誰?
ホラーではありません
夜は、あまりにも静かだった。星ひとつ見えない曇天のもと、街灯もまばらな一本道を、俺は一人歩いていた。コンクリートに足音が響く。カツ、カツ、カツ――それだけが、この夜の唯一の音。
道は郊外へ続く旧道で、車も通らない。右手には草むらが広がり、左手には低い石垣と、その向こうの黒く沈んだ住宅街。風も吹かず、虫の声さえしない夜だった。まるで音という現象が、この空間から切り離されたかのような錯覚に陥る。そんな静寂が、俺を妙に不安にさせた。
最初に違和感を覚えたのは、ほんのわずかな物音だった。
自分の足音に重なるような、もうひとつのリズム。
カツ……カツ……カツ。
俺は立ち止まった。
音も、止んだ。
後ろを振り返る。闇があるばかりだった。街灯の薄明かりが遠くにぽつんと浮かんでいるが、その手前には誰の姿もない。気のせいか……? そう思いながら、また歩き出す。
だが――
カツ、カツ、カツ。
今度ははっきりとわかる。俺が足を出すと、少し遅れて、その足音がついてくる。まるで、俺の歩調に合わせるかのように。
冷たいものが背筋を伝う。俺はコートの襟を立て、歩幅を少し広げた。早歩きになった俺の足音。それにまた、少し遅れてもう一つの足音。
カツ……カツ……カツ……。
追ってくる――そう思った瞬間、心臓がどくんと高鳴った。誰かが、俺の後ろにいる。姿は見えない。だが確かに、そこに『いる』。
足が速くなる。足音も速くなる。ふくらはぎが痛むのも構わず、俺は走り出した。
カツカツカツ――。
足音が追ってくる。地面を蹴る音が、俺と同じリズムで後ろから迫ってくる。
心臓の鼓動が耳にうるさい。肺が悲鳴をあげる。だが、止まれない。
曲がり角。俺は咄嗟に左に折れた。住宅の影に身を隠すようにして、物陰に潜る。
気配が、ついてくる。
見えない。けれど、わかる。誰かが、すぐそこまで来ている。
俺は息を殺して身を縮めた。耳を澄ます。
……沈黙。
何も聞こえない。自分の鼓動だけが、世界のすべてだった。
そのとき――
ピタリ、と足音が止まった。
近い。
それは、すぐそこにいる。
気配だけが、俺を見下ろしている。
声もない。
ただ、“存在”だけが、そこにある。
目を凝らした。
そして、それは現れた。
街灯のわずかな明かりに照らされた“それ”の顔は――俺だった。
目の前に立つ“それ”は、確かに俺と同じ顔、同じ姿をしていた。服装も、髪の乱れも、俺と同じ。
ただ一つ違うのは、その目。深い深い闇を宿していた。
“それ”は俺を見下ろし、ひとこと、口にした。
「――深呼吸」
その瞬間、すべてが崩れた。空間が砕けるように、音も光も闇も、まるごと飲み込まれていく。
気づくと、俺はベッドの上で目を覚ましていた。
呼吸が荒く、シャツは汗で濡れていた。
だが、夢にしてはあまりに鮮明だった。心臓の鼓動が、まだ耳に残っている。
深呼吸。
俺はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
あの“俺”が言った言葉に従って。