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「さて、皆さん準備は出来たようですね」
フード付きのケープを纏ったモアさんが、腰の杖を確かめながらそう口にした。
予定通り、夜8時にリューズ邸の正門前に集合したのは四人である。僕とモアさん、シェスティンさん、ベアトリスさんだ。
全員が使用人の制服ではなく、個々人の戦闘服を着込んできている。初めて見る彼女らのその格好──シェスティンさんの革鎧に戦槌、ベアトリスさんの軽装に真っ赤な棍棒──に新鮮な思いを抱きながら、僕はこれからの仕事に備えて気を引き締め直した。
「準備万端、いつでも戦えるよ。……そういやトーヤ、エルとかシアン達は誘わなくて良かったのか?」
ベアトリスさんが手首を回しながら訊ねてくる。
そのことについて僕は簡潔に説明した。
「エルも一緒に連れていくつもりでいたんですけど、彼女は仕事で疲れたのか爆睡していて……。シアン達は戦闘に巻き込むといけないので、今回は見送りました」
「そっか。彼女達が来られないのは残念だけど、これまでこの四人で何かをすることなんて無かったもんね。今夜は頑張ろうね、トーヤ君!」
シェスティンさんがにっと笑って僕の背の辺りをポンと叩く。
「あまり緊張しすぎるのも良くないよ。肩の力を抜いていこう」
どうやら顔に出てしまうほどに僕の緊張は高まっていたらしい。
穏やかに言うシェスティンさんに励まされ、なんとか笑みを浮かべることが出来た。
「目的地はストルム西端の住宅地帯……貴族達の居住区ですね。では、向かいましょう」
リューズ邸からさほど離れていない位置にある古い館。
《幽霊》の噂の真偽を調べるべく、僕達はその場所へと足を運んでいった。
「しっかし、いかにもって感じの場所だね……」
ベアトリスさんが広大な敷地面積を誇る館を見上げ、ため息を吐いた。
都市最大の大きさであるリューズ邸にも匹敵するほどの大豪邸──なのだが、もうそこには人の気配はない。
固く閉じられた門と屋敷を囲う高い塀が全てを拒み、塀の向こうに見える屋根が何とも言えない威容を放っていた。
月明かりに浮かび上がる無人の館を眺め、僕達はしばし黙りこくる。
この館は辺りを多くの住居に囲まれているものの、何故だか周囲の人通りは少なかった。
街のいたるところにある《魔力灯》の光も、ここだけは消えてしまっている。
貴族の街に一つだけ出来た「陸の孤島」。そんな例えがぴったり当てはまっているだろう。
「聞くところによると、ハミルトン氏はこの門の前で倒れていたそうです。……何の痕跡も残ってはいませんがね」
モアさんが僕の足元を指差してきて、僕はぞっとして飛び退いた。
ここでつい先日、人が一人死んでいる……。腕に立った鳥肌をさすりながら、他と何ら変わらない舗装された石畳を見下ろす。
「……で、具体的には何をすればいい? ここで幽霊が出るのを待つだけなんて、あたしは嫌だからね」
青白く輝く銀髪を弄りながらベアトリスさんが口を尖らせた。
モアさんも短く唸りつつ、腕組みする。
「ですが、幽霊が出るのかどうか調査するのが私達の役割ですし……。ここで待つ以外にどうしろと」
「そうですよね……。もう、どうせなら早く幽霊さん現れてくれたらいいのに。シェスティンさんはどう思いますか? ……あれ、シェスティンさん……?」
エルフとダークエルフの二人と一緒にため息を吐き、僕はハーフドワーフの彼女にも意見を仰いだ。
しかしシェスティンさんは僕の声が耳に入っていないのか、どこか別の場所を見て呆然としている。
「あの、シェスティンさん……どうしたんですか?」
「あそこ……誰かいるのが見えない? そこの魔力灯の陰に、白いワンピースの女の子が……」
通りに等間隔で配置された魔力灯の一本をシェスティンさんは指さした。
薄闇に輪郭を浮かび上がらせる街灯のその陰、目を凝らすと白い布のようなものがなびき──。
次いで、ブロンドの小さな女の子が出てくる。
「────!」
声にならない悲鳴が口から迸った。
一目散にここから逃走したい感情を何とか押さえつけるも、膝はかくかくと笑っている。
「あれは幽霊じゃない私の見間違いだあれは幽霊じゃない私の見間違いだ……」
すると隣ではものすごい早口でモアさんが必死で自分に言い聞かせていた。
ベアトリスさんは目を見開き絶句、シェスティンさんがぴたりと硬直する中──白ワンピースの女の子はこちらに向かって一歩踏み出してきた。
「イヤ──ッ!? こ、来ないでくだっ、来ないでください!?」
モアさんは恐怖のあまり僕の体を羽交い締めにする。
彼女に抱きつかれて身動きが取れず、近づいてくる女の子から離れることも出来なくなってしまう。
流石にこの時ばかりはモアさんのことを恨まずにはいられなかった。
『お兄ちゃん……』
……幽霊が、喋った。誰かを呼んでいるのか。
恐怖に全身が凍りつき、そいつから目を逸らせない。
『ねえ、お兄ちゃん……』
女の子と僕の視線が合った。
翡翠色の瞳がまっすぐ、痛いほどまっすぐに見上げてくる。
『お兄ちゃん、お願い……』
僕を、呼んでる?
一体どうして……?
どう対応したらいいのか咄嗟に思い付かない。これは幻聴なのか、それとも本当にこの子が話しているのか。
この子が僕を本当に呼んでいるとしたら、どうしたらいい……?
「──どう、したの……? 君、名前は?」
幽霊が返答するわけない、そう頭で理解していたが訊ねてしまった。
翠の目で見つめてくるいたいけな女の子。突然出てきた時は怖かったけど、よく見ると害の無い普通の幼女のように感じられる。年格好は七、八歳くらいだ。
細く先の尖った耳から察するにエルフだろうか。
「なまえ……わたしの名前は、クー。お兄ちゃんの、名前は?」
よかった、返事があった。
僕はなるべく穏やかな声音で名乗りながら、クーという幼女の手を取った。
氷のように冷たいと聞く幽霊の手ではなく、人の温度を持った小さな手。
「僕はトーヤ。リューズ邸っていう、大きなお屋敷で働いているんだよ」
「トーヤ? 変わった、名前だね?」
「あはは……そうかもね」
自然と苦笑が漏れ出る。
愕然とした面持ちで僕とクーを見比べるベアトリスさん達に、僕は一言告げた。
「あの……皆さん。どうやらこの子、幽霊じゃないみたいです」
「本当に人なんだろうなー、トーヤ? あんたが錯乱系の魔法をかけられてるって線もなきにしも──」
「いいから、手を握ってみてください。触れればわかりますから」
疑り深い性格のベアトリスさんでなくても、幽霊の調査に来た今現れたクーには近づくことを躊躇っただろう。
だから僕は彼女を責めるようなことはしなかった。ただ言葉で訴えかけ、幼女の無害を信じてもらえるよう説得する。
白い無地のワンピースに裸足である幼女は、僕の服の裾をつまんで背中に隠れていた。
「トーヤ君がそう言うんだし、あたしは信じてみよっかな。この子には害は無さそうだし、大体幽霊なんかいてほしくない!」
「私もトーヤの言葉なら信じられます。この子が幽霊でないのなら、無用の恐怖を抱く必要もありませんからね」
シェスティンさん、モアさんの二人が僕の言葉を信用してくれた。
残すはベアトリスさんのみという状況になったなか、ダークエルフの彼女は幼女に銀色の鋭い眼差しを向ける。
「クー、って言ったっけ。あんた、なんでこんな夜に一人で歩いていたんだい? 親は? もしかして、一人なのか?」
ベアトリスさんがクーに詰め寄ると、小さな女の子は怯えた様子で僕の腰の辺りにしがみついた。
「ベアトリスさん、クーが怖がってますよ」
「し、しょうがないだろ!? 信用ならないんだから、これくらいは聞いとかないと」
腕組みして横目で幼女を見据える彼女の代わりに、僕が訊ねることにしてクーの頭を撫でてやる。
腰から離れた彼女の前にしゃがみ込んで目線を合わせ、出来るだけ優しい口調で訊こうとすると──質問より先に、クーは奇妙な『頼み』を口にしてきた。
「トーヤ、私の……私の、お母さんを助けて……」
「……お母さん? お母さんが、いるんだね。お母さんがどこにいるか分かる?」
まさか、この子は一人で母親を探してさ迷っていたというのか。
白いワンピースは決して清潔ではなく多少の汚れが付き、剥き出しの足も擦り傷が目立っている。
間近で見る幼女の姿に僕は痛ましい思いを抱えながら、話を聞こうと試みた。
「……お母さんがいるのは、あそこ」
クーは硬い声で答える。
彼女が指で示したものはここから視界に嫌でも入るものだった。そいつを見上げ、僕達はしばし言葉を失った。
高すぎる塀の向こうに顔を覗かせる屋根。
現在は無人となっている、呪われた幽霊屋敷。
つい先日この前で一人の男が不審死したその場所を、クーは指さしていたのだ。
「《ウルズ家の館》……それが、この館の名です」
モアさんが静かに語る。
ウルズ家の名は、僕も港町エールブルーにいた頃に聞いたことがあった。
《リューズ商会》に匹敵するほど莫大な財産を持ち、この国の経済の中枢となっていた商会を営んでいた家系だ。だがその栄光は過去の話で、六年前に当主であり商会長の父親が死んでから経営状況は徐々に悪くなっていった。
会長を継いだ息子の手腕が悪かった。それが《ウルズ商会》、そしてウルズ家の失脚に繋がった第一の要因だと言われている。
「かつての富豪が手放した巨大な遺産……。こんな場所に、この子の母親はいるっていうのかい?」
ベアトリスさんが喉を鳴らして生唾を飲んだ。
この館にはもう人は住んでいないはず。それなのにここに母親がいるというのはどういうことなのか。
疑念の色濃い視線をクーに向けるモアさんだけではなく、この場にいる皆が同じことを考えていた。
「トーヤ君は、どうしたいの?」
と、そこでシェスティンさんが問うてくる。
クーと真っ向から向き合う僕は、背後から発せられた問いにしばし答えかねた。
この子は幽霊ではない、それは確かだ。
助けを求める幼い彼女を放っておくなんて出来ないけど……本当に、この《ウルズの館》にこの子の母親はいるのだろうか。
もし彼女の言うことが本当ならば、クーはウルズ家の関係者、もしくはウルズ家の家系に含まれる人物だということになる。
だが、ウルズ家の人達はもうこの街からは去っているはずなのだ。
クーの発言、その頼みには不可解な点が多すぎる。
「トーヤ……わたしを、助けてくれないの?」
潤んだ瞳がすがるように見つめてきた。
触れれば折れてしまいそうなか弱いクーを、僕は拒めない。
細く白い手が何かを求めるように伸ばされ、それを優しく包み込むことで答えた。
「シェスティンさん、モアさん、ベアトリスさん……すみません。僕、この子を放っておけない。だから、助けたいです」
クーの願いに応える。それはつまり《ウルズの館》の中まで入り、彼女の母親を捜すということだ。
当初はここで幽霊が出るか確かめるだけだったのが、こんな危険を孕んだ捜索に巻き込んでしまった。
この選択が正しかったのかはわからない。でも、僕は自分に正直でありたかった。
「本当に、すみません」
迷惑をかけることになり、僕は彼女らに謝る。
しかし、ため息混じりの返答は拒否ではなく、僕の決断を肯定するものだった。
「はぁ……あんたなら、そうすると思ったよ。弱いやつを放り出せない──あんたの悪癖だけど、今は付き合ってやる」
「あくまでこれも幽霊調査の一環ですからね。あの館の中は、いかにも幽霊が出そうな感じではないですか」
「トーヤ君のそんな部分が、皆を強く惹き付ける理由なのかもね。あたしも、手を貸すよ!」
立ち上がり、振り返る。
視界に入る三人の微笑みに心から感謝しながら、僕はクーを見た。
顔中に笑みを作る幼女はベアトリスさん達の前に出て、丁寧にお辞儀をして礼を口にする。
「お姉ちゃん達、ありがとう!」
「ふふっ、どういたしまして」
クーより少し背の高いシェスティンさんが、彼女のさらさらの金髪をすくように撫でた。
くすぐったそうに目を細めるクーとシェスティンさんに、モアさんやベアトリスさんも表情を和らげる。
「あたしはシェスティン。よろしくねっ!」
「あ、あたしはベアトリスだ。呼び方は勝手にしていいよ」
「私はモア。クー、あなたの希望に沿えるかは分かりませんが、こうなったら力を尽くすのみです。よろしく頼みますね」
三人が各々自己紹介し、クーは彼女らの名を順々に呟いていった。
シェスティンさん、ベアトリスさん、モアさん、そして僕の顔を見回してから、小さなエルフの女の子は迷いなく僕の所に来てぎゅっと抱きついてくる。
「トーヤ、わたし、この中でトーヤがいちばん好き!」
ド直球に放たれた台詞に思わず仰天してしまった。
幼女にすり寄られる僕に対するモアさん達の視線が痛い。
「トーヤ君……この女ったらしめ」
「彼は悪くはない筈なのですが、やっぱり、はぁ……」
シェスティンさんにぼそっと毒づかれ、ちょっと涙目。モアさんにも大きくため息を吐かれてしまう。
違うんです、これはこの子が一方的に──と弁解しても余計にややこしくなるだけのような気もしたので、僕は何も言わずクーをなんとか引き離そうと努力した。
まるで空いた穴を埋めようとするかのように僕を求めてくるクーを離すことができたのは、それから大分経ってからだった。