第7話
「……終わった」
ため息をつきアイレンは伸びをする。
しゃがみ込み、浴槽を清掃していた彼女の膝や腰はキシ……と音を出して心地よく伸ばされる。
「シズリーは終わったのかしら」
彼がいるであろう玄関へ向かうと
「終わったかい?」
宿屋の入り口につながる食堂のテーブルを拭いていたルイが声をかけてくる。
「ぁ。父さん」
「シズリーなら出かけたよ」
その言葉に
「まさか……あのTシャツで?」
眉根を寄せ、彼女は問う。
「いや?着替えたはずだが…なんだ。またあのTシャツ着てたのか……」
「気づいてなかったの?」
「彼のTシャツはもう気にしないようにしてるからなぁ……」
苦笑するルイに
「意味も分かってなかったみたいよ」
「あぁ……そうだったのか」
と意外そうな顔をする。
「ところで…なんでシズリーの名前が出てくるの?」
「違うのかい?彼が気になって、ここに来たんだろう?」
にこやかにアイレンへと話しかける。
金色の目を伏せながら
「いや、そう……だけど」
歯切れ悪くアイレンは肯定する。
「このテーブルを拭いていてもらったんだがな、部屋のドアのオイルが欲しいと言い出してな」
「オイル?」
「あの部屋のドア、煩いだろう?」
彼はシズリーの部屋を…正確には居候している部屋を見上げ、ゆびさす。
彼の言う通り、その部屋のドアは開閉するたび、悲鳴をあげていた。
10年近くも放置された部屋のドアをルイと同じように見上げ
「なんで今更……もぅ随分と放置してた癖に」
「なんとなくの気分なんだろう」
「そんなもんなのかしらね」
呟き、彼女は自身の部屋に戻るため歩き出す。
「寝るのかい?」
「うん。昼寝するわ。おやすみ」
ヒラヒラと手を振りながら、彼女は木製の階段を登る。
規則正しく、赤く短い髪が揺れ動く。
それを見ながら
「おやすみ」
と、アイレンの背中に挨拶し、彼はテーブルを再び拭き始める。
部屋に入り、アイレンはバフッとベッドへと体を沈め金色の目を閉じる。
「あの騒ぎ、父さん気づかなかったのかなぁ……」
呟きながら
(シズリーも知らない……訪問者……人型精霊に…シーク・ドールの噂……)
彼女は今朝の出来事を思い出す。
気付けば彼女は、深い深い夢の中へと溶かされていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
アイレンが眠りに落ちて数時間。
世の中では夕刻が迫っていた。
「ただいま」
ギィと音をたて、大きな尻尾を揺らしシズリーが帰ってくる。
ルイは誰もいない食堂で本を読みながら彼の帰宅を待っていた。
「お帰り」
一言、発し顔をあげる。
そんなふとした表情に
(この10年でルイも老けたな……)
シズリーは思う。
朝の騒動とは真逆な静かな時間が流れる。
食堂にかかる、壁掛け時計の秒針ががやけに響いて聞こえる。
その異様な程の静けさの要因は
「アイレンは?」
赤い髪の彼女を緑色の瞳で探し問う。
「寝てるよ」
その返答に
ふむ。と顎に手をやり考え込むようにして
「マスター。今時間ある?」
彼はルイへと問いかける。
「どうしたんだ」
本を閉じ、自身が座っている椅子と対面している椅子にシズリーを促す。
「単刀直入に言うね」
彼の言葉に、頬杖を付き
「なんだい。話してごらん」
ルイは先を促す。
「突然だけど、故郷に…異世界に帰ろうと思う」
チッチッチッ…と時計の秒針が時を刻む。
5分も経たないはずだが、妙な時間が二人の間を流れる。
この沈黙は穏やかな声で
「今朝の騒動でかい?」
ルイによって崩される。
その言葉に、一つだけシズリーは頷く。
彼の長い髪が揺れる。
そして
「気づいてたのに出てこなかったの?人が悪いんじゃない?」
クックッと喉で音を鳴らして、彼は寂しげな表情でルイを見る。
「何があったかまでは知らん。ただな…険しい顔をして飛び出していったからな」
ルイの言葉にシズリーは
「……明らかに、俺目当ての訪問者だったんだ」
緑色の瞳で彼はルイを見る。
「……」
黙るルイに彼は続ける。
ルイが特に続きを聞きたそうにしているわけでも無いのはシズリーにも分かった。
しかし
「…アイレンに怪我は無かったけど、あと少し遅かったらどうなっていたか分からない」
膝の上で拳を固く握りしめ、シズリーは俯く。
「あの子もそんなに弱くない。なんせジェイクの娘だ。引き取ってから今の今まで、か弱い娘っ子じゃないことは、ワシが一番知っている」
と、顎鬚を触りながらルイはシズリーを見据える。
「……そうだよね。俺なんかより養父として長い期間アイレンを見守って来たアナタだ……でも…」
「それでも怪我しないとは限らんからな。なんせあの娘は、自身の力を過信しすぎている」
「……それは…」
シズリーが何かを口にしようとしたのだが
「後ろに誰が付いてるかまで知らんが……危険なことには出来るだけ関わって欲しいとは思えん」
読んでいた本を閉じ、腕組みをしてルイは背もたれに寄りかかる。
「なんでも見透かしているんだね」
「んや?ジェイクの娘だ。どうせ止めたところで目を盗んで危ないことしてるだろ」
困った様にルイは答える。
その様子から、シズリーは彼女が【暗殺者】として闇の中舞っていることを知っているのだと悟る。
「それでもアイレンが何も知らずに生き、俺に接してくれているのは、マスター……」
「ん?」
「あなたのお陰なんだね」
顔をあげシズリーはルイに微笑む。
「そんなたいそうなもんじゃない」
顎鬚を触りながら、ルイは虚空を見上げる。
そして
「今の物言いは、お前さんにも何か裏があるのかい?」
含んだ笑みを浮かべる。
「………さぁ?」
肩をすくめて、シズリーは緑色の瞳でルイを見つめ返す。
「ほんっとに、異世界の奴らは食えない男ばかりだな」
ルイが笑うと、シズリーは
「さ、アイレンが起きる前にドアのオイル差ししてしまおうかな」
椅子から立ち上がる。
大きな尻尾がゆらりと揺れ、窓から差し込む光に反射し輝く。
その尻尾を黙って見つめ、ルイも
「さて、ワシも夕飯の仕込みでもしようかな」
椅子から立ち上がった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キィ……キィ……
ドアの開閉する音で
「ん……?」
アイレンは目覚める。
枕元に置いてある時計を見る間でもなく、窓から差し込む光が夕方であることを知らせる。
(随分寝てたのね…)
小さなあくびをし、寝ていた体を起こす。
キラキラと彼女の赤い髪が太陽に照らされる。
その時、先程彼女を起こした音が彼女の耳を掠める。
アイレンはベッドから降り立ち部屋を出ることにした。
ドアノブを開け顔を出すと
「ぁ、起こした?」
そこに居たのは
「シズリー何してんの?」
まだ目の冴えぬ目を擦り彼女は問う。
「見ての通り。ドアのオイル注しだよ」
そう言いながら彼は自身の部屋の扉を開閉する。
彼が転がり込んでから早10年。
今朝まで悲鳴をあげていたドアを手入れする彼にアイレンは疑問を持つ。
「なんで今更?」
「……気分だよ。ずっと気になってた。それに随分、年数も経っているんだ…この部屋への感謝の印…かな」
「……感謝の印?シズリー…もしかして」
アイレンは眉根を寄せ問いかけるが
「うん。上出来。これならうるさくないね」
彼女の言葉を遮ってシズリーは雑巾と油を片手に持つ。
そして
「マスター!!音いい感じ!」
にこやかに階段の手すりから声をかける。
「ん?そうか。ありがとうな」
ルイは厨房から顔を出し、階下から彼を見上げ礼を言う。
「今から、玄関もやっちゃうね」
そう言ってシズリーはアイレンの目の前を通り過ぎる。
「ぁ……ちょっと!」
アイレンは大きな尻尾を揺らし階段を降りゆく背中に声をかける。
「何?」
微笑み振り返る、シズリーにアイレンは息をのむ。
彼の微笑みが、夕日に照らされて普段との雰囲気が違ったからだ。
「……っ」
まるで……何者も逆らえない様な…手の届かぬ神の様な雰囲気に彼女は一瞬怯んでしまう。
「なんだよ?どうしたの?ぁ、分かった!俺が格好いいんでしょう?」
クスクスと笑うシズリーに、彼女は自身の中で何かが引っ掛かるが言葉を紡ぐことができず
「……何でもないわよっ」
目を逸らし俯いて言葉を放つ。
「そう?ならいいけど」
と一言残し、シズリーは軽やかに階段を降りていく。
そんな二人のやり取りを見ていたルイが、規則正しい音で階段を登ってくる。
「どうしたんだい」
優しくアイレンに声をかける。
「何でもないの。ただ……」
「うん」
「寝過ぎていたみたい。頭がバカになってる」
彼女の言葉を否定することもせず。
追及するでもなくルイは
「疲れていたんだろうよ。寝れる時はゆっくり寝ないとな」
そう言ってアイレンの背中を優しく撫でる。
「……ねぇ、父さん」
優しい手の温もりに彼女は言葉を発す。
「んー?」
階段の手すりから、ルイは玄関に居るシズリーを見下ろす。
「シズリー、居なくならないよね」
この言葉にルイはなんとも言えぬ顔をし
「どういう意味だい?」
「そのままの意味よ。異世界に戻らないよね?」
「いつかは、帰るんじゃないか。今朝、帰る場所があるとき言っていただろう」
渋い声を出す。
その言葉を聞くなり彼女はルイに背を向け自室に入ろうとする。
「ご飯は?」
「食べる……。出来たら呼んで」
悲しげに彼女は答える。
そして、足早に自室へと籠る。
そんな彼女を見送るルイの口元は微笑み
「若いっていいなぁ…」
満足げに呟いて、玄関に居るシズリーの所へとゆっくり歩みだした。
次回更新
2月18日18時更新です。
残り5話で、第一章は終了します。
よろしくお願いします(*´∀`*)