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海水の記憶 ※おきなわ文学賞 随筆部門二席



 私はご飯を食べない子どもだった。胃が小さかったのか、お菓子を食べすぎていたのか分からない。そんな私に父は厳しかった。

食べきれないと「残すな」と言って怒られ、箸が止まると「とろとろするな」と怒られる。平手が飛んでくるのも日常茶飯事だ。車の整備士をしている父の腕は太くて、叩かれるのは恐ろしかった。そんな状況で楽しくもりもりご飯が食べられるはずがない。

「全部食べなくては」「早く食べなくては」と思えば思うほど食欲はなくなった。食事中によく吐き気がしていたのは、今思えばそのストレスだったのではないだろうか。

子どもに厳しく、威圧的な父だった。

そんな父とは、思春期を境に全く話さなくなった。私からは話しかけないし、父も成長した娘に何を話していいのか分からない様子だった。

 もともと患っていたアトピー性皮膚炎が急激に悪化したのはそんな社会人一年目の夏だった。子どもの頃から腕と脚に湿疹ができる体質だったのだが、全身に湿疹が広がり痒みが治まらなくなった。

昼も夜もなく自分の体を掻きむしる。顔は赤く腫れ、首には汁がにじみ、洋服がすれただけで手足に激痛が走った。病院に行っても一向によくならない私に、父が海水を汲んでくるようになった。

 家の風呂場に海水を汲んだ十リットルのポリ容器とポンプ式のシャワーが設置された。古い風呂場のタイルの上で私は裸になり、全身に海水を浴びる。海水が掻き傷にしみて絶叫するほど痛い。歯を食いしばって十リットル全て使い切る。空になったポリ容器をそのまま風呂場に置いておくと、翌日にはまた海水で満たされている。

「海水汲んできたよ」「ありがとうお父さん」そんな会話は一切ない。父と娘のポリ容器のやりとりが続く。

 海水の消毒効果で腫れは少し治まるのだが、それ以上に痒みが強くまた掻きこわしてしまう。炎症がひどくなり人目を気にして仕事も休みがちになった娘に、父はとうとう声をかけてきた。

「みもり、海に行くよ」

久しぶりに父に名前を呼ばれて驚いた。

「行く」少し遅れて返事をした。

父のバンに乗り込む。もちろん助手席ではなく後部座席。家から十分の宇堅ビーチに向かう。車内に会話はない。

ビーチにたどり着くとバーベキューを楽しむ若者のグループが見えた。私は怖気づく。醜く炎症を起こした肌をさらして、浜を歩く勇気はない。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、バンはビーチを通り越し、隣接する電力会社のフェンスに沿って脇道に入って行く。雑草の生い茂る亀甲墓の前に止まる。雑草をかきわけて進む父の背中を追いかけていくと、小さな砂浜があった。人のいたビーチとは岩で隔てられており、白い砂浜に人の足跡はない。

私は荒れた肌を気にせず海に入った。

 海水は透き通った緑。赤くただれた私の肌が波に洗われる。痛い。でも気持ちいい。父が車に戻って行くのが見えた。

美しい海をひとりじめ。開放された気分になり、波打ち際に体を横たえる。目を閉じる。足を投げ出し、手を広げ、海と一つになった。


目を開けると父が車から降りて来るのが見えた。子どものように手足を広げて浮かんでいる姿が恥ずかしくなり、体勢を立て直す。

父はポリ容器を持って浜に下りてきた。日頃の労働で鍛えられたたくましい腕で海水を汲み、足場の悪い砂浜を越えて車まで運んでいく。海の中からその背中を眺めた。

 いつもの海水はここで汲まれていたのだ。仕事の帰り道にわざわざこの海まで来て、海水を汲み家に持ち帰ってくれていたのだ。   皮膚炎に苦しむ娘のために。

 そう言えば、子どもの頃は毎年家族でキャンプをした。夏休みの私の楽しみは父とシュノーケリングをすることだった。

 海で食べるカレーは美味しく、父の機嫌もよかった。この時ばかりは私もおかわりした。

懐かしい記憶に胸がいっぱいになる。海水に顔をつけて私は泣いた。怖い人だと思っていた父に、昔も今も愛されていたことを初めて知った。

たくさんの生と死を抱いてきた海。その中に私と父の大切な記憶も抱かれていた。

 帰りの車の中、私は父に話しかける言葉を捜したけれど、一言も出てこなかった。父も無言だった。

家に着くと、父は海水の詰まったポリ容器を下ろし風呂場へと運んで行く。その背中に私はやっと「ありがとう」と言った。

 父が小さく「うん」と言うのが聞こえた。


2013年おきなわ文学賞 随筆部門二席

****読んでいただきありがとうございます****

父に「俺が悪い父親みたいだろう」的なことを言われる作品ですが……。

随筆なので、ウソはひとつも、ひとっつも書いていませんよ。

怖いのも、ありがとうって思ったのも全部ホント。

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