死にたがり令嬢の新しい人生
クラウディアは母の名が刻まれた墓石の前で佇んでいた。亜麻色の髪は艶がなくパサついいており肩の辺りで適当に切り揃えられている。深緑の瞳は虚で焦点が合っていなかった。肌も病的な程白く、身を包むベージュのワンピースはところどころ擦り切れていて平民が着るものと大差ない。クラウディアはその場にしゃがみ込むと墓石を右手で撫で、喉から絞り出した声でポツリと呟く。
「…お母様…私、何のために生きてるのでしょうか…」
クラウディアはスカートの裾を捲り、太腿に付けているベルトからナイフを取り出し躊躇いなく首筋に当てる。
「…ここで死ねば…少しはあの人達への当て付けになりますか…」
問いかけても母は何も答えてくれない。母がもし生きていたら、止めてくれただろう。気位が高かった母は父に嫁がされてからすっかり憔悴し、最後は風邪を拗らせクラウディアの行く末を案じて8歳の時に亡くなった。結果、母が案じた通りの結末を辿ろうとしている。自分で問いかけておいて、クラウディアがやろうとしていることは何にもならないと分かっている。家の名に傷を付けることは出来るだろうが、あの人達はクラウディアがここで死んでも罪悪感を抱くことは決してない。面倒事を起こして、と口汚く罵り棺桶を蹴り上げるだけだ。何故クラウディアがこの選択をしたのか、考えることすらしないのだ。そんな人達への当て付けで死を選ぶなんて馬鹿げている。しかし、クラウディアはもう疲れた。それに、このまま生き続けたとして行き着く先は同じ。
それくらいなら今すぐ母に会いたかった。クラウディアは目を閉じ、ナイフを強く握り締めると首筋に刃を突き立てた。
しかし、襲ってくるはずの激しい痛みや血が噴き出る感覚がいつまで経ってもやって来ない。クラウディアが恐る恐る目を開けるとナイフを握った手の上に誰かの手が重ねられていた。その手を辿った先には男性がいた。短く切り揃えられた漆黒の髪に鋭い光を帯びた紫の瞳の精悍な顔立ちの男性で、その表情は険しかった。どうやら彼がクラウディアを止めたらしい。余計なことを、と内心苛立つが表には出さない。男性は自分を見上げるクラウディアに硬い声で尋ねる。
「…お前、こんなところで何をしている」
「何を…こうして私を止めたということは分かっていらっしゃるのではないですか?」
投げやりに放たれたクラウディアの声は苛立ちを孕んでいる。本来ならば止めたことに感謝の言葉をかけられるはずが、余計なことをして…というクラウディアの本心を隠しもしなかった。命を助けたのにその態度は何だと叱責されるかと思ったが、男性の表情は変わらない。
「分かっているが敢えて聞いた。死のうとしていたのだろう?」
「そうです、止めていただいたのに大変申し訳ありませんが邪魔をしないでくださいませ」
「目の前で死のうとしている人間を見捨てる程冷酷なつもりはない」
「では、あなたが立ち去った後にします」
クラウディアは渋々ナイフを下ろすが男性は手を離さない。仕方のないことだが、全く信用されていないようだ。人並みの親切心を発揮されても迷惑なだけだ。
「それも困る。ここには俺の幼馴染もいるんだ。突然人が首から血を噴いて死んだら仰天してしまう。奴は心臓が悪かったんだ、命日に恐ろしいものを見せたくない」
この男性の幼馴染とやらもここに眠っている。彼は墓参りに来てクラウディアに出会してしまった。不運なことである。
「では、幼馴染の方がいらっしゃる場所を教えてください、その方の視界に入らないようにしますので」
だから何処かに行ってくれ、と言外に告げるとそうじゃない、と言わんばかりにため息を吐かれた。
「わざと言っているだろう…その墓、誰のだ」
「…母のですが」
「そうか、お前母親の前で死ぬつもりなのか」
「…何をおっしゃりたいのですか」
「別に。ただ確認をしただけだ」
たったそれだけの言葉にクラウディアは動揺した。第三者から事実を突きつけられることで、クラウディアがやろうとしていることは唯一慈しんでくれた母への裏切り行為なのだと思い知らされる。ナイフを持つ手が震えた。母は死ぬ間際、「私の分まで生きて、置いていくお母様を許して」と言い残した。クラウディアを残して死んだ母を子供の頃恨んだこともあったが、母の願い通り母の分まで生きようと決心したのだ。だから今日までがむしゃらに生きてきて、そしてどうでも良くなった。だから母の元に行こうとしたのだが、果たして母はクラウディアが来たとして喜んでくれるのか。寧ろ自分の願いを無視して、と怒るのだろうか。そう思うと、あれだけ母の元に行きたかったはずなのに心の中に躊躇いが生まれる。その隙を突かれて男性にナイフを取り上げられてしまう。クラウディアは立ち上がって男性に詰め寄った。
「か、返してください」
「駄目だ、何をするか分からない奴に刃物を持たせられるか。わざわざナイフを持って母親の墓参りに来たのか」
「…いいえ、普段から持ち歩いているものです」
「…?護身用か」
男性が怪訝な顔で尋ねる。身なりからして平民にしか見えないクラウディアが護身用としてナイフを持ち歩くことは珍しくはなく、男性もそうだと思っているようだ。だが、そんな普通の理由ではない。正直に話したところで引かれるだろうが、もう会わない人だ。どう思われようとどうでも良い、と投げやりな気分で口を開く。
「違います、何をされても、何を言われても相手をこれでいつでも殺せる、と思うことで自分を落ち着かせるために持ち歩いているんです」
「…は?」
凡そ正気とは思えないクラウディアの返答に男性は理解出来ない、とばかりに眉間に皺を寄せた。今度はクラウディアが隙を突いてナイフを奪い、素早くスカートを捲りナイフを仕舞うと何か言われる前に男性から離れた。
「…ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ここで命を絶つことはしませんので安心してください」
白々しい言葉を残し、この場を立ち去ろうとした時突然目の前がぶれた。立ちくらみを感じ頭を抑えるが、治らない。遂に立っていることが出来なくなり、その場に蹲る。
「っ!おい!」
背後から男性の声が聞こえるが、それを最後にクラウディアの意識は闇へと沈んで行った。
*************
「…」
目を開けると知らない天井が視界に入った。自分の部屋とは比べ物にならない程綺麗な天井だ。首を少し動かして周囲を見渡すと、実家の大広間より広く質の良さそうなテーブルや椅子、ソファーが配置されており明らかに貴族か、若しくは富裕層の部屋だった。どうやらクラウディアはベッドに横になっているが、このベッドも普段寝ているものよりフカフカで気を抜くとまた寝てしまいそうだ。クラウディアは教会の墓地で気を失って倒れてしまったはずだ。そこから先の記憶は無い。ゆっくり身体を起こすと着ている服もくたびれたワンピースから、上質な絹のような肌触りの寝衣に変わっている。
これは一体どういう状況なのかクラウディアは寝起きでぼんやりとした頭で考える。何故自分は見知らぬ部屋に寝ていたのか、誰が運んだのか。そもそもここは何処なのか。訳が分からない状況に静かに困惑しているとドアをノックする音が響き、失礼しますと誰かが入って来た。入って来たのは自分より年上に見える若い女性で、ベッドの上で身体を起こすクラウディアを目にすると水差しの載ったワゴンを引いて近寄ってくる。
「良かったです、目が覚めたんですね。あ、無理して起き上がらなくても大丈夫ですよ」
「あ、あの」
突然笑顔で話しかけてくる女性にクラウディアは戸惑う。恐らく彼女はこの部屋の主人に仕える使用人だ。クラウディアは実家の使用人にこんな風に気遣われたことはない。自分の世話をしにくるメイドは嫌々だという態度を隠そうともしないし、時にはサボることもある。実家のメイドの態度がおかしいのだが、クラウディアにはそれが当たり前だった。
「初めまして、リナと申します。この邸で侍女をしている者です」
「…私は…クラウディアと言います」
「クラウディア様と仰るのですね。眠っている間にお医者様に診せたんですけど、極度のストレスと疲労で倒れたとのことです」
ストレス、確かにここ最近身体の調子も悪かったしただでさえ少ない食事すら食べるのがやっとで胃痛もしていた。あの環境に身を置き続けていれば不調を来しても不思議ではない。
「気分が悪かったり、何処か痛いところはありませんか」
フルフルと首を振る。気絶、もとい寝ていたおかげでスッキリしており鉛のように重かった身体も心なしか軽い。
「ここに運ばれて来た時より少し顔色が良くなってますね、安心しました。クラウディア様紙みたいに真っ白い顔をしてたものですから」
リナはホッとしたと表情を綻ばせると「お腹は空いていますか?食べられそうなら胃に優しいものをお作りします」と尋ねてくる。休んだおかげか空腹を感じるようになっていたので「…お願いします」と告げるとすぐ様部屋を出て行った。
「クラウディア様が目を覚まされたと、ランドルフ様にもお伝えしておきます」
最後にこう言い残して。ランドルフとは彼女の主人であり、クラウディアをここまで運んでくれた人の名前だろう。もしかしなくとも、クラウディアの脳裏には墓地で出会った男性の顔が浮かぶ。どうにもクラウディアに厳しい態度だった彼だが、過激なことを口にする面倒事の塊のようなクラウディアをあのまま置き去りにはしなかった。自己申告していたが、「冷酷」ではないようだ。
しかし、クラウディアは頭を抱える。自棄になっていたとはいえかなり失礼な態度を取ってしまった。倒れたクラウディアをここまで運び医者に診せ、食事まで用意してくれる恩人だというのに恩知らずにも顔を合わせるのが気まずい。それに、クラウディアにはここまでされても対価を支払えるか分からない。クラウディアは悶々と悩むことになった。
そして暫く経つと再びドアがノックされ、リナが料理の載せられたワゴンを引いて入ってくる。隣に墓地で会った男性を伴って。リナは明らかに気まずい表情のクラウディアに気づいていないのか、笑顔で男性のことを紹介する。
「クラウディア様、こちらランドルフ・ヴィクトール様です」
「…ヴィクトール公爵家の方だったのですか…」
男性もといランドルフは爵位を言い当てられ驚いた様子を見せる。平民だと思い込んでいたのにそうでないと気づいたのだ。探るような目でこちらを見てくるので簡単に説明した。
「…この国の貴族の情報は一通り頭に入っております、叩き込まれましたので」
知識として頭に入っているがさっきは色々と追い詰められていて、彼の正体に思い当たらなかったのだ。記憶によればランドルフはヴィクトール公爵家の次男で23という若さながら第一騎士団の副団長を任命されている。今更ながら失礼な態度を取った事実に冷や汗を掻く。
「…貴族令嬢か?」
「ランドルフ様、そういった込み入った話は食事の後にしてくださいませ。栄養失調気味とお医者様にも言われていたでしょう」
前のめりでクラウディアから話を聞こうとするランドルフをリナが諫める。ランドルフはそれもそうか、とあっさりと引き下がるも何故か近くにあった椅子を持ってきて座る。リナは持ってきたミルクリゾットをベッドの上で食事をするためのテーブルに並べると出て行ってしまった、ランドルフを置いて。困惑するクラウディアが恐る恐る尋ねると。
「…あの、失礼ながら…何故残ったのですか」
「食べ終わるまで見張る」
「見張る」
何故?と聞き返すことは出来なかった。ランドルフはどっしりと構えてここを動かないという意思を感じた。いつも1人で食事をしていたから誰かに見られながら食べるのは落ち着かないが、世話になっている立場で何かを要求することは憚られる。仕方ないか、と諦めたクラウディアはリゾットを一口口に運ぶ。
(…美味しい)
実家で出される料理と呼べるのか微妙なものと比べるのが失礼なほど、疲れた身体に染み渡る優しい味に思わず目が熱くなる。が、男性の前で不用意に泣くわけにもいかずグッと堪えた。ランドルフはというと見張るというより観察している、という表現が相応しい目つきでリゾットをゆっくり食べ進めるクラウディアを見ている。やはり落ち着かないが、ひょっとして目の前で倒れたクラウディアを心配してこうして部屋に残ったのだろうか。目を離した隙にまた倒れても対処出来るように。
(…心配性なのかしら)
なんてことを考えているとあっという間にリゾットを食べ終えてしまった。最近食欲が湧かなかったが、味付けのおかげか食べやすかったので完食出来た。時間を見計ったリナが部屋に入ってきて空いた食器を回収してすぐに出て行く。そしてやはり残るランドルフ。食べている間は黙っていた彼が口を開く。
「食欲はあるようだな」
「…とても美味しかったので。あの、ら…ヴィクトール様」
「ここには俺しかいないのだから、名前で呼べ面倒くさい」
相手は公爵家の人間、こちらが気を遣ったにも関わらず一蹴された。気が引けるが本人が言うのだからクラウディアに拒否権はない。
「では…ランドルフ様。助けていただきありがとうございます、そして…先程は大変失礼な態度を取ってしまい申し訳ありませんでした」
「さっきのことは気にしてないし、目の前で倒れた人間を放置するほど俺は人でなしではない」
頭を下げるとランドルフは素っ気なく言った。思い返してみてもクラウディアの態度は無礼なものだった。気づかなかったとはいえ公爵子息にあの態度は叱責されてもおかしくないのに。本人は涼しい顔で気にしていなさそうだ。さて、とランドルフは長い足をこれみよがしに組み真剣な眼差しでこちらを見据える。クラウディアの身体に緊張が走った。
「クラウディア、と言ったな。お前何者だ。服装から勝手に平民かと思ったが、話し方が平民とそれとは違う。食事をしている時の所作も綺麗だった。ヴィクトールが公爵家だとすぐに言い当て、貴族の情報は一通り入っていると言っていたな」
「…隠しておくつもりはありませんでしたが…私はクラウディア・ヘルベルトと申します」
「…ヘルベルト伯爵家の令嬢か。だが見覚えが…長女か」
「はい、引きこもりで妹にきつくあたる悪女とは私のことですよ」
クラウディアが鼻で笑うとランドルフが反応に困ったのが分かった。不思議なことに散々無礼な態度を取って許されたせいか、ランドルフに対しては取り繕うという気が起きなかった。
「私が社交界でどう言われているかはよく知ってますよ、妹が嬉々として教えてくれますからね。あの子は私と違ってドレスも宝石も自由に買えて舞踏会にも好きに出れますから」
「…ヘルベルト家の長女はデビュタント以来社交界に顔を出さず、婚約者が何故か夜会で妹のエスコートをしていると噂になっているが」
「継母が必要最低限の外出以外禁止しているので。それに婚約者も私より妹の方が好きみたいですからね、妊娠させるくらいですから相当ですよ」
突然の爆弾発言にランドルフが目を瞠った。興が乗ってきたクラウディアは構わず続ける。
「一応私が伯爵家の跡継ぎだったんですけどね。父は妹を後継にしたがったんですが、大の勉強嫌いで仕方なく。まあ父は私に実権を渡すつもりはなくずっと面倒な仕事を押し付ける気だったのでしょうが。それでも…いつか認めてもらえると信じていたんですよ、それもさっき全部無くしましたけど」
「…妹を婚約者が妊娠させたんだな」
ランドルフもさっきのクラウディアの荒れていた理由に察しがついたのか痛ましげな表情を見せた。
「ええ、父は妹と婚約者の不貞を責めもせず喜び、子供が出来たのだからと跡取りの座を妹に変えて私は妹の補佐に着くように、と。先程も言いましたが妹は勉強が嫌いなので、面倒なことは全て私がやるようにと命じました」
「それは…飼い殺しにするということか」
ランドルフの額に青筋が浮かぶ。確かランドルフは謹厳実直な性格だと有名で、そんな彼からしたら父と妹、そして婚約者の所業は許し難いのだろう。クラウディアは怒る気すら失せてしまったから赤の他人が怒っているのを見ると、なんだか嬉しいと感じてしまう。
「それで私、今まで死に物狂いで努力してきたのが馬鹿らしくなって唯一自分を慈しんでくれた母に会いに行って…あの人達への当てつけで死のうとしました」
あの人達、という声には抑えきれない憎悪が滲んでいた。無意思に歯を食いしばり膝の上で重ねられた手をギュゥと握る。クラウディアの脳裏には母が死んでからの地獄のような10年が蘇る。
家に寄りつかない父、弱っていく母、母の葬式に来た伯父の嬉しそうな顔、喪が明ける前に継母と一歳違いの妹を連れてくる父、離れに追いやられ母の形見の宝石やドレスも全て妹に奪われ、少しでも反抗すると暴力を振るわれる、使用人すらクラウディアを見下し碌に世話をせず、食事にも嫌がらせで虫を入れられる、父の伝手で出来た婚約者はクラウディアを疎み、妹とばかり交流し仕事を丸投げ、父も伯爵としての仕事をクラウディアに押し付ける…。
クラウディアはいつしか理不尽に罵倒されようと暴力を振るわれようと、母から貰ったナイフを身につけ「いつでも殺せる」と思い込むことで心の安定を図るようになっていった。思い込むだけで実行には移さない。妹や継母を傷つける素振りを見せようものならクラウディアは徹底的に痛めつけられ、殺されていただろう。父のことだ、病死ということにしてクラウディアの死を隠蔽するに決まっている。寧ろ嫌っていた母によく似たクラウディアが死んだら喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「けど、私が死んだところであの人たちの心が痛むことは絶対ない…だから止めてくださってありがとうございました」
思い留まったのだ、と再び頭を下げて礼を言うと、顔を上げ真っ直ぐにランドルフの目を見た。
「これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきませんので、明日にでもここを出て行きます」
「待て、出て行って行く当てはあるのか」
焦ったようにランドルフが尋ねてくる。行く当ては無い。伯爵家には帰りたく無いし、母の生家の侯爵家に頼ろうものなら殺され兼ねない。妹と同じく愛人の子だった母は父の寵愛を笠に着て現侯爵である伯父を散々虐めたとクラウディアに懺悔したことがある。だから自分に何かあっても決して助けてはくれない、と。祖父が亡くなると報復するかのように後妻に入った祖母を領地の治療院に押し込み、母を資金援助と銘打って厄介払いのようにヘルベルト伯爵家に嫁がせ、葬式で嬉しそうに笑っていた伯父。そんな伯父に頼ることは絶対に出来ない。
クラウディアは強がって無理矢理笑う。
「当てはありませんけど…碌な扱いを受けてなかったおかげで掃除は人並みに出来るので…何処かで雇ってくれたら、良いのですが…」
「ならここに居れば良いだろう」
「…はい?」
ランドルフの言葉の意味が一種理解出来ずキョトンとした顔で聞き返してしまう。クラウディアは真剣な顔のランドルフの意図を読み取り、こう言った。
「…ここで雇っていただけるということでしょうか?お気遣いはありがたいのですが、私の腕前なんて素人に毛が生えた程度。とても副団長様の邸で働くレベルに達しておりません。寧ろ足を引っ張り邸の品位を下げます」
リナの働きを見ても、どの動作一つ取ってもスマートだった。あのレベルを求められると分かっていると軽々しく誘いを受けることは躊躇われるのだ。しかしランドルフは顰め面で小さく息を吐いた。
「違う…確かに今のでは伝わらないな…はっきり言おう。クラウディア・ヘルベルト、俺と婚約しろ」
「はい?!」
斜め上なことを言われ思わず声を荒げてしまうも、ランドルフはそんなクラウディアを見ても平然としている。
「…冗談を言う雰囲気ではなかったと思いますが」
「冗談じゃない、本気だ」
「天下のヴィクトール公爵子息様が名ばかりな伯爵令嬢と婚約?メリットどころかデメリットしかありません。もしかして同情されましたか?」
同情することが悪いこととは言わないがクラウディアは身の上を憐れまれているようで、好きではなかった。常に邸の使用人、時々妹に向けられていた感情だから殊更忌避するのかもしれない。
「同情?まあ多少はしているが、それだけでこんなことは言わない。俺にとって都合が良いから提案しているし、お前にとっても良い話のはずだが?なんの後ろ盾もない若い女が市井でやっていくのは想像以上に大変だぞ。それに伯爵家だってお前を探すだろう。頭の良くない妹と婚約者のために必要な存在だ。捕まったら今度こそ飼い殺しの生活かもな」
ランドルフは目を背けていた現実を突き向けてくる。冷遇されていたとはいえ伯爵令嬢、寝るところはあったし一応食事も与えられていたので本当の意味での苦労を味わったわけではない。ほぼ邸に軟禁されていたから世間知らず。そんな人間が市井で暮らしていけるかと問えば答えは否、だ。それに父だってこき使える奴隷であるクラウディアをみすみす逃してくれるとも思えない。今頃血眼になって探しているだろうし、捕まれば死ぬ寸前まで甚振られた上に監禁生活一直線だ。想像しただけでゾッとする。
「お前1人では伯爵家に対抗出来ないが、俺の婚約者になれば話は別だ。婚約者を邸に留めても不自然ではないし、身の安全と暮らしは保証する。俺は社交を殆どしないからパーティーや夜会には避けられないものにだけ出席してくれれば良い。邸に引きこもってようが、何をしようが自由だ」
ランドルフは勝ち誇った顔で提案してくる。聞けば聞くほどクラウディアにとってメリットしかない話だ。しかし、簡単に飛びつくほどクラウディアは馬鹿ではない。警戒心に満ちた目でランドルフを睨む。
「私にメリットはあるようですが、ランドルフ様にはデメリットしかないように思えます」
「こう見えて俺は女に人気があるらしい。結婚する気がないのに毎日釣書は届くし、職場でも縁談を持ちかけられてうんざりしている。その上付き纏う女も後を絶たない。婚約者がいるだけで心労が減るんだ」
つまり縁談除けの婚約者が欲しいというわけか。こう見えても何もランドルフは見て麗しく、少々態度が偉そうだが家柄も良いので狙ってる令嬢が列を成しているのだろう。口調と表情から普段の苦労が察せられる。
「事情は分かりましたが、私が社交の場で何を言われているかご存知でしょう?」
「あんな根も葉もない噂を払拭するのは簡単だ。両親も結婚しないと言い張っていた俺に婚約者が出来ることを歓迎する。それに…」
ランドルフが意地の悪い笑みを浮かべる。
「恨んでる伯爵家の連中に一泡吹かせるチャンスだぞ。当てつけで死ぬよりも、じわじわと嬲った方が効果的だ」
それは悪魔の囁きに等しかった。見下して搾取する対象だったクラウディアがランドルフと婚約する。妹も確かランドルフに熱を上げていた。妹と継母のプライドはズタズタだし、父もクラウディアが自分が手を出せないところに行ったと知れば地団駄を踏んで悔しがるだろう。自尊心の塊のような人間達だから、当てつけで死んでも全く気にも留めないが自分よりクラウディアが優位な立場になれば…クラウディアは歪んだ笑みを顔に貼り付けた。そんなクラウディアを見てランドルフは嬉しそうに笑う。
「何だ、そんな顔も出来るんだな。今まで全く生気が感じられなかったが、楽しそうな顔を始めて見たぞ」
「…そんなに死にそうな顔をしてましたか」
「ああ、こんな提案をしたのもお前…クラウディアを放って置けなかったからだ。短い時間言葉を交わした人間が変わり果てた姿で発見された、と新聞の記事や噂で知るのはごめんだからな」
クラウディアの顔から表情が抜けた。ランドルフはクラウディアが諦めていないことに気づいていた。母に対する申し訳なさはあるものの、クラウディアにはこの世に対する未練があまりない。今は大丈夫だが、いつまたナイフを手にするかクラウディアにも分からない。心の奥底に押し込めていたものが枷を外して表面に出てきてしまったのだ。ランドルフはクラウディアをこの世に繋ぎ止める役割りを担いたい、と思っているのか。今の段階では分からない。
「クラウディアと会ったのもあいつの導きかもしれないな」
「例の幼馴染の方ですか」
「ああ、俺は出来の良い兄に対する劣等感を拗らせて子供の頃は手が付けられない問題児だった。そんな俺を見捨てなかったのが幼馴染とその妹だ」
件の幼馴染の両親とランドルフの両親は知り合いで、その縁で実家に居づらさを感じていたランドルフと度々遊んでいたらしい。身体が弱い幼馴染と外で遊ぶことは出来なかったが、室内で出来る遊びをして過ごしていた。その幼馴染も数年前に亡くなり、現在は妹が家督を継ぐべく勉強しているようだ。クラウディアはランドルフが自分を見捨てないのは、亡くなった幼馴染の最後の姿を知っているから、と勝手に考えていた。儚くなりそうな人間を放って置けないのだろう。
「あいつも妹も、俺は一生独り身なのではと心配していたからな。婚約したと知れば泣いて喜ぶ」
「婚約といっても、利害が一致しただけの関係ですよ」
「…まあ、今はそれで良い」
意味深な呟きが耳に届くが、ランドルフが徐にクラウディアの手を取った。
「クラウディア・ヘルベルト嬢。俺と婚約していただけませんか…大事にすると誓います」
「…胸がときめくシチュエーションのはずなのに、嘘臭さが拭えませんね」
「こっちが慣れないなりに努力してるのに、酷い言い草だな。良い性格してる、本当」
クラウディアが本心を思わず溢すとランドルフは不愉快な顔をすることはなく、これから退屈しなさそうだと寧ろ楽しげである。
どうせ捨てるつもりだった命、流れに身を任せ伯爵家の人間に復讐をするのも良いだろう。母も娘が命を粗末にするより、その方が良いと賛同してくれるはずだ。それに、少なくともランドルフは不誠実の塊だった元婚約者と違いクラウディアには誠実に接してくれるだろう、という確かな予感がしていた。だから恐る恐る、クラウディアは口を開く。
「…ご覧の通り面倒臭い人間ですが、それでも構わないとおっしゃるのでしたらよろしくお願いします、ランドルフ様。婚約者として最低限の役割を果たせるよう努力いたしますので」
こうして愛情の欠片もないプロポーズは成立した。ランドルフはすぐさま、クラウディアへの虐待をネタに父を脅し婚約を強引に認めさせ、クラウディアは実家での暮らしが嘘のような快適な生活を送ることになる。
その後、ランドルフが公の場で「幼馴染の墓参りに行ったらこの世に絶望しきったクラウディアと出会い、放って置けず邸に連れ帰った」と大袈裟にクラウディアとの出会いを喧伝し、それがきっかけでヘルベルト伯爵家に疑いの目が向けられた。長女の婚約者と次女が結婚していたことも相俟って長女を虐待していたのでは?と噂が立ち、潮が引くように周囲から人が居なくなった伯爵家の人間が一悶着起こすことになるのだが、クラウディアが知るのはまだまだ先だ。
クラウディアとランドルフがただの利害関係で終わるのか、それとも別の関係が芽生えるのかもまだ不透明だ。