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1章 お茶会

 ゆっくりと空の中を墜ちていく。

 透明な青。薄っすらと帯為す白い雲をいくつか抜けると、綿あめみたいに分厚い雲が目の前に広がる。

 もしかしたら、あの上を歩けるんじゃないかと期待したけれど、そんなことはなく。

 つま先から、雲の中に沈んでいく。何も見えない。

 それでも、雲の中を墜ちていくことを楽しんでいた。

 これは、夢なのだ。そして、きっともうすぐ目が覚める。夢から醒める、直前の感覚。

 厚い雲を抜けると、今度は濃い緑が目に飛び込んできた。

 足元には森が広がっている。こんもりと生い茂る緑の合間には大きな河川が横たわって、森を分断している。橋はかかっていない。河川の向こう側には、お城があった。大河ドラマに出てくるようなお城ではなくて、夢の国にあるようなお城がそびえ立っている。煌びやかなドレスに身を包んだお姫様が住んでいそうなお城。青い屋根に、赤い旗が棚引いている。

 お城に行ってみたいなと思ったけれど、どうやらお城とは反対側に向かって墜ちているようだった。

 少し残念だった。けれど、どのみち、自分はもうすぐ目を覚ますのだ。どちらにせよ、あのお城に行くことは叶わない。

 森が近づいてくる。

 きっと、地面に到着する頃に、この夢から醒めるのだろう。

 名残惜し気に、夢のお城を見つめる。

 夢から醒めても、覚えていられるように。


 ふわりと一瞬だけ体が浮き上がった。

 それから、背中とお尻に軽い衝撃。ビクンと体が震える。ぼんやりとしていた美羽の意識は、そこで一気に覚醒した。

 授業中に居眠りをしてしまったのだと思った。それとなく口元に手を当てて涎が垂れていないか確認しながら、美羽は誰にも居眠りがバレていないか視線だけで周囲の様子を窺い、それから不思議そうに首を傾げた。

 着ているのは、制服だった。美羽が通っている中学校の、えんじ色のブレザー。けれど、そこは教室ではなかった。

 もう一度、今度は首を大きく動かして、辺りを見回してみた。

「何、これ? まだ、夢を見ているの?」

 呆然と呟く。

 確かに、夢から醒めたはずだった。意識は、はっきりしている。それなのに。

 美羽はまだ森の中にいた。先ほどまでの夢で見ていたあの森だ。その証拠に、遠くにあのお城が見える。空を堕ちている時に見たのと同じ、夢のお城が。青い屋根と赤い旗のお城が。

 そこは、木立が途絶えた開けた空間で、見上げると空が見えた。青く透き通った空。さっき美羽が通り抜けた綿雲。あまり日差しは強くなく、時折頬を撫でる風は涼やかだ。午前中のまだ早い時間のように感じられた。

 視線を戻して、何度か瞬きをする。

 どうやら自分は、お茶の席に招かれたようだった。

 テーブルの上には、すっかりお茶の用意が整っている。

 白いレースのテーブルクロス。その中央には、黄色いバラを飾った花瓶。白い陶器の丸味を帯びたティーポット。お皿に山盛りにされているタルトには、真っ赤なジャムが詰まっている。サンドイッチの大皿もあった。しっとりと柔らかそうな四角と三角が綺麗に盛り付けられている。卵とキュウリのサンドイッチだ。それから、アーモンドが乗っている厚焼きクッキー。

 おとぎの国に紛れ込んでしまったかのようだった。

「アリスのお茶会みたい」

 ぽつりと呟くと、それが合図だったかのように、ティーポットがふわりと浮き上がった。

 美羽は不思議な気持ちでそれを見つめる。

 丸いティーポットがふわふわと宙を漂いながら美羽の元へ近づいてくる姿は、なんだか可愛らしく思えた。美羽の目の前には、黄色いバラの模様のティーカップが用意されていた。ティーポットはカップの真上で静止すると、ゆっくりと体を傾げていく。

 香ばしい匂いとともに、カップの中に透き通った茶色の液体が注がれていった。

 覚えのある香り。

 カップに注がれたのは、ほうじ茶だった。

 お茶請けのラインナップからすれば、ここは紅茶がふさわしいように思えるが、なぜかほうじ茶だった。

 美羽は半眼でカップの中身を見下ろす。

 さっきまでの、童心に帰ったようなときめきは、すっかり消えうせていた。

 夢から醒めたような、魔法が解けたような、そんな気がして、湯気が立ち昇るカップを脇へと押しやる。

 少し残念な気もしたが、よく考えれば誰に振る舞われたのかも分からない、得体の知れない飲み物だ。迂闊に口をつけるべきではないだろう。もしかしたら、体が大きくなったり小さくなったりしてしまうかもしれないのだ。

 注がれたのが紅茶だったら、雰囲気にのまれて、きっと何も考えずに飲んでしまっただろう。

 ほうじ茶でよかったのかも、と美羽は思い直した。

 それにしても、ここは一体どこなのだろう。

 辺りを見回しても、誰もいない。アリスもウサギも帽子屋も、誰も。

 代わりに、テーブルの上には三体の人形が載っていた。丁度椅子がある位置だ。

 真正面には茶色いテディベアが座っている。

 右手には青いドレスを着たお姫様のお人形。陶器ではなく、布製の人形だった。バザーで売っていそうな、手作り感あふれるお人形だ。頭の上には、ビーズで作った金色のティアラが載っている。

 そして、最後の一体。左側の席には、藍色の着物の日本人形が載っていた。

 何となく怖いので、そちらはあまり見ないようにする。

 それで、結局これはどういうことなのだろう。まさか、あの人形がお茶会の参加者というわけではないだろうし、席札の代わりなのだろうか。

 首を捻ったところで、突然声が聞こえてきた。

「この中に一人、嘘つきがいる!」

「きゃあ」

 思わず、椅子の上で跳ね上がった。

 テーブルの端を両手で掴んで呼吸を整えながら、声が聞こえてきた正面へと視線を向けると、茶色いクマのぬいぐるみと目が合った。

「え? な、何?」

 声はあのぬいぐるみから聞こえてきたような気がする。つぶらな瞳の愛らしいぬいぐるみにふさわしくない、しわがれた声だったが。

 もしかして、残りの二体も喋るのだろうかと、左右へ視線を走らせ、椅子から半分転げ落ちた。

 正面を向き合っていた二体の人形は、揃って美羽の方を見つめていたのだ。体は正面を向いたまま、首だけを美羽の方に向けて。

 日本人形が混じっているせいか、メルヘンというよりはホラーだった。

 左手で背もたれを、右手でテーブルの端を掴み、左のお尻だけが椅子に乗っているみっともない体制のまま動けずにいると、お姫様の方から女の子の声がしてきた。ちょっと高めの可愛い女の子の声だ。

「絵本の世界へようこそ、新しい挑戦者さん。わたしはアリン。この絵本の元の主人公よ。魔女の手下じゃないから、安心して。むしろ、あなたの協力者よ。敵の敵は味方って言うでしょ? 魔女に絵本の世界を乗っ取られてしまって、わたしたちも迷惑しているのよ」

「絵本……の世界……。魔女……」

 椅子からずり落ちかけたまま呆然とお姫様を見つめる。それから、森の向こうにそびえ立つ、夢の国のお城を。

 瞬きをしてから、椅子に座り直した。捲れ上がっていたスカートの裾を直す。

「魔女は、本当に魔女だったんだ」

 森の中でお茶会をする人形たちと、お城。

 それは確かに、美羽が絵本の中に見た風景だった。

 空を墜ちる直前に見た、絵本の中の風景。

 魔女の住む洋館。テラスのテーブルの上に、開いたまま置かれていた絵本。

 魔女がいつも、お茶を飲みながら読んでいた絵本。

 その絵本の中に。

 絵本の中の世界に。

 自分は本当にやって来たのだ。

 お城を見つめながら、美羽はすべてを思い出した。

 どうして、何のために、この絵本の中にやって来たのかを。



 美羽の通っている中学校では、女子生徒の間にだけ広まっている噂があった。

 空き家のはずの町はずれの洋館には、魔女と魔女に捉われた王子様が住んでいる。ただし、魔女と王子様の姿を見ることが出来るのは、選ばれた女の子だけ。真に勇敢な女の子が、一人で洋館を訪れた時にのみ、魔女は姿を現す。時に魔女は気に入った女の子をお茶会に招くこともあるという。魔女は招待した女の子にゲームをしないかと持ち掛ける。魔女にハートを奪われてしまった王子様を助けるためのゲーム。見事、魔女から王子様のハートを取り戻せれば、女の子の勝ち。王子様は魔女から解放されて、自由になれる。でも、もしもハートを取り戻せなければ、女の子は魔女に人形にされてしまう。今まで、何人もの女の子がゲームに挑んできたけれど、魔女に勝ったものは一人もいない。人形にされた女の子たちは、魔女のコレクションとして洋館のどこかの部屋に集められているのだという。

 数年おきに、急速に流行り出しては、いつの間にか沈静化しているのだと先生たちは言っていた。

 寄り道をしないで、なるべく一人では帰らないようにという担任の注意を、美羽は他人事のように聞いていた。

 噂が流行り出した当初は、魔女にも王子さまにも大して関心を持たなかった。

 美羽の王子様は、ちゃんと現実に存在したからだ。

 本当か嘘かも分からない噂を確かめに洋館へ行くよりも、サッカー部の吉沢君の練習を見ている方が、美羽には大事なことだった。

 同じクラスの吉沢君は、サッカー部に所属している爽やか系の好男子だ。成績も上位だし、人当たりもいい。そして、何より、甘くて爽やかな顔立ちに、美羽は心をときめかせた。

 当然、ライバルも多い。中でも、隣のクラスの後藤加奈のことが、美羽は好きではなかった。華やかな顔立ちの美人で、本人もそれを自覚していているようだった。いつも大した用事もないのに美羽のクラスの、同じテニス部員のところへやってくる。図々しく、教室の中まで入り込んできて、テニス部員の子と話をしながら、チラチラと吉沢君に視線を送っているのだ。余所のクラスに乗り込んできてまで、あからさまな秋波を送り続ける彼女のことを、美羽のクラスの大半の女子生徒は快く思っていなかった。反対に、男子生徒たちはアイドルのような美貌の後藤加奈がクラスを訪れることを喜んでいるようだった。後藤加奈の目当てが吉沢君だと分かっていても、だ。それがまた、女子生徒の反感を買うのだが、後藤加奈はまるで気にしていなかった。というよりは、そのことを分かっていて、優越感を覚えているようだった。

 そういうところが気に入らないのだと、美羽は思っている。

 だが、美羽が噂に興味を示したのは、その後藤加奈が原因だった。

 毎日のように美羽のクラスに現れていたのに、ある日パタリと顔を見せなくなったのだ。

 どうやら今は、吉沢君よりも噂の王子様にご執心のようで、最近では部活もサボって連日、噂の洋館へと通い詰めているようなのだ。

 目障りに思っていたライバルがいなくなったことは、美羽にとっては喜ばしいことだった。同時に、むくむくと好奇心も湧いてきた。

 あれだけ、美羽の教室に通い詰めていたのに、吉沢君のことなどまるで眼中にない様子の後藤加奈のことが信じられなかった。

 一体、あの洋館に何があるというのだろう?

 誰と会ったのだろう?

 吉沢君より素敵な男の子がいるのだろうか?

 後藤加奈を夢中にさせている男の子を、一目見てみたくなった。

 もちろん、吉沢君から心変わりしたわけではない。ただ、純粋に好奇心からだった。元々怪しげな噂なのだし、冷やかし半分でもあった。

 幸いにもと言っていいものかどうか、噂の洋館は、美羽の家からはそう離れていなかった。帰りに少し、回り道をすればいいだけだ。

 早速、帰りに寄ってみることにした。

 もしかしたら、後藤加奈と鉢合わせするかもと思ったけれど、洋館の周りには誰もいないようだった。

 白い壁に、緑の窓枠。赤茶色の西洋風の瓦屋根。女の子なら誰でも住んでみたいと思うような、可愛らしい洋館だった。荒れたところは見当たらず、とても空き家には見えない。

 本当に、魔女がいるような気がしてきた。

 噂によれば、魔女は南側の庭に面したテラスでお茶をしているのだという。

 胸をドキドキさせながら、庭へと向かう。

 庭は、花の飾り模様付きの黒い鉄の策で囲まれて、中には芝生が広がっていた。

 そして、美羽は出会ったのだ。

 王子様に。

 一目見た瞬間に、吉沢君の存在は、美羽の中からすっかり消し飛んだ。

 テラスの白い丸テーブルで絵本を開いている、美羽と同じくらいの年頃の黒いワンピースの少女。そして、少女のためにお茶の用意をしている燕尾服の少年。

 彼が王子様なのだと一目で分かった。

 服装や役割からすれば、少女の執事ということになるのだろうが、そんなことは美羽には関係なかった。

 年は、美羽よりも少し上くらい。もしかしたら、高校生なのかもしれない。

 人形のように精巧な顔立ちの美しい少年。

 少女漫画の中から抜け出してきたみたいだと美羽は思った。

 あんなに綺麗な男の子を見たのは初めてだった。

 鉄の柵を握りしめ、息をするのも忘れて少年を見つめる。

 魔女は美羽に気付かなかったけれど、少年は視線を感じたのか、美羽の方へ顔を向ける。美羽と目が合って、そして。

 微笑みかけてくれたのだ。

 それは、ほんの一瞬のことで、彼は直ぐに取り繕ったような表情に戻って、その後は魔女の執事役に徹していた。美羽の存在など、忘れたかのように。

 でも、美羽は。

 その一瞬の微笑みだけで、すべてを奪われた。

 二人がテラスからいなくなるまで、ずっと王子様を見つめ続けた。その日、いつ、どうやって家に帰ったのか、美羽はまったく覚えていなかった。

 それから、洋館に通うのが美羽の日課になった。

 魔女は美羽には関心がないのか、それとも単に気づいていないだけなのか、美羽に注意を払うことは一度もなかった。でも、王子様はいつも、美羽に気付いてくれた。気づいて、微笑みかけてくれた。最初の日のように。

 最初の日同様、それはいつも、目が合った一瞬だけのことだったけれど、美羽はそれだけで満たされた。それに、それ以上の何かがあったら、頭が弾け飛ぶか、体が溶けてなくなってしまいそうだった。

 それだけで満足できなくなったのは、後藤加奈が魔女のお茶会に招待されたという話を聞いたからだ。

 あの庭の中に招かれて、魔女とともに白いテーブルに座り、王子様にお茶を入れてもらったというのだ。

 嘘をついているのだと思った。美羽はいつも、学校が終わって直ぐに洋館に向かっている。けれど、魔女と一緒にお茶をしているどころか、洋館の付近で後藤加奈の姿を見かけたことは一度もない。

 でも、うっとりとした顔でその時のことを語る後藤加奈は、嘘をついているようには見えなかった。

 もしかして、これは、魔女の魔法なのだろうか?

 本当かも知れない。嘘かも知れない。

 嫌な感情が、体中で渦を巻いていた。行き場を失くして、体の中を暴れまわっている。

 羨ましかったし、妬ましかった。

 後藤加奈を招いたのは魔女であって、王子様ではない。そう自分に言い聞かせることで、叫びだしたくなる衝動を抑えた。

 その日は、いつも以上に熱のこもった瞳で、王子様を見つめ続けた。王子様はそんな美羽に何かを感じたのか、困ったように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。

 胸が締め付けられて、いつの間にか涙が溢れていた。涙を拭いながら、美羽は王子様を見つめ続けた。視界がぼやけても、それでも見つめ続けた。

 王子様たちがテラスからいなくなっても立ち去りがたく、辺りが薄闇に包まれてもまだ立ち尽くしていると、声をかけられた。

「こんにちは。いや、もう、こんばんは、かな」

「こ、ここここ、こんにち、こんばんは!」

 いつの間に近寄られていたのか、鉄柵の向こうに王子様が立っていた。テラスではなく、正面玄関か裏口から回ったのだろう。

 危うく、王子様と呼びかけそうになって、寸でのところで思いとどまる。

「あ、あの、あたし! 倉橋美羽っていいます。そ、その、あなたの名前を、その……」

「僕は、3号。そう呼ばれている」

「3号って、そんな……! ロボットじゃないんだから」

 そう言えば、後藤加奈もそんなことを言っていた。魔女は王子様を番号で呼び、人形扱いしていると。でも、人形にだって名前を付けて可愛がったりする。番号で呼ぶなんて、人形というよりは、ロボットだ。

 憤慨していると、王子様は寂しそうに笑った。

「……ロボットみたいなものだよ」

「そんなこと、言わないで。本当の、本当の名前は何て言うんですか? 教えてください」

 王子様はやっぱり、困ったように、寂しそうに笑う。

「今の、ここにいる僕は、ただの3号だよ」

「そんな、どうして!」

「僕は、魔女にハートを奪われてしまったんだ」

「え?」

「魔女がいつもテラスで読んでいる絵本の中に、僕のハートは捕らわれてしまっている。ハートを取り戻さないと、僕はこの洋館から出られない。ずっと、魔女の言いなりだ」

 王子様の手が力なく鉄柵を掴む。瞳は頼りなく揺れていた。勇気づけるように、美羽はその手に、自分の手を重ねた。

「どうすれば、助けられるの? 何でも言って。あたしに出来ることなら、何でもするから」

 きっと、王子様は美羽に助けて欲しいのだ。だから、今。こうして、ここへやって来て、美羽に話しかけてくれたのだ。

 重ねた手に力を込めると、王子様は躊躇いがちに口を開いた。

「魔女のゲームのことは知っている?」

「…………!」

 美羽は目を見開いて、頷いた。

 そうだ。これは、そういう噂だった。

 魔女にゲームを挑まれて、ゲームに勝てば王子様は自由になる。でも、負ければ、魔女に人形にされてしまう。

 まさか、本当に?

「魔女は、お茶に招待した女の子に、僕のハートをかけたゲームを持ち掛ける。既に一人、招待されている。あの子が魔女の挑戦を受けるかは分からない。でも、僕は、出来れば……」

「言って」

 続きを躊躇う王子様を、美羽は促した。

 王子様が真っすぐに美羽を見つめる。美羽はそれを受け止めた。

「僕は、魔女が選んだ女の子ではなくて、君に。君に、僕のハートを取り戻して欲しい」

「……うん。あたしに任せて。絶対に、君のハートを取り戻してみせる」

 負けたら人形にされてしまうかも知れないという不安は頭の片隅に追いやられて、押しつぶされた。今は、王子様に選ばれたのだという喜びで、胸も頭もいっぱいだった。

「明日、入り口のカギを開けておくから」

 そう囁く王子様に、美羽は力強く頷いた。

 翌日。

 約束通り、庭を覆う鉄柵の入り口のカギは開いていた。庭には誰もいなかった。魔女も、王子様も。テラスの方を見ると、いつも魔女がお茶を飲んでいる白い丸テーブルの上に本が置いてあるようだった。魔女がいつも読んでいた絵本。

 きっと、王子様がうまくやったのだろう。

 破裂しそうな胸を押さえながら、庭に忍び込んだ。早足でテーブルへと向かう。絵本は開かれた状態でテーブルに載っていた。そっと、覗き込む。森の中で人形たちがお茶会をしていた。お姫様とテディベアと日本人形。森の向こうには、お城。夢の国のお城。

 恐る恐る、絵本に手を伸ばす。

 頁に触れた瞬間、頭の中で何かが弾け飛んだ。

 何も分からなくなって、そして。

 空を。

 空を墜ちていたのだ。



「ボーっとしているみたいだけど、大丈夫なのかしら?」

「きゃっ!」

 いつの間にか、お姫様が美羽の傍までにじり寄っていた。テーブルの上から顔を覗き込まれ、美羽はのけ反る。

「魔女の招待を受けてやって来た、ゲームの挑戦者でいいのよね?」

「…………うん。そうだよ。魔女から王子様のハートを取り戻すために、あたしはここへ来た。でも、あたしは魔女に招待されて来たわけじゃない。あたしは、王子様に招かれてここへ来たの」

 少しお姫様から距離を取りながらも、美羽はきっぱりと言い切った。

 いろいろと不思議なことが多いけれど、でもそれは。噂が本当で、魔女は本物だったということなのだろうと美羽は結論付けた。

 今、一番大事なのは、王子様のハートを魔女から取り戻すこと。それだけだ。

「王子様の招待……。ふむ、新しいパターンね。まあ、いずれにせよ、ここに来た以上、やることは一緒よね。わたしも協力するわ、挑戦者さん。ええと、お名前を聞いてもいいかしら」

「倉橋美羽よ。それで、あなたは一体何なの?」

 さっき聞いた気がするが、動転していたのでさっぱり覚えていなかった。

 お姫様は腰のあたりに手を当てて憤慨しながらも、もう一度名乗ってくれた。

「アリンよ! アリン。この絵本の元の主人公よ」

「元の主人公?」

「そうなのよ! わたしは、この絵本の元々の主人公だったのだけれど、魔女に絵本を乗っ取られて、魔女が招待した女の子に主人公の座を奪われてしまったのよ!」

 お姫様は万歳をしながら、体を左右に揺すった。

 お姫様は割とオーバーアクションだ。

 人形なので、これくらいでないと伝わらないのかもしれない。

「何ていう絵本なの?」

「知らないわ」

「え? 知らないの?」

「そうよ。絵本の中の登場人物が、自分が登場する絵本の題名なんて、知っているわけがないじゃない」

「そ、そういうものなの?」

「そうよ。例えば、あなたが何かの物語の登場人物だったとして、あなたにはその本の題名が分かっているの?」

「え? いや、例えの意味が分からないけど。まあ、もうタイトルはいいや。で、どういう話なの?」

「魔女に捉われた王子様を助ける物語よ」

「その話、詳しく!」

 美羽は両手でがしりとお姫様の体を掴んだ。話の流れ的に聞いただけだったのだが、俄然興味が湧いてきた。

「ふ、いいわ。話してあげる。あそこにお城が見えるでしょう?」

 お姫様は振り向いて、お城を指――腕差した。

「物語はあそこから始まるの。王子様との結婚式の最中だったわ。嫌われ者の魔女がお城に乗り込んできて、わたいたちを、王子様以外のみんなを人形にしてしまったの。魔女は王子様に、わたしじゃなくて自分と結婚しろと迫った。王子様は、毅然とそれを断ったわ。もちろん、わたしを愛しているからよ。でも、それを聞いて怒った魔女は、王子様も人形にしてしまったの。それから、邪魔なわたしをお城の窓から外へ放り投げたのよ。酷いことをするわよね」

「ず、随分遠くまで飛ばされたんだね」

「ああ。途中でカラスにキャッチされて、森の外まで運ばれちゃったのよ」

 森の外? と言いかけて、口を噤んだ。テーブルの上の絵本は、真ん中よりも少し手間くらいのページで開かれていたことを思い出したのだ。

「挑戦者さんたちはいつも、少し森を進んだお茶会の辺りで現れるのよね。なんかこう、招待しているっぽいからかしら?」

 やはり、ここは既に物語の途中なのだ。

「この中に一人嘘つきがいる!」

「きゃっ」

 突然聞こえてきたしわがれ声に驚いて、思わずお姫様を放り出しそうになる。

「な、何?」

「ああ。気にしなくていいわよ。人形とかぬいぐるみの類は、元々の絵本の住人だから。あれは、あなたじゃなくてわたしに言っているの」

「なるほど」

 つまり、あれは元々の物語上のセリフと言うことなのだろう。

「それで、嘘つきは誰だったの?」

「わたしは、心優しきお姫様。そんな無粋な追及はしないのよ。嘘も本当も包み込んで、その広い心で森の住民たちの信頼を得て、みんなの協力の元、一路お城を目指すのよ。すべてを取り戻すために」

 大きく腕を振り回しながら、お姫様は力説した。

「結構、大雑把なんだね。まあ、いいや。絵本の王子様じゃなくて、わたしの王子様のハートもあのお城にあるの?」

「そのはずよ。道案内なら任せてちょうだい。わたしも協力するから、必ず王子様を助け出しましょうね」

「え? それは、助かるけど。どうして、そんなに協力的なの?」

 お姫様の熱意に気おされて、テーブルのなるべく離れた位置にお姫様を離す。お姫様はその場で、えへんと胸を反らした。

「決まっているじゃない。早いところ、あなたたちの王子様を開放して外の魔女を何とかしないと、いつまでたってもわたしの物語が始められないじゃない」

「ああ、そういう理由なんだ」

 利己主義に溢れたお姫様のセリフに生温い視線を送ると、お姫様は慌てて取り繕うように両手を振って付け足した。

「も、もちろん。同じ境遇であるあなたを応援したいという気持ちもあるわよ」

「ふうん? まあ、いいよ。そういうことなら、協力よろしく。ええと……」

「アリンでいいわ。わたしもあなたを美羽って呼ぶわね」

「了解。改めてよろしく、アリン」

 美羽はアリンが差し出した片腕を軽く握りしめて、上下に振った。

 たぶん、握手をしようということなのだろうと判断して。

「そう言えば、美羽。あなた、魔女に招待されたわけではないのよね?」

「うん。そうだよ」

「と言うことは、もしかして。ハートのカードを持っていないのかしら?」

「ハートのカード?」

 何ソレ、と言う顔でアリンを見下ろす。とりあえず、握ったままだった腕は放した。

自由になったアリンは、関節のない腕で器用に腕組みをした。

「魔女に招待された子は、招待状と一緒にハートのカードを渡されるのだけれど、その様子だと持ってはいないようね。…………大丈夫かしら?」

「え? ちょっと! ハートのカードって何? 何に使うの?」

 不安になった美羽は、テーブルに腕をついて身をかがめ、アリンと目線を合わせる。肌色の布に、青い刺繍糸で描かれた瞳。

「だ、大丈夫よ。きっと何とかなるわ」

「いや、だから。ハートのカードが何なのかを聞いてるんだけど」

 アリンは大丈夫だと言い切ったが、あまり信用できなかった。刺繍糸で描かれた表情からは動揺は読み取れないが、声には無理に励まそうとするような響きが混じっていた。

「ええと、そう。これは、チャンス。チャンスなのよ。魔女の招待を受けていないということは、魔女はまだあなたがここにいることを知らないのよね?」

「た、たぶん。そのはず」

 そう答えながらも、絵本の外、現実の世界にいるはずの王子様のことが心配になってきた。美羽が絵本の中に入れたのは、王子様の手引きによるものだ。もちろん、魔女には内緒で。もしも、勝手に美羽を絵本の世界に送り込んだことが魔女にバレたら、王子様は魔女に酷い目にあわされてしまうかもしれない。

 王子様の身を案じつつも、今はただ、魔女に気付かれていないことを祈り、信じるしかなかった。

「今まで、魔女に招待された女の子たちは、誰も王子様を助けられなかったのよ。それって、もしかしたら、魔女が何か小細工をしているんじゃないかしら? 王子様のハートを女の子たちに奪われないように」

「そんな、酷いよ。卑怯だよ」

 それは、アリンの推測に過ぎなかったが、美羽はそうに違いないと信じていきり立った。

 ゲームの開催者である魔女に、端から王子様を開放するつもりがないのなら、そもそもゲームとして成立していない。王子様への気持ちを弄ばれているようで、気に入らなかった。魔女に対する怒りが、腹の底からふつふつと湧き上がってくる。

「つまり、魔女に見つかる前に、王子様を助ければいいってことなんだよね?」

 瞳の奥に炎を燃え立たせながら、美羽はアリンに問う。

「そういうことよ。さあ、そうとなれば、とっとと出発しましょう。王子様のハートはお城に捕らわれているはず。案内するから、着いていらっしゃい」

「うん! ………………うん?」

 威勢よく宣言して、アリンはテーブルの上を歩き出す。お城のある方向に向かって。本人は急いでいるつもりのようだが、美羽からすると亀よりはマシな程度の速度だった。

 席を立った美羽は、ゆっくりとアリンの隣まで進むと、ひょいと両手で抱き上げる。

「あら? ちょっと、何するの? 案内するって、言ったでしょ」

「いや、このままアリンに着いて行ったら、日が暮れそうだし。この方が早いから。アリンはどっちに行けばいいかだけ、教えてくれればいいから」

「…………それもそうね。じゃあ、お願いするわ。まずは、このまま前進よ!」

「この中に一人嘘つきがいる!」

「ひゃあ!」

 アリンの指示に頷こうとした瞬間、テディベアが突然、叫んだ。

 ドキドキしながら、腕の中のアリンに問いかける。

「真っすぐ……で、いいんだよね?」

「もしかして、わたしを疑っているのかしら? お城の方向に向かうのだし、方角的にも間違っていないと思うのだけれど」

「そ、そっか。それも、そうだよね。いやー、疑ったわけじゃないんだけど、すごくいいタイミングだったから、つい」

 つい、一瞬本気でアリンを疑ってしまった美羽は、誤魔化すように努めて明るい声を出し、そのまま、急ぎ足でテーブルを通り抜けた。

 足を速めたのは、テディベアを警戒したわけではなく、ずっと無言だった日本人形が美羽たちを見送るように体の向きを動かしたからだ。

 本当にただ見送ってくれているだけなのかもしれないが、不気味なことこの上なかった。

「あ。小夜子は無口で恥ずかしがり屋さんなだけで、根はいい子なのよ。悪く思わないであげてね」

「う、うう、うん」

 日本人形は小夜子というらしい。美羽にとっては、どうでもいい情報だった。

 背筋をぞわぞわとさせながら、美羽は森の中へと続く小道へと足を踏み入れた。

 王子様のハートを救い出すために。



★★★


 白くて細い指が、ゆっくりとテーブルの上に置き去りにされた絵本の縁を辿る。

 指の主は、シンプルな黒いワンピースに身を包んだ少女だった。

 美羽の中学校の女子生徒から、魔女と呼ばれている少女だ。

 開いたままの絵本に視線を落とし、魔女は薄っすらと笑みを浮かべる。

「招待状もないのに、勝手にゲームに参加するなんて、いけない子ね」

 絵本の中では、人形たちがお茶会をしている。

 お姫様と日本人形と、テディベア。

 それから、もう一人。

 えんじ色のブレザーを着た少女が、そこには描かれていた。


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