吸血鬼、王女をさらう。
北の森には吸血鬼が住んでいる。
子どもの頃から聴いていたことだが、具体的にどこに居をかまえているのか、吸血鬼は男なのか女なのか、そういったことはまったく知らなかった。興味がなくて、知ろうともしなかった。
自分が関わることになるなんて思っていなかったから、興味を持たないのは当然だ。
「王女、朝ご飯だよ」
笑うような声に睨みを返し、わたしは窓辺を離れた。
ここは北の森の奥深くだ。うっそうとした森のなかに突如あらわれる花園、その傍らにあるこぢんまりした家の、その居間。
わたしはこの家の主人に促されるまま、席に着いた。ここへ来て十日目、わたしの席はいつもそこだ。
素朴な木の卓には、湯気のたつスープの椀と、平たいパンと小さく切ったチーズが並ぶ皿、とれたてのくだもののざるが並んでいる。
「王女は白湯だよね」
「……ええ」
返事をすると、彼はにこっと微笑んだ。
白湯のはいった湯呑みが置かれ、わたしはそれへ手を伸ばす。最初の三日は、食事に毒がはいっているのではと疑っていたけれど、空腹に負けて四日目に食事に手をつけて以来、そういう心配はしていない。そういうものが無駄だとわかったからだ。
彼はそういう小細工を必要としていない。
「戴きます」
彼はチーズをかじり、にこにこしている。本当に、訳のわからないひとだ。
外から牛や山羊の鳴く声がした。裏庭でそういうものを飼っているのだ。
「食べ終わったら、放牧に行ってもらえるかな」
「ええ」
チーズは彼のてづくりで、癖がなくておいしい。宮廷で食べているものよりもおいしいかもしれない。
彼は手庇して、開いた窓から外を見る。「明日辺り雨かもしれないな。僕ははちみつをしぼっておくから、午后ははちみつ漬けの仕込みを手伝ってね」
「はい」
もそもそしたパンを嚙みながら答える。パンは宮廷のもののほうがおいしいが、それは食感によるところが大きく、味だけならばやはりこちらが上かもしれなかった。
彼は大きくパンをかじり、声をたてて笑った。パンが裂けたのが、なにかの形に似ていると大騒ぎだ。
わたしは溜め息を吐いて、彼を観た。北の森の吸血鬼殿を。
わたしはこの国の第一王女だ。多分、今のところは。
この国では、王の息子か、王の娘の婿が王位を継ぐ。そういうふうに決まっている。
わたしには二歳下の弟が居て、宮廷は――というか国は――弟派とわたし派とでまっぷたつに割れていた。ほかにもきょうだいは山のように居たのだが、いろいろあって今はわたしと弟だけしか居ない。宮廷にはひとが死ぬ理由も、追い出される理由も、山程ある。
弟派には母、母の実家、弟の婚約者の家、僧正達、学者達、そして王家の人間の多くがついた。弟には伯爵家のご令嬢という立派な婚約者があり、彼自身の功績も華々しい。
わたし派には、貴族の八割と、議会、民衆がついている。公爵の息子という婚約者も居た。彼は数代遡れば王家につながっているので、婿としては申し分ない。
今のところ、優勢なのはわたしだ。半月前に襲撃され、危うく殺されるところだった。それはわたしが、殺さないとならないくらいの脅威である、という証だ。
弟はわたしのあらさがしで毎日忙しいらしく、宮廷には弟に味方する学者や僧達から頻繁に、わたしの素行に関する陳情書が届いた。贅沢をしているとか、愛人が居るとか、お定まりの誹謗中傷である。
「よっと」
段差を越え、杖を軽く振った。家畜達は賢くて、わたしに従って歩いてくれる。吸血鬼の家から少しはなれたところにある丘は、彼らの食事の場でもある。
わたしは倒木に腰掛けると、伸びをした。
さてその騒動のなかで、どうしてわたしは北の森で暢気に放牧なんてやっているのだろうか。
答えは単純だ。十日前、宮廷に吸血鬼がやってきて、わたしをさらった。
わたしはその時、自室の居間に居て、わたしに関する根も葉もない訴えを書いた人間を捕まえたという、未来の舅の長広舌にうんざりしていた。
それに背を向け、窓辺の鉢にいけた花をいじっていると、突然公爵が黙りこんだ。
息継ぎもせずに喋る彼が黙るなんて、なにか発作でも起こして居るのかもしれないと振り向くと、居たのだ。吸血鬼が。
吸血鬼はぞっとするくらいに美しく、血の気のない肌もつやのない金髪も、それを損なってはいなかった。しかし、困ったような曖昧な微笑みで、折角の美貌が台無しになっていた。
やあ、とかなんとか、吸血鬼は云った。それからわたしのほうへと歩いてきたのだが、倒れて寝息をたてている公爵にあしをひっかけて転んでいた。
周囲を見ると、官女達も倒れているではないか。わたしは焦ったが、気付くと吸血鬼に負ぶわれていた。
吸血鬼はわたしを、まるでおさなごでもあやすみたいに軽く揺らし、ちょっとごめんねえ、と間のぬけたことを云って歩き出した。
廊下には衛士達が倒れていたし、官吏も官女も至るところで寝息をたてていた。控えの間にはわたしの婚約者殿が、官女を膝に抱えて眠っていた。わたしよりも彼の行状をあれこれするべきだと弟に助言しなければとその時思った。
吸血鬼はわたしの婚約者のことについて、戸惑ったみたいに唸り、ごめんねと謝っていた。こういうものは見せたくなかったんだけどと。
弟は前庭に倒れていた。こちらも、婚約相手ではない女性と一緒だ。とはいえ、こちらは外だし、周囲に官吏や衛士、官女も沢山居る。単に会話でもしていたに過ぎないだろう。けれど吸血鬼は、こういうのは誤解を招くねえと申し訳なそうだった。
吸血鬼は宮廷を出ると、わたしをおぶったまま走ったのか飛んだのか、あっという間に北の森へ辿りついた。あまりのことに口もきけないわたしに、彼はしぼりたての牛乳や、はちみつをかけたチーズ、平たいパンなどを用意して、食べたら寝るようにと云い、どこかへ出ていった。
逃げようとしなかった訳ではない。
しかし、外に出て宮廷のあるだろう方角を見ても、尖塔ひとつ目にはいらない。それだけ距離があるし、木々の背が高いのだ。
おまけに、花園には蜂が飛びまわっていた。わたしは一度蜂に刺されたことがある。蜂に何度も刺されると死んでしまうと聴いたことがあり、こわくて越えることが出来ない。
建物の裏手から森を出ることも考えたが、放牧地の周囲は崖や急な川で、わたしでは越えられそうにない。一度、川を渡ろうとしたが失敗し、吸血鬼に助けてもらった。
なにか外へ連絡をとる手段でもあればいいのだが、それも思い付かない。
そもそも吸血鬼の目的がわからないので、わたしはこうしてのんびりしている。
吸血鬼は、わたしをさらってきた理由を話そうとしない。問いかけてもはぐらかされる。
彼はしかし、完全に悪い人間には見えなかった。弟と取引でもしたのだろうか、と思う。王位継承権を失うまで、わたしをここに留め置き、弟が王位継承者として指名されてからわたしを解放する……というような。
それで彼に得はあるかは知らない。もしかしたら、北の森に関する権利を保証すると、そういうことかもしれない。
べえべえと山羊が鳴いて、わたしの傍までやってきた。吸血鬼は山羊や牛の乳が好物らしい。わたしが放牧につれていくと味がよくなるとご機嫌だった。
彼は吸血鬼なのに、わたしの血を飲みたがるようなことはない。そもそもわたしに興味を持っていない。ああその、玄妙な意味で。
男に興味を持たれるようななりでもない。わたしは、美貌で名の通っている弟とは違う。魅力に乏しい男のような女だと評判だ。勿論、吸血鬼と比べたら弟なんてかすんでしまうが。
山羊の脇腹を撫でた。彼女は角をわたしにこすりつけ、わたしの足許の草を食んだ。
「あ、黒髪さん」
家畜達をつれて戻ると、農民の男性が来ていた。わたしは小さく会釈する。
彼もそうして、くしゃっと笑った。笑うと目尻に皺が寄るのが可愛らしい。
彼は北の森の傍にある村の農民で、吸血鬼と取引をしている。吸血鬼のはちみつ漬けやチーズをもらい、代わりに植物の苗や種、布、針、糸、そういったものを持ってくるのだ。
吸血鬼が人間とまともに取引をしているのなんて考えもつかないことだから、わたしは最初にそのやりとりを見た時、唖然としてしまった。そこで、吸血鬼がわたしを「黒髪さん」と呼んだので、彼もわたしをそう呼ぶようになった。
わたしはなのらなかったし、彼もなのらない。吸血鬼が彼を「ほっそりくん」と呼ぶので、わたしは彼を「ほっそりさん」と呼んでいた。彼は背が高く、ひょろりとしている。
頬が少しこけていて、あまり豊かな暮らしではない様子だった。体もうすべったい。ただ、笑うとくしゃっとなる顔は、笑わないと役者のようだ。そういう道へ進まなかったのが何故なのか疑問なくらい。
「こんにちは、ほっそりさん」
「黒髪さん、今日も可愛いね」
ほっそりさんはにこにこしている。彼はそうやって、臆面もなくわたしを誉めることがよくあった。王女だと知っていたらどうだろう、と考えるけれど、知っていても彼はそういうことにこだわらないような気がする。
「あの……おじさまは?」
吸血鬼とわたしは親戚ということになっていた。
彼は花園の向こうを示す。
「向こうで蜂の巣を集めていたよ」
「ああ……」
「チーズを食べて待っていろって。這入ってもいいかな」
「どうぞ。あたためた乳はいかが?」
「もらっていいなら」
わたしは彼へ頷いて、ばけつを持って建物の裏へ戻った。
首尾よく牛乳を手にいれて戻り、あたためて椀へ注いだ。彼は勝手知ったる様子で戸棚からチーズを出し、小さく切っている。「草はどう?」
「このところ雨が少ないからか、あまりはえていなくて……」
「うちの畑の雑草を持ってこようか」
「すきこむのでしょ?」
「少しくらいなら、兄さんも怒らない」
こういうのは、あたりまえの農民の生活なのだろうか。チーズと牛乳を楽しみ、気候やなにかについて会話する、というようなことが。
彼には兄が居るらしい。今、知った。
椀を卓へ置いた。彼の斜に座る。
「お兄さんがいらっしゃるの?」
「ああ、云っていなかったっけ? 兄がふたり居て、母親の違う弟が五人居るよ」
「八人兄弟なの?」
「姉と妹は嫁いじまったし、死んだのも居るから。それも加えたら十二人だ」
彼はあたためた牛乳をすする。「君は、黒髪さん」
「家に残っているのはわたしと弟ひとり」椀を両手で持った。「母親の違う兄弟姉妹は全部で……十七人くらい居たけれど」
王子や王女の称号を戴いていても、いなくても、みんな出ていくか死ぬかした。
「うちよりも多い」
「そんなに顔を合わせなかったけれどね」
「君と、残ってる弟さんは、母親は同じ?」
わたしは、ええ、と頷いた。
要するにそれが、問題を複雑にしているのだった。
わたしと弟の母は同じだ。母は公爵家の人間で、だからわたし達の王位継承権が年齢に関わらず上位になっている。
わたしははじめの頃、弟の派閥に居たらしい。わたしのあずかり知らぬところでだ。
そして、やはりわたしのあずかり知らぬところで唐突に、わたしが担ぎ出された。
彼は花園の雑草をぬいている。わたしは特に食みの悪い、痩せた仔牛をつれてきて、草を鼻面で振っている。仔牛は興味を持ったみたいで、わたしの手から草を幾らか食べた。
「黒髪さん、後どれくらいここに居るの?」
「さあ……おじさま次第かな」
彼は立ち上がって、腰の辺りをさすった。振り返ってわたしを見る目が笑っている。「ずっと居る気はない?」
「ずっと? ……どうして?」
「さあ」
彼は草を抱えてやってくると、仔牛の前にそれを置いた。仔牛は高い声で鳴き、小さな花のついた草を舌で舐めるようにして口へ運ぶ。
わたしは自分の格好を見る。ここに来てから、吸血鬼に渡された服を着ていた。農民の女、と見えるだろう。
彼を仰ぐ。
「あなたがわたしをもらってくれるなら、ずっと居たい」
彼はきょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
わたしはあんな婚約者なんて、谷底にでも放り投げてしまいたいくらいに嫌いなのだ。
玉座にも興味はない。わたしは、弟が王位を継ぐのだと思っていた。だから弟の味方をしてきたのに、いつの間にか敵になっていた。
わたしが望んだことでもないのに。
わたしは抵抗していたのに。
吸血鬼ははちみつを大きなかめにそそいで戻ってきた。彼はもう居ない。
「ほっそりくんは?」
「用事があると、帰りました」
わたしは洗ってざるにあげておいたくだものを示す。「もいでおきました」
「ああ、手際がいいね。漬けようか」
かめには洗ったくだものが投入された。
わたしはなんとなくいい気分だった。
彼は月が出てから戻ってきた。
「こんばんは、黒髪さん」
「こんばんは」
彼がはたいまつを幾つも用意していた。灯でもあるし、蜂は煙を嫌うらしい。
わたしが持っていったのは、宮廷からさらわれた時に持っていた宝飾品だけだ。これらは売れば、お金になる。
わたし達は手をつないで花園をぬけた。
「名前を訊いてもいい?」
「どうしても必要?」
「結婚の為にはね」
「うまくいったのかなア」
吸血鬼は木の上から、歩いていく恋人達を見ていた。傍の枝にはこうもりがぶらさがっている。
吸血鬼は王女と、一介の農民との駈け落ちを、助けた。おそらくうまくいくだろう、と考えている。王女は聡明だし、肝が据わっている。ほっそりくんは優しいし、賢く、世知にも長けている。
吸血鬼はあしをぶらつかせる。
そもそも彼は、この世界の人間ではなかった。別の世界で死に、転生した。
それが自分が読んだことのある本の世界だと気付いたのはすぐだった。国の名前や地理がそのままだったのだ。
その本は、圧政に苦しむ農民達が革命を起こすところからはじまる。革命の先頭に立っていた主人公は、宮廷で貴婦人が襲われているのを助ける。
それが王女……いや、王后だ。彼女は公爵令息と結婚し、夫が王位を継いでいた。
主人公は王后に一目惚れし、王后も主人公を好きになる。法律を不当に変え、圧政を敷いていた王は死ぬ。王后は王家の一員として、革命を起こした農民達と話し合い、国の制度を変える為に働くことで主人公との関係を認めてもらおうとする。
しかし、闘士達は彼女を快く思っておらず、殺してしまう。そのことで主人公は北の森で死のうとし、吸血鬼がそれを救う。
主人公は傷を癒し、国をよくすることが王后に報いることだと考えて宮廷へ戻ろうとする。だがそこへ、いわれなき罪で国外追放されていた前王の息子が、同盟関係にあった隣国の軍をかりて戻ってくる。そして、姉を殺した革命軍の一員だとして、主人公を殺してしまう。
前王の息子が王位に就き、国を正常に戻す。吸血鬼からことの経緯を聴いて、姉と主人公の墓を建てる……。
途中、しあわせな様子の主人公と王后の件を楽しんでいたのに、最終的にはどちらも死んでしまうのだ。吸血鬼の前世は、それに納得できなかった。
王女が結婚前に主人公と知り合っていれば、公爵令息が王位を継ぐことはない。
そうすれば、残っている王女の弟が王になる。
そうなったら、圧政が敷かれることはない。
そこまで考えると吸血鬼は居ても立ってもいられず、行動を起こした。今から五百年前のことだ。
人間を決して襲わず、農家のような暮らしをして、農民達と親しくしたのは、王女と主人公を巡り合わせる為だ。
「……ひまになるね」
こうやって主人公と王女を無事に駈け落ちさせた今、彼にはもうやることはない。
だが、まだ宮廷ではごたごたが続いている。罪を着せられて僧院送りになっていた王女が宮廷に戻るという話もあった。王女の弟を妨害する為だ。王女を助ける為の軍を派遣もしないで、なにが婚約者だろう。
王女と主人公は、この国から出ないだろう。出るとしても、精々がとこ隣国へくらいだ。なら、この国がおかしくなったら、あのふたりが困ってしまう。
物語をかえたのだから、責任をとらないといけないようだ、と、吸血鬼は考える。
「宮廷に行こうか、こうもりくん?」
吸血鬼は、こうもりに語りかけた。ぴゅい、と返事がある。吸血鬼は苦笑いで、木から飛び降りた。
北の森には吸血鬼が住んでいる。おせっかいで、ひとの血を飲まない吸血鬼が。