第四章 光なき協定(報道検閲と一ノ瀬の危機)
翌朝。
東邦新報社の編集部には、
いつもより早く上層部の姿があった。
壁の時計は午前八時を指している。
タイプライターの音は鳴らない。
代わりに、空気を押しつぶすような静寂だけが広がっていた。
編集長・三浦が机の上に一枚の紙を置く。
淡い灰色の封筒に、陸軍省の印章が押されていた。
「今朝、軍務局から届いた。
――“報道統制要綱”。」
室内がざわめいた。
若手記者たちが顔を見合わせる。
「要するに、“政府発表以外の記事は禁止”ってことです」
「嘘だろ、検閲なんて戦争中でもないのに」
三浦は苦々しく笑った。
「だからこそだ。
戦う前に、言葉を整えるんだとよ。」
そのとき、ドアが開いた。
一ノ瀬純が駆け込んでくる。
手には取材ノートと数枚の写真。
「編集長! 外務省の職員が言ってました。
昨夜、“協定”が結ばれたって。本当なんですか?」
三浦は目を伏せた。
「本当だ。陸軍と外務省の間で“情報共有協定”が発効した。
もう、新聞は勝手に書けない。」
「じゃあ、私たちは何を伝えるんですか?」
「政府が言うことだけを、だ。」
一ノ瀬は言葉を失った。
手にしていた写真――
それは、外務省通信課で破棄される前に撮られた、若槻のデスクの残骸だった。
そこに一枚、燃え残った紙片。
「通信記録 13号端末」と印字されている。
「この写真を掲載させてください」
「だめだ。一ノ瀬」
編集長の声は、もう命令に近かった。
「この記事を出したら、新聞社ごと潰される。」
一ノ瀬は唇を噛みしめ、
デスクの上の原稿を握りしめた。
《外交通信管理に軍介入か》
《若槻失踪、協定発効との関係は?》
それは、彼女が徹夜で書き上げた原稿だった。
「これが消されたら、本当に何も残らないんですよ」
三浦は答えなかった。
ただ、机の上の“要綱”を指差した。
《違反記事を掲載した報道機関は、発行停止・逮捕の対象とする》
その赤字の一行が、
彼女の言葉を押し潰した。
――そこへ、廊下の向こうから足音。
扉の前に、桜機関の腕章をつけた兵が二人立った。
彼らの後ろには、黒いコート姿の男。
藤堂真だった。
編集部に入ると、空気が張りつめる。
三浦が立ち上がる。
「……やはり来たか」
藤堂は帽子を取って頭を下げた。
「軍の監督として来ました。
記事の確認と資料の押収が任務です。」
「押収……? 戦争でもないのに?」
若い記者が叫ぶ。
藤堂は答えず、一ノ瀬の机を見た。
原稿の端に“協定”の文字が見えた。
「その原稿を見せてください」
一ノ瀬は静かに立ち上がり、
原稿を差し出した。
藤堂は目を通し、
そしてゆっくりと机に置いた。
「……この記事は、発表できません。」
「理由を」
「国家機密です。」
短い沈黙。
だが、その沈黙がすべてを語っていた。
一ノ瀬は藤堂を見据えた。
「あなたも“機密”の一部なんですね」
藤堂の拳が微かに震えた。
彼は視線を逸らし、書類袋を取り出した。
「命令です。原稿を回収します。」
一ノ瀬は立ち向かうように机の前に立った。
「それを渡したら、若槻さんは本当に死んだことになる。
そして、次は私たち。
――あなたはそれでいいんですか?」
藤堂は答えなかった。
ただ、封筒を一瞬だけ握りしめた後、
無言で机の引き出しの中に入れた。
「……確認は済みました。問題ありません。」
それだけ言って背を向けた。
廊下に出た瞬間、
彼の掌には、原稿のコピーが一枚だけ残っていた。
一ノ瀬の筆跡で書かれた見出し。
《光なき協定――国家が奪う言葉》
外は夕暮れ。
灰色の空の向こうに、
帝都の街灯が一つ、また一つと灯っていった。
その光は、まるで“誰かが最後に残した真実”のように弱々しく、
それでも確かに燃えていた。
「光が消えるとき、人は声を潜める。
だがその沈黙は、いつか形を変えて戻ってくる。」
― 東邦新報・没原稿より




