第三章 沈黙の符号(新聞記者の影)
翌朝。
帝都・神田の喫茶「アテネ」。
濃い珈琲の香りの中、新聞の見出しが並んでいた。
《外務省職員失踪 関係者沈黙》
藤堂はカウンター席で、
その記事を読み返していた。
見出しの下には、若槻智久の写真。
白黒の印刷が、かえって不気味に鮮明だった。
「その人、気になります?」
不意に声がした。
隣に座った女が、煙草に火をつけながら笑った。
黒髪を短くまとめ、上着のポケットには記者証の端が覗いている。
「東邦新報の一ノ瀬純です」
藤堂は新聞を閉じ、
「失礼。お仕事中のようで」
とだけ言った。
一ノ瀬は肩をすくめた。
「あなた、桜機関の人でしょ」
その一言に、藤堂の背筋が僅かに強張る。
彼女は気づかぬふりで続けた。
「昨夜、外務省の廊下で見かけたんです。
無線封筒を持っていた男性。
――軍の人間が、あんな時間に“通信課”を歩くのは珍しい」
藤堂は沈黙を保つ。
彼女の目は観察者のそれだった。
好奇ではなく、確信を探す目。
「若槻智久。
彼、単なる理想家じゃなかった。
外務省の上層部に、軍の通信網を通した“裏回線”がある。
彼はそれを止めようとした。
違いますか?」
藤堂はコーヒーカップを置き、低く答えた。
「……報道は、憶測で人を殺すことがある」
「ええ。
でも、沈黙も同じです。
何も言わないことが、誰かを殺すこともある」
一ノ瀬は煙を吐き、目を細めた。
「あなた、見たでしょ。
外務省の通信記録――“消されていた”んでしょう?」
藤堂の胸が跳ねた。
一瞬の反応を、彼女は見逃さなかった。
「……図星ですか」
「取材の範囲を越えています」
「越えるのが仕事なんです」
一ノ瀬の声には、恐れよりも使命感のようなものがあった。
彼女の指先には、折り畳まれた紙片。
卓上に滑らせる。
「これ、あなたたちの印章が押されてる。
桜の紋。
だけど外務省の書類の中から見つけた」
藤堂は思わずそれを手に取る。
確かに、桜機関の公印。
だが、使用許可記録に残っていない型だった。
「どこでこれを――」
「言えません。
でも、あなたの上司はきっと知ってる」
彼女の言葉が静かに落ちた。
喫茶店の時計が時を刻む音が、異様に響く。
「……もし本当に若槻が死んだとしたら、
殺したのは、沈黙そのものですよ」
藤堂は答えなかった。
ただ、紙片を胸ポケットにしまい、立ち上がった。
「取材を続けるおつもりですか」
一ノ瀬は微笑んだ。
「もちろん。
でも、あなたが動いたほうが速いでしょう?」
その笑みには挑発ではなく、
どこか信頼にも似た確信があった。
藤堂は短く会釈して店を出た。
外は薄曇り。
舗道の上で、新聞の号外が風に舞った。
《若槻智久 自殺か 遺書発見との報》
その文字を見た瞬間、
藤堂は足を止めた。
自殺――
国家は、死者を“都合のよい結末”にした。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
「記録を封じる者が、物語を作る。」
― 東邦新報 記者・一ノ瀬純




