
物音一つさせず、着地する。猫のようにしなやかな動きだった。
「まだ、もう少し時間がある。あなたに、魔女の話をしてあげる」
飛び降りたばかりの木の幹にもたれて、美羽の返事を待つことなく、絵本の魔女は勝手に語り始めた。
それは、魔女になってしまった女の子の話だった。
――町はずれの洋館に、人形作りが好きな女の子が住んでいました。女の子に人形作りを教えてくれたのは、女の子のおばさんでした。
女の子が中学校に入って少しした頃に、おばあさんが亡くなりました。女の子は悲しみに沈み込みました。そんな女の子を慰めてくれたのは、女の子が毎日元気に学校に通えるようにとおばあさんが遺してくれた、おばあさんお手製の人形のついたキーホルダーでした。女の子は人形のキーホルダーをカバンにつけると、天国のおばあさんを安心させるために、毎日元気に学校に通いました。
女の子が二年生に進級した時に、クラス替えがありました。女の子は、みんなから王子様と呼ばれる男の子と同じクラスになり、席も隣同士になりました。
ある日。授業中に、女の子は消しゴムを落としてしまいました。隣の席の王子様は、消しゴムを拾って、女の子に手渡してくれました。女の子は、恥ずかしそうにお礼を言って俯きました。
たった、それだけのこと。
それだけのことでした。
それだけのことで、女の子の世界は一変しました。
次の日から、クラスの女子生徒は、誰も女の子に話しかけなくなりました。遠巻きに、ヒソヒソと囁き合うばかりです。戸惑う女の子を、勝ち誇ったように見つめる瞳がありました。クラスの女子生徒の中心的な存在である、華やかで勝気な顔立ちの少女。すべては、女王様のようにクラスに君臨する女子生徒の差し金でした。
いつの間にか、女の子は“魔女”と呼ばれて、陰口を叩かれるようになりました。あの子と話すと、人形にされてしまう。そんなことが、囁かれていました。
クラスを見回しても、女の子の味方になってくれる人は誰もいませんでした。いたずらに獲物を弄ぶ捕食動物の目で、嘲るような視線を送ってくるもの。関わり合いになることを恐れて、目を逸らすもの。女王様は教師に取り入るのが上手で、担任の若い男性教師は、まるで女の子の話を聞いてくれませんでした。
女の子のクラスは、女王様の支配下に置かれ、女の子の味方をしてくれるものは、誰もいませんでした。
それでも、女の子は学校に通い続けました。カバンに取り付けた、おばあさんの形見のキーホルダーだけを心の支えにして。
その内に、クラスの中でやたらと物がなくなるようになりました。それはすべて、女の子のせいにされました。女の子が盗んだところを見た。女の子が壊したところを見た。女の子が焼却炉に捨てているのを見た。クラスメートたちは、口裏を揃えてそう言います。すべて、濡れ衣でした。女王様が、そう証言するようにと命じたのです。女の子はやってもいないことに対して、みんなの前で謝罪するように強要されました。
そうして、ある日。女王様は、女の子が大事そうにカバンに取り付けたキーホルダーの人形を握りしめていることに気が付きました。女王様は取り巻きに命じて、女の子からキーホルダーを取り上げました。女の子は、返して欲しいと泣いて縋りましたが、女王様は取り合いませんでした。女の子が懇願する様を散々楽しんだ挙句、女の子の見ている前で、キーホルダーをトイレに捨てて流してしまったのです。女の子は慌てて便器に取りすがりましたが、運の悪いことにキーホルダーは詰まることなく、下水の中へと吸い込まれて行ってしまいました。
トイレの床に座り込んで泣きじゃくる女の子に嘲笑を浴びせると、女王様と取り巻きの女の子たちは去っていきました。
一人取り残された女の子は、しばらく泣きじゃくっていましたが、やがてフラリと立ち上がります。
「おばあちゃんに、謝らなきゃ……」
そう呟いて、フラフラと校舎へと彷徨い出た女の子が向かった先は、校舎の四階でした。「おばあちゃんに、謝らなきゃ」と呟きながら、ベランダへと出ると、女の子はそのまま飛び降りてしまいました。
次に生まれ変わったら、今度は人形になりたい。
最後にそう願った女の子は、地面に激突する直前に、光を見ました。
そして。
そして、人形になりたいと願った女の子は、魔女になってしまいました。
「偽りの魔女は狩られるのが定め。でも、本物の魔女は、むざむざと人間に狩られたりはしない。女の子は魔女になって、狩る立場になったのよ。この絵本は、ハートの狩場」
「それ、は、本当、なの? そん……な、どう……して、どうして、そんなことが、あなたに分かるの? 本当は、絵本を乗っ取った魔女の手下なんじゃないの? それとも、魔女同士、仲間ってこと?」
「いいえ」
絵本の魔女は、薄っすらと笑った。
「魔女には、魔女のことが分かるのよ。人形の魔女が絵本に魔法をかけた時に、私も光を見た。魔女へと至る真理の光。私は、ただの絵本の登場人物から、本物の魔女になった」
美羽は呆然と、絵本の魔女を見つめる。
真理の光と言うのは、よく分からない。
でも、何となく分かったことはある。
きっと、この絵本を書いたのは、絵本を乗っ取った“人形の魔女”なのだ。そして、女の子をいじめた女王様は、絵本の魔女にそっくりの顔をしていたのではないだろうか。
絵本の魔女。マネキンの女の子。後藤加奈。
みんな、華やかで派手な顔立ちの美少女だ。
対して、人形の魔女はどちらかと言えば清楚なタイプの美少女だった。女王様とは、真逆のタイプの美少女。おそらく、女王様はそれが気に入らなかったのだろう。自分とはタイプが違う美少女が、憧れの王子様と接近したことが許せなかったのだ。もしかしたら、王子さまは人形の魔女の方に好意を抱いていたのかもしれない。そのことに気が付いたから、女王様は人形の魔女のことを排除しようとしたのではないかと美羽は考えた。
そして。今までに選ばれてきた他の挑戦者たちも、女王様と似た華やかな顔立ちをしていたはずだ。
つまり、この絵本は、復讐のための装置なのだ。
自分をいじめた女王様と似たタイプの女の子たちに、復讐するための装置。
王子様を助けるために奮闘する女の子たちを嘲笑い、最後には人形にしてしまうための装置。
どんなに頑張っても、王子様を助けることは出来ない。最後には、結局魔女によって人形にされてしまう。だって、人形の魔女は、この絵本の支配者なのだから。
ここは、ハートの狩場なのだから。
背筋を冷たいものがぞわぞわと駆け抜けていった。
美羽は首を振って嫌な考えを振り払った。
だって、王子様は美羽に助けて欲しいと言ったのだ。それは、きっと、魔女に選ばれた女の子たちでは、王子様を助けることが出来ないから。だから、王子様は美羽に助けを求めたのだ。美羽ならば、王子様を助けられると思ったから。
だから、きっと、自分は大丈夫。
魔女に負けたりはしない。
きっと、王子様の期待に応えて見せる。
「あなたがどんな選択をしても、今度こそ私は手を出さない。あなたの愛が真実の愛であることを、あなたが未来ある選択をすることを、祈っている」
「え? あ! ま、待って! まだ、聞きたいことが……」
霧が濃く立ち込め、魔女の姿を覆い隠していく。
まとわりつく霧に邪魔されて、何も見通せない。
視界が真っ白に染まったと思ったら、次の瞬間には、明るい森の中に立っていた。
小鳥のさえずりが聞こえ、木漏れ日が射し込む、明るい森。
少し離れた場所からは、河の流れる音が聞こえてくる。
白昼夢でも観ていたかのようだった。
絵本の魔女も、マネキンの女の子も、跡形もなく消えうせていた。
最初から、存在していなかったかのように。
★★★
「漸くのお出ましね、絵本の魔女。今回は少々、イレギュラーなケースだし、夢を見てみたくなったのかしら? でも、あんまり頭の回る子じゃなさそうだし、あなたの望む未来は訪れそうもないわね?」
「魔女同士は、その、お互いが魔女になる前のことまで、通じ合っているのですか?」
絵本に向かって語り掛けている魔女に、3号が躊躇いがちに質問を投げかけた。
魔女は意外そうに眉を上げたが、振り返ることはせずに、ひっそりと答える。
「いいえ。真理の光を介して通じ合っているのは、魔女になってからのことだけ。でも、私と絵本の魔女は、お互いがまだ、魔女になる前からの付き合いですもの。本来、魔女は他の魔女に関心を持たない。真理の光を介して、お互いが考えや行動を把握してはいるけれど、決して干渉しあったりしない。でも、私とあの子は別。…………ふふ、珍しいわね? あなたが魔女のことに興味を持つなんて。そんな質問をするのは、初めてじゃないかしら。どういう風の吹き回し? 3号?」
3号の言動を疑っているともとれる魔女の言葉だが、3号は特に動揺することもなく、いつも通りの涼しい顔を崩さなかった。
「いえ、特に他意はありません。ふと疑問に思ったものですから」
「そう……」
本気で疑っているわけではないのか、魔女もそれ以上追及しようとはしない。
口元に薄い笑みを浮かべ、細くしなやかな指で、絵本をなぞっているだけだ。
ハイキングにでも行きたくなるような長閑な雰囲気の森の中で、ブレザーの制服の女の子が呆然と立ち尽くしている。
さっきまで、そのページには霧が煙る枯れ木の森が描かれていた。赤いローブの魔女と、ブレザーの女の子が対峙していた。
魔女がページをめくったわけではない。
なのに、絵本の中に立ち込めていたはずの霧は、すっかり晴れ上がっていた。
「誰かを当てにしているようでは、望みは叶わないわよ? 欲しいものは、ちゃんと自分の手で掴みなさい? 絵本の魔女……」
3号は、魔女の独白に、今度は口を挟んだりはしなかった。
無言のまま、魔女の背後に控えている。涼やかに整った表情からは、何の感情も読み取れない。
ただ、その視線は。
魔女ではなく、魔女の肩越し、絵本の中に注がれていた。