第一章 影の門をくぐる(異動命令)
一 異動命令
昭和十一年、二月下旬。
陸軍経理部第三課の庶務室には、夕刻の薄光が差し込んでいた。
外はまだ寒く、窓の外の街路樹が細く鳴る。
藤堂真は、机の上に積まれた帳簿を閉じ、金具を整えた。
「藤堂。お前、今日付けで転属だ」
課長が封筒を差し出した。
黒い封蝋。表には、桜の花弁を模した印章。
「……転属、ですか。どちらへ?」
「桜機関、という。聞いたことはないな」
課長自身、首を傾げていた。
封筒を手に取ると、重さはほとんど感じられなかった。
中には任命書と通行証、それだけ。
通行証には、“極秘扱い”の朱印。
勤務地欄は空白のまま。
「詳細は明日、霞ヶ関の陸軍省で聞けとのことだ」
「異動理由の記載がありませんが」
「ない。珍しい話ではない」
課長の声は、どこか遠い。
その沈黙が、すでに“何かを知っている”ようでもあった。
藤堂は深く一礼し、封筒を懐にしまった。
手の中の印章が、妙に冷たかった。
翌朝。
霞ヶ関の正門前で、守衛に通行証を見せると、
通常とは違う経路を案内された。
地下通路に降りる階段。
鉄扉の先には、無機質な廊下。
照明は少なく、コンクリートの壁が湿っている。
廊下の突き当たりに、黒塗りの扉。
扉の上には、小さな真鍮の銘板。
――「桜機関」
藤堂は無言でノックした。
応答の代わりに、金属のロックが外れる音がした。
中へ入ると、机が三つ、無線機が二台。
空気は冷たく乾いている。
「新任の方ですね」
声の主は、背の高い大尉だった。
襟章の下に、小さく“現場課”の刺繍。
「三輪大尉だ。配属命令を預かっている。
まずは中佐に会ってもらう」
案内された先の部屋は広くも狭くもなく、
机の上に一枚の地図と分厚いファイルだけが置かれていた。
窓はなく、代わりに天井の蛍光灯が白く光を落とす。
そこに立っていたのが、結城玲司中佐だった。
年齢は四十前後、
声は低く、よく通る。
書類を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
「藤堂真。経理部出身と聞いた。
軍務経験は?」
「ありません。会計・統計の業務のみです」
「それでいい」
結城は微かに笑った。
「ここでは、数字も武器になる」
彼は机の端に立てられた地図を指した。
赤い線がいくつも引かれ、都市名の上に黒い印が点在している。
「我々の任務は“監視”だ。敵国の諜報、
そして……国内の情報の流れを掴むこと」
藤堂は言葉を選びながら尋ねた。
「国内、ですか?」
結城は短くうなずく。
「味方が敵に変わることもある。
――この国では、それを見逃すことが最も危険だ」
机の上のファイルが一冊、結城の手で滑らされた。
表紙には「外務省情報課/機密漏洩疑惑」とある。
「これが最初の任務だ。
外務省の職員が、国外商社に内部資料を流したとの報告がある。
真偽を確かめろ」
藤堂は書類を受け取り、目を通した。
一枚の顔写真が挟まれていた。
端正な顔立ちの男。名前は――若槻智久。
「……これが、対象ですか」
「そうだ。君の出発は明朝。詳細は三輪大尉から聞け」
結城は手を止め、視線を上げた。
「忘れるな、藤堂。
我々の仕事は真実を暴くことではない。
“秩序を保つ”ことだ」
その言葉は、命令というよりも祈りのように響いた。
部屋を出ると、廊下は薄暗く、
無線機のノイズが遠くで鳴っていた。
藤堂は立ち止まり、
封筒の中の書類をもう一度見た。
“外務省職員・若槻智久、監察対象”
紙の上の文字が、微かに滲んでいた。
蛍光灯の光に、まるで血の色のように見えた。
「秩序を守るために、人は何を失うのか。」




