檻の中で見る夢
夏の物語です。季節外れですがご勘弁を。
「さよならだ」
突然の、別れの言葉だった。
頭で理解するより先に、脊髄反射の喪失感が身体を駆け巡る。
一拍置いて、その言葉の意味を頭で理解したとき、心臓が早鐘を打ち、渇いた舌が発話を拒んだ。
締め付けられるような胸の痛みを気取られぬよう、極めて平静を装ったつもりでいたのだが、果たして何処まで誤魔化せているかまでを考える余裕は、最早僕には無かった。
図らず溢れる涙で滲み始めた視界の先には、いつもの公園の景色が広がっている。宵闇に浮かび上がる、園内に一つしかない街灯の仄明かりが、昔何処かで見た幻灯機のようにぼんやりと辺りを照らしていた。
「聞かないんだね、理由は」
僕は黙って頷いた。
「うん。感謝、するよ」
「じゃあ、また」
ゆっくりと、自身が発した言葉を反芻するかのように噛み締めているのが解った。
だから、僕は何も聞かなかったのではなく、聞けなかった。思いつきでの発言でも、いつもの気紛れでもないと云うことを知っていたからだ。それだけの決意と覚悟を無碍にすることは、きっと望んでいないだろうから。
立ち去る後ろ姿を視界の端に捉えながら、言いたかった台詞を全て心の最奥へと仕舞い込む。たとえそれが自分にしか聞こえぬ独り言であったとしても、口にしてしまった瞬間、あの後ろ姿を追いかけてしまいたい気持ちを抑えることが出来なくなってしまいそうで。
だから、僕は今、精一杯格好をつけるべきなのだ。
この胸を締め付ける喪失感と痛みを、思いを口にすることによって思い出へと変える術があるのだとしても、僕はその選択肢を選ぶわけにはいかない。
それこそが、去り行く者へ抱く僕の偽らざる本心を示す唯一の方法であり、矜恃なのだから。
そして、僕は言わなければならない。それが本心でないにしても、この場に相応しい別れの言葉を。
もうそこにはいない死者へ花を手向けるように、「さよなら」と。
※※※
僕が桐野尊という存在を認識したのは、中学三年生の夏。梅雨も終わりに差し掛かろうという、暑い、暑い日のことだった。
公立中学校へ通う僕にとって、半年後に控えた高校受験は、各々の能力によって生き方を振り分けられる最初の機会である。「勉強なんて将来役に立たない」なんてことは今まで口にしたことも思ったこともない僕であるが、何となく居心地の悪さと言うか、淡々と家と学校の往復を繰り返す毎日には、ある種の収まりの悪さのようなモノを感じてはいた。
焦燥感なのだろうか。これから先、僕が生きていく上で圧し掛かるストレスは今の比ではないだろう。勿論、僕が大人になる頃には積み重ねた経験によって物事を受け入れる能力、所謂キャパシティってのも増えているのだろうけど、だからと言って、断続的に何かに縛られ生きていくストレスが消えるわけでも、感じないわけでもない。
それによってパニックに陥ることは無いにしても、さすがに今のような悶々とした日々がこの先何十年も続くことを考えると、気が遠くなってしまう。
そして、誰もが感じたことがあるであろう「何故生きているのか」という、あまりに陳腐な疑問へと行きついてしまうのである。
何故生きているのか。僕は、死ぬ理由がないから生きているだけだ。痛いのも怖いのも好きではない。
あ、でも。
「初めから存在していなかった」ってことが可能ならば、それは結構良いかもしれない。
そんな下らないことをつらつらと考えている間に、六時間目、即ち本日最後の授業も締めへと差し掛かっていた。
くたびれたシャツを着て、額の汗をしわくちゃのハンカチで拭いながらぼそぼそと『方丈記』を朗読する、かつては文学少年だっとという国語教諭の中村先生も、こういうことを昔は考えていたのだろうか。そして、そんなことも考えられない程に忙しくなり、家庭のことや、仕事のことで頭がいっぱいで、はっと気が付いたときにはもう定年で・・・・・・。
嫌な考えを頭から追い出さんとするように、軽く頭を振る。
―――知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。
中村先生の低い上に小さくて聞き取りにくい朗読の声と、二十八度に設定された、今年度から設置されたエアコンの機械音だけが教室に響いている。
「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」
何気なくノートに書き写した現代語訳には、
「生まれてくる人、死んでゆく人、どこから来てどこへ行くのか、私にはわからない」
そう書いてあった。
***
中学三年生の大半は、六月ごろにクラブ活動を引退する。全国大会に出場出来るような強豪クラブは我が校には存在しないため、つまるところOBとして後輩諸君に熱血指導を行う物好きさん以外は、とっとと学校を後にするということだ。この夏から、学習塾に通い始める子も多いらしい。
そういうわけで、授業が終わるとたちまち教室はもぬけの殻になるのだが、その教室で、僕は独りぶつくさ文句を言いながら、各クラスメイトの机を拭いて回っていた。毎週、出席番号順に五名ずつが選出され、教室掃除を強要されるはた迷惑な制度が我がクラスには存在する。ただ、僕が属する出席番号六から十のグループは、半不登校一名、ヤンキー三名、そして僕の五名から構成されており、ご察しの通り毎回々々僕一人でのご奉仕と相成るのである。
「帰ろ」
暫しの逡巡の後、臭い雑巾をゴミ箱に投げ捨てる。
「どうせバレやしないよね」
バレなければ、バレなかったでオーケー。
仮にバレたとしても、あのヤンキーたちのサボりも同時発覚することだろう。
どちらに転んでもメリット有りだ。実に合理的な結論に細やかな満足感を覚えつつ、臭くなった手を念入りに洗い、重たいスクールバッグを背負って教室を出る。
出たところで、
「桂!」
久しぶりに名前を呼ばれた。
それは他でもない、息を切らせて駆けてきた、半不登校生徒である桐野尊だった。
「き、桐野さん。どうしたの?忘れ物?」
長い前髪の隙間から僅かに覗く白い額には、大粒の汗が光っている。胸に手を当てて大きく肩で息をする桐野尊。
「すまない、あの、忘れてしまってたんだ。掃除当番。普段あまり来ないからさ、学校。たまに来たときぐらいきちんとしないとって思ってたんだけどね・・・・・・。掃除はもう終わってしまったかい?」
ふーっと、大きく深呼吸をした後、桐野はばつの悪そうな顔でそう話した。
出席番号順で言うと前後の席であるけども(大抵は席替え制度によって、そう並んでいることは稀だけど)、きちんと話したのは初めてかも知れない。
何せ、彼女は先ず、ほとんど学校へ来ていないし、来ていたとしても一日中机に突っ伏しているか、イヤホンを耳に突っ込んで本を読んでいるかの二択だからだ。
「あ、うん。終わったよ。でも、あの、気にしないで」
何故か妙に緊張してしまう。
「そうか、本当に申し訳ない。以後気を付けるよ」
ぺこりと頭を下げる桐野。そしてはっと何かを思い出したように頭を上げると、桐野は意外な台詞を口にした。
「桂さん、あの、この後少し時間はあるかい?」
忌憚無いご意見をよろしくお願いします。