第三話 水鏡 / 1
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大きな部屋には殺風景に椅子が二つと、隅に机がポツリと置かれているだけだった。機能だけを備えた不格好な時計が針の音を響かせている。窓から覗く曇天は灰色の気分にさせてくれる。
「では報告を受けましょうか」
片方の椅子に座っている、ただ黙っていれば女性と見間違えてしまいそうなその人は、私に対して当たり障りのない笑顔を見せた。この人は常にこの様な顔をしていた。私が知る限りこの人が憤怒したり嘆いたりした事は無い。いや、顔をしかめる事は多いかも。まあ主に私の所為なんすけどね。
「二人からは既に報告を受けていますので簡略して結構ですよ」
書類をぱらぱらと捲る音がこの広い部屋に何故か響く。
「あの……ですね……。鬼神さんが……その……」
事実をありのままに話せたらどんなに楽だろうか。しかし先輩達が鬼神さんと交わした約束がある限り私も告げる言葉を選ばなくてはいけない。
その人は急にムスッとした顔を作ると、手に持っていた書類を丸め私の頭を軽く叩いた。
「そう言う態度は取らないって言ったでしょう? 何時も堂々と行動しなさい。ただでさえ菅江君は若いのだから、甘く見られたら終わりですよ」
「はい、すんません」
再び紙の棒が私の頭に振り下ろされた。軽い音が心地好い。
「すみません、でしょ? 菅江君の話し方を私は大いに気に入っていますが、謝罪の言葉だけはちゃんとした言葉にしなさいって何度も言いました」
「す、すみませんでした」
その人は「宜しい」と言って丸めた紙を元に戻す。結構大事そうな書類に見えるのに平気なのかな。
「で、一色朱水がどうしたのかな?」
「……噂通りの方でした。第一を殺した時なんて正しく鬼神が如し、です。自分、殺されるかと思いました」
間違った事は言ってない。あれは本当に危険な存在だった。
「ほう、それほどまでの恐怖を君に与えたんですか」
「恐怖なんてモノじゃないですよ。でもその後直ぐに落ち着かれましたけどね」
その人はペンを持つ手を下げた。書類に書き込むような事ではないからであろう。
「そうですか。それよりも聞きたいことがあります」
その人は組んでいた足を解き、私の目をまじまじと見つめる。
「尼土有という魔について報告しなさい」
……来たか。わざわざ名指しなのはやはり何かを感じ取っているからなんすかね。
「尼土さんは一色さんの部下であると共に親友みたいです」
とりあえず一番言いやすい部分で尚且つ一番重要な部分を言葉にする。有君の存在を手っ取り早く把握して貰うには最良の言葉だ。しかしやはりそんな事だけでは納得はしてくれなかった。
「他には?」
「他に、ですか? え〜とぉ」
その人は私の目から目線を一切外さない。私が何かを隠しているのを見抜いている目だった。
「矢岩君も高海君も報告文はそれしか書いてないんですよ。流石にこれはおかしいと思いません?」
「何がですか?」
「あの二人が一色朱水の、鬼神の特別な加護を受けている魔についてたった一行の文章しか書かないことですよ。どの様な力だとか、どの様な性格だとか、書かれるべき内容が書かれていないんですよ」
「は、はぁ」
その人は私の手に自分の手をそっと添える。やっぱり来たか。この人は何でか触れた者の感情をわかってしまうんだよなぁ。
「おやおや、困惑ですか。でも答えてもらいますよ?」
どうしよう。この人相手に嘘なんてつけないっすよ。それにつきたくもない。私にとってこの人も又、この憎悪と自己満足が蔓延する世界の中で私を救ってくれる人なんだから。
「例えば?」
ここは敢えて自分からでなく相手の欲しい情報を探ってみようではないか。
「彼女の力はどの様なものでした?」
うぉっと、いきなり大ピンチっす。こっちはそこを一番隠したいんですってば! ここは何とかして誤魔化さなければ……
「え〜と、そもそも私達の前で力を使ったりしませんでしたのでどういうものなのかは分かってないです」
内心の動揺を見抜いているのか、その目は一層眼光を強める。
「…………そうですか。なら話は変わります。そもそも何故一色朱水が君達に協力するなどという理解し難い状況となったのです?」
あちゃ〜、これまたまさに核心だ。
「えっと、彼女は落ち着いているときは中々良い人でして、こっちが頼むと多少の協力をしてくれると約束してくれたんです」
私の話が終わらないうちに私の手を握る力が少し強まる。
「菅江君、私がその程度の報告で満足すると思いますか?」
「ど、ど、どういう事でしょうか?」
「あの鬼神が、人間に、自分の縄張り外の、ましてや影という自分達の前身であるようなモノを狩ることにそんなに協力的になるとは普通は思いませんよ……ね?」
マズい、眉がぴくぴくしてきた。かなり苛ついているみたいだ。でもそれは違うんっす。あの人はどういう理由でかは知らないんですが、第一を狩る事には一切不快感を抱いていなかった様なんすよ。
「えっとそれは……ああ、交換条件です」
「交換条件?」
「はい! 私達の手の内を……見せ…………うげっ」
やばい、今私はとんでもない事を口走ってしまった。間違いなくこの人相手に言ってはいけない事をだ。恐る恐るそのお顔を拝見すると案の定、眉同様に頬もひくついていた。
「まぁぁぁぁさぁぁぁぁかぁぁぁぁ、持ち出した神器などを事細かに説明なんてしていませんよねぇ?」
「……………………すみません」
「後で三人とも罰則決定」
鏡先輩、玄先輩、すんません。自分、これでも全力を尽くしたつもりっす。甘んじて罰を受けましょうよ。
「それを交換条件に影の討伐に力を貸してもらえたって事ですか?」
「はい……そうです」
最悪ですね、と私に対して睨みを利かせながらその事をしっかりと書類に書き込んでいた。嫌な汗がどっと背中を濡らし始めた。
「ならばもう一つ訊きたいことがありますね。何故彼女は尼土有をその場に連れて行ったのでしょう? 彼女なら他の魔の力を借りる必要は無かったのでは?」
うわ〜、またもや核心だ。そんなの答えられませぇ〜ん。
「さあ、わかりません。きっと尼土有さんには鬼神さんにとってとても有利な力を持っていたりするのではないのでしょうか」
その人は私の手を握って何かを考えていた様だが、暫くすると手を解放してくれた。
「そうですか。ならもう退室して結構」
「は、はい」
やったぁ〜、何とか無事に乗り切れた。まあ、多少の罰則があることから目をつぶれば、の評価だが。そこんところは先輩達も大目に見てくれるはず……はず。
私がドアのノブを掴もうとするとその人は突然立ち上がり私に真剣な眼差しを向けた。
「私がどの様な立場であるかわかっていますね?」
「はい。削魔遂行部強行班の総班長、春日井 京 鹿さんです」
「ならば私が上の情報をかなり知っていることもわかりますね」
上の、と言うのは恐らく削魔遂行部を取りまとめる人達の事だろう。それより上のお役人さんのほとんどはこういう事に知識を割いていないと言う。
「はい」
その人、春日井総班長は何かを躊躇いながらも私に教えてくれた。
「上は尼土有という魔にかなりの興味を示し、何やら動きを見せていました」
「……そうですか。教えて頂きありがとうございます」
「こんなこと貴方達三人にしか言いません。ですから他人には口外無用ですよ」
春日井総班長は手を振って私を送り出した。
どういう訳か、春日井総班長は私に上の情報を教えてくれた。
「どう思います?」
鏡先輩はファーストフード店特有の塩っぽいポテトを口に咥えながら答える。ここで食事をとるのは先輩からのお誘いだった。先輩はこういうお店の方が気楽でいいというのだけれども、その癖一人で入るのが苦手らしく必ず誰かと一緒じゃないと駄目らしい。多分『自分じゃなくて相手の提案ですから』みたいな事を周りに示したいんだろう。妙な所でプライドを張ってしまう先輩だったが、私は私で呼ばれる事に全然嫌な気分はしない。奢ってくれるんすもん、最高っすよ。
お昼時のために周りは学生よりもスーツ姿のおじさん達や親子集団だった。私達の隣の席に座らされている小さな男の子が私達に手を伸ばして何かを訴えていたので私はそれに手を振って応えた。
「そうねぇ。私達に何か行動を起こせと言っているのはわかるんだけど……」
「行動、ですか?」
「そう」
鏡先輩は私のドリンクを飲む代わりにポテトを私の口に差し込んできた。因みにこんなに人がいる場所なので当然具体的な固有名詞は口に出していない上での会話である。
「その言い方はつまり『直接の指示はしていない』っていうことなのかもね。要するに責任は私達にあるので好きにやって構わない。その代わり総班長は責任を負うつもりは無いって言いたいのよ」
「そうなんすか。でも何が起きているのかさえわからないのに行動と言われても……」
鏡先輩は何かを閃いたかの様にポンと手を打った。
「そうだ、あんた、張ってなさいよ」
「張る……尾行ですか?」
鏡先輩はチッチッと指を振りながらバーガーの残りを口にする。
「あんた、折角朱水さんに気に入られているんだし、堂々と傍にいなさい」
「え、マジっすか?」
「マジのマジ、大真面目よ。とりあえず『何だか状況が芳しくないんで有君の護衛として来たっす』とでも言えば大丈夫じゃない?」
そんな適当なぁ。鏡先輩って本当に身内には適当っす。
「え、でも任務の方は……」
「多分事前に総班長の手が回っているんだろうけどあんたは暫くフリーよ」
渡してもらった予定表を見ると確かに私の名前が何所にも無い。
「おお、だから自分にあんな事言ったんすね」
尼土有の身の回りで何か起こるかも知れないからとっさの時のために自由でいろ、って事っすか。
「でも変ね。総班長が何故尼土有のことを結果的に保護する様な真似をさせるのかしら」
「そうですよね。普通に考えれば奇妙な話です」
鏡先輩は私が食べ終わるのを待っている間ずっとその事を考えている様だった。
「食べ終わった? なら行きましょう」
鏡先輩は何も言わずに私の分まで片付けてくれた。先輩のそういうとこが大好きっす。
「確かあんたまた本屋行くのよね?」
「はい」
「あんたさ〜、部屋のアレ、どうにかしなさいよ」
先輩が言うアレとは私の持っている漫画等だ。確かに普通の人から見たらあの量は異常なんだろう。
「いっそのこと全て売り払うとかさ、とにかく数を減らしなさいよ。別に今更あんたの趣味にとやかく言うつもりはないんだから」
たまに私の部屋に泊まりに来る鏡先輩は、私の部屋を見て毎回「ちょっとした本屋ね」と呟く。でもその床面積の一部を占める本棚のおかげで、夜は鏡先輩と一緒の布団で寝られるんすから絶対に片付けませんとも、ええ。
「いや〜、あれでも厳選した方ですよ? 好きなのしか持っていませんもの」
「……もう良いわ。毎回言ってると何かしらの変化が見いだせると思っている私が馬鹿なだけよ」
そう言って鏡先輩は私の髪を軽くグシャッと掻き乱すと駅に向かって歩いていった。
「先輩漫画とか読まないもんな〜」
私は私で目的の店へと歩を進めた。