おそろしの館の正体
「おい、民家だぞ」
それに最初に気づいたのは、人よりもずっと眼のよい鷲でした。
「あ、あれは…」
期待に胸を高鳴らせる鷲とは対照的に、民家に近づくにつれて亀はおろおろと落ち着きがなくなっていくようです。
「おい、いったいどうしたっていうんだ」
見かねた鷲が、隣でなにやら怯えている様子の亀に尋ねます。
「あれだよ」
「なにがだい」
「おいらが見た、恐ろしいお屋敷さ」
直視できずにぶるぶる震えている亀に変わって、鷲は再び民家に目を向けます。
「なあ、カメよ。ワシには、いたって普通の民家に見えるのだがな」
「そんなはずはない。とてつもなく大きな屋敷だろう?」
「いや、ごく一般的な民家だな」
「異様に、なんというか、重苦しい雰囲気を感じないか?」
「それは、この疎ましい天候のせいではないのか」
「そうだ、門だ! 大きな門に、鋭いトゲがびっしりとついたツタが…」
「なあ、カメよ。お前の言うそれは、バラのツタではないのか? 蕾が多いが、赤い花をつけているものもあるぞ。見えなかったのか?」
「赤い…? 赤いとはなんだい?」
「ああ、そうか。お前はワシやレナちゃんほど、眼がよくなかったのだな。すべてが灰色に見えているのだろう」
「……」
「おまけにその小さな身体では、あの民家を屋敷と思ったのもしかたがないな」
「でも、ノコギリを持った大男が確かにいたのだよ」
「それは、ただの人間だったのではないか? ノコギリを手にしていたのはだな、ワシの推察では、板を切ろうとしていたのではないかと思うのだが」
「板を? なんのために?」
「この嵐だぞ。窓ガラスが割れないようにするとか、家の補強のために決まっている」
「…なるほど」
「なあ、レナちゃん。あの家に見覚えはないかい?」
鷲に尋ねられ、レナちゃんは一生懸命にぶるぶると首をふっています。そのさまは、まるで雨に濡れた子犬のようです。なんとか瞼を持ち上げようとするのですが、額から流れ落ちる雫に邪魔されてほとんど前が見えていないようでした。両手を使えればよいのですが、鷲と亀を抱えているのでそうもいきません。
しばらく雫と格闘していると、亀がレナちゃんの腕から抜け出し、上へ上へとのぼっていきます。レナちゃんの肩に乗った亀は、
「レナちゃん、レナちゃん」
と、レナちゃんに声をかけました。レナちゃんは、声を頼りにふり向きます。そこで、亀はレナちゃんの白い頬に前足を添えると、身を乗り出してレナちゃんの瞼にキスをしたのです。レナちゃんの長いまつ毛に溜まっていた雫が、亀の中に吸い込まれるように消えていきました。
ようやく開けた眼で件の民家を見とめたレナちゃんは、一直線にそちらを見すえて歩いて行きます。気がつくと、歩く速さが増していました。いつの間にか早歩きになり、ついには駆け足になります。ふり落とされないように、亀が必死にレナちゃんの肩にしがみついていました。
風に行く手を阻まれ、どしゃ降りの雨に足をとられても、レナちゃんはただひたすらに走り続けます。そうして、ついにバラの門の前までやってきました。
「ここ…」
レナちゃんが言います。
「ここ、レナちゃんのおうち!」
そう叫んだ時です。板を打ちつけられた窓の隙間からぎょろりとした眼が動いたかと思うと、くぐもった声が聞こえてきました。その後すぐにふっと眼が消え、代わりに家の扉が開かれたのです。今度は、はっきりと通る声で聞こえました。
「麗娜!」
扉の奥からは、驚きを隠せない様子の女性が出てきました。その背後から、騒ぎを聞きつけたらしい男性もひょっこりと顔を出します。
「ひゃあっ!」
亀がレナちゃんにしがみつきます。しかし、レナちゃんはそんな亀に構っている余裕はありません。家から出てきたふたりを見た途端、レナちゃんはまるで堰を切ったように、その大きな瞳から大粒の涙を溢れさせていました。
「おかあさん! おとうさん!」
わあわあ泣きながら、お母さんの胸に飛びつきます。お父さんはトレーナーを脱ぐと、慌ててレナちゃんの顔やら体やらをふいていました。その時、亀と鷲のふたりと目が合ったお父さんは、少しの間なにかを考えたあと、にこりと笑ったのです。
おそろしの館には、優しいお母さんとお父さんがいて、レナちゃんが世界で一番やすらげる場所なのでした。