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訣別

少女の独白

作者: 八神あき

 はっぴばーすでーとぅーゆー

 はっぴばーすでーとぅーゆー


 父と母が笑顔で歌っている。なのに私は怯えていた。うまく笑えているか不安だった。

 父も母も、本心から私に喜んで欲しかったのだろう。たけど私はひどい人間だから、嬉しくなくて。そのひどい心根を必死になって隠した。


 何度も見た夢。

 少しずつ意識が浮上する。無機質なアラームが歌声をかき消して、目が覚めた。


 ゆっくりと瞼を開く。六時半。スマホの画面を叩いてアラームを消した。おぼつかない足取りでベッドから降りる。

 洗面台に立つと、無気力な少女と目が合った。朝見るたびに嫌になる、私の顔。

 誰もいないリビングに入ると、テーブルの上にサンドイッチが置いてあった。その横には置き手紙。


『瑠奈へ

 たぶん起きれないから、置いとくね。冷蔵庫にココア入ってるよ!』


 夜遅いことくらいわかってるのに、律儀にも手紙を残してくれている。

 手紙をテーブルの隅にどけて皿を引き寄せた。

「いただきます」


 母は体でお金を稼いでいる。父が死ぬ前からずっと。

 そのことを嫌悪したことも、軽蔑したこともない。母は私のことを愛してくれている。2人分の生活費も、私の学費も、ぜんぶ稼いできてくれている。それがどれだけ大変なのか想像もつかない。この恩は一生かけても返せない。


 なんの不自由もない暮らし。

 なのにどうして、こんなにも苦しいのだろう。


 食べ終わると制服に着替えて家を出る。

 期末テスト目前のため、教室は心なしいつもより静かだ。

 といってもまだ二年生。あと1年あると気楽に構える生徒も多い。


 授業が始まるまで少しある。

 図書室で借りてきた本を開いた。しばらく読んでいると、扉の開く音。

「今回もがんばってね、鈴原さん」

 教師が通りすがりに肩をポンと叩いていく。


 ずきり、と胸が痛む。

 わかってる。ちゃんとやる。


 いい点を取って、なんになるのかわからない。その先にあるものなんて見えていない。

 けど、何はともあれ、母は喜んでくれる。


 母の顔が思い浮かび、さっきよりもずっと強い痛みに襲われた。


 昔、母を悲しませたことがある。母は泣いて、そのときも父はすごく怒って、私はみっともなく泣きわめいた。

 私が悪いのに、痛くて怖くて我慢できなくて、泣きながら許しを請うた。


 記憶のフラッシュバックから解放されると、授業がはじまっていた。

 急いでペンを取る。ぼーっとしてる場合じゃない。がんばらなきゃ。


 二度と母に悲しい思いをさせないと約束した。

 だから、頑張らなきゃ。


 家に帰ると、リビングから人の気配。

 足が鈍る。顔をもんで笑顔を取り繕い、扉を開けた。

「ただいま」

「おかえり、瑠奈ちゃん! ちょうどご飯作ろうとしてたの! 食べたいものある?」

「うーん、ピザとか、食べたいかも」

「わかった! すぐ作るね! 手洗って待ってて!」

「ありがとう」

 洗面台に向かうと、冷凍ピザをレンジに入れる音。


 耳に残る甘い声、小動物みたいな仕草。

 ああいうのが男の庇護欲をそそるんだろうな。


 不快な想像が頭をよぎる。はっとして顔を上げた。鏡の向こうから般若の如き醜い形相がこちらを睨んでいる。

 何を考えてるんだ、私は。


 冷水で頭を冷やし、表情を整えてリビングに戻った。


 母と食事をしていると不思議な感覚に陥る。

 自分が自分じゃない、もっと大人の、凛々しい男性になって、女性をエスコートしてるみたいな感覚。


 母はくるくると表情を変え、笑い、驚き、悲しみ、すねてみせる。

 私は笑顔を絶やさず適切に相槌をうつ。終わった時にはぐったりして、何の気力もわかなくなる。


 部屋で椅子に深く腰掛ける。学校帰りに買った缶コーヒーを開け、喉に流し込んだ。冷たい苦味が鼻の奥に残る甘い香りをかき消す。


 この缶コーヒーも、母からのお小遣いで買ったものだ。


 バイトがしたい。自分で働いたお金で、コーヒーを飲みたい。

 贅沢な悩みだと思う。全部与えられてるのに、自分で得たいだなんて。


「私のことが嫌いなの?」


 声が聞こえた。鮮明で、脳裏に焼き付いた声。

 違う、違うよ、お母さん。そんなことない、嫌いなんかじゃない。だから泣かないでよ、お願い。


 そうだ、嫌いになっていいはずがないんだ。母は私のことを愛してくれる。心配してくれる。だから勝手なことをしちゃいけない。


 私は何もしなくていい。母がぜんぶくれるから。


 なのにどうしたって私は愚かで、自分で自分を不幸だと思い込んでしまう。


 くだらないこと考えてないで勉強しないと。

 今回もいい点をとって、母を喜ばせないと。

 返しきれない恩に、わすかばかりでも報いるために。


 12時ちょうど、ペンを置いた。伸びをする。眠気がひどい。これ以上は集中できないな。

 電気を消して布団に入った。この瞬間が一番嫌い。


 暗闇の中、自分が死ぬことを考えてしまう。自分が消えて、いなくなって、思考の主体が喪失する。後には何も残らない。それがたまらなく怖い。

 母に言えば慰めてくれるだろう。けれど言ったことはない。愛してくれる人がそばにいるのに、悩みすら打ち明けられない。どこまで愚かなんだ、私は。


 さらに愚かなことに、私は助けてほしいと思っている。

 なんの不自由もなく暮らし、家族に愛され、すべて与えられているのに。苦悩の種なんて存在しないのに。

 それなのに、いもしないだれかに、ありもしない救済を望んでいる。


 涙がこぼれ落ちた。こんな日々がいつまで続くんだろう。

 それに対する答えは決まってる。ずっとだ。


 この恩は、一生かけても返せないのだから。

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