11.過去の戒め
即座の双方向性の情報伝達は、情報が勝敗を握る戦争においては非常に貴重なものだ。作戦変更をすぐに伝えられ、敵の位置を完全に把握できる。それだけで有利に立てる。思念通信においては傍受や盗聴の恐れも少なく、想いや考えを言葉にするために嘘を吐けない。
だが、ホルン防衛戦においては、圧倒的な敵の数を前にして、あらゆる戦略、戦術が無視される。情報は確かに有用だが、それを生かす環境が無ければ無意味に等しい。
人間側は今、奇跡によって士気を回復して盛り返す勢いだが、それでもまだ勝利には一歩足りなかった。
ハリスはその事実に困惑していた。
サオが行った魔法は奇跡に等しいものなのだ。それでも足りないとハリスの魔法神算が囁いている。その足りないものが分からないのが、魔法神算の欠点だった。
「私は何を見落としているのでしょうか」
ギルド支部の二階から、怪しくなる雲行きを見上げて奥歯を噛み締めた。
『――東門に何か大きな反応が近づいています!』
その時、魔素感知に意識を傾けていたサオから不穏な報告が入った。
東門の戦況に大きな変化が起きた。
サオが感知した大きな反応――つまり膨大な魔力を内に秘める存在が姿を現したのだ。
通常のオークの三倍はある背丈、両手にはそれぞれ鋭く幅広の剣身を持つ巨大な剣が握られている。頭の上に欠けた王冠をかぶり、でっぷりとした腹を皮の鎧が包み込んでいる。
「オークキング……」
ガネルが自分の背丈を越える巨躯の正体を口にした。
「ブグゥァアっ!」
オークキングが口角からヘドロのような唾を飛ばしながら咆哮した。
それだけで守備隊は怯む。オークキングの異様な巨躯と剣が赤く染まっているのは、恐らく奇襲部隊のものだろう。未だ戻らない彼らのことを考えて身震いした。
「いいだろう。お前の相手をしてやる」
ガネルが大剣を地面すれすれを這うように横に構える。
対するオークキングは巨大な剣を胸の前でクロスするように構えた。
「でやぁっ!」
ガネルは相手が構えてから間髪を容れずに、全力の横振りを叩き込んだ。オークキングは片方の剣だけで受け切る。凄まじい力のぶつかり合いに接触部から火花が散った。
「馬鹿力めが!」
自由のままのもう片方の剣がガネルの頭上へ振り下ろされる。ガネルは痛んだ左腕を持ち上げて盾で受け止める。ずしんと重い衝撃が盾から伝播して全身に圧し掛かった。傷口がぱっくりと開いて、鎧の隙間から血が流れ出る。
「ぐぬぅっ!」
オークキングは追撃はせずに仲間のオーク達へと両手の剣を掲げた。
どうやら二人の戦いに、オークは手を出す気は無いらしく、ギャラリーとなって甲高い声で囃し立てる。その様子を見て、ガネルは部下達に手出しをしないようにギルドサインで伝えた。
少なくともこちらが手出ししなければ、オークキングとの戦いの間は前線の動きは止まる。
(過酷な時間稼ぎになってしまったな。やれやれ、ハリスが作戦を思い付くまで、どうか持ってくれよ!)
ガネルは大剣を握り直す。本来は片手で扱うものではないが、持ち前の怪力でまるで片手剣のように扱っている。しかし、その無茶にはそれ相応の代償があった。腕が使い物にならなくなるというほどではないが、まともに振れる時間制限があるのだ。オークの群れとの戦闘では、できる限り両手で振るうようにしていた。
だが、オークキングとの戦闘では盾無しでは即座に真っ二つにされるだろう。
「はぁぁっ!」
ガネルの気合を込めた一閃に、オークキングは両手の剣を使って弾き返してきた。片手の受けからカウンターを警戒していたガネルは、思わぬ返しに体勢を崩される。
「まずいっ!」
巨大な剣の鬼の角のように尖った先端が頭に向かって突き出される。
防御は間に合わない。回避は尚更だ。それに一度交わしたところで、すぐにもう片方の剣に貫かれるだろう。
「ここで死ぬわけには――」
ガネルは眼前に迫る剣を最後まで睨み続けた。
「あなたは、アオリさん……ですよね」
アオリは誰もが勝利を願い祈りを捧げるホールに居心地の悪さを感じて、誰も居ない一階の酒場に移動していた。カウンター席の丸椅子に腰掛けて、棚に並んでいる酒の銘柄を眺めていると、横から声を掛けられた。
そちらを向くと、ホルンの住民であるリルが立っていた。服の上からでも分かる豊満な胸の前で不安そうに手を組んで、今にもオークが現れるかもしれない一階に居るための恐怖からだろうか、足が震えていた。
「ここに居ては危険ですよ。無駄に命を散らせたくないのであれば上に戻りなさい。ああ、私のことはお構いなく。自衛ぐらいはできますから」
それだけ伝えてアオリは、また酒の銘柄を眺める。
隣に立つリルの気配が無くならないことを疑問に思ったが、意識の外に追いやることで無視した。アオリの意識はここにはあるが、今には無かった。
「以前の襲撃の時に……助けてくださったアオリさん、ですよね」
アオリの意識が一気に現代へと引き戻される。怯えたような目で、こちらを見つめてくるリルと視線を合わせた。リルは懇願の眼差しを向けてくる。
「あの人違いでしたか……?」
「いいえ、間違いないですよ。私もあの時、ホルンに居ました」
「どうして……戦われないんですか? あなたは、あの時、誰よりも率先として戦場に立ってくださいました。あっ、戦わないことを非難している訳じゃないんです! ただ、以前守ってくださったから、守りたいものがここにはあるんじゃないのかなって――」
「――守りたかった者はみんな死んでいきましたよ」
アオリはテーブルの上に広げた手の平を見下ろす。あの時の記憶が蘇り、血にまみれているようだった。
「ははっ、おかしいですよね。こんなに強大な力を持っているのに……見てください、手が震えるんですよ」
リルは目の前で恐怖に震えているアオリの手を握った。
彼は以前の襲撃の際に、誰よりも果敢に戦い、多くの命を守ってくれた。リルも助けられた内の一人だ。戦いが終わりお礼を伝えようとしたが、戦後処理で忙しいと断られてしまい、気付けば彼はホルンの街から去っていた。
そして、数年振りに出逢った彼は変わり果てていた。
傲慢で他人を見下す腐った貴族のようだった。防壁をたった一日で築き上げる魔法の腕は、数年前とは比べ物にならないほどに成長していた。いや、成長し過ぎていた。
「あなたの魔法も……誰かを守るために強くなったんじゃないんですか」
「ははっ、笑えますね」
アオリは疲れ切った笑みを浮かべる。
水を鞭のように操って、棚から一本酒を手に取る。
「こんなふざけた曲芸はできるというのに……肝心なことには使えない」
アオリは銘柄が見えるようにリルへ酒を手渡す。
「……『神無月』。極東製、まあ日本酒というやつですよ。彼女はこれが好きだった。酒が苦手な私を引っ張って、毎日浴びるように飲んでいましたよ。酒は匂いを嗅ぐのも嫌だったんですが、彼女の酒を飲む姿は本当に可愛らしく……いつもは生意気な物言いばかりするというのに、酒を飲んだ時だけ甘えてくるんですよ」
アオリの乾いた笑い声が静かな酒場に響き渡った。
「恋人ですか……?」
「いいえ、旅の仲間だったんです。以前のオークの襲撃で……」
「お亡くなりに……なったんですか。オークにやられて」
「いいえ! 違います!」
アオリが杖をテーブルに叩きつけて突然立ち上がったのに驚いて、リルは手に持っていた酒瓶を落としてしまう。酒瓶は木製の床の上で小さな音を立てて砕け散った。透明な液体が床を伝い広がっていく。
割れた酒瓶を見下ろして、アオリが狂ったように笑っていた。髪を掻き毟り、目を血走らせて、涙を流す。噛み締めた唇から血を流しながら言った。
「私が……彼女を、タニアを殺したんですよ」
リルはアオリの言葉に声を失う。
どういう意味だろうか。そのままの意味ではないのは確かだ。そうでなければ、人はあんな風に狂ったりしない。
アオリの心を救い出せる言葉を探そうとして――酒瓶が割れた時より大きなガラスが割れる音が響いた。
二人は即座にそちらを向く。出入り口のウエスタンドアの横の窓が割られていた。窓の外にはオークが一体立っていた。獲物を見つけて剣を掲げて声を上げる。
「アオリさんっ!」
アオリはその場でうずくまって逃げようともしなかった。
「彼女と同じ場所で果てるのもいいかもしれませんね。元々ギルドの依頼とはいえ、ここには来たのは終わらせるためだったんですから」
腕を持って立たせようとするが、逆に振り払われてしまう。
「私を置いて上へ逃げてください。上なら守衛が何人か待機していたでしょう」
「一緒に逃げるんです! 命を無駄にしないでくださいっ!」
「私は無駄な生を歩んできただけです」
リルはアオリのローブの襟元を掴んで頬をビンタした。
「あなたが無駄だと思ってもルアやロッドは無駄だと思ってないから戦ってるんです!」
気付くとリルは涙を流していた。サオが行った魔法でもまだ奇襲部隊の生存者は確認できていない。生存が絶望的であるのは、ギルド関係者の様子から分かってしまった。
彼らが命を賭けて救おうとした命の一つが、無駄に散らせようとしている。それを見たリルには耐えられなかった。怒りよりも悲しみが押し寄せる。それと共に悔しかった。尊敬される魔法使いだったアオリが性格を歪められ、「命を大切にしろ」と教えてくれた人が自らの命を安く扱っているのだから。
「ああ、思い出しましたよ。あの時、泣いていた女の子ですね……立派に成長しましたね」
リルはアオリから手を離した。
アオリは自分の足で立っていた。震えながらもきちんと、力強く立っていた。
アオリは割れた窓から侵入しようとするオークを睨み付ける。
「呼応、清き水は剣なり、弛まぬ流れを刻み付けろ――水令剣」
魔素を水へと変換して水の剣を宙へと生み出す。
「行け、行ってくれ……行けぇぇぇぇっ!」
窓枠に引っ掛かって侵入に手間取るオークに向けて剣を飛ばした。水の剣はオークの頭部を串刺しにする。生命活動が止まったのを確認すると水は形を失い、ただの水溜りになった。
「はぁはぁはぁ……」
ただオークに向けて魔法を使っただけなのに、凄まじい精神負荷がアオリを襲っていた。過去の襲撃の時にできたトラウマがアオリを蝕んでいく。杖を持った手が震える。視界がぼやけてくる。
「きゃぁぁあっ!」
アオリの意識は悲鳴によって呼び覚まされた。
背後を振り返ると、リルが裏口から侵入したらしいオークに羽交い絞めにされていた。
「助け……てっ!」
首を絞められているのか、リルの声が掠れていた。
先程のアオリの魔法を目撃しており、オークは自分の命を守るために人質を取ったのだろう。そうでもなければ、即座に殺しているか、巣まで持ち帰ろうとするはずだ。
「あっ、ああ……」
アオリの魔法制御ならばリルを躱してオークだけを気付かれずに始末できる。
だが、アオリは過去に縛られていた。
かつて、まだ未熟だった自分もまた、ここでタニアを人質に取ったオークと対峙したのだ。戦いが終わり油断をしていた隙を突かれてしまい、今のリルのようにタニアは羽交い締めにされてしまった。
『助けて、アオ……』
過去の幻影がアオリを惑わせる。
『大丈夫だ、すぐに助ける!』
アオリはあの時、水令剣を操って――そしてオークを殺した。
だが、どうしてだろうか……なんで、タニアまで血塗れになっているのだろう。オークは殺したじゃないか。もうきみを傷つける者は存在しない筈なのに!
倒れたタニアを抱き寄せて、必死に呼び掛けた。
『ありがと、アオ……でも、魔法、もうちょっと練習必要かもねっ』
冗談めかした言葉を最後にタニアは動かなくなった。
あの時の慟哭が、脳内に響き渡る。杖に集める魔素が霧散する。
「うあ、あぁぁ、うぁぁぁぁ……!!」
必死に魔法を修行した。何度も何度も何度も何度も、あの時の光景を振り払うように、水令剣を鍛え上げた。誰にも認められた。ギルドからもたくさんの依頼を任せられるようになった。それでも隣にはきみが居ない。
同じ状況になったら絶対に救えると自信を持つことができたから、魔獣を攻撃することすらできなくなっていたのを誤魔化して、ホルンの街へやってきたのだ。
オークの襲撃がある。それを聞いて武者震いをした。
だが、オークを目の前にした時、やはり耐えられなかった、震えが止まらなくなり、魔法がまともに使えなくなってしまった。戦場を背を向けたとき、泣きたくなった。大丈夫だと思ったのだ。オークが相手ならば戦える……そう思っていたのだ。
傲慢に振舞い続けて、戦闘では魔法が使えないことを偽り続けて――そして、ようやく訪れたあの時の再来に、アオリは何もできなかった。
「なんでだ、なんで私はっ! さっきはできたじゃないか! 戦えたじゃないか……っ! どうしてだ、応えてくれ魔素よ! 私は今度こそ救いたいんだっ!」
オークが本能的にアオリの危険度が低いことを察知すると、リルの首元に刃を当てた。
悲鳴を上げるリルを前にしても、アオリは魔法を使えなかった。