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深呼吸  作者: 晴天
2/2

終わり


 出勤の電車は、いつものように混み合っていた。吊り革に掴まりながら、天井を見つめる。脳裏には、プレゼン資料のスライドが何度も流れている。繰り返し復唱した台本も、今では喉の奥に貼り付いているように感じる。


 ──失敗したら?


 ──噛んだら?


 ──資料の一枚でも抜けていたら?


 心の奥底から湧き上がる疑念が、いくつもいくつも言葉を持って自分を刺してくる。そんなときも、俺はまた――


 「……深呼吸」


 小さくつぶやき、喉奥から空気を吸った。目を閉じる。吐き出す。一本の柱を、心の中に通すように。


 この言葉だけが、今の俺を立たせている。


 



 


 駅を出て、職場のビルが見える。


 自動ドアの前で、後輩の高橋が一緒になった。


 「おはようございます」


 「ああ、おはよう」


 自然な挨拶。けれど、その声がいつもよりわずかに上ずっていたのを、高橋は気づいただろうか。


 エレベーターに乗る。上昇する静かな箱の中。誰も喋らない。時間が止まっているように感じるこの空間も、今日はやけに息苦しい。


 そして、八階。プレゼンの舞台があるフロア。


 カツ、カツ、カツ。


 革靴の音が、無機質なフロアに響く。その音が、なぜか昨夜の“足音”を思い出させた。


 まるで、自分が自分を追ってくるあの夢の中に、まだ閉じ込められているかのような。


 



 


「……準備、整ってる?」


 声をかけてきたのは、部長だった。俺は小さく頷く。


 「はい、大丈夫です」


 口から出た言葉は、完全に嘘だった。大丈夫ではない。喉が渇き、指先が冷たい。なのに、俺はなぜか、歩き出すことができた。


 会議室のドアを開けると、すでに何人かの重役たちが席についていた。


 ざわざわと書類の音が響くなか、俺の目の前には、大型スクリーンと、プロジェクター。そしてマイク。


 「あとは……頼んだよ」


 部長がそう言い、席に着いた。


 俺は、マイクの前に立った。


 



 


 静寂。


 その瞬間、あの夢の夜道がフラッシュバックした。


 自分の足音しかないはずなのに、後ろから追ってくる“何か”。


 そして、現れた“自分”の顔。


 ――「深呼吸」


 それが、何を意味していたのか。


 今になって、わかる気がした。


 あれはきっと、俺の中の“プレッシャー”だ。過去の失敗、周囲の視線、自分への期待と不安、そうしたすべてが形を持って追ってきていた。


 でも、“それ”は言ったのだ。


 「深呼吸」と。


 乗り越える鍵を、あの夢は教えてくれていたのかもしれない。


 


 俺はマイクの前で、静かに目を閉じた。


 そして、ゆっくりと――


 吸って。


 吐いた。


 


 「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」


 


 



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