婚約破棄を仕組んだのは私です ――完璧な偽りの聖女計画 “本物”がいないなら作ればいい
今回はGW特別編。あの不穏な空気の裏で糸を引いていた「彼女」の視点です。
(※本編未読の方も、このお話単体でお楽しみいただけます!)
「――奇跡を、お見せしましょう」
そう言ってゆっくりと手をかざすと、膝をついていた男がみるみるうちに表情を和らげていく。周囲からは感嘆のどよめきが上がった。
「おお……」
「さすが、聖女様……」
その声を聞きながら、私は静かに微笑む。完璧だ。あとは“それっぽく”見せればいいだけで、奇跡なんて所詮そんなものなのだ。
「もう大丈夫です」
優しく声をかけると、男は何度も頭を下げて礼を言う。ええ、どういたしまして。心の中でだけそう返して、私はゆっくりと顔を上げた。
視線の先には満足げに頷く司教の姿があり、この茶番も、私の立場も評価も、すべてが計算通りに進んでいることを示していた。
聖女なんて、もう百二十年も現れていない。なら、用意すればいいだけのこと。“それらしいもの”を。信じる人間がいる限り、それは本物と何ら変わらないのだから。
これが奇跡なんかじゃないことは、私が一番よく知っている。でも、そんなことはどうでもよくて、必要なのは真実ではなく“そう見えること”だ。それで人は救われた気になり、頭を下げ、そこに私という人間の価値が生まれる。
ゆっくりと息を吐き出す。この場所はもう寒くないし、空腹で眠る夜もない。震えながら誰かに選ばれるのを待つ必要もない。全部、私自身で掴み取ってきたのだ。
教会も、この不気味な力も、今の聖女という立場も、利用できるものはすべて使い倒してやった。周りの大人たちは腹の底で、私のことを都合のいい道具として「利用してやっている」と思っていることだろう。
利用されている? 思わず喉の奥で笑いが漏れそうになる。ええ、そうでしょうね。でも、使われるだけで終わるほど私は馬鹿じゃない。
ここまでは順調だ。あとはもう一段、上へ。公爵家という高みにさえ届けば、もう誰にも捨てられることはない。
だから私は聖女であり続ける。本物じゃなくても関係なく、完璧に演じきればそれでいい。これは私が完璧な、偽りの聖女になるための計画なのだ。
最初からこうだったわけではない。気づいた時にはもう“いらない側”にいて、名前も家も知らず、ただ空腹の感覚だけははっきりと覚えている。食べ物は奪うか諦めるかの二択で、私たちが選ばれることなんて決してなく、選ぶ側の人間はいつだって遠い存在だった。
ある日、運良く教会に拾われた。雨風はしのげるし食べ物もあったが、それだけだ。大勢いる孤児の中で、少しでも“使える”と判断された者だけが次に進める。選ばれなければ終わりという事実は、外の世界にいた時と何も変わらなかった。
だから必死に考えた。どうすれば選ばれるのか、捨てられないためにはどうすべきか。答えは簡単で、“それっぽく”振る舞えばよかったのだ。
優しく微笑み、敬虔に祈ってみせる。涙も笑顔も必要ならいくらでも作り出せた。そうやって立ち回っているうちに、周りの大人たちが勝手に「この子は少し違う。もしかしたら」と口にするようになった。
聖女。その言葉を初めて聞いた時は、少しだけ笑いそうになってしまった。そんなもの、いるはずがない。だって本物を知っている人間なんてもうほとんどいないのだから。
でも、だからこそ都合がよかった。疑う者も比べる者もいないなら、それらしく振る舞うだけでいい。司教が値踏みするような冷たい目で私を見た時、その奥に「使える」という確信が宿っているのがちゃんと見えた。ああ、そう。あなたもそう思ったのなら、こっちも使わせてもらうだけだ。
それからは簡単だった。教えられた通りに動き、求められた通りに笑い、少しだけそれらしいことが起きれば大げさに見せる。人は見たいものしか見ない生き物だから、奇跡だと言い張れば奇跡に見える。そうやって、私はここまで這い上がってきた。
もうあの場所には戻るつもりはない。ただ怯えて、誰かに選ばれるのを待つだけのあの惨めな側には。
思考を巡らせているうちに、目の前の少女の泣き声がようやく止まった。
床に座り込んでいた母親が、何度も何度も畳に額を擦りつける。
「ありがとうございます……聖女様……! 本当に、ありがとうございます……!」
周囲からも祈るような安堵の吐息が漏れ、私はゆっくりと手を下ろした。指先から溢れていた不気味な黒い靄は、役目を終えたように静かに霧散していく。
「もう大丈夫ですよ。顔を上げてくださいな」
穏やかに微笑みかけるだけで、また聖女を讃える歓声が上がる。痛みも苦しみも絶望も、まるで最初から何もなかったかのように確かに消え去っていた。
けれど私は人々の目を盗むように、そっと自分の指を握りしめる。感覚が鈍い。ほんのわずか、意識しなければ気づかない程度だが、それが初めての現象ではないことは自分でも分かっていた。
最初は指先で、次は味覚だった。どんなに甘い菓子を口に含んでも、どこか遠い場所の出来事のようにしか感じられない。
まあいい、その程度のことだ。どうせ元々たいしたものなんて持っていなかったのだからと割り切り、再び手を開く。黒い靄はいつも通りそこにあった。使える。まだ問題はない。
「聖女様、本当に……」
声をかけられて顔を上げると、涙を浮かべた人々の縋るような視線がすべて自分に向いている。これが私自身の価値なのだと、胸の奥で静かに納得した。
痛みを消す、それだけの力。けれどその“それだけ”で、私は見上げられる選ばれる側までやって来た。ほんの少し身が削れるくらい、どうということもない。
「次の方を」
何事もなかったように告げると、手元の黒い靄がまた静かに揺れた。
その日、私はカーライル公爵家に招かれていた。
重厚な扉の向こうに広がる整えられた応接室には、静かな緊張が満ちている。値踏みするような、それでいて期待を含んだ眼差しが集まる中、私は静かに一礼した。
「お初にお目にかかります。イザベラと申します」
柔らかな声と整えられた所作。教会で磨き上げてきたすべてをここで使うのだ。
「顔を上げなさい」
低くよく通る声に従い視線を上げると、正面には厳格な空気をまとったカーライル公爵夫妻が座っていた。噂に違わぬ威圧感を持っていたが、ほんのわずかに表情が緩み、こちらに期待しているのがはっきりと分かる。
「話は聞いているわ。痛みを取り除く力を持つとか」
「はい。微力ながら」
夫人の問いかけに控えめに答える。決して誇示はせず、求められた分だけを見せるのが一番効果的だからだ。
「実際に見せてもらえるかしら」
「もちろんです」
促されるまま、腹部を押さえて苦しげに顔を歪める侍女へと近づく。ゆっくりと手を伸ばし、指先から滲む黒い靄でそっと触れた。
その瞬間、痛みがまるで最初からなかったかのようにスッと消え去る。
「おお……」
小さく感嘆の声が漏れ、オリヴィア夫人の目が期待にはっきりと輝いた。公爵も深く頷きながら「見事だ」と称賛の言葉を口にする。
その一言で場の空気が劇的に変わるのが分かった。認められた。ここまではすべて予定通りだ。
静かに手を下ろした拍子、ほんの一瞬だけ指先の感覚が遠のく。まるで自分の身体が末端から自分のものではなくなっていくような消失感を覚えたが、私は眉ひとつ動かさずに完璧な微笑みを維持してみせた。
「素晴らしい力だわ。これほどの力があれば……」
夫人はその先を言葉にしなかったが、言わずとも分かる。これでこの家に入れる。勝利の確信が胸の奥で静かに、けれど熱く広がっていった。
「ルシアン、あなたはどう思う?」
その名前に視線を向けると、少し離れた位置に整った顔立ちで隙のない佇まいの青年が立っていた。無駄のない視線が、値踏みするようにこちらを射抜いている。この人がルシアンか。私はほんのわずかに呼吸を整え、彼と正面から向き合った。
「精霊の気配が、感じられないな」
冷ややかな一言が場の空気を凍りつかせる。やはり来たか。心臓がわずかに強く脈打つのが分かった。完全に見抜かれたわけではないが、力の枠組みという本質へ踏み込まれている。ここで動揺して崩れればすべてが終わってしまう。
私はゆっくりと息を吐き出し、貼り付けたような笑みを決して崩すことなく穏やかな声を返した。
「精霊にお詳しいのですか?」
探るように、けれど決して怯えを悟らせない絶妙な間合い。ルシアンはほんの一瞬だけ目を細め、「多少はな」とだけ言って視線を外した。
深くは追ってこない。引いたのだ。肺に溜まっていた空気を誰にも気づかれないように静かに吐き出す。まだ大丈夫だ。
「私にできるのは、痛みを消すことだけですの」
それ以上でもそれ以下でもないと信じ込ませるため、静かに釘を刺すように言葉を続けた。ルシアンはもう何も言わず、張り詰めていた空気がゆっくりと緩んでいく。
「ぜひ、今後も協力してもらいたい」
公爵の言葉に「光栄です」と深く頭を下げた私の声は、我ながら完璧だった。誰も疑わず、誰も気づかない。ここまで来た。あと少しでこの場所に完全に届き、これ以上自分を削る必要もなくなる。
静かに目を伏せる私の手元には、今日も変わらず黒い靄が漂っていた。
カーライル公爵家への出入りはその後も順調に続いた。最初は招かれる客として、次は当然のように。そして今では、門番も疑いを持たずに自然と通してくれるようになっている。
「よく来てくれたわね、イザベラ」
出迎えるオリヴィア夫人の声は柔らかく、一礼する私を見る瞳にはすでに疑いの欠片もなかった。
ある日の茶会でのこと。私は香り高い紅茶を一口含み、さも世間話のついでといった様子で、ずっと狙っていた話題を切り出した。
「そういえばオリヴィア様。ルシアン様にはご婚約者の方がいらっしゃると伺いましたわ」
「そうなのよ。ローエン家の長女で、セラちゃんというの。いずれあなたが公爵家に仕えてくださるなら、彼女とも関わることが増えるでしょうから覚えておいて損はないわね」
夫人はそう言ってセラのことを語り始めた。活発で良い子だが、貴族令嬢としての型にはまらず少し危なっかしいのだという。彼女を嫌っているわけではないが、その奔放さを明確な「不安」として抱えているようだった。
ならば、その不安を「確信」に変えてあげればいい。私は柔らかく微笑んで、まずは相手の肯定から入る。
「素敵な方なのですね。けれど、オリヴィア様がそれほどまでに案じられるとは。まだお若いようですし、立派な公爵家を支えるお立場になるにあたって、少しサポートする者がいればより安心かと思われますわ」
心配する聖女という完璧な仮面を被り、夫人がわずかに首を傾げたタイミングを見計らって自然な流れで次の石を置く。
「実は私に、とても信頼しているメイドがおりますの。ご婚約者様の教育を少しばかりお手伝いするという形で、侍女としてお側に置いていただくことはできませんか? 私の片腕とも言える子ですので、必ずお役に立てるかと思います」
押しつけず、あくまでも慈愛からの提案を装う。私を信じきっている夫人にとって、それは願ってもない助け舟に映ったようだ。
「そうね。確かにその方が安心かもしれないわ。イザベラ様がそれほど仰ってくださるなら、ぜひお願いしたいわね」
決まった。悟られぬよう静かに息を整えながら、私は内心で嘲笑う。お馬鹿さん。私の駒があなたの隣に立つことも、それが誰を追い出すための牙になるかも、これっぽっちも疑わないなんて。
それから少しずつ、屋敷に潜り込ませた侍女から「報告」が届くようになった。些細な出来事、小さな失敗、危うい行動。どれも嘘ではないが、悪意を持って切り取り方を変えただけのものだ。
「本日も、庭で高い木に登られておりました。足を滑らせかけ、周囲の制止も聞かずに、とのことです」
静かに読み上げられる報告を聞く公爵夫妻の表情が、心配から不安へ、そして「公爵夫人には不向きである」という明確な苛立ちへと少しずつ変わっていく。
「やはり、危険だな」
「悪い子ではないのだけれど……。公爵家としては、このままでは難しいわね」
夫人の口からついにその言葉が出た時、私は初めて深く静かに目を閉じた。地道に積み重ねてきた悪評は、そう簡単には覆らない。
カーライル公爵家を後にして数日が経った頃。
私は教会の一室で、静かに報告書に目を通していた。公爵夫妻の反応は申し分なく、ルシアンも警戒はしているが明確な拒絶はしていない。流れはできている。あとはもう一歩押し込むだけだ。
「イザベラ様。カーライル家より、正式な通達が届いております」
扉の外からの控えめな声に、来たわ、と思わず早足で向かう。神官から差し出された封を受け取ると、物理的な重みはなかったが、その中身はもう十分に分かっていた。
届けられたばかりの封書に指をかける。上質な紙からは、オリヴィア夫人が好む淡い薔薇の香りが漂ってきた。
『親愛なるイザベラ様
先日は、あなたが信頼されているという侍女のアリシアを紹介してくださり、本当にありがとうございました。彼女がいなければ、私たちは身近に潜む不浄に気づけぬままでしたわ。
彼女からの報告を受け、こちらでも再度調査いたしましたが、すべてはイザベラ様の仰った通りでした。信じていた者に裏切られていた事実は痛恨の極みですが、おかげで目が覚めました。
本日、セラ・ローエンに対し「不適格」として婚約解消の通達を送りました。
澱みが払われ、本来の清らかな空気を取り戻した公爵家に、近いうちにまたあなたをお招きできることを楽しみにしております。
オリヴィア・カーライル』
「ふふっ、お疲れ様」
読み終えた手紙を机に置き、私は鏡に映る自分に向かって微笑みかけた。送り込んだ侍女が期待通りに動いた、ただそれだけのことだ。
再調査なんて笑わせる。私の息がかかった侍女が差し出す証拠を、自分の目で見つけたと思い込んでいるだけだ。本当にこの階級の人たちは、自分たちの「鑑識眼」というものを信じすぎていて扱いやすい。
私にとって、セラが本物かどうかなどどうでもいいことだった。ただ彼女は公爵家という「椅子」に座るのに邪魔だったから、自分の駒を使って公爵夫人の手で掃除させたに過ぎない。
あんな無能を嫁に迎えるなんて、この家もどうかしていたのだ。でもこれでようやく、ふさわしい人間が座るべき場所が空いた。
婚約解消を告げる「不適格」という四文字を愛おしげに指でなぞる。視界の端で指先がわずかに震えたが、それを無視して勝利の余韻に浸るように瞳を閉じた。
胸の奥に静かな納得が広がっていく。これで障害はなくなった。最初から大きな問題だとは思っていなかったし、あらかじめ調べはついていた。魔法は不得手で貴族令嬢としての立場も不安定、その上危険な行動も多い。一貫した「無能」という評価さえ積み上げてしまえば、彼女を排除することなど造作もないことだったのだ。
小さく「そう」と心の中で呟く。そこに喜びや達成感といった高揚はなく、綿密に組んだパズルが完成したときのような当然の結果だけがそこにあった。
「次の準備を進めますか?」
控えていた神官の問いに、私は短く頷く。もう迷う理由などどこにもなく、ここからはただ私が「選ばれる側」になるだけだ。
カーライル公爵家。あの場所にさえ手が届けば、もう自分の身を削る必要すらなくなる。そっと手を開くと、指先から黒い靄が静かに揺れた。使える。まだ問題はない。
けれど、握り込んだ指先の感覚はわずかに遠かった。まるで自分の一部が少しずつこの世界から透けて消えていくような奇妙な感覚。しかしそれがどうしたというのか。気にするほどのことではないと判断するのに、時間はかからなかった。
この程度で止まるなら、とっくにやめている。誰に聞かせるでもなく心の中で独りごちる。ここまで来たのだ、あと少しですべてが手に入る。
本物の聖女である必要などない。必要なのは、周囲に「本物だ」と思わせる完璧な虚飾だけ。だから私は絶対に迷わない。
すべては私の計画通り。何も問題はなかったのだと、静かに目を伏せた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はGW特別企画として、本編『無自覚聖女のモフモフ山籠り生活 〜婚約破棄されたので山にこもったら、なぜか信仰対象になりました〜』の裏で暗躍する「彼女」の視点をお届けしました。
身を削り、完璧な『偽物』の聖女を演じ切るイザベラ。
一方、己の力にまったく気づかず、山でモフモフを満喫している『無自覚』な主人公。
果たして、イザベラの綿密な計画は、無自覚主人公の天然な行動によってどう狂わされていくのか……!?
本編の連載もぜひお楽しみください!
少しでも「面白い!」「すれ違いの展開が楽しみ!」と思っていただけましたら、ページ下部より【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】での評価をしていただけると、執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、本編でのイザベラの登場まで今しばらくお待ちくださいませ!




