夏の幻影と、それでもなお縋り付く亡霊は
結局、あれからモゴモゴと曖昧な返事しか出来なくなってしまった僕に気を遣ってくれたのか、「気が向いたら話してくれ」と無料通話アプリのアカウントを教えてくれた。
・・・・・・と言うより、「登録の仕方がわからない」と言う桐野の代わりに、僕が彼女のアイフォンにアプリをインストールした後、自分のアカウントを友達リストに登録し、簡単に使い方をレクチャーした、というのが正しい。
「こういうアプリがあるのは知っていたけど、使うのは初めてだよ」
と言うのは彼女の弁。嬉しそうに話しながら、大事そうに鞄にアイフォンを仕舞う桐野は、何と言うか、少し可愛かった。
「かけてくれ」と言われたものの、その日の内にかけるのも何となく気まずいし、それに僕自身、あまり桐野と仲良くなることに対して前向きになれずにいた。
いや、仲良くしたいかしたくないかで言えば、僕はもっと桐野と仲良くしたい。だけど、桐野はどうだろうか。
もし、彼女が学校に真面目に通い始めたら、きっと人気者になれる。見た目も可愛いし、思慮深く、適切にその場に相応しい言葉を選択できる。そして時に饒舌だ。皆はそれを知らないだけなのだ。だから、桐野を誤解し、敬遠している。
もしその誤解が解けたなら?
そんな考えが嫌でも頭に去来する。知り合ってたった一日なのに。
・・・・・・否。違う。本当に僕が気にしているのはそんな単純なことではない。
僕が桐野に拘る理由、それは――――。
僕はベッドに横になり、ぼんやりと外を眺める。少しばかり開けた窓から、涼やかな風が吹き込み、カーテンを揺らしている。ここ最近の熱帯夜が嘘のようだ。初夏の夜に似つかわしいクサキリの鳴き声を聞きながら、夕飯時に見たニュースで、この週末はずっと雨だというニュースを思い出す。 明日からの雨が上がれば、とうとう本格的な夏が始まるのだ。僕が生まれて、十五回目の夏。
思えば、昔はとても夏が楽しみだった。何も無かった代わりに、何にも縛られていなかった。
それが今では、携帯電話、テレビゲーム、漫画、小説、パソコン、カラオケ、ボウリング、ゲームセンター・・・・・・挙げればきりが無いほどの、便利で楽しいものに囲まれて僕は生きている。
何かが手に入るたび、大事な何かが心の隙間からするりと抜け落ちてしまうような感覚。
大事な何か。それの正体を、僕はもう知らない。
ただ、思い出せることはある。
いつしか見た、抜けるような青空、湧き立つ入道雲、なけなしのお小遣いで買った100円のジュースの美味しさ、見つけた一番星。そんな何気ない日常に隠れた新鮮な驚き、冒険心、発見、そして歓び。
時折顔を覗かせる幼い日々の記憶の断片が、辛うじて心の片隅に引っかかっており、それが小さなトゲのような痛みとなって僕を苛む。
思うに、元より選択肢などないのだろう。僕たちは、そういうシステムを有する生き物なのだ。社会という名の巨大な不可逆性を有する思想の渦によって、幼い僕たちは、どんどん大人へと作り変えられてゆく。身体が、という意味ではない。心が、という意味でもない。社会が、周囲が用意した「型」により、日々生き方を、大人のそれに近付けなくてはならないのだ。
今や取り戻すことの出来ないモノたちの大切さは、幼い頃には決して理解することの出来ないものなのだろう。あの頃は気付くことが出来なかった、宝石箱のような目映い光に彩られた日々の思い出は、今の僕には眩しすぎて、振り返ることすら出来ないものとなった。
日々を無為に過ごした後悔、大切なものが何であったかを思い出せずにいるかのような焦燥、そして、それが二度と取り戻せないということを理解してしまった虚無感。
無為な毎日、無為な会話、周囲と足並みを合わせながら、虚無の海へとざぶざぶ歩を進めるかのような生き方。
しかし。
その中で、その虚無の中にあって輝くものを、僕は見つけられそうな気がした。
それが、桐野尊。
眩しい日差しの下で微笑む彼女の笑顔は、僕にとって何故だかとても懐かしく、魅力的だった。蝉の鳴き声とともに鮮やかに蘇る今日の記憶。別れ道で振り返り小さく手を振る彼女の姿と、控えめに、それでもよく通るアルトボイスで「またね」と囁く涼しげな声を思い出すと、何故だか鼓動が高鳴ってくる。僕は、その感情の正体を確かめたい。それが僕の、彼女と仲良くしたい理由。
そして――――。
時折彼女が覗かせる、長い前髪に隠された、深い闇を称えた双眸。
あの瞳が本当の彼女なのだとしたら――――。
僕はどういうわけか、怖かった。