第一章 影の門をくぐる(訓示と任務命令)
翌朝。
桜機関の会議室には、十数名の将校と職員が集められていた。
机の上には資料が整然と並べられ、壁の時計の針が午前九時を指して止まる。
部屋の空気には、静かな緊張が漂っていた。
結城中佐が入室した瞬間、
全員が立ち上がる。
「着席を」
短い号令のあと、結城は視線をゆっくりと巡らせた。
その目に笑みはなかったが、怒気もなかった。
ただ、冷静な温度だけがそこにあった。
「これより、桜機関の新任任務について通達する」
背後の黒板に、三輪大尉が一枚の地図を貼る。
外務省を中心に、赤い印が三つ。
「帝都」「横浜」「上海」。
それぞれに細い線が引かれていた。
「先週、外務省から帝都通信局経由で外部に情報が流出した。
発信元は不明だが、経路上に“職員による不正通信”の痕跡がある。
この件の確認と処理を、我々が引き受ける」
結城の声は、淡々としていた。
誰も質問しない。
机の上の資料だけが、紙の擦れる音を立てる。
「この任務に関し、正式な公文書は存在しない。
記録も残らない。報告は口頭のみだ」
その一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。
結城は構わず続ける。
「目的は“真実の解明”ではない。
組織としての安全を確保することだ。
必要とあらば、事実を塗り替えることも任務に含まれる」
藤堂は無意識に手を握った。
結城の声は冷たいが、どこか妙な説得力がある。
論理として正しいのだ。
ただ、その正しさが人をどこへ導くのかは、誰も語らない。
「現場調査を担当するのは三輪大尉と藤堂少尉」
結城が視線を向ける。
「外務省情報課――若槻智久。
この男を調べろ。
必要なら、情報課の内部端末まで確認しろ」
「了解しました」
三輪が即答する。
藤堂もそれに倣って立ち上がった。
結城は一拍置いてから言った。
「我々の任務に“誇り”は不要だ。
必要なのは、結果だけだ」
一瞬の沈黙。
その言葉を、誰も否定しなかった。
結城は視線を巡らせ、
最後に短く締めくくった。
「……桜機関は、光の届かぬところで働く。
それを理解できない者は、ここにいる資格はない」
その一言で訓示は終わった。
結城は踵を返し、部屋を出る。
残された空気は重く、言葉を発する者はいなかった。
三輪が静かに立ち上がる。
「準備を始めるぞ。外務省との接触は明朝だ。
――少尉、初仕事だな」
藤堂は短く答えた。
「はい」
その声には、まだ確信も、疑念もなかった。
ただ、冷たい現実の中で、命令だけが鮮明に響いていた。
「命令とは、理解を超えて従うためのものだ。」
― 桜機関内部講義資料より




