01_病床からの憑依
最期に読んだのは文庫本だった。あぁ、我が人生には悔いが多すぎる。年頃の同性たちは、勉学に励み、スポーツに勤しみ、よく遊び、そして彼をつくり、青春を謳歌していることだろう。
十七歳の中前友梨奈は、ベッドから窓の外を流し目に見た。冬枯れの山々に、わずかに残った草木が愛おしく思う。あの生命力が欲しかった。分けてほしかった。涙は頬を伝うことなく、耳の横を通り過ぎた。
脳に悪性の腫瘍があり、余命二年という宣告を受けてから、きっちり二年が経った。中前はもう起き上がることの無い身体を、フワッと浮いた幽体になって眺めている。手を握ってくれた母の体温を感じていたが、それも感覚が無くなった。
中前は、人生最期に読んだBL小説を思い浮かべた。華やかな舞踏会、女性たちに垣間見える駆け引き、そしてすべてを出し抜いた公爵と王子の禁断の愛。どれも空想の産物かもしれない。しかし、生きてさえいれば、現実にはならなくても、物語を読むだけで幸せな気持ちになれただろう。
霊体となって、この世に存在し続けるのだろうか。それとも生を受けて新しい人生を歩むのだろうか。『次に生まれるなら、身体だけは丈夫が良い。』そう思ったのも束の間、目の前が真っ暗になり、意識は消失した。
「おはようございます。」
気のせいだろうか。声が聞こえる。
「昨夜はお楽しみでしたね。さぞ、お疲れになられたでしょう。」
お楽しみ!?…いや、その台詞はどうかと思いますよ。誰だか知りませんが、ゲームに疎い私でも、隠された意味を知っているからね。
「リーリエお嬢様。朝食のお仕度ができましたよ。」
うん。…うん?
少女は目を開け、ベッドから飛び起きた。その慌てぶりを見て、目を丸くしてキョトンとしている、メイド服のような衣装の女性が目に入った。足がある、身体が自由に動く。鏡を見ると、そこには中前とは違い、白髪で赤色の目をした、可愛らしい少女が映っていた。少女は気を失い、その場に横たわった。
「…リエ…嬢……」
また、声がする。先ほどとは違い、少し低くて艶のある声だ。
「リーリエお嬢様。」
薄っすらと目を開ける。光が目を刺す。リーリエの脳内に、記憶がドバっとよみがえる。
「お嬢様。お目覚めになられましたか。」
「えぇ。おはよう、ヨハン。」
「ご気分はいかがですか。倒れられたとき、お傍でお支えできずに申し訳ございませんでした。」
「あら、よくてよ。貴方は私の部屋に常駐しているわけではありませんし。」
「…それは、そうですね。お口のほうは元気になられたようですから、食事をお持ちいたしましょう。」
そう言って、男性はメイドたちに指示した。
「…ありがとう、ヨハン。さすがね。少しばかり、一人で過ごさせて頂戴。午後のゼーゼマン家ご子息との会食は、申し訳ないのだけれど…。」
「承知いたしました。ご気分が優れないとお伝えし、明後日の時間に変更してもらいましょう。ご子息の予定はこちらで把握済みです。一週間ほどは本領にご滞在とのことで、自由時間がありましたから。」
「そうですか。さすがですわ。」
話し終えてから壁時計を見ると、針は午後の一時を指していた。朝から何も食べていないので、胃が限界を突破している。二分もたたず、メイドたちが食事を用意してくれた。
「ありがとう。入浴の時間まで、部屋にこもりますわ。」
メイドたちはそそくさと出ていった。執事のヨハンも『ごゆっくり』とだけ伝えて、部屋を去った。
「さて、腹ごしらえね。」
「“中前友梨奈”様。貴女のお話によると、私はこのままでは不幸な目に合うということですね。」
「はい。…あっと、なんて呼べ…えっと、お呼びすればよい…よろしいでしょうか。」
「リーリエ、で良くてよ。」
「はい!」
白髪の少女リーリエは、食事を取りながら、自身に憑依した少女と深層意識の中で対面した。朝は“中前”が意識と身体のすべてを乗っ取ってしまっており、動作や思考を抑制できなかった。リーリエはこの数時間のうちに、自身の身体を取り戻し、中前と“意識の中で会話”する術を身に着けた。とんだ特技が増えたものだ。
「わぁ!こっちの世界のお昼ごはん、フレンチのフルコースみたいですね!」
「…オホン。フレンチ、が何かはさておき、お話を進めてくださらないかしら。」
「あちゃ、ごめんなさい。憑いちゃったからには、貴女の運命をしっかりとお伝えするわ。」
不治の病に倒れた“中前友梨奈”は、地球とは異なる世界で、“リーリエ・シャハブレット”という公爵家令嬢、中前が生前に読んでいた小説の“破滅令嬢”へと憑依したのである。