第一章 影の門をくぐる(分析班での初任務準備)
午後、桜機関通信分析課。
蛍光灯の白光が、紙の束を均一に照らしていた。
打鍵音とペンの走る音だけが部屋を満たす。
高峰慶は机に肘をつき、無線紙の一枚を指で押さえた。
「これが昨夜の傍受記録だ」
藤堂の前に差し出されたのは、数字と英字が混ざった暗号文だった。
23-5/α7:CROSS/N—43/T-区…
「この“CROSS”という符号が問題だ」
高峰はペン先でそこを叩く。
「外務省が使う定期報文には、こうした英単語は入らない。
だが、この文字列だけ、桜機関の暗号体系に酷似している」
藤堂は覗き込み、記録用紙の端に目をやる。
そこには微細な波形データ――発信元を示す電波のクセが印字されていた。
「発信源は……外務省通信室?」
「正確には外務省地下回線。
発信時間は二十二時四十八分。勤務時間外だ」
高峰は静かに眼鏡を押し上げた。
「君は明日、若槻智久という職員に会う。
そいつがこの通信を発した可能性がある」
「可能性、ですか」
「確証はない。だが、統計的に見れば一致率八十二パーセント。
数字は嘘をつかないが、人間は嘘をつく。
だから、君の仕事が必要なんだ」
藤堂は頷き、報告用紙を取った。
紙の端には、記録番号とともに手書きのメモがある。
――「参照:第一課端末13号」。
「第一課?」
「我々の内部端末の一つだ」高峰が低く答えた。
「本来なら使われていないはずの回線だが、
昨夜、わずかに発信反応があった」
藤堂は一瞬、言葉を失った。
外務省の通信と、桜機関内部の端末が――同じ波長。
高峰は表情を変えずに言う。
「この件は上には報告していない。
誤差として処理することもできる。だが――」
「だが?」
「もし誤差でなければ、内側に“別の発信者”がいることになる」
藤堂は小さく息を吸った。
「つまり、内部漏洩の可能性ですか」
「言葉を選べ。外ではその単語を使うな」
高峰は机の上の灰皿に煙草を押しつけ、
小さな紙切れを藤堂の胸ポケットに滑り込ませた。
「この番号を覚えておけ。
外務省で“これと同じ符号”を見たら、報告を待たずに戻れ」
藤堂は紙片を指で押さえた。
わずかな熱が、皮膚の奥に残った。
高峰は再び無線紙に目を戻し、
まるで独り言のように呟いた。
「――情報は血だ。流れを止めれば死ぬが、流れすぎても死ぬ」
その声を背に、藤堂は部屋を出た。
廊下の空気は乾いていて、
遠くでタイプライターのリズムが響いていた。
その規則的な音が、
まるで心臓の鼓動のように聞こえた。
「数字は嘘をつかない。
だが、それを読む人間が何を信じるかは別問題だ。」
― 高峰 慶




