第一章 影の門をくぐる(桜機関内部)
桜機関の内部は、軍の他の部署とはまるで空気が違っていた。
兵舎のような雑然さも、参謀本部のような威圧感もない。
ただ、整いすぎた沈黙と、冷えた蛍光灯の光。
案内役の三輪大尉は、無言で歩きながら要所を指で示していく。
「ここが通信分析課。隣は文書管理班だ」
廊下の先、厚いガラスの向こうに十数人の将校が机を並べ、
無線紙と暗号表を前に作業している。
紙の擦れる音だけが絶えず響いていた。
「こいつらは昼夜を問わず傍受波を記録する。
“敵国”だけでなく、我が国の通信もだ」
藤堂は思わず足を止めた。
「国内の通信まで、ですか」
三輪は振り返らずに答える。
「上の命令だ。誰が敵かを決めるのは、現場じゃない」
冷たい言葉だったが、口調には疲労の色もあった。
廊下の角を曲がると、部屋の前に一人の男が立っていた。
白衣に似た作業服、胸に「高峰」と刺繍がある。
年は三十代半ば、眼鏡越しの視線が鋭い。
「新人か」
「はい。藤堂少尉です」
「高峰慶、通信分析課主任だ。……こっちへ」
高峰の部屋は狭く、壁一面に地図と符号表が貼られていた。
無線機が二台、脇にタイプライターが一台。
机の上には膨大な受信紙。
そこに書かれた文字列は、一般人には意味をなさない数字と符号の羅列だった。
「ここで扱うのは、言葉の“残骸”だ。
数字と波長、その裏にある意図を拾う。
……君、暗号読解の経験は?」
「ありません。会計処理の統計なら多少は」
高峰は小さく頷く。
「統計も似たようなもんだ。
数字の裏に人間の行動が隠れてる。
違うのは、ここではその行動が命を奪うこともあるってことだ」
藤堂は返す言葉を見つけられなかった。
高峰が机の上の書類を指した。
「この符号。昨日外務省経由で流れた通信だ。
外部発信の痕跡がある。明日、お前の仕事はそれを確認すること」
「外務省に行けば、協力は得られますか?」
「協力なんて言葉、外では使うな。
“確認”だ。“質問”でも“捜査”でもない。
――桜機関は存在しない組織だ。理解して動け」
その言葉を最後に、高峰は視線を符号表へ戻した。
話は終わりという無言の合図。
藤堂が部屋を出ようとした時、
扉の前に一人の女性が立っていた。
黒髪を低くまとめ、灰色の軍服。
桜の徽章を胸に付けている。
「現場課の柊です」
短く名乗ると、無表情のまま言葉を続けた。
「明日、外務省へ同行します。指示は私から出しますので」
藤堂は一礼した。
柊の瞳は一瞬も揺れない。
軍人としての訓練というより、感情の仕舞い方を覚えた人間の目だった。
「……了解しました」
彼女は頷き、踵を返した。
その姿を見送りながら、藤堂は思った。
この組織には、血の通った声がひとつもない。
ただ、命令と報告だけが空気を満たしている。
夜、桜機関を出ると、霞ヶ関の通りは薄く霧がかかっていた。
街灯の下を歩く軍服の列。
その影が伸び、交錯する。
藤堂は上着の内ポケットに封筒をしまい、
無意識に指先でなぞった。
中には“外務省情報課・若槻智久”と書かれた紙片。
霧の向こうで警笛が鳴る。
帝都の夜は静かで、美しい。
だが、その美しさの下で、何かが確実に動いている。
「情報を扱う者は、声ではなく記録で語る。」
― 桜機関規律抜粋




