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雨の真昼

電撃文庫「チャンピオンシップ」、お題「あめの中の逃亡者」で書いたけど出さなかった作品その2です。

 熟れすぎた果実のやわらかさで、指先は沈む。

 ぐずぐずに崩れそうな、腐りかける一歩手前で存在を濃く示すために放たれる最期の芳香。

 人工的に磨き上げられても、どんなに肌理を整えたとしても、隠し切れない老化の影がじんわりと身体を包み込んでいる。

 鼻先を押し当てて、コルセットでは誤魔化しの効かない状態にした女の下っ腹で音を立てた。

「やめて」

 甘い声。

 くすくすと漏れる笑い声は少し低くてたっぷりと濡れている。犬の鼻先のように。

「やめてちょうだい」

 嫌です、と仲野は言って、つきたての餅ほどやわらかな乳房に手を伸ばした。

 自分の母親より年が上の女。けれど顔は美容関係にかなりの金でもかけているのか、それとも神様に愛されていているのかは分からないが、少なくとも四十代に見える。

「嫌です」

 もう一度同じ言葉を繰り返し、二十歳の仲野は女をまっすぐに見詰めた。

「悪い、子」

 甘ったるい声。言葉の輪郭から隠せないほど染み出して滴り落ちそうな、喜びの、声。夫よりも、子供よりも若い男に抱かれる、優越感。

「悪い子で、いいです」

 あなたに触れられないいい子になるより、あなたに触れられる悪い子の方がいい。

仲野はそっと、けれど確実に相手の耳に届くようゆっくりとはっきり、言葉を紡ぐ。女の心をくすぐるように。


「あら、雨」

 開け放してあった窓の向こうへ、レースのカーテンが飛び出していた。風が出てきたのだと思ったら、ざあっと雨も降り込んできたのだった。

「天気予報、雨だなんて言ってたかしら」

 女はシーツをまとって窓に近付く。伸ばした二の腕のたるみ。開き窓の取っ手を掴み、ぱたりと音を立てて閉めた。

 白を基調にした部屋は、飾られた花までもが白い。それがひどく淋しげな印象を与える。

「言ってた、雨だって」

 裸の上半身を起こし、ベッドの上で仲野は伸びをした。

「嵐になるといいのに」

「どうして?」

「あなたとこの部屋に閉じ込められて、ずっと一緒にいたいから」

 女が振り返った。可愛いことを言うのね、と顔をほころばせる。仲野もそっと微笑み返す。

「でも夫が帰ってくるわ」

「鍵をかけてしまえばいい」

「無理よ、だけど嬉しい、あなたがそう言ってくれるだけで」

形の良い唇がほころぶ。若くはないが、目を細めて笑うと可愛らしい表情になる。

 雨脚が強まり、窓を叩き始めていた。

「じゃあ、一緒に逃げよう」

 女はとろけるように微笑んで、そっと横に首を振った。来月娘の結婚式がある。娘と言っても昔夫が愛人に産ませた子で、先天性の障害があり太陽光に当たったり雨や雪に当たると肌が火傷したような状態になるらしい。金のための政略結婚で、そのために夫は身籠ったまま行方をくらました愛人を捜し出し、娘だけ無理矢理奪ったと。

「ひどい夫でしょ?」

「尚更あなたをここから連れ出したい」

「可愛い子」

 窓を叩く雨の音が強くなる。泣いてるみたいね、と女がつぶやいた。仲野はそっと女の手を取って、指を絡ませる。

 部屋の外でなにかを運ぶような音がした。仲野が首を傾げると、女が彼の手を撫でながら言う。

「娘のウェディングドレスに合わせて、帽子を作るらしいの。ベールの代わりに。太陽の光も雨も遮断できるような」

 仲野は黒目をくるりと動かすと、ゆっくりと言葉を選んで、素敵ですね、と口にした。

「身体も弱くて、ベッドに横になってばかりなの。……可哀想な子だわ、好きでもない男に嫁がされて」

「あなたも可哀想だ、この家に縛られていて」

 雨が水の檻のようです、と仲野が俯くと、なにかの小説でそんな表現があったわね、と女が微かに笑った。


 遮断材の布を、丁寧についていた雨をきっちりとふき取ってから急いで解く。トルソーごと運ばせていただきますから、とは告げてあったが、そのトルソーが生きた人間だとは誰も思わなかっただろう。

天乃(あめの)!」

 (とう)のアパートはカーテンを閉め切ってあって薄暗い。中から出てきた、透けるように色の白い少女をしっかりと抱きしめた。

「雨に濡れたりは、」

「失礼な、梱包は完璧だよ。帽子屋を舐めるな」

 すらりと背が高く、薄い身体の帽子屋が眉をひょいと上げてしかめっ面を作る。

「ありがとう、本当に。ちっとも苦しくなかったし、痛くもなかったの」

 年齢の割には随分と幼い感じのする天乃は、仲野と藤の幼馴染みだった。片親しかいなかった彼女はずっと一緒に、それこそ兄弟のように三人で育っていたのに、中学二年のある日、いきなり姿を消してしまった。

 身体の弱い天乃に、仲野も藤も初恋は捧げた。突然いなくなった幼馴染みの存在は、その後もふたりになかなか次の恋を許さなかった。

 高校を途中で辞め気ままなバイト生活をしていた藤は、運送屋の仕事をしていたときに偶然天乃に再会したらしい。そこでこっそり連絡を取り合うようになり、お互いが初恋相手だと知り、燃え上がった矢先に天乃が結婚させられる事を知った。天乃をさらいたい、と、そこで初めて仲野は相談を受けて驚いた。顔には出さなかったが。

「この先、どうなるかは分からないけど」

 藤が宣言のように、小さく、けれど力強い声で言う。

「俺、無茶苦茶働いて、天乃に不自由させない」

 体質のことが一番心配だけど、というので、まさか天乃のために将来を決めたとは言えなかったが、仲野が「何のための医学生、将来のお医者様だよ」と威張って見せた。

 天乃と藤が、ほっとしたように笑みを広げる。


「しかし仲野が年増もいけたとは」

 藤のアパートに天乃を残し、仲野と帽子屋は車に乗り込んだ。

「愛も情もなければ、年齢も性別も関係なく抱けるさ」

 仲野がつまらなそうに返す。

「あんたさ、あの天乃って娘のこと、好きだったんだろ」

 帽子屋が意地悪く言ったが、仲野は無視した。雨は強さを増し、フロントガラスを叩いている。帽子屋は何も知らない振りでウェデング用の帽子を納期までに届けるのだろう。

「失恋男が格好付けて。好きな女が幸せならそれでいいってやつか? ま、あたしが彼女になってやってもいいけどさ」

 帽子屋が運転席で薄い胸を張った。横目で見ながら、仲野は鼻を鳴らす。

「欲情しねぇよ、男女」

 帽子屋が薄く笑いながら、アクセルを思い切りふかした。

 雨はまだ、当分止みそうにない。

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