第七章
カリルは自分の目を疑った。
「シロ・・・!?」
間違いない。シロだ。闇の中、浮かび上がった白い姿。見間違えるはずがない。
シロがちょこんと座って、こちらを見ている。
『カリルさん?どうしたんですか?』
「シロがいるんだよ、ほらあそこ」
『はい・・・?』
カリルが指さす方向に、響きは顔を向けた。首を傾げてまた視線を戻す。
『・・・あの、なにもありませんよ?』
「なに言ってんだ、そこにいるじゃねーか!」
『と言われても・・・そもそもシロって誰ですか?』
「・・・ほんとに見えてないのかよ」
カリルは呆然とつぶやいた。あれが見えているのなら、そんなことは聞いてこないはずだ。
では、あれは何なんだ?シロは死んだのは、間違いない。自分の手で弔ったのだから間違えようがない。
ではあれは幽霊か何かなのか。幽霊なら幽霊で、響が見えないはずもない。
黙り込んだカリルに不安を感じたのか、響がのぞき込んでくる。
『カリルさん?』
「・・・シロは狼で、おれの友達だった。もう死んだけど」
『じゃあカリルさんが見てるのは』
「幽霊・・・なのか?」
響はぎゅっと眉をひそめると、首を振った。諭すような口調で言う。
『幽霊ならぼくが見えないはずがありません』
「じゃあ、何なんだよ!?」
思わず飛び出した大きな声に、響は驚いたように目を見開いた。
『カ、カリルさん?』
「・・・わりぃ、つい」
カリルは目をそらして反射的に謝った。響はぽかんと口を開けている。ものすごい間抜け面だった。
『カ、カリルさんが謝るなんて・・・何の前触れですか。嵐ですか?槍ですか?』
「うるせーな。こっちはこっちで色々あんだよ」
舌打ちして、カリルは毒づいた。自分でも思った以上に混乱しているのかもしれない。
それはそうだ、と自分に言い聞かせる。だってシロがいる。目の前に、シロが。
「・・・」
カリルは深呼吸すると、前を見据えた。一歩を踏み出す。
『カリルさん?どうしたんですか?』
「どうしたもこうしたもねーよ。あれがシロなのか確かめる」
『えっ、でも』
響はうろたえながらカリルの傍らに寄ってきた。カリルと、カリルの視線の先を交互に見る。
『危ないかもしれないじゃないですか!』
「知るか。おまえの出番だろ」
『無理ですよ!見えないのに』
「いいから黙ってろ。どっちにしろ確かめないと気がすまねー」
カリルはゆっくりと、しかし確実に足を進めた。シロは動かずに待っている。暗闇の中でもはっきりと見えるということは、やはり何かがおかしい。頭の隅で警鐘が鳴る。
シロの真ん前まで来たカリルは、視線を落とした。シロが以前と変わらない姿でこちらを見上げている。その優しげな目は記憶にあるままで、戸惑いを覚えずにはいられない。
「シロ・・・なのか?」
おずおずと手を伸ばす。
その真っ白な毛に触れようとした瞬間、シロの双眼に明確な敵意がひらめいた。大きく裂けた口から鋭い牙が見えた。
「!」
反射的に身を引いたカリルは、腕を押さえた。牙がひっかいたらしく赤い筋ができ、血が滲んできている。
「ってぇ」
『あの、カリルさん?大丈夫ですか?』
「大丈夫じゃ・・・っ!!!」
不意に飛びかかってきたシロを片手で受け止め、横に払う。シロは身軽に着地して距離を取った。まだ敵意は消えていない。
「まじかよ・・・」
『カリルさん?あの、どこか怪我してるんですか?』
「いちいちうるせーな、見りゃわかんだろ」
『ええっ、ど、どこですか?手当しないと!!』
カリルはシロに注意を向けたまま、怪訝そうに響を見た。冗談を言っているような様子はない。ということは・・・。
「・・・響、おまえこれ見えるか?」
カリルは腕を掲げた。先ほどの傷がズクズクと鈍い痛みを訴えている。
響は穴が開くほど腕を凝視した。
『えっと・・・腕がどうかしたんですか?』
「・・・まじか」
では目の前のシロも、この怪我も自分だけしか分からないということか。カリルは舌打ちした。
少し離れたところを回っていたシロが、唐突に距離を縮めてきた。カリルはとっさに腰のナイフに手をやったが、どうしても抜くことはできなかった。
仕方なく飛びかかってきたシロを避け、横から体当たりを食らわす。ギャウン、という悲痛な声が聞こえた。声まで聞こえるのか、くそ。
「耳に悪いっつの・・・!」
『カリルさん?あの』
「ああ!?」
『状況を説明してもらえると大変助かります』
めんどくせぇな、とカリルは顔をしかめた。
「おれにはシロが見えるけど、あれはたぶんシロじゃない。以上」
これがシロなら。自分の知っている狼なら決して攻撃なんてしてこないはずだ。それだけは断言できる。
かといってこの状況をどうすればいいのか。
「響!」
『はいっ!』
「ぼけっとしてないで何とかしろ」
『と、言われましても・・・どうすれば・・・』
響はおろおろしている。この役立たず。そう言おうとして、できなかった。
シロがもう一度飛びかかってくる。反射的に頭をかばった腕に容赦なく噛みついてきた。牙が食い込んでくる。
「っ!!くそったれ!!」
腕に食らいついたままのシロの身体に、かなり本気の膝蹴りを叩き込む。悲鳴とともに牙は離れたが、ぼたぼたと大量の血が腕を伝って落ちていく。
カリルは歯を噛みしめた。
『カ、カリルさん・・・っ!?』
響は苦悶に顔をゆがめるカリルを、ただ眺めるしかできなかった。彼女の目にはシロという狼が映っているらしいが、あいにく自分には見えないのだ。それに。
『カリルさん、もしかして怪我してるんじゃ・・・』
さっきから腕を押さえている。痛そうに歯を食いしばっている。汗をあんなにかいて。
『ど、どうすればいいんでしょう!?結界はもう張ってますし、そもそもぼく戦えないですし・・・っ、そうだ!』
響は名案に顔を輝かせた。出口だ。この妙な状況はすべてこの地下道が原因なのだとしたら。
出口さえ見つけてしまえば、この状況を打破できるかもしれない。
そうと決まれば善は急げだ。響はカリルを見つめた後、大急ぎで出口を探しに向かった。
「ふざけんなよ、まじでブチ切れたからな・・・」
腕を振って、伝う血を落とす。激痛が走ったが、どうでもよかった。そもそも本物の痛みなのかすら分からない。シロと同じで自分だけに分かる錯覚なのだとしたら。
とにかくあれを何とかしないと。このままでは埒があかないし、下手をしたらこちらが失血死なんてことになりかねない。
遠慮する気はとうに失せていた。シロの姿形をしていようが、叩きのめしてやる。
挑発的に笑むと、シロが再び向かってきた。いやあれはシロではないんだ。自分に言い聞かせる。
狙っているのが急所の首だと分かると、すぐさま片手でガードに入る。さっきと同じように腕の肉に食らいつく牙の感触。激痛。
「ってーんだよ!!」
カリルは片腕に食らいつかせたまま、もう片手でシロの身体を拘束した。床に押さえつけ、全体重でのしかかる。
片手で首を押さえつけると、逃れるようにシロは暴れた。食らいついていた腕が自由になる。
「さぁ、覚悟しろよてめー」
まずは一発殴ってやろうと拳を振りあげたカリルは、ふと目を見はった。
シロの姿が一瞬ぶれた。かと思うと陽炎のように変化する。
金の髪の、少年の姿に。
こちらをじっと見上げてくる穏やかな緑の目。
「!」
出かかった友人の名前を、カリルはぐっと呑み込んだ。口元に笑みを浮かべる。拳に力をいれた。
「残念だったな・・・おれはそっちのほうが殴りやすいんだよっっ!!」
渾身の一撃を振りおろした。
確かな手応えの後、友人の姿は残像のようにぶれた。揺らめいて消えていく。カリルは肩を上下させながら、大きく息を吐き出した。
なんとか、なったのか。
安心したら急に目眩がして、カリルはその場に崩れ落ちた。