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3章 虚ろな影

 王子様が待っている。

 王子様が、あたしを待ってくれている。

 だから、絶対に諦めない。

 諦めるなんて、出来ない。

 だって。

 だって、こんなに好きなのに。

 諦めるなんて、出来ない。

 必ず、あたしが助けてみせる。

 そして、そして。

 あたしは、王子様と――。



 泉越しとはいえ、王子様の姿を見たことで、美羽は俄然やる気を取り戻していた。

 既に結構歩いているはずなのに、その足取りは軽い。

 今は、体中に力が満ち溢れていた。

「愛の力は偉大ねぇ」

「そ、そんな、愛の力なんて……」

 アリンがからかっても、頬を染めて照れるだけで、反論はない。

「お城に行くには、あの大きい河を渡らないといけないんだよね? 橋とかなかったと思ったんだけど、どうやって渡るの? どこかで船とか借りたりできるの?」

「ああ、あの河には大きな魚が住んでいるの。何とか呼び出して、背中に乗せてもらうのよ」

「さ、さささささ、魚!?」

 予想外の答えに思わず怯む。ここは絵本の世界なのだし、そう考えると魚の背に乗って移動するというのは、そんなに意外な展開でもない。でもないが、ただ単純に、美羽は魚が苦手だった。

「さ、魚。魚かー。ウロコがぬめぬめしてたりしない? あたしにも乗れるの? 途中で落とされちゃったりしない? てゆーか、どこかに船とかが隠されたりはしてないの?」

「まあ、魚と言っても、今は人形なのだし。水の中にいるから湿ってはいたけれど、別にぬめぬめはしていなかったわよ。それに、今までの挑戦者さんたちも、みんなこの方法で向こう側に渡れたから、あなたも大丈夫なはずよ。それから、船だけど。もしかしたら、どこかに隠されている船があるかもしれないけれど、わたしは場所を知らないわね。あるのかないのか分からないものに、時間を割く余裕はないのではないかしら?」

 及び腰の美羽を、アリンはバッサリと切り捨てた。

「う、うう。分かったよ。人形、人形なら、大丈夫か……。そ、それで、どうやって呼び出すの?」

「この先に、魚の大好物の実が生る木があるの。その実をもいで、それを餌におびき出すのよ」

「ふうん? 魚なのに、木の実が好きなんだ?」

「そうよ」

 現実でも木の実を好む魚がいるのか、それとも絵本の世界ならではのことなのか、ふと疑問には思ったが、美羽は追及することなく話を終わらせた。

 魚は嫌いだし、さして興味があるわけではない。

「さて。ここまでは、順調に来ているようね。このまま無事に実を手に入れられれば、とりあえず向こう側には渡れるわ。まあ、渡ってからが本番なのだけれどね」

「う、うん。分かってる」

 美羽は顔を引き締めた。

 魚が苦手などと言っている場合ではないのだ。

「近くに異形はいないみたいだし、あとは、あの村娘さえ出てこなければ、問題なさそうね」

「村娘?」

 村娘なんていかにも害がなさそうなのに、警戒しているアリンを不思議に思って腕の中を見下ろすと、答えを知る前に答えのほうからやって来た。

「きえぇぇえええぇぇぇえ!」

「きゃっ!?」

 奇声を上げながら、何かが茂みから飛び出してくる。

 それは、アリンと同じ膝下サイズの布製の人形だった。地味な色のエプロンドレスを着ている。なぜか、斧を持っていた。

「王子様の敵! 王子様の敵! 王子様は、渡さない! 王子様は、わたしが助ける! 邪魔者は、排除する!」

 喚きながら斧を振り回して向かってくる村娘を、ステップでかわす。

「え、ええ!? ちょっと、アリン、何なの、この子?」

「あー、その子はねぇ。元々のお話でも、王子様に憧れていたのよねぇ。でも、その頃は、王子様を助けるために、わたしに協力してくれる健気ないい子だったんだけれど。絵本を乗っ取られてから、おかしくなっちゃったのよね」

「じゃあ、この子の言ってる王子様は、絵本の世界の王子様のこと? つまり、アリン。あんたを狙ってるの?」

 だったら、アリンを差し出せば、解決する話なのではと思い始めたところで、あっさりと否定された。

「ああ。狙われているのは、わたしじゃなくてあなたよ、美羽」

「なんで!?」

 斧を振り回してちょこまかと動き回る村娘を交わしながらも、美羽は腕の中のアリンと会話を続ける。

「どうやら、泉の精霊のところで、外からやって来た王子様の姿を見て一目惚れしちゃったらしいのよ。つまりは、美羽。あなたのライバルと言うことよ」

「ラ、ライバル!? いや、ライバルはまあ、いいとしても。それが、どうしてあたしに襲い掛かってくるの? 王子様の敵とか言ってるし! なんとか、協力してもらえたりしないの? アリンには協力してくれたんでしょ?」

「うーん、そうねぇ。きっと、わたしの王子様に対してはただの憧れだったけど、あなたたちの王子様に対しては、本気で恋をしてしまったからじゃないかしら。本気の恋である以上、ライバルは蹴落とすのみってことなのよ、たぶん。王子様の敵がどういう意味なのかはわたしにも分からないわ。昔は素直ないい子だったんだけど、今は話が通じる感じではないしねぇ。まあ、逃げるしかないわね」

「なっ!? に、逃げるって言ったって。くぅぅ、こうなったら、何とか説得してみせる。あたしのハートの力で! 村娘、聞いて!」

 走って逃げようかとは美羽も思ったのだが、村娘は意外にすばしこくて、振り切れるかは微妙なところだ。それに、背中を向けたら斧を投げつけられそうで少し怖かった。迷った末、美羽は村娘を説得することにした。ステップを踏みながら村娘に話しかける。だが、村娘には美羽の声が聞こえていないのか、相変わらず一心不乱に斧を振り回して突進してくる。

「王子様の敵ー! 王子様の敵ー! 敵は排除ー!」

 美羽は構わず話を続けることにした。

「村娘。お願いだから、あたしの話を聞いて。王子様を助けるためには、ハートの力が必要なの。本当に心から王子様を好きな女の子のハートだけが、王子様を助けることが出来る。人形のあなたでは、王子様を助けることは出来ないの。だから、だから、あたしに協力して。必ず、あたしが王子様を助けるから。王子様のために、力を貸して」

 ピタリ、と斧の動きが止まった。

 斧を振りかぶったまま、真っすぐに美羽を見上げる。

 だが、美羽の言葉が胸に届いた、というわけではなさそうだった。布で出来た人形から、鬼気迫るオーラが伝わってくる。正直、お茶会のテーブルにいた日本人形よりも怖かった。だけど、王子様を助けるためには、ここで怯んではいられないのだ。美羽は、腰から下にぐっと力を入れて、村娘と向き合った。

 村娘は、その場で美羽を見上げたまま、体を左右にゆらゆらと揺らし始める。

「わたしには、王子様を助けることが、出来ない? 王子様を助けることが出来ないですって? ふ、ふふ。ふふふふふふ。馬鹿にしないでちょうだい! わたしにだって、わたしにだってハートはあるのよ! わたしだって、わたしだって王子様を助けてあげられる! さあ、見るがいいわ!」

 村娘は斧を地面に放り投げると、両手を胸に当て、バリバリと音をさせてプロンドレスの胸当ての部分を剥がす。どうやら、マジックテープで接着されていたようだ。

 ぺろりと剥がれた前掛けの下は空洞になっていて、中に何か入っているようだった。村娘は自分の胸に手を突っ込み、中に入っていたものを取り出すと、美羽の前に威勢よく掲げる。

「見なさい。これが、わたしのハートよ!」

 村娘が天へと掲げたのは、ラメラメしい蛍光ピンクの布で出来たハートのクッションだった。

「え? う、うん。いや、確かにハートだけどさ……」

 戸惑う美羽にはお構いなしに、村娘はハートを掲げて恍惚としている。

「この美しい輝き。わたしの心が美しいからね。やっぱり、王子様を救うのは、わたしのこの美しいハート以外にあり得ないわ。つまり、おまえの薄汚いハートなんて、何の役にも立たないってことなのよ。おまえには王子様を助けられない。だって、魔女が選んだ挑戦者たちは、みんなみんな失敗しちゃったじゃない? 王子様は、わたしのことを待っているのよ。あなたじゃなくて、美しいハートを持つこのわたしを! さあ、分かったら、大人しく排除されなさい!」

「………………」

 薄汚いハート呼ばわりされてムッとした美羽は、無言で足を進めて村娘からハートを取り上げた。

「こんな作り物のハートで、王子様を助けられるわけないでしょ。それに、あたしは魔女じゃなくて、王子様に選ばれたのよ。他の女の子たちとは違う!」

 そのまま、出来るだけ遠くへ放り投げる。

 小さくて軽いため、あまり遠くまでは飛ばなかったが、うまいこと木の枝先に引っかかってくれた。美羽なら背伸びすれば何とか届きそうな高さだが、膝下サイズの村娘だと木に登らないと取れないだろう。これで、少しは時間が稼げそうだった。

「あ、ああー! なんてことするのよ! わたしの、わたしのハートが! あれがないと、あれがないと王子様を助けられないわ! ハート、わたしのハート!」

 狙い通り、村娘はハートを追って草むらの中へ分け入って行った。背が小さいため、ガサガサと音は聞こえるが、姿はもう見えない。

「ふー。これで、解決だね」

「なかなか、酷いことするわね」

「う。だ、だって! あたしのハートは薄汚いとか言うから」

「まあ、いいけど。じゃ、今のうちに行きましょう」

「うん。あ、ちょっと、待って」

 頷いた拍子に地面に落ちている斧に気が付いた。もしかしたら、異形と戦うための武器になるかも考えて拾い上げ、脱力する。

「な、何コレ……」

 斧は厚紙で出来ていた。

 綺麗に塗装されているおかげで、遠目には本物に見えたけれど、異形用の武器としては使えそうもない。

 こんなものを怖がっていたのかと、力なく斧を投げ捨てる。

「ん?」

 何か手ごたえがあったような気がして、美羽は斧を投げ捨てた草むらの中へと視線を移した。

「ひっ」

 アリンをきつく抱きしめて、一歩後ろへと下がる。

 草むらの中には、大きな芋虫が横たわっていた。

 芋虫は、斧が当たったことに気付いていないのか、ピクリとも動かない。

 身長が一メートルほどもある巨大芋虫だが、動かなければただのぬいぐるみにしか見えない。黄緑色の肌触りがよさそうな布で出来ている。

 美羽はまた一歩後ろへ下がる。

 足が震えていた。

「ああ、あれ。触ると気持ちがいいらしいわよ? 抱き枕にしたいって、言っていた子もいたわね。あなたも触ってみたら、美羽? 癒されるらしいわよ?」

「さ、触る? 抱き……枕? 癒、される? …………正気?」

 歯の根が合わない。ぞわぞわと足元から冷気が這いあがってきて、全身が鳥肌立つ。

 また、一歩後ろへ下がった。

「もしかして、芋虫が苦手なのかしら? 怖いなら、いつまでも見つめ合ってないで、走って逃げたらどうかしら?」

「べ、別に、見つめ合ってるわけじゃないし! それに、そうできるくらいなら、とっくにそうしてるよ!」

 気持ちが悪いからなるべく見たくないのに、目を逸らしたらその隙に襲い掛かられそうな気がして、怖くて目が逸らせないのだ。

 見たくないのに目が逸らせないジレンマ。

 震える足で、一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。

 芋虫が急に動き出したりしないか、様子を窺いながら。

 一歩。また一歩。

 十分、距離を取ったところで、美羽は芋虫に背を向けて一気に駆けだした。


「美羽。お疲れのところ悪いのだけれど。魚にあげる木の実の場所、とっくに通り過ぎてしまったのだけれど」

「ええ!? そ、そんなぁ。せっかく、遠ざかったのに、また、近づかないと、いけないの?」

 走り疲れて地面に座り込み荒い息をしていると、アリンが無常なことを言ってきた。美羽は、ここまで走ってきた労力が無駄になったことよりも、芋虫に近づかなければならないことの方を嘆いた。

「戻らなくてはいけないのは確かだけれど、実のある場所は、あの芋虫からは十分離れているわよ」

「それでも、ほんの少しでも、近づきたく、ないんだよー!」

「もーう、王子様を助けるのでしょう? 愛に試練はつきものなのよ。ほら、立って! 行くわよ」

「う、うぅ……。こんな愛の試練、いやだよ……」

 手の甲で汗と涙を拭いながら立ち上がると、虚ろな声が聞こえてきた。

「ミツ……ケタ…………」

 聞き覚えのある、虚ろな声。

 背筋を冷たいものが走り抜けた。凍り付きながらも、何とか視線だけを声のした方へ向ける。

 枝を掻き分けて、黒い影人間が小道へと出てくるのが見えた。

 異形だ。

 どうして、こんなに近くに来るまで、気が付かなかったのだろう。

 喉がカラカラに干上がっていく。

 異形から美羽まで、僅か数メートルしかない。

「ハートヲ、チョーダイ?」

 異形が美羽に向かって片手を伸ばしてくる。

「逃げるのよ!」

 アリンの声を合図に、美羽は駆けだした。

「ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ……」

 声は、ぴったりとどこまでもついてくる。

 振り切れそうもなかった。

 ついさっき、全力疾走をしたばかりなのだ。大して進まないうちに、息が上がり、脇腹が痛くなってくる。心臓は、早鐘のように鳴り響いていた。息が苦しい。体中が熱い。灰も心臓も破れそうだった。それでも、止まるわけにはいかない。

 捕まったら、自分もあの魂の感じられない虚ろな生き物にされてしまうのだ。そもそも、生き物かどうかさえ怪しい、化け物としか言いようのない何かに。

 異形は、魔女の造った人形だとアリンは言った。美羽の中学でも、魔女の仕掛けたゲームに負けた女の子は、人形にされて飾られてしまうと噂されていた。

 店で売っているような綺麗で可愛い人形にされて棚に飾られるだけなら、あまりの苦しさに挫けてしまったかもしれない。

 でも、あれは。あんなものは、人形ではない。

 あんなものには、なりたくない。絶対に。

 生理的に、本能的に、あれだけはどうしても受け入れなれない。あんなものになるくらいなら、死んだ方がまだマシだった。

 あのおぞましい化け物に成り下がるのだけは、絶対に、何があっても嫌だった。

 だから。

 だから、走った。

 それでも、このまま小道をただ走っていたら、いずれは追いつかれてしまうだろう。

 焦った美羽は小道を外れ、茂みの中へと足を踏み入れる。

 兎に角、少しでも身を隠したい一心だった。

 歩きやすいようにある程度整備されている小道と違って、茂みの中は足場も視界も悪い。当然、スピードは落ちる。だが、もうこの際だった。どのみち、今までと同じペースを保つのは体の方が限界だった。

 自分が、何処に向かっているのか分からないまま、枝を掻き分け、時に身をかがめ、兎に角足を動かす。

 どっちへ進めばいいのか、頭で考えている余裕はなかった。

 木の根が這っていないところ。大きな石がないところ。枝が張り出しすぎていないところ。体が勝手に、通れそうなところを選んでいく。

 腕の中でアリンが騒いでいるような気がしたけれど、よく聞こえなかった。

 なのに。アリンの声は聞こえないのに。

 どうしてか、異形の声だけはちゃんと聞こえてくるのだ。

「ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ、チョーダイ……。ハート、ハートヲ…………」

 嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 あたしのハートは、あたしのもの。そして、王子様のもの。王子様を助けるために、必要なもの。誰にも、渡せない。

 あんな化け物に取られるなんて、絶対に嫌だ。


 王子様。

 王子様、お願い、あたしを守って。

 あたしを、王子様のところまで、導いて。


 王子様の綺麗な顔が脳裏に浮かぶ。

 魔女に洋館の庭で、王子様はいつも、ちゃんと美羽を見つけてくれた。美羽が庭を囲う柵の前に立つと直ぐに気が付いて、そして、必ず微笑みかけてくれた。

 美羽に。

 魔女ではなくて、美羽に。

 きっと、後藤加奈だって、王子様の笑顔を見たことはないはずだ。

 王子様の笑顔を見たことがあるのは、きっと美羽だけ。王子様は、美羽だけに微笑みかけてくれる。そう、美羽は信じていた。

 だって、だから。

 昨日の夕方、王子様は美羽に助けを求めてくれたのだ。

 後藤加奈ではなく、美羽に。

 魔女の選んだ女の子ではなく、美羽に助けて欲しいのだと、そう言ったのだ。

 王子様に必要とされていることが嬉しくて、天にも昇る気持ちになった。

 絶対に助け出すと誓ったのに。王子様と約束したのに。

 それなのに、こんなところで失敗するわけにはいかない。まだ、城にすら辿り着いていないのだ。

 美羽が絵本の世界に入れるように、お膳立てを整えてくれた王子様。魔女に見つからないように準備をするのは大変だっただろう。もしも、隠れて勝手なことをしたことがバレたら、王子様は魔女にお仕置きをされてしまうかもしれない。魔女のお仕置きがどんなものなのかは分からないが、きっと碌なものではないはずだ。そんなこと、許すわけにはいかなかった。

 何としても、王子様を助けなければ。魔女から、開放してあげなくては。

 そうしたら、自由になった王子様と、二人で手を繋いで街を歩くのだ。きっと、直ぐに噂になるだろう。魔女の噂は消えて、新しい噂が中学校中に広がるのだ。美羽と王子様の噂が。噂を聞いた後藤加奈は、どんな顔をするだろうか。後藤加奈の悔しがる姿を想像するのは楽しかった。

 それから、王子様と二人だけのお茶会をしてみたいと思った。

 でも、美羽は魔女のように王子様にお茶を淹れさせたりはしない。せっかく、魔女から解放されたのだ。美羽が王子様にお茶を淹れてあげるのだ。おいしくお茶が淹れられるように練習して、美羽が王子様に淹れてあげるのだ。飛び切り美味しいお茶を、王子様に淹れてあげるのだ。きっと王子様は、あの綺麗な顔で微笑んで、美味しいって言ってくれるに違いない。そうなったら、どんなにか幸せな気持ちになれるだろう。

 だから、だから。

 こんなところで。

 こんなところで捕まるわけにはいかないのだ。

「あっ!」

 木の根につま先が引っ掛かった。疲れ切った体はバランスを保つことが出来ずに、そのまま草むらの中へ倒れ込む。

「ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ……」

「いやぁっ!」

 右手の先に木の枝のようなものが触れた。美羽はそれを掴むと、身を起こして振り向きざまに腕を大きく振るう。

「!」

 手ごたえがあった。

 すり抜けたりしなかったことに安堵した。影人間のような異形は、実体がないもののようにも思えたのだ。

 枝に打たれた異形は、怯んで足を止めている。

 チャンスだった。

 美羽はもう一度大きく枝で異形を打ち据えると、立ちあがって再び走り始める。

 制服は土と葉っぱで汚れているし、手のひらや膝など、あちこち擦りむいてズキズキと痛い。でも、幸いにも、足を捻ったり、大きな怪我はしていなかった。

 呪文のように、口の中で何度も王子様の名を唱えながら、ただ走る。

 涙が止まらなかった。視界がぼやけて、ほとんど前が見えない。それでも、走るしかない。

「美羽! そっちは、崖よ!」

「え?」

 下からの冷たい風を感じて、美羽は立ち止まった。

 ずっと遠くの方で聞こえるだけだった音が一気に戻ってくる。

 つま先の、数センチ先はもう地面が存在しなかった。

 河の流れる大きな音が聞こえてくる。

 空から墜ちてくるときに見た、森を分断している大きな河だ。

 かなり高さがあるし、流れも速そうだった。

 泳ぐのは、あまり得意ではない。

 ここから飛び降りて、無事でいられる自信はなかった。

 でも。

「ハートヲ、チョーダイ?」

 振り向くと、異形の黒い手がもうそこまで迫っている。もう、他に選択肢はなさそうだった。

 あんな化け物に捕まるくらいなら。

 あんな、得体の知れない化け物にされるくらいなら、いっそ。

 いっそのこと。

「王子様、お願い。あたしを、守って!」

 美羽は目を閉じると、思い切り地面を蹴った。

「きゃああああああああああああああああ!!」

 絵本の世界に降りてきた時の、夢でも見ているかのような空中落下とはまるで違う、それは本物の墜落だった。

 目を開ける余裕なんてない。

 自分の悲鳴も、アリンの声も遠くなる。

 ただ、王子様のことだけを思い続けた。

 最後に激しい水音を、聞いたような気もするし、何も聞こえなかったような気もした。



★★★


 ランプの灯りがぼんやりとテーブルの上を照らす。

 薄暗がりの中で、魔女は絵本を開いている。

 感情を消した瞳で、絵本を見下ろす。

 口元には、薄い笑み。

「ふふ。ハートのカードを持たずに、何処まで行けるかと思ったけれど、意外と頑張っているわね。崖から河へ飛び込んだのは、いい選択だわ。絵本の中で溺れ死んだりはしないから、安心しなさい? 人間の女の子が、絵本の中で死ぬことはないの。さて、あなたはどこまで行けるのかしら。……勇敢な女の子だけが、お城に辿り着ける。無事に、お城までたどり着けるといいわね?」

 絵本の中の少女に、魔女は語り掛ける。その声が少女に届くことはないと分かっていながら。

 魔女の背後には、3号と呼ばれる少年がひっそりと立っていた。

 精巧に造られた人形のように美しい少年。

 魔女にハートを奪われて、従順な人形にされてしまったという少年。

 そうやって、何も言わずに立ち尽くしていると、本当に人形のようだった。魔女が集めた、あるいは魔女が造った人形。

 部屋の中には、いたるところに人形が飾られていた。棚の中に陳列されているもの。テーブルに座っているもの。ソファーの上で寝そべっているもの。床の上にも並んでいる。魔女が移動する僅かなスペース以外は、人形で埋め尽くされていた。

 アリンのような布製の人形。テディベア。編みぐるみ。フェルトの小さなマスコット人形。一体だけ、日本人形が混ざっている。

 いかにもな作り物の人形の中で、少年だけが異質だった。どんなに造りものめいていても、人形のように見えても、やはり他の人形たちとは、何かが違っていた。

「続きが楽しみね」

 魔女の呟きが、ひっそりと絵本の上に落ちていった。


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