2章 森の住人たち
ビーズでできた蝶々たちがひらひらと飛び交うのを、美羽は不思議な気持ちで見つめていた。木漏れ日の下に差し掛かると、色とりどりのビーズがキラキラと光を反射して、とても綺麗だ。
うっとりとしながらも、蝶々がビーズと言うことは、芋虫や毛虫もビーズなのだろうかと考える。虫はあまり得意ではない。特に、芋虫や毛虫の類は。出来れば、遭遇したくない。それでも、ビーズでできた虫ならば、本物よりは少しはマシかもしれない。
木の枝と葉の間に蜘蛛の巣がはっているのを見かけた。こちらは銀色のレース糸で編まれていた。巣の主である蜘蛛は、蝶々と同じビーズで出来ている。ビーズの蜘蛛は綺麗だけれど、やっぱり少し怖かった。
足元は、思ったよりも悪くない。たまに出くわす木の根っこや、大きな石にさえ気を付ければいいだけだ。邪魔な木立や茂みを掻き分ける必要もない。観光地のハイキングコースのようだった。
周りの木々や足元の草花、それから地面は、すべて本物だった。
本物に見える。
生き物だけが、人形にされてしまったようだった。森に住んでいる虫たちまで。
時折、鳥の鳴き声や羽ばたきが聞こえてきた。きっと、あの鳥も人形なのだろう。人形に、されてしまったのだろう。
木の葉の間に見え隠れするお城を目指しながら、美羽は腕に抱えたアリンに尋ねた。
「そう言えばさ。話が途中になっちゃってたけど、この絵本の最後ってどうなるの? やっぱり、魔女をやっつけてお城と王子様を取り戻してハッピーエンドってヤツなの?」
「ええ、もちろんよ。でも、魔女をやっつけるなんて野蛮なことはしないわよ。わたしのこの優しくて広い心で森のみんなの心を開いて、そのみんなの協力の元、お城へ攻め込むのよ。そして、見事魔女を説得して、全てを取り戻すの。話し合いで平和に解決よ。わたしの懐の深さに心を打たれた魔女は、改心して、わたしの友達になるの。それからは、わたしとみんなのために尽くす優しい魔女になるのよ」
「なんか、随分とお姫様にとって都合のいい話に聞こえる。現実は、そう上手くいかないと思うけど」
「だって、これは、現実じゃなくて絵本だもの。絵本の中の世界くらい、夢と希望にあふれていないとね」
「夢と希望……かなあ?」
当の絵本の主人公に言われると、むしろ夢が壊れた気がする。
「このわたしのように、気高く優しい心を持つことの大切さを教えているのよ。そうすれば、大抵のことは最後には上手くいくという教訓が込められているのね、きっと」
「そ、そう……」
腹黒お姫様の一人勝ちの物語に聞こえなくもないのだが、美羽は余計なことは言わずに言葉を濁した。たぶん、自分で自分のことを、気高く心優しいなどと言っているからそう聞こえるのだろう。
「アリンってさ。結構、いい性格しているよね。お姫様なのに」
「あら、そうかしら。でも、まあ、そうね。今のわたしは案内人であって、主人公ではないもの。頑張って、可憐で勇敢で心優しいお姫様を演じる必要はないですからね」
「なんか、身も蓋もないね……」
皮肉のつもりだったのに、しれッと悪びれもなく返されてしまった。
美羽は黙って、先を急ぐことにした。
しばらく進むと、先の方に開けた場所が見えてきた。日が射し込んでいる。
誰かいるようには見えなかったが、甲高い子供のような声が騒いでいるのが聞こえてきて、美羽は首を傾げる。
気になって足を速めると、大きな切り株が目に入った。たぶん、あの木を切り倒したことでできた空間なのだろう。
その切り株の上で、何やら白くて丸いものが動き回っている。
気づかれないように、美羽はゆっくりと忍び寄った。
白くて丸いものは、卵型をしていた。たぶん、卵の編みぐるみなのだろう。手足の生えた卵の編みぐるみが、切株の上で歓声を上げながら楽しそうに駆けずり回っている。
気づかれたとしても、特に危険はなさそうだと判断して、美羽は切株の傍まで近づくとしゃがみ込んだ。
ふと足元を見ると、切株の下にも編みぐるみが落ちていた。落ちている方は、ピクリとも動かない。
殻が割れて、黄身と白身が飛び出した卵の編みぐるみに見える。
「何、これ?」
「切株から落ちて割れた卵の死体の編みぐるみじゃないかしら」
「え?」
「だから、切株から落ちて割れた卵の死体の編みぐるみよ」
「いや、それは見ればわかるけど、死体の編みぐるみって……」
何もそんなものまで編みぐるまなくても、と思った。
切株の上で動き回っている編みぐるみよりも、死体の編みぐるみの方が卵っぽく見えて、美羽は乾いた笑いを洩らした。
「やや!」
頭上から声が降ってきたせいで、卵たちもようやく美羽とアリンの存在に気付いたようだ。駆けずり回るのをやめて、美羽たちがいる方の切株の端へと寄ってくる。
「おまえは、アリン姫だな!」
「アリン姫だな!」
「だな!」
卵たちが反応したのは美羽ではなく、美羽が抱えているアリンのようだ。
卵たちには、手足はついているのに、顔は描かれていなかった。のっぺらぼうの卵たちが捲し立てている。
美羽は指先でつんつんと手前の卵を突いてみた。感触は、普通に毛糸だった。ふわふわもこもこしている。
「な、何をする! 止めろ!」
「止めろ!」
「ろ!」
卵たちは必死に手を振り回すが、手足が短いために、美羽の指までは届かない。突かれていない卵たちも、仲間を助けようと、手を振り上げて飛び跳ねている。
もこもこした卵たちが必死で抵抗しているのが可愛くて、美羽はアリンに止められるまで、ひたすら卵を突きまわした。
「美羽。こんなところで道草を食っている場合なの?」
「はっ。そうだった」
王子様を助けるという使命を思い出して、ようやく指を引っ込めるが、少々名残惜しそうだ。
「おまえたち! 魔女を倒しに城へ行くつもりだな!」
「つもりだな!」
「だな!」
「ちょっと、違うけど。まあ、そんな感じよ」
指の襲撃がなくなった途端、何事もなかったかのように話しかけてくる卵たちに、アリンが答える。
「そんなことはさせないぞ!」
「させないぞ!」
「ぞ!」
「え? ど、どうして?」
今度は美羽が、卵たちの主張に驚いて問い返した。
「魔女が倒されて呪いが解けたら、オレたちはまた、元の割れやすい体に戻ってしまう」
「戻ってしまう」
「しまう」
「あ、ああー……」
美羽は足元の、死体の編みぐるみを見下ろした。一番、卵っぽくみえる編みぐるみ。
割れるのが嫌なら、こんな切り株の上で遊ばなければいいのに、とは思ったが口には出さなかった。
「アリンが主人公だった時には、この子たちのこと、どうしたの?」
このまま、何もせずに立ち去るだけで簡単に振り切れるとは思ったが、元々の絵本ではどうやって切り抜けたのか気になって、アリンに聞いてみた。
「今の主人公はわたしじゃないから、別に放っておいてもいいのだけれど。いいわ、特別に教えてあげるわ」
アリンは美羽の腕の中で、偉そうに胸を反らした。そして、威圧的に卵たちを見下ろす。
「タマゴーズ。よく聞きなさい。いいこと、生がダメなら、ゆで卵になってしまえばいいのよ。そうすれば、殻が割れても、お肌がツルツルになるだけよ。中身が飛び出て死体になることはないわ」
卵たちはタマゴーズと言うらしい。そのタマゴーズは雷に打たれたように、もこもこの体を震わせた。ピシャーンと言う音が、聞こえたような気がしなくもない。
「その手があったか!? 確かに、それなら、殻が割れても問題ない。むしろ、殻をむくことで、より弾力的な体を手に入れることが出来る。これなら、森の中を転がりまわり放題だぜ!」
「放題だぜ!」
「だぜ!」
「え、ええー?」
美羽の抗議の声は無視された。
「ありがとう、アリン姫。おかげで、目が覚めたぜ。いや、目からうろこ、いやさ殻が落ちたぜ。この恩は忘れない。オレたちはアリン姫の味方だ。困ったことがあったら、いつでも呼んでくれ!」
「呼んでくれ!」
「くれ!」
「ありがとう、タマゴーズ。しばらくは出番がないと思うけど、その時にはお願いするわね。それじゃ、行くわよ、美羽」
「う、うん……」
アリンに促されて、美羽は腰を上げた。
タマゴーズに愛着がわき始めていたので名残惜しい気もしたが、ここでもたもたしていて魔女に気付かれてしまったら、元も子もない。
二人を見送るタマゴーズの姦しい声が完全に聞こえなくなってから、美羽はアリンに聞いてみた。
「元の絵本のお話でも、こうやって解決するの?」
「そうよ。見事な問題解決能力でしょう?」
「え? うん、そうだね……」
ふふーん、と胸を張るアリンに、美羽は明後日の方を見ながら一応は同意する。
気高くて心優しいお姫様のすることには思えなかったが、何を言っても無駄な気がした。「そういうものなのよ」と断言されて終わりそうな気がする。
段々、アリンの扱いが分かってきた美羽だった。
切株から、さして歩かないうちに、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。空を墜ちている時に見た大きな河ではない。もっと、ささやかな流れだ。
「この先に小川があるのよ」
「あ。ホント……だ?」
小道と交差するように小川が流れ、丸太の橋がかけられている。
だが、それよりも、美羽の目を引いたのは。
丸太のすぐ傍で横たわっている、黄色いワニだった。光沢のある布製の、ワニのぬいぐるみが小川に添うようにして横たわっている。
色は、まあいい。ここは、絵本の世界なのだから、黄色いワニがいたっておかしくないだろう。
「あれは、何をしているの?」
「白いサルを捕まえようとしているのよ」
「あ、そう……」
ワニは口にロープを咥えていた。数メートル先のロープの反対側には、木の棒が結び付けられている。木の棒は、大きなカゴのつっかえ棒だった。カゴの下には、バナナが置かれている。典型的な罠だ。
ガサリと茂みを掻き分ける音がして、美羽は思わず足を止める。
案の定。カゴの傍の茂みから顔をのぞかせたのは、白いサルのぬいぐるみだった。
美羽から丸太はすぐそこだったが、サルは気にした様子もなく、軽い足取りでバナナに近づいて行く。
美羽は固唾を飲んで行く末を見守った。
カゴの下に頭を突っ込んで、サルはバナナを掴むと、その場を離れることなく皮を剥いて食べ始める。ワニはロープを咥えたまま微動だにしない。バナナは順調にサルの口の中に消えていき、残りあと半分だ。
もしかして、あのワニは寝ているのではないだろうか?
そう思い始めたところで、ようやくワニは顎を引いた。
ロープが引っ張られ、木のつっかえ棒が外れた。カゴがサルの頭にパサリと被さる。サルは気にした様子もなく、後ろ頭にカゴを引っかけたままバナナを食べている。食べ終わるとひょいとカゴを持ち上げて、頭から取りはずす。そして、さっきまでバナナが置いてあった場所に食べ終わった皮を置くと、カゴと木の棒を使って罠をセットし直す。
サルはそのまま、何事もなかったかのように、茂みの奥に消えていった。
ワニは、微動だにしない。
「さ。行くわよ」
「え? ええ? ……うん」
美羽はアリンとワニを、何度も交互に見比べた後、諦めた顔で頷いて、再び歩き始める。
「……元の絵本でも、こういう結末なの?」
「確か、そのはずよ」
「えっと、結局、あれは一体、何がしたかったの?」
「そうねぇ。きっと、あれが二匹なりのふれあいなんじゃないかしら?」
「え? あの二匹、ふれあってた?」
「あれもまた、ふれあいなのよ」
「それで、元のお話では、あの二匹も仲間として協力してくれるの?」
「もちろんよ」
「でも、アリンとはふれあってないよね?」
「あら? そう言われてみれば、そうねぇ」
「…………」
脇を通り過ぎても、ワニはやっぱり微動だにしなかった。
まるで、本物のぬいぐるみのように。
「美羽。しゃがんで」
「え? う、うん」
タマゴーズとワニたちとの遭遇ですっかり緊張感をなくしていた美羽に、アリンが鋭い声を投げかけた。
深く考えずに、美羽は言われた通りに、その場にしゃがみ込む。
「ど、どうしたの?」
「黙って」
小声で話しかける美羽に、アリンは木立の向こうを腕で指し示した。
身をかがめたまま、腕の先を窺う。
木立を掻き分け枝葉を鳴らしながら、黒い影のようなものが美羽のいる小道に向かってくるのが見えた。
それは人の形をした、黒い影のような何かだった。
このままだと、しばらくしないうちに、数メートル先の小道に姿を現すはずだ。今は、辛うじて小道の脇の茂みに身を隠しているが、影が小道まで出てくれば簡単に見つかってしまうだろう。
ここから逃げなくてはと焦る美羽に、アリンが囁きかけた。
「じっとして、動かないで。あいつは、頭も目もあまりよくないの。このままじっとしていれば、やり過ごせるはずよ」
迷った末、アリンを信じることにした。
逃げ出したいのはやまやまだが、今、動いたら、かえって見つかりそうなのも確かだ。
一層身を低くして、息を殺す。
全身が、じっとりと汗ばんでくる。
草むらを掻き分ける音が大きくなってきた。
物音と一緒に、声が聞こえてきた。女の子の声。
「ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ、チョーダイ。ハートヲ……」
ずっと、同じセリフを呪文のように繰り返しているようだった。
そして、ついに。茂みの中から、影が姿を現した。
頭を低くしていた美羽は、そっと、目線だけを上げる。
人の形をした、得体の知れない黒いもやもや。膝上のスカートを穿いているように見える。女の子の、影人間。そうとしか、言いようのない何か。
動いて喋っているのに、生き物という感じがしない。
アリンたちのような人形とも、何か違う。
あれに見つかったら、よくないことが起こる。
それだけは、美羽にも分かった。
心臓の音が、煩い。
数メートル先の影人間に聞こえてしまうのではないかと心配になったが、影人間は虚ろな響きだけを残して小道の向こうへ消えていった。
物音が完全にしなくなるまで、美羽はずっと蹲っていた。
「行ったみたいね。もう、大丈夫よ」
アリンに声に頷いて、身を起こす。もう、影人間の姿は見えない。けれど、美羽は立ち上がることが出来なかった。
「あれ、は、一体、何? 何なの?」
向き合うようにアリンを地面に置いて、震える声で尋ねる。
「あれは、絵本を乗っ取った魔女の手下。魔女が造った虚ろな人形。わたしたちは、異形って呼んでいるわ」
「異形……」
「かつては、あなたと同じ人間の女の子だったわ。魔女に挑んで、敗れた女の子の末路よ」
魔女の人形。
美羽は、中学校で流行っていた噂を思い出す。
魔女に敗れた女の子は、人形にされてしまうのだ。人形にされた女の子は、魔女の洋館のどこかの部屋に飾られていると言われていたが、もしかしたら。もしかしたら。
「まさか……?」
「捕まったら、ハートの力を奪われて、あなたも人形にされてしまうわ」
胸に手を当てて、アリンを見下ろした。喉が、ヒュッと鳴る。
やはり、そうなのだ。
あれに捕まったら、美羽もあんな得体の知れないモノに成り果てて、森を彷徨い続けることになるのだ。でも、あれは。あれは、人形というよりも、化け物だ。
指の先が冷たくなってくるのを感じて、美羽は胸の前で両手を組み、力を込める。
「諦める?」
「…………諦めたら、どうなるの?」
「異形に見つからないように、なるべくお城から離れたところで、この世界の住人として暮らしていくしかないんじゃないかしら? まあ、もしかしたらその内、ちゃんと魔女に招待された女の子がやって来て、ここを開放してくれるかもしれないわ。運がよければ、その時一緒に元の世界に帰れるかもしれないし、取り残されちゃうかもしれないわね」
「そんな……、そんなの、いやだ。いやだよ。………………分かった、諦めない。行こう。大分、時間を食っちゃったし。急がないと」
美羽は唇を噛みしめ、立ちあがった。
この世界の住人になるのはごめんだったが、それ以上に。美羽以外の女の子が、王子様を助け出すなんて、そんなことは許せない。
王子様に助けを求められたのは、美羽なのだ。
だから、美羽が。美羽が王子様を助け出さなければ。
その思いだけで、美羽は足を踏み出した。
「ねえ、アリン。あの異形を見つけたら、隠れたり逃げたりするしかないの? やっつけたりは、出来ないの?」
「やっつける方法は、あるんだけど。あなたには出来ないわ」
「どうして………………あ! もしかして、ハートのカード?」
「そうなのよ。ハートのカードに思いを込めて、それを解き放つの。やっつけられるかどうかは、思いの強さによるわね。でも、少なくとも、追い払うことは出来るのだけど。……持ってないんですものね?」
「も、持ってない。え、じゃあ、どうすればいいの?」
美羽は歩きながらアリンを抱え直し、向き合うようにした。アリンを掴む手に、知らず力がこもる。
「………………逃げるか、隠れるしか、ないのじゃないかしら?」
「そんなぁー」
半泣きで、情けない声を上げる。
「え、ええと、そうね。手でハートの形を作って、そこに思いを込めてみるっていうのはどうかしら?」
「手で、ハートを? …………分かった。やってみる」
美羽はアリンを左の脇に挟むように持ち直すと、両手の親指と親指、人差し指と人差し指を合わせてハートを形作る。
「お、王子様大好き! 王子様大好き! 王子様はあたしが助ける! 王子様はあたしが助ける! んー! んんー!!」
呪文のように唱えながら指先に力を込めてみる。が。
ハートは、光らないし、ビームも発射されなかった。
「な、何にも起こらないよう。思いが足りないってこと? ううん、そんなはずない。やっぱり、ハートのカードがないとダメなんだよ」
美羽は肩を落とす。失意のあまり腕から力が抜けて、危うくアリンを落とすところだった。一度は漲ったやる気が、みるみる萎んでいく。
「あの異形って、どれくらいいるの?」
「そうね。河のこちら側はそれほどでもないけれど。お城の中には結構いるはずよ」
「そんなぁ。どうしたら、いいのー?」
アリンの言葉が追い打ちをかける。
王子様を助けたい。その気持ちに偽りはない。けれど、助ける前にやられてしまっては元も子もない。あんな化け物には、なりたくない。なりたくなかった。
「こんな、酷いよ。魔女はどうして、こんなことをするの? ねえ、魔女って一体、どんな奴なの?」
目を擦りながら、アリンの頭の上に零すと、アリンは少しだけ身じろいだ。
「絵本を乗っ取った魔女のことなら、わたしたちはよく知らないのよ。魔女が自ら絵本の世界にやってくることはないから」
「人のことを放り込んでおいて、自分は高みの見物ってこと? それで、自分が不利になったら、絵本の外から邪魔したりするんでしょ? 本当に、ゲーム感覚なんだ。酷い。本当に酷いよ」
美羽は魔女本人にお茶に招待されたことはないので、魔女とは一度も話をしたことがない。庭の外から見ているだけだった。
魔女はいつも、テラスの白い丸テーブルで、王子様にお茶を入れてもらって、絵本を読んでいた。長い黒髪を背中に垂らしていて、肌は透けるように白い。綺麗な子だとは思ったが、陰気そうでもあった。黒いワンピースは彼女に似合っていた。美羽は見るたび、喪服のようだと思っていた。
魔女のお茶会に招待された後藤加奈は、何と言っていただろうか?
後藤加奈とはクラスが違うし、直接話を聞いたわけではないが、派手な容姿に似つかわしい性格の彼女があちらこちらで喧伝して回ったせいで、美羽の耳にも噂は届いている。
その噂を、もう一度思い出してみる。そう、確か。
綺麗だけど、陰険な感じ。王子様を番号で呼んでいる。王子様は自分のもので、他の女の子のものにはならないと公言し、いいようにこき使っている。王子様は、魔女の言うことに逆らえない。自分以外の女の子を馬鹿にしている。無理やりに王子様を従えているくせに、それをわざとらしく見せつけている嫌な奴。
噂で伝わってきたのは、こんなところか。王子様を救うゲームの話は、なかったように思う。まだ、魔女にその話をされていないのか、それだけは秘密にしているのかは分からない。後藤加奈のことだから、無事に王子様を助けてから、自分のものになった王子様をみんなに見せびらかすつもりなのかも知れなかった。
勝手に想像して、後藤加奈への嫌悪を募らせる。
でも、今はそれ以上に、魔女のことが気にくわなかった。
あの後藤加奈に嫌な奴呼ばわりされる魔女。
王子様を独り占めして家来のように扱い、それを見せびらかしている魔女。あまつさえ、その王子様をダシに女の子たちに出来レースと思われるゲームをけしかけ、自分は高みの見物。王子様を救いたい女の子たちの気持ちを弄ぶ、卑劣な行為だ。しかも、ゲームに負けた女の子は、ハートを奪われて人形にされ、魔女の手下にされてしまう。そして、恐らくはずっと、化け物みたいな姿で絵本の中を彷徨い続けるのだ。
魔女の犠牲となった女の子たち。
「本当に、喪服みたい」
仄暗さを孕んだ呟きが零れ落ちる。
胸の奥に渦巻く思いを持て余しながら黙々と歩いていると、歌声が聞こえてきた。
高く澄んだ女の子の声。
少し先の木立の奥から聞こえてくるようだ。
歌声につられて、小道を逸れ、枝を掻き分けながら木立の奥へと進んでいく。
「泉の妖精ね」
「妖精?」
道を外れることに、アリンからのお咎めはなかった。妖精と聞いて、童心が疼いた美羽は心持足を速める。
妖精なんて現実にはいるわけがないけれど、ここは絵本の中だ。一体、どんな生き物なのだろうと興味津々だった。
歌声が、近づいてくる。
ラララ――と歌っているだけで、特に歌詞はないようだった。水の流れる音にも似た、心地よい旋律。儚くも美しい生き物を想像させる。
期待に胸を高鳴らせながら、ひょいと枝を潜り抜けた美羽は、一瞬真顔になる。それから、腕の中のアリンを見下ろすと、納得したように頷いた。
泉とアリンは言ったが、美羽には少し深めの水たまりに見える。だがまあ、泉の妖精と言うからには、泉なのだろう。美羽は無言でその水たまりにしか見えない泉に近づくと、しゃがみ込んだ。
泉の上で、妖精が歌いながら飛んでいる。
フェルトで作られた妖精が。
羽もフェルトで出来ていた。
可愛いことは可愛いが、儚くはない。
「こんにちは」
美羽が声をかけると、妖精は歌うのを止めた。
「あら? あなたは、新しい挑戦者さんね。こんにちは、わたしは泉の妖精よ」
フェルトの羽をパタつかせながら、美羽の顔の高さまで飛んでくる。
「あなたに、祝福を捧げます。どうか、あなたの愛が本物でありますように。あなたの真実の愛で、王子様が救われますように」
口調は厳かなのだが、いかんせんフェルト製のマスコットなので、微妙にありがたみに欠けた。
「え、えと。ありがとう。それで、その。真実の愛って?」
「あら、魔女の呪いを解くのは、真実の愛と相場が決まっているでしょう?」
美羽の問いに答えたのは、妖精ではなくてアリンだった。
「し、真実の愛?」
顔を赤らめながら尋ね返すと、妖精の体が上下に揺れた。たぶん、頷いたつもりなのだろう。
「その通りよ。真に王子様を想う女の子の気持ちだけが、王子様を救うことが出来るの。どうか、あなたのハートで、王子様を救ってあげて。……この牢獄から。魔女はこの先、様々な罠を仕掛けてくるはず。でも、決して、惑わされないで。自分を信じるの。王子様を想う、自分の心だけを信じて」
そう言うと妖精は、泉の上をぐるりと一周した。
「泉よ、応えて。ハートの力だけを武器に魔女へと挑むこの子に、あのお方の姿を見せてあげて」
「あ……ああ…………」
泉が淡く光り輝く。水面が揺れ、水の中から冷たい風が吹きあがってくる。滝の傍に行った時のような、ひんやりとした水気を含んだ心地よい風。
風が止むと、水の中に、奇跡のような美貌が映し出された。
誰かを待っているような、待ちわびているような顔。
何かを、誰かを、焦がれてやまない顔。
きっと、美羽を待っているのだ。美羽を待ちわびているのだ。
きっと、美羽を。
「王子様……! 必ず、必ずあたしが助けに行きますから。だから、信じて待っていてください」
思わず、水面に向かって話しかけていた。
でも、こちらからの声は聞こえていないようで、王子様の顔から憂いは晴れない。
「お姿を見ることは出来るけれど、声を届けることは出来ないの」
妖精の声とともに、王子様の姿が滲んでいく。
魔法が切れたせいでもあるけれど、美羽自身の視界がぼやけたせいでもあった。
胸が詰まって、瞼が熱を帯びていく。
ポタリ、ポタリと、泉の中に熱い滴が落ちていった。
「本当は、わたしが王子様を助けてあげたい。でも、人形であるわたしには、王子様にハートと届けることが出来ないの。お願い、私の代わりに、王子様を助けてあげて。必ず、あなたのハートを、王子様に届けてあげて」
「うん……。うん…………」
しゃくり上げ、手の甲で目元を拭いながら、美羽は何度も何度も頷いた。
そして、アリンは。美羽の腕の中で、静かに妖精と見つめ合っていた。
★★★
「ふふ。喪服ですって。でも、そうね。そうかもしれない。私はずっと、喪に服しているのかも」
夕暮れの中で、魔女の指が優しく絵本を辿る。
口元は笑みの形を刻んでいるが、その顔からは感情は読み取れない。
絵本を見下ろす瞳は、無慈悲なようでもあり、慈悲深いようでもある。
「魔女様。こちらにいたのですね。……そろそろ、暗くなります。どうか、中へお入りください」
いつの間に忍び寄ったのか、3号と魔女に呼ばれる少年が、物音も気配も感じさせずに、魔女の背後に立っていた。
魔女は驚いた様子もなく、絵本を指でなぞる。泉の傍でしゃがみ込んでいる少女を、人差し指の先で、そっと撫でる。
「招待状をもらったわけでもないのに、勝手に入り込んだ子がいるようね。あなたの仕業なのかしら、3号?」
「…………………………」
3号は何も答えない。
造りものめいた美貌の少年は、ただ、困ったように微笑んでいる。
美羽といる時の少年は、普段は人形のようだけれど、ふとした表情を見せた時にはちゃんと人間に見えた。
けれど、魔女の傍らにいる少年は。
たとえ表情を作っても、人形のようだった。人形にしか見えなかった。
3号からの答えがないことを、魔女は気にした様子もない。
ただ、ひっそりと。
絵本を撫でながら、薄い笑みを口の端に乗せるだけだった。