5.無力の後悔
アルガルシア家で寝泊りすることが決まったサオは、二階から降りられた、一階の屋根の上で、膝を抱えて月を見上げていた。長い年月をかけて空気は清浄化されたらしく、星々の瞬きがすぐ目の前に起こっているようにはっきりと見ることができた。
「はぁ……本当にこの体なんなんだ」
リルから借りた女物の寝間着の襟元から胸を覗き込む。まだ胸は膨らんだままだ。まだ控え目だから、気付かれないが、もしも女体化の際に巨乳になっていたら確実に隠し切れなかっただろう。
「原因はよく分からないし」
魔法の一種なのかと思って、魔法の知識を持ったギルド関係者――後で知ったのだがギルドマスターで物凄く偉い人だったらしい――に尋ねてみたところ、能力向上においての身体強化はあるが、肉体そのものを変える魔法は存在しないという。少なくとも今は、と付け加えてはいたが。
「そもそもこの時代に飛ばれたのも意味不明だけどなぁ」
サオは夜の街に響き渡る金槌を叩く音を遠くに聞く。オーク襲撃に備えて防壁を強化しているらしい。もっとファンタジックな強化方法を想像していたのだが、魔法使いの人口比率二割を思い出して、こんな辺境に居ること自体が珍しいらしい。それでも数人は居るようだが、誰も強化系の魔法は覚えていないようで、現在は瞑想によって魔素の回復を活性化しているようだ。瞑想の仕方が座禅というのが、実に極東発祥らしいと思った。
一応は女であるサオは、極東人というだけで保護対象らしく家から出ないように言いつけられてしまった。心は完全に男であるために、戦争を前にして何もしないのは気が引けた。
避難勧告を出された住民の多くはホルンの街へと残るようだった。リルもその一人で「大切な人達を死なせないためにできることをしたいですから」と理由を尋ねるサオに健気な回答をしてきた。
サオは立ち上がって、ため息をついた。
「寝よう……考えてみたら、役に立てることなんてないんだし」
次の日、サオは体を揺すられて目を覚ました。
「あっ、失礼しました。朝食がもう準備できているので……」
上半身だけ起こす。日が昇っていた。貧乏少年だったサオの目覚めは本来は家事のために日の出より早いのだが、やはりファンタジー時代での生活に気付かぬ内に疲れを溜めていたらしく、ぐっすりと眠ってしまっていた。
目やにを指で取り、その際に逆の手で胸をチェック。男に戻っていた。
起こしにきてくれた少女に目を向ける。
「おはようございます。ワタシはエンカといいます。これでも魔法使いなので、護衛は任せてください」
トンガリ帽子に黒いローブ。足元には黒猫まで居た。古典的魔女っ娘フル装備だ。
「僕はサオです。よろしく」
握手の手を差し出すと、おずおずと握ってくれた。
動作がいちいち小動物っぽくて、なんだか乙女心をくすぐる。男だけど。男のはずなんだけど。……男だよな? 最近は本当にそれが分からなくなってきており、サオは困っていた。
エンカから説明を訊くと、どうやらギルドマスターに頼まれてサオの護衛に着いたらしい。まともな戦力は省けず、かといって極東人であるサオを無防備にするのは危険だと考えて、戦場には出すわけにはいかない子ども、それでいて優秀な魔法使いであるエンカに白羽の矢が立ったようだ。
リルはギルド支部に赴いて雑務の手伝いをしており、家を空けるが好きに使っていいと言い残していた。その伝言をエンカから伝えられて、サオはますます肩身の狭い思いがした。
エンカと共に朝食を取り、サオは頼み込んで外へと出た。
「サオ様はどうしてこんな大大陸の辺境へいらっしゃったのですか?」
それは自分も訊きたかった。どうしてこんな辺境の地へと飛ばされたのだろう。運命などを信じるつもりは毛頭ないが、それでもきっと、ここに居る理由があるようでならなかった。それは極東列島を目指さなくてはならないという強迫観念に近いものがあった。
「何かを見つけるため……かな」
「何か、ですか? 難しいです」
会話を交わしながら、ホルンの街へと戻るのに使った門に近づいていく。近づくに連れて、首筋に違和感がし始める。
(近くに変態でもいるのかな……?)
門の周辺では多くの冒険者が集まって作業に取り組んでいた。昨日までは木で組まれた形ばかりの門が、たった一日で城壁のようにそびえている。
「アオリ様が協力してくださったんです」
エンカがどこか嫌そうな顔で協力者の名を教えてくれた。
ギルド所属の冒険者アオリは、巨蟹宮の加護を受ける水属性の魔法使いだ。まだ30歳に届いたばかりだが、流体操作に長けた青髪碧眼の優秀な水使いである。しかし性格には難があり、魔法使いの誇りが行き過ぎて傲慢な振る舞いが目立つ。そのためにギルド内でも、その屈指の能力は高く買われているが持て余しているところがある。
アオリが青銅の杖を振るうと、銀灰色の魔現色がバケツの水をすくい取り、支配下に置いた。
「呼応、清き水は剣なり、弛まぬ流れを刻み付けろ――水令剣」
すぐ前に鎮座された巨大な石に向かって杖を振るう。それだけで音も立てずに石が真っ二つに割れた。
「ウォーターカッターか……」
サオはその光景に呆然としてしまった。
人を殺すにはナイフや銃で十分だが、大量殺人にはもっと強大な兵器が必要になる。この世界ではまさしくそれが魔法なのだろう。二割の才能に傲慢になる人間が居ても不思議ではないと思えた。
「邪魔をしちゃ悪いから、別の場所に行こうか」
ポケットの中でルアからもらったナイフを転がす。
サオはこれから旅をする上で、なんとしても魔法が必要だと思った。
「あれ……?」
首筋にぴりぴりと痛みが走った。
「オークだっ! オークが現れたぞ!」
「馬鹿な早過ぎるっ!」
防壁の上に監視を務めていた男が鋭い叫びを上げる。監視はすぐに街中に響くように、合図の鐘を木の棒で強く叩いた。
「少数だ! 恐らくは『はぐれ』だ! だが注意しろ、他の場所からも入ってくるかもしれん」
守衛長のガネルが大剣と盾を構えて、門の前でどっしりと構えた。
「ここは私が守る。お前たちはすぐにハリスのもとで指示を受けろ!」
慌しくなる戦場が目の前にあるのに、サオには遠くに感じられた。今からオークが攻めてくるのは理解できた。しかし、それを前に自分は何ができるだろう。何をすべきなのだろう。答えを後回しにしていた現実が、サオに襲い掛かる。
「サオ様、逃げましょう! ここに居ては危険です!」
エンカが手を引く。
サオは曖昧に頷いて、なすがままにその場から離れた。
離れる門の方から、ガネルの怒鳴り声が響いてきた。
「そこの冒険者、なに下がろうとしている! 貴様の魔法は今こそ役立てる時であろうに!」
怒鳴られていたのは水使いのアオリだった。アオリは尊大に笑った。
「私の魔法は芸術です。汚らしいオークに使うものではございません」
「何を言っておる!」
「あなたこそ何を言っているのです。それに、私がギルドマスターから請け負った依頼は、防壁の構築だけです。オークとの戦闘は含まれていません」
「ぐぬっ、傲慢な魔術師めが」
「私の相手をしている暇はもうないですよ。ほら目の前を御覧なさい」
「ちっ」
ガネルは舌打ちをして、迫りくるオークと対峙した。オークは全部で十体。並の冒険者ならば対処できる数だ。
ガネルの剛剣が風魔法をまとった如く振るわれて、たった一振りで三体ものオークを葬り去った。恐るべき腕力と剣技である。
「ブタ共が。一匹たりともここは通さんぞ!」
大剣を地面に突き刺して、残った七体のオークを威圧した。その勇ましい姿を尻目に、アオリは悠然と歩きながらその場を去っていく。
サオはエンカの手を離して足を止めた。
「サオ様……?」
「馬鹿みたいだな……僕は、そんなつもりはないけど、あの男と同じみたいじゃないか」
顔に手を当てて、くぐもった笑い声を漏らす。
物語の主人公のように格好良く参戦して英雄になんかにはなれない。戦う力の無い平凡な男子高校生には、剣の振り方すら分からないのだから。
サオは戦場に背を向けて、今度は自分の足で立ち去る。エンカの手は借りずに、自分の足で逃げるのだ。無力な自分を呪いながら無様に逃げるのだ。自分に今できることは、誰の力も借りずに、自分の情けなさを誤魔化さないことだけに思えた。