終わり
出勤の電車は、いつものように混み合っていた。吊り革に掴まりながら、天井を見つめる。脳裏には、プレゼン資料のスライドが何度も流れている。繰り返し復唱した台本も、今では喉の奥に貼り付いているように感じる。
──失敗したら?
──噛んだら?
──資料の一枚でも抜けていたら?
心の奥底から湧き上がる疑念が、いくつもいくつも言葉を持って自分を刺してくる。そんなときも、俺はまた――
「……深呼吸」
小さくつぶやき、喉奥から空気を吸った。目を閉じる。吐き出す。一本の柱を、心の中に通すように。
この言葉だけが、今の俺を立たせている。
◆
駅を出て、職場のビルが見える。
自動ドアの前で、後輩の高橋が一緒になった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
自然な挨拶。けれど、その声がいつもよりわずかに上ずっていたのを、高橋は気づいただろうか。
エレベーターに乗る。上昇する静かな箱の中。誰も喋らない。時間が止まっているように感じるこの空間も、今日はやけに息苦しい。
そして、八階。プレゼンの舞台があるフロア。
カツ、カツ、カツ。
革靴の音が、無機質なフロアに響く。その音が、なぜか昨夜の“足音”を思い出させた。
まるで、自分が自分を追ってくるあの夢の中に、まだ閉じ込められているかのような。
◆
「……準備、整ってる?」
声をかけてきたのは、部長だった。俺は小さく頷く。
「はい、大丈夫です」
口から出た言葉は、完全に嘘だった。大丈夫ではない。喉が渇き、指先が冷たい。なのに、俺はなぜか、歩き出すことができた。
会議室のドアを開けると、すでに何人かの重役たちが席についていた。
ざわざわと書類の音が響くなか、俺の目の前には、大型スクリーンと、プロジェクター。そしてマイク。
「あとは……頼んだよ」
部長がそう言い、席に着いた。
俺は、マイクの前に立った。
◆
静寂。
その瞬間、あの夢の夜道がフラッシュバックした。
自分の足音しかないはずなのに、後ろから追ってくる“何か”。
そして、現れた“自分”の顔。
――「深呼吸」
それが、何を意味していたのか。
今になって、わかる気がした。
あれはきっと、俺の中の“プレッシャー”だ。過去の失敗、周囲の視線、自分への期待と不安、そうしたすべてが形を持って追ってきていた。
でも、“それ”は言ったのだ。
「深呼吸」と。
乗り越える鍵を、あの夢は教えてくれていたのかもしれない。
俺はマイクの前で、静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと――
吸って。
吐いた。
「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」