彼と彼のこと
大学のカフェテリアは日当たりがすこぶるいい。
窓際に座っているとあまりにも日差しが強いので、私は一つ席をずらし、柱の影に座り直した。それを見て彼が同じく私の前に移動する。何も言わずについてくる彼がおかしく、私は思わず笑った。
「日焼けしたくないから」
「玲奈なら、日焼けぐらい気にしない」
彼は朗らかに笑って、私の手に指を絡めた。
大きな窓から中庭に目を向けた。今日はまだ五月だというのに気温は上がり、外は半袖でもいいくらいだ。カフェテリアは逆に冷房が効きすぎて、私は薄いカーディガンを羽織っていた。白い日差しがいっぱいに注ぎ、眩しいほどだ。
知っている顔が通った。高校の同級生の上野皐月だ。私は彼と高校二年の三カ月間、付き合ったことがある。大学が同じになったのはたまたまだ。今はこうして時折見かける程度だった。
ひょろっとした体型で、背は普通より高めだった。今と違って、もっと甘えたかわいい顔をしていた。密かに彼を好きな子もいた。それをはじめて射止めたのが、私だった。
いや、射止めたと思ったのは間違いだったかもしれない。
皐月には幼なじみがいた。藤田夏生だ。いつもべったりと一緒にいた。周囲が茶化したくなるほどに。視線を交わすだけでわかり合っているように見えた。長い付き合いの男同士の、女にはわからない繋がりのようなものがあった。
私は多分、嫉妬していた。
彼らの、太陽の光に蒸発してしまう水のように、どんな言葉も無意味に聞こえるような、そんな結びつきに。
付き合い始めてから、私は毎日皐月と会った。いつも一緒にいたかった。藤田に勝ちたかった。藤田から、皐月を奪いたかったのだ。
皐月は予想していたより、私に優しかった。私の嫉妬心に気づかなかったのか、ほとんどの場合私を優先してくれた。放課後、皐月がバイトをする日以外は私に時間をくれた。多分その頃、皐月は藤田とほとんど会っていなかったと思う。私が意図した通りに。
ある日の夕方、私と皐月は手を繋いで駅前を歩いていた。私は電車通学をしていたが、彼は自転車だった。放課後デートの時、皐月は駅前の駐輪場にいつも停めていた。
駐輪場の入り口へ向かうと、反対側からカップルが歩いてきた。一人は藤田だった。彼に彼女がいることは、噂で知っていた。
皐月と藤田はお互いを認めると、立ち止まった。短く、言葉を交わす。声は普通だったが、視線はそうではなかった。
時が止まったような感覚。
息が詰まった。
お互いを求めるように、糸を引き合うけれど、うまく張ることができないような、もどかしさ。
私の頭から爪先まで、二人の感情がもつれるように駆け抜けた。知ってしまった、と思った。
皐月は私のことを見ることもなく、ここで待ってて、と言いおいて地下の駐輪場へ入っていった。藤田も彼女をその場に残し、後へ続いた。
藤田の彼女と二人きりになった。知り合いでもないし、特に話すこともなかった。なんとなく気まずく、私はガードパイプに腰をかけ、携帯を取り出して画面を開いた。指は画面をスクロールさせたが、全く目に入っていなかった。ただ指だけが動いていた。
知った、と思ったことが気になっていた。何故そんなに断定的に思ったのだろう。
彼らは、本当に想い合っているのだろうか。
そんなことなんてあるのか。
わからなかった。
気がつくと藤田の彼女が、私とは反対の壁際へ立ち、こちらを見ていた。
憎しみにも近かった。彼女の目は、その清楚な雰囲気とはまったく似つかわしくない色をしていた。意味がわからず、私は彼女の瞳を見返した。
それも一瞬後には跡形もなく消えた。彼女はピンクの口端に、相応なかわいらしい笑みを薄く浮かべてから、目をそらした。
私はまとわりつく視線の残滓を振り解くように息をつき、再び画面を見た。
彼女も同じことを考えたのだろうか。許せなかったのかもしれない。私を通して見た、皐月のことが。
私が見た彼女は、もしかしたら私なのかもしれない。
きっと私も、あんな風に藤田を見ていたのだろう。
先に藤田が自転車を押して出てきた。彼女に何か言い、藤田は自転車を滑るように走らせ、去っていった。再び残された彼女は平然と私の前を通り過ぎ、駅構内への階段を登って行った。私を見ることはなかった。
皐月はすぐに出て来なかった。先に入ったのに、何かあったのだろうか。
少し心配になった時、遅れて皐月が出てきた。表情が暗い。皐月は彼自身が思っているより感情が表に出るタイプであることは、毎日会ううちに知った。
皐月は、ごめん、今日は改札まで送れない、親に用事頼まれちゃって、と笑顔を作った。嘘だろうと思った。藤田と何かあったに違いない。いいよ、と私は皐月に笑顔を返した。
皐月と別れ、電車に乗った。
会社を終え、疲れた大人たちで車両は混みはじめていた。
私はドアのすぐ脇に立ち、家々が間近にいくつも流れていくのを見送った。
風景と一緒に、皐月の存在が流れていってしまうような気がした。私の額から、喉から、胸から、お腹から、空気が通り過ぎてどんどん流れていき、薄くなり、なくなってしまいそうだ。悲しくてたまらなかった。でもどうすることもできず、私は景色を眺め続けた。
帰って自分の部屋に入り、携帯を見るとメッセージが届いていた。帰った?という皐月からの文字。一瞬迷ったが、結局すぐに返信した。
ちゃんと帰ったよ。
携帯を持ったまま、私は両手で顔を覆った。
かなわないと思った。
私の小さな嫉妬では、かなわない。
それなのに、諦めきれない。
ただちょっと、かっこよくなってきた同級生と付き合おうと思っただけだった。でも彼の優しさに惹かれた。好きになってしまった。
何故もっと早く会えなかったのだろう。
興味本位で付き合ったりしなければよかった。
皐月が私の告白にオーケーしなければよかった。
皐月が優しくなければよかった。
手を繋いだりしなければよかった。
あんなに一緒にいなければよかった。
皐月のことを、こんなに知らなければよかった。
全部無くしたい。
今までのことをリセットしたい。
そうすれば、簡単なのに。
そうできればいいのに。
したくない。
もう皐月のことを消すことはできなかった。
嵐が終わった後、私は蓋をした。
無理やりに、溢れそうになるものを押し込め、蓋をきつく閉め、見ないようにした。そうして、うまくいくように祈った。
何度か友達に恋の相談をしたけれど、気の利いたアドバイスは得られなかった。私が核心に触れなかったから。
私たちは最後まで行った。
ただそうしただけだ。
それ以上、どこにも行けなかった。
私から、別れた。
「あの人って」
皐月に目を留めた彼が、私の手を握ったまま言った。
「男と付き合ってるっていう噂聞いたかも」
特に感想もないという言い方だった。
私は笑った。
「いいじゃん。そんなの、どうでもいいよ」
彼は関係ないという意味で取ったのか、そうだね、と言った。すぐに、次の休みにどこへ行くかを話し始めた。
彼の話に相槌を打ちながら、私は再び窓の外へ目を向けたが、もう皐月の姿はなかった。
そうか、二人はうまくいったのか。
そうだといい。
時々思い出す。あの二人が向き合った瞬間の、惹かれあっていながらすれ違う、不格好で、きれいな光景を。
誰かが何かを言うことなんてできない。
光りもしない、ただの道端の、あの場所で確かにあった。
見たものが、本物だから。