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temptation sap

作者: 深那 優

 モーニングともアフタヌーンとも取れない微妙な時間帯のせいか、その喫茶店の店内は、やけに殺伐とした光景に見えていた。十数卓あるテーブルのほとんどが利用客を待っている状態で、すでに客を獲得しているテーブルといえば、今私がいる窓際のテーブルと、温厚そうな老夫婦のいるテーブルくらいだ。

 普段から客足の悪い喫茶店――というわけではない。むしろ、この喫茶店は近所でもそこそこ名の知れた店で、雰囲気にもコーヒーの種類や味にも定評がある。少なくとも、私が記憶している限りでは、ここまで来客の少ない状態を目の当たりにしたのは初めてのこと。

 でも、私がそのことに対して違和感を感じることは全く無かった。

 この殺伐とした空間も、日中であるにも関わらず流れ続けるムーディなジャズナンバーが醸し出す独特な雰囲気も、全てこの時間のために設定された、以前から決まっていた構図なのだ。――私と、私の目の前にいるカレのためだけにセッティングされたもの。そうとしか、思えなかった。

 私は今日という時間のために、自分の中で最大限のドレスアップを施していた。トップスのキャミとカーディガンはクリスチャン・ディオール、ボトムスのジーンズはドルチェ&ガッバーナ、胸元にはクロスのペンダントを光らせ、指ではプラチナリングが輝きを見せている。

 決して、目の前にいるカレのためではない。あくまでこれは、この時間と、何より自分自身のために施したものだ。

 自分で言うのもなんだけど、私は自分のルックスに、それなりの自信を持っている。出るところは出ているし、引っ込むべきところはきちんと引っ込んでいる。顔立ちだって整っていると思っているし、化粧にだって自信がある。背丈だって極端に低くも高くもないから、相手とのバランスを気にする必要もほぼ無い。

 だから、私にはいつも、必ずパートナーが存在していた。ある時は有名病院の院長の息子。またある時は敏腕で通っている弁護士。またある時はどこぞの御曹司。ちょっとそういった面々が集まるパーティーに着飾って出席すれば、何の苦労もなく向こうから接触してきてくれた。私を包む彩りは、全てその元パートナーたちからのプレゼント――戦利品だ。

 彼らのような人たちとは、いつも交際してニ,三ヶ月で別れることにしている。どんなに長くても半年。彼らとの『交際』に、それほど長い時間は必要ないのだ。

 私が彼らに求めているのは、決して彼らからの『愛』という無実像のモノではなく、形ある物。もちろん、彼らが甘いキスや深い抱擁を求めてくることはあった。私はそれに対して最大限答えてきたし、それに対して嫌悪感を抱くこともなかった。けど、私にとってそれらの行為は、すべて形ある物を手に入れるための機械的行為でしかなかったから、彼らのことは好きだったが、決して『愛した』ことはなかった。


 ――だが、カレに対しては違った。




 いつもありがたく利用させてもらっている、定期的に行われる交遊パーティーにカレが顔を出したのは、今から一週間前のことだった。

 カレは先日デビュー作を発表したばかりの新鋭小説家だった。以前から交遊パーティーに参加していたカレの友人から誘われて、断ることもできずにしぶしぶ参加することにしたらしい。特に印象に残るようなルックスの持ち主ではなく、その姿格好や仕草姿勢など、どれをとっても『普通』としか形容できないような人物。

 だが、私は一目見た瞬間から、そんなカレに完全に惹かれてしまっていた。どれだけ思考しても、何故カレに惹かれたのか、その理由はまったくわからない。けど、確かに惹かれていた。

 自分から行動に移るのは始めての事だった。紫で統一されたパーティードレスをひるがえし、自分の足でパートナー候補の元へ向かうことは。これまでだったら、それは私にとって恥ずべきものだったが、その時はその行動がいたって必然的な行動に思えていた。周囲から向けられる、いつもであれば更なる自信へと繋がっているはずの視線は、その時に限ってはまったく無意味なものとなっていた。いつもは戦意を漲らせてくれる緊張感が、その時に限ってはとても不安を煽る。

「隣、座らせてもらってもいいかしら?」

 それが、パーティー会場に付設されているバーのカウンター席に座っていたカレへの、ファーストコンタクトだった。

 あまりに発展性の無い言葉に、思わず言った瞬間後悔の念に駆られたけど、カレはそんな私の言葉に無愛想ながらもこちらを向いて、控えめに頷いてくれた。

 カレは一人、甘く芳醇な香りを放つチェリー・ブロッサムを口にしていた。深みのあるダークレッドが、カクテルグラスの中で揺れる。――そっと、心も揺れた。

 カレの隣に座ったのはいいものの、その後の言葉が浮かばない。バーカウンターの一角には、まるで病院の手術室の前で待っているかのような、凛としていながらも落ちつかない雰囲気が形成されている。

「……何でも良い?」

 それが原因なのか、ふとカレが言った言葉を、私は瞬時に理解することが出来なかった。男にしては高音の、流れるような声。あまりに唐突で、深く考える間も無いまま、ただ反射的に頷く。

 カレは私が頷くのを見ると、初めて控えめな笑みを見せた。もしかしたら、ただの幻かもしれない。そう思ってしまうくらいに、本当に控えめなものだったけど。

 カレが自分と同じチェリー・ブロッサムを注文し、バーテンダーが小気味良くシェイカーを操る。リズミカルなシェイクが、今という現実感をよりマヒさせていた。

 チェリー・ブロッサムが目の前に滑り込んでくると、より強く、甘い香りが私の鼻腔をくすぐる。その香りと、ゆらゆらと揺れながら控えめな照明に照らされて煌く空気との接面が、私をそっと――でも着実に誘惑する。

 その時点で私は、すでに普段の私から見れば失態と言っていいほどのミスを犯してしまっていた。普段ならば、チェスのように次手を常に頭の中にストックしておくのに、今はストックどころか案すら浮かんでいない。

「ありがとう」

 気を取り直して、何とかカレに色目の営業スマイルを向けながらそう言う。ただ、それすらもどこかぎこちないものになってしまっている。

 そのせいなのか、それとも、そもそも無意味なことだったのか、カレは私の行動にまったく惹かれていない様子だった。ただ自分のチェリー・ブロッサムを愛おしんでいるかのように見つめながら、少しずつ味わっている。

 ――その眼差しを、私に向けてほしい。

 それまでの経験からくる意地などではなく、心の奥底から、真の欲求として湧きあがってきた感情だった。本能にも引けを取らない、単純で真っ直ぐな感情。

 私は、更なる行動に移った。

「このパーティーに参加するの、初めて?」

 いつもパーティー参加者の顔ぶれを漏れなくチェックしている私にとっては聞くまでも無いことだけど、内容なんてどうでもよかった。ようはカレとの会話という糸を紡ぐ繊維の、最初の一本になればいいのだ。期待通りにカレが視線をこちらに向け、製糸作業がスタートする。

「あぁ、今回が初めて。……まぁ、これが最初で最後になることを望んでるんだけど」

「それは、今回でお相手を決めたいってことかしら?」

「そう思うかい?」

 苦笑混じりにカレが言う。――また一つ、カレへの想いの層が上乗せされる。

「ふふ……思わないわ。でも、折角来たんだからお相手探しくらいしてみてもいいんじゃない? それとも、元々探す必要なんて無いのかしら?」

「残念ながら、今はフリーの身さ。ただ、何かこういう場所でのお相手探しってのにちょっと抵抗があってね」

「あら、それじゃあそれをしてる私じゃお相手候補にはなれないかしら?」

 気持ち、カレとの距離を狭める。チェリー・ブロッサムを一口含み、甘い吐息をカレに向けた。

 カレは然して驚いた様子は見せていなかった。けど、さすがに一瞬の間は出来る。少し悩んだ表情を見せた後、カレは囁くように言葉を紡いだ。

「……いや、そんなことはないさ」

「ふふ、ありがとう。……良かった。貴方の態度を見てたら、私のことなんか眼中になくて、何も無かったかのようにどこかに飛んでっちゃいそうに思えてたから」

 ふと、カレの口元が少し緩んだ。きっと何かしらの意味があるんだろうけど、私にはその意味を理解することはできなかった。――ただ、カレは意味深な言葉を私に投げかける。


「――飛んでいくのは、きっと俺じゃなくて貴女だよ」


「何それ? どういう意味?」

 まったく理解できなくてそう問いかけると、カレはあまり雰囲気に似合わない意地悪めいた笑みを浮かべて、逆に尋ねてくる。

「わからないかい?」

「わからないわ。でも――」

 いくら考えてもわからなそうな、解釈のしようのない言葉。でも、その事実は私にとって良い材料となる。

「――でも、答えは知りたいわ。……ねぇ、いつでもいいから今度二人で会わない? その時に、その答えも教えてよ。それに折角お相手の座への立候補を許されたんだし、今日だけじゃアピールタイムが足りないわ」

「ハハ、そうだね。確かに選挙期間が数時間しか無いんじゃ申し訳ないな。じゃあ……一週間後、そこの駅前にある喫茶店で落ち合うってのはどう?」

「えぇ、それで構わないわ。……時間は?」

「貴女の都合に合わせるよ」

「……じゃあ、お昼時だと混みそうだから十時くらいで良いかしら?」

「あぁ、大丈夫だよ。一週間後の十時に喫茶店……しっかり覚えておくよ」

 カレはそう言うとゆっくりと立ち上がり、二人分のチェリー・ブロッサムの勘定を済ませる。そして、

「それじゃあ、一週間後に」

 微笑と共にその言葉を私に贈って、バーから離れていった。

 途端、二人で居た空間がただのバーの一部分に戻る。まるで二人だけの密室に居るような錯覚を感じさせてくれていた雰囲気が、瞬時に辺りに霧散する。

 そこに残ったのは、二人で交わした約束と私の中に形成された感情。そして、カウンターにポツンと置かれた、確かにカレがそこに存在していたという事実を証明するもの。


 ――目の前にあるカクテルグラスのチェリー・ブロッサムは、すでにその生涯に終わりを告げかけていた。




 テーブルの上にあるカプチーノとエスプレッソを互いに味わいながら、私とカレの会話は進められた。ろくにしてなかった自己紹介や、自分が置かれている環境のこと。それに、互いの恋愛感について。正直、自己紹介以外の事に関してはほぼ作り物だ。もちろん、度の過ぎた作り方はしていない。ちょっと普段の生活を綺麗な風に繕ったり、恋愛感を支障の無いように作り変えただけ。普段の素行を、包み隠さずさらけ出すことなんて、私にはできない。

 私のカプチーノとカレのエスプレッソ、両方の深度がかなり浅くなったところで、二人の会話は止まっていた。

 ふと周囲を見まわすと、入店時よりもだいぶ来客数が増えていた。時間も良い時間帯になってきているんだろう。――何だか、何をされているわけでもないのに、その客たちが邪魔者のように思えてならない。

「――さて、そろそろ頃合かな」

 自然と落ちつかない様子を見せてしまっていたのかもしれない。カレはエスプレッソを一気に飲み干すと、妙に隙の無い笑顔を見せながらそう切り出した。空のコーヒーカップが、無造作にテーブル上に戻される。

「え……っと、頃合って、どういうこと?」

 自分でも呆れてしまうくらいに動揺していた。カレはこの後、二人の時間の終了を告げてくるかもしれない。そう思ってしまった瞬間から、心の中で対処法を巡る情報整理作業がノンストップで進行されていた。最早カレに対する想いは、確実に私の中で大きなものになってしまっている。今更引くことなど、できるはずがない。

 だが、カレが続けた言葉は、私の考えとはまったく別のものだった。

「一週間前に言った言葉の意味を教えるってことだよ」

「……なんだ、そういうことね」

 急激な動揺から安堵への切り替えで、思わず深く息を吐く。――けど、カレの違和感を抱かせる笑みは、より深いものになっていた。

「そういうこと。……じゃあ、答えを発表するよ。――貴女はオオムラサキなんだ」

「オオムラサキ?」

「その名の通り、紫色の羽を持つ蝶だよ。とは言っても、雌のオオムラサキの羽は紫色じゃないんだけどね」

「……で、何で私がそのオオムラサキなの?」

「それはね――」

 ――カレの口元が大きく歪んだ。それだけで、カレの笑顔が物凄く卑しいものに見える。まるで、胸中に抱く企みを顔全体で表現しているかのよう。

 瞬間、カレから恐怖という感情を抱いてしまった。そして身体も、当然のことのように拒否反応を示し始める。

「――それは、貴女にとって俺や……『いままでの男』たちは、美味しい『樹液』を出すただの『木』だからさ」

 カレの口から『いままでの男』という言葉を聞いた瞬間、血の気がスッと失せていった。そう――カレは『知っている』んだ。

 カレは私にキツい視線を送りながら、淡々と言葉を続ける。

「『オオムラサキ』は『美味しい樹液』を味わうことだけを目当てに、『木』から『木』へと移り行く。『樹液』の無い『木』に留まることなど、『オオムラサキ』にとっては時間の浪費に過ぎない。……そうなんだろ、『オオムラサキ』さん?」

 私は今、何を言われているんだろう? 何のために、この場にいるんだろう?

 様々な感情が、恐怖となって押し寄せてくる。何もかもすべて、疑問系のまま終わらせたかった。

「言ってることが……よく、わからないんだけど――」

 ――だが、カレに容赦などという言葉は存在しなかった。

「まぁいいさ。わからないと思っていたいのなら、それでも。ただ、無理なことだと思うけどね」

 いくら足掻いても、カレの嘲るような笑みから視線を逸らすことができない。――離れることが、出来ない。

「『オオムラサキ』は、『樹液』が無いと生きていけない。だから、ちょっと『匂い』を出せば何にもしなくても接触してくる。――常に動いてたのは『オオムラサキ』さん、貴女の方なんだよ。甘い『樹液』に誘惑されて……ね」

 カレは私のカプチーノを手に取り持ち上げると、エスプレッソが入っていたコーヒーカップの上に移動させた。そして、ゆっくりとカプチーノの入ったコーヒーカップを傾かせる。



「――俺の『樹液』は美味しかったかい? 『俺たち』が居ないと生きていけない『オオムラサキ』さん」



 樹液とはまったく似つかない流動をするカプチーノが、カレのエスプレッソが入っていたコーヒーカップへと移り行く。それはまるで、私自身が奈落の底へと落ち続けていることを表現しているよう。

 私はカレ自身に惹かれていたのではなく、カレが出す『偽りの樹液』に誘惑されていただけだった。



 ――――私の背後に、知っている『匂い』を放つ『木』が集まっていた。

『temptation sap』を読んでいただき、ありがとうございました。

いかがでしたでしょうか?

本作はとにかく『場の雰囲気』を意識して書いていた記憶があります。

すこしでもその『雰囲気』を感じ取っていただけたのであれば、私としては満足です。


2012.11.24 深那 優

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― 新着の感想 ―
[一言] 情景描写がきっちりと書かれているので、しっかりとした読み応えのある作品だと感じました。 また、比喩表現など、表現方法が多彩なので単調な文章になることなく、最後まで書き進めていたので感嘆してし…
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