10.戦場の支配者
サオは路地裏に打ち捨てられた箪笥に身を隠していた。ギルド支部に続く街路を顔だけ出して覗き見る。オークが三体、ブギブギと聞く者に生理的嫌悪感を与える鳴き声を上げながら歩いていた。街中には既に人の姿はない。全員ギルド支部に避難していた。街中に配置されていた守衛達は、それぞれ人出の足りなくなった前線へと向かってしまい、僅かに防壁を乗り越えて侵入したオークは野放しになってしまっている。
「うぅぅ……どうしよう、あの道を通る以外でギルドに行く道なんて分からないよ」
裏道などで迷っている内にオークに遭遇してしまったら、一人で行動中のために、今度こそは殺されるか、体が女になっていれば犯されてしまう。
『それに魔女さんとの思念通信は繋がらないし』
ずっと声を掛け続けていたことで、思念通信の要領を得ることはできたが、肝心の通信相手が不在では意味がない。
サオはもう一度街路を確認する。
「やばっ」
こちらにオークが一体近づいてきていた。人間以上の嗅覚で隠れているサオに気付かないまでも、違和感を感じて調べに来たのだ。
サオは忍び足で路地裏を奥へ進む。
すると、すぐに行き止まりにぶち当たってしまった。防壁はよじ登ることも可能そうだが、防壁の外に出る方が危険な気がした。途中で住居の裏口の扉があったが、鍵が閉められており開きそうになかった。
「運無さ過ぎるよ、僕……!」
仕方なく急いで引き返すが、路地裏から出ようとした際に、ちょうど住居の陰からこちらへ入ろうとしてきた何者かと正面衝突した。
衝突した拍子に、サオは尻餅を着く。
相手はブヒと鳴いた。
パンは銜えていないし場所は戦場。
ロマンスなどありえなかった。
目と鼻の先には森の中で見た醜悪な顔があった。オークは獲物を見つけて歓喜の声を上げる。それに気付いた仲間のオークが走り寄ってくる。
声も体も震えている。ファンタジー生物との戦いなど、現代日本人には難易度が高過ぎる。初心者に最初からルナティックをやらせるようなものだ。
(――だが、もう慣れた!)
しかし、サオの凄まじい順応能力はそんな杞憂を打ち払う。
「チェストー!」
鹿児島的な掛け声と共に、隠れるのに使っていた箪笥をオークに向けて押し倒す。ゲビと妙な声を出して運命の出会い頭アタックを交わしたオークを下敷きにした。
結果を確認せずに、サオは箪笥の上に飛び乗った。
「見知らぬ異種族に上に乗られる(男だけど)女の気持ちを知れっ!」
くぐもった奇声が箪笥を揺らして足裏に伝わってきた。その感触の気持ち悪さにサオは地団駄を踏むように箪笥を踏みつける。踏むたびにオークがアベシ、ヒデブ、ヘプボと世紀末的な悲鳴を上げた。
痛めつけているうちに、続く二体が仲間が甚振られているのを目撃して、目を血走らせた。出刃包丁のような剣を引き抜いて、じりじりと迫ってくる。
サオは路地裏からの退路が断たれたことを悟り、すぐに引き返した。勢いをつけて壁によじ登る。壁の縁に引っ掛けた手で体を引き上げた。曲げた肘を腕立て伏せから起き上がるようにして、体を持ち上げると上半身が防壁を越えた。
「うわっ……」
防壁の向こう側には複数のオークが隊列を組んで、街へと向かってくるのが見えた。
逃げられないことを悟ったサオは、足元まで近づいてきて喚き立てるオークの顔面に着地した。ヌルポとエラーっぽい鳴き声を上げたので、「おまけだ!」とガッと蹴りを入れておく。古典的な様式美である。
残る一体は完全に油断が無かった。非武装で女っぽい奴ではあるが、仲間が二体やられてしまったのだ。いや、だからこそ警戒した。
大して中身の詰まっていない脳味噌で考える。
だが、結局出てくる答えは、気をつけて倒せば問題ないお! という赤信号皆で渡れば怖くない、という安易というか無謀というか……単純に馬鹿だった。
馬鹿は馬鹿でも凶器を持った上にかよわい男の娘よりは力を持つ魔物だ。
サオにとっては脅威に違いなかった。それに、流石に二度も使っていれば不意打ちのような攻撃は利かないだろうと思った。
場は硬直状態に陥り、緊張の汗が両者の額から頬を伝う。
睨み合っていれば少なくとも時間稼ぎはできる。このまま引き伸ばして何か策を練るしかない。そう考えたサオを嘲笑うように、路地裏にオークが五体増援で現れた。
「ちょ、おま……」
これには流石に声を失う。
サオはパニックになる頭で必死に魔法が浮かび上がれと祈りを捧げる。自分と名前の同じ聖者サオでもいいし、脳内魔女さんでもいいから助けてくれと必死に祈った。
しかし、非情なことに加勢を得たオークが、剣を振り上げてサオに向かって突っ込んできた。
「くっ……!」
サオは本能的な恐怖に無駄だと分かっていても体をまるめて死の瞬間を待った。
激しい衝撃音が響く。突風がサオを襲った。
だが、一向に刃は自分を切り裂かない。
「あれ?」
目元から腕をどけて前を見ると、右隣に立っていた二階建ての住居の裏口の扉が開いており、中から猫が姿を現した。扉の向こう側にオークが地面に突っ伏していた。どうやら勢い良く開いた扉へと運悪く激突したようだ。
「この猫って確かエンカちゃんのミヤじゃ」
夜を縫って形作ったような黒猫。金の瞳は夜天に輝く月のようだった。
「ありがとう、ミヤ」
サオがお礼を言って撫でようとすると、ミヤはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「あんたのためにやったんじゃないわ。私のためよ」
「………………」
オークがまだ残っていることを忘れるぐらいにサオは混乱した。
(あれ、この猫……いま喋りやがりましたか?)
落ち着くんだと自分に言い聞かせる。時は魔法時代、猫が喋るなんて寧ろ使い古されているぐらいの定番ネタではないか。
「へ、へぇ、魔女の猫は喋るもんだよね。流石はファンタジー時代、ビバ魔法文明」
「意味が分からないわ。それに魔法使いの使い魔には喋る猫も居るけど、この黒猫はただの猫よ。少なくとも今の段階では喋ることはないと思うわよ」
猫の声の特徴から、サオはミヤの正体に気付いた。
「まさか魔女さん? 猫だったんですね」
「違うわよ! 思念通信は疲れるからこちらに依代を用意しただけ! ってそれより逃げるわよ! 付いて来なさい」
ミヤが身軽に身を返して家の中へと駆け出す。
サオはオークがこちらに警戒からかにじり寄るように接近してくるのを見て、慌ててミヤの背中を追った。
「あの魔女さん、ギルド支部に向かいたいんです」
「わかっているわ」
「えっ……?」
魔女からの発言は無かったが、やはり思念通信は繋がっていたのだろう。自分がこれからしようとしていることは大体伝わっているらしい。
「あと思念通信について教えてほしいんです」
「あなたの質問はすべて把握しているわ。まず思念通信は私以外とも使える。複数の相手とのやり取りにも使用できる。誰に対してもあなたの交感特性は使える。これでいいかしら?」
「は、はい……」
魔女の神算鬼謀に掛かればサオの思考を読むなど容易いことのようだ。それとも脳内彼女なだけに、すべてお見通しなのだろうか。
「なんとなくだけど、シェイクするわよ」
「ごめんなさい」
やはり思考を読まれているような気がした。
なだれ込んでくるオークと、それを迎え撃つ東門の守備隊の戦いは、絶望的な戦場を展開していた。血を血で洗い、ガネルの剣は血で固めたのではないとかというぐらいに真っ赤に染まっていた。幸いにも人間側の死者はまで出ていない。負傷者はすぐに後方へと運ばれて治療を受けている。そのため、少しずつではあるがオークの大群に押されている状況だった。
敵の数を考慮すれば、決して芳しくない戦況ではない。
だが、東門の外から無限に現れるオークの群れに、守備隊は徐々に心を暗くさせていた。勝ててはいるのだ。押されているが街中へは一体も通してもいない。
守備隊の心を暗くさせているのは、終わりが見えないということだった。人間同士の戦いならば戦術などが見えてくる。だが、今回の戦う相手はオークであり、思考能力は低いためにひたすらに突っ込んでくるばかりで、犠牲すらも考慮していない。だから命を投げ出す戦いを躊躇わずに行うし、休み無く突撃戦法を取ってくる。その攻め方こそが、守備隊の時間感覚を狂わせ、精神を疲弊させるのだ。
「畜生! いつになったら終わるんだよ!」
「くっ、今回は他の門からの襲撃は大丈夫なんだよな!?」
「娘は無事なのか……もう俺は妻のように失いたくはない!」
悲鳴に近い叫びが上がり出していた。
ガネルは大剣を握り締めた。不安を表には出さないが同じ思いだった。無茶ばかりをしようとする息子を思う。寝たきりになっている妻のことを思う。
混迷する戦場へと情報を伝える伝令係が居たはずなのだが、数十分前からそれも途絶えている。十中八九他の門、あるいは防壁やトラップを越えて街中へと侵入されてしまっているだろう。心のどこかに冷静さを残しているからこそ、状況が理解できてしまった。
「私たちはまた失うのか……」
遂に漏れ出てしまったガネルの不安な言葉に、守備隊は絶望的な表情を浮かべる。
その一瞬で、戦線は瓦解してしまった。
オークメイジの魔法が生み出した火球が防壁を砕き、ガネルの腕をオークの剣が切り裂いた。
「ぐぅっ!」
身を捻り、なんとか直撃は避けたものの、ガネルの左腕は過酷な戦闘においては大きなハンデとなってしまった。
「弓隊、下がれ! 防衛線を下げるぞ!」
ガネルが機転を利かせて後退を命じるが、もはや絶望が巣食った心にまでは届かない。
奇跡でもなければ、もはや立て直すのは不可能だった。
『――全員無事です! だから、目の前の敵に集中してください!』
突如頭の中に女の声が響き渡る。
遂におかしくなってしまったか、と呆然とするが、女の声に不思議な温かさと現実感を感じて暗い心の底に響いてくる。
『繋がったか。諸君、聞こえるか! ギルドマスターのハリス・ラインだ。ギルド支部に避難した者は全員無事だ。またすべての門の防衛は成功している。きみたちがそこで本隊を押さえ切れば、我々は何も失わない! 不屈の精神で立ち上がれ、前を見ろ、敵を打ち倒せ!』
どんな魔法なのか、原理は全く分からない。
だが、防衛隊は理解した。奇跡は起きたのだ。
「――了解!」
『戦況は随時この思念通信で伝える。きみたちは私の力を理解しているだろう? 魔法神算できみたちに最適の戦術を伝える。理解しろ、我々に負けはない!』
「――了解! 我らに栄光ある勝利を!」
士気が開戦当初の高いものへ、いやそれ以上になる。
一度は引きかけた防衛線も、すぐに元通りになり、更には押し返していく。
「このブタ共が! もう俺は、俺たちは何も失いはしない!」
「貴様らにくれてやるものなんて一つたりともねぇんだよ!」
凄まじい勢いで戦意を高める人間達に、オークは怯えた。本能的だからこそ、先程まではまるで違うのだと理解できたしまったのだ。
ハリスは目の前の光景が未だに信じることができなかった。
「凄まじい魔素の流れだ……」
少女を中心に溢れ出す無色の魔素が世界へ浸透して塗り替えていく。街全体を覆いそれでも拡大を続けていく。交感魔法によって、戦況マップを網膜投影されているハリスは、その情報の正確さと探知範囲の広さに驚愕から糸目を大きく見開く。
「まさに聖者サオを肖る者に相応しい力。これが極東人の魔法なのか」
ギルド支部の二階にある会議室は、現在作戦司令室として機能している。そこで絶望的な報告ばかりに沈んでいた司令部は、一人の少女が現れたことで一変した。
少女はゼナック兄弟が森でオークから救った極東人だった。
極東人は、日本が滅んだ後では賢者のような扱いを受けている。根本的に魔法への適正が高く、魔法を磨けば誰もが一流へと育つ。ゼナック兄弟の話によると彼女は、一人で旅をしているというのが分かった。
一人で旅をしていける極東人。それは高位の魔法使いの証明と言い換えてもいい事実だった。何故ならば、極東人はそれだけで貴重であり誘拐されて、魔法実験などに利用されることが多いからだ。ただでさえ一人旅は危険であるというのに、極東人にはその価値から更なる危険が伴う。
その一人旅を熟す極東人と聞いて、ハリスは運命的なものを感じた。辺境へと左遷された自分と彼女の出逢いは仕組まれているようにも思えたのだ。
彼女は更にはサオと名乗った。極東人でありながら大胆にも伝説の名を名乗るのだ。他国の者ならば珍しくはない。だが極東人でサオを名乗るということは、それはつまり認められる程の力を持っている筈なのだ。
最初はオークに襲われて撃退できないことを疑いもした。なんせ自分のことを一切話さず、魔法についても語らないのだ。そのことから悪人に誘拐されたのを必死に逃げ出した魔法は素人の極東人である、とハリスは判断した。
極東人であるために聖王教会に後々干渉されても面倒だと考えて、魔法使いを護衛に付けさせた。しかし護衛につけた魔法使いの報告からも、サオが魔法知識に乏しいことのみが報告された。
――だが、どうだろうか。
目の前で奇跡をもたらした彼女の姿は、まるで聖女のようではないか。
無色の魔素がサオを包み込み、まるでそれは純白のドレスのようであった。
「聖者サオの再来ならぬ……聖女サオの誕生か」
彼女にとって魔法は余りに当然で自然すぎるものだから、他人と知識を分かち合う必要もなく、また理解されることもない。
彼女の過去は気になるが、語らないというのなら無理に訊くことはないだろう。
欲張れば羽衣伝説のように去ってしまいそうで、ハリスは深くは問わないことにした。何よりも彼女は危機に陥ったホルンの街を、こちらの無礼を気にせず救ってくれたのだから。
「黄昏! 世界よ繋げ、想いよ届け、求めるは救い――永久の約束!」
サオの魔法に応えて世界に満ちた魔素が淡く発光する。
交感魔法が魔素感知の範囲に居るすべての人間に繋がる。
戦い続ける戦士達に大切な人たちの声援が届けられ、
各地に散らばる守衛達の不安を拭い去り、
前線の守備隊を更に鼓舞する、
ガネルが指示を飛ばす、
リベルが時雨を振るう、
エンカが詠唱鍵を唱える、
リルが大切な人たちの無事を祈る、
アオリが杖を握り締める、
ハリスの神算魔法が戦場を動かす、
そして、その中心でサオは人々の想いを紡いでいく。
サオは指揮棒のように両手を振って、魔女の補助で拡張された思考を使って情報を素早く操作していく。操作の動きがまるで優雅にダンスをしているようで、光の粒子も伴って幻想的な光景だった。
奇跡の正体は常人では不可能な高位魔法の複合によって成されたものだった。
並列思考と高速思考が瀑布のように流れる情報をすべて正確に処理する。
今のサオは言うならば、高度なAIのようであった。感情の要素も情報選択に交えているが、その処理速度はハイスペックPCのように早いのだ。
サオは額の汗を拭って笑った。
「これが僕の戦いですっ!」
戦場で剣を振るうことはできないけれど、誰かに言葉を届けることはできる。
無力を嘆くよりも、今在るすべてを用いて、自分の戦場を見つける。
誰かのためにではなく、誰かのためにあろうとする人たちのためにサオの魔法はあった。
――再び戦う意思を取り戻した人々と、オークの戦争の第二幕がいよいよ始まる。