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ビタとジミタ

作者: 襖山諄也

目の前で、男女が向き合っている。

「え? 自転車で派手に転んだ?」

「そうなんすよ。高校までの上り坂に差し掛かるところの手前って、ずっと下ってくじゃないですか。そこでこいつ、ガシャーン、って」

 その様子を視界に入った情報として受け取っているが、ひどく痛む頭でそれ以上のことを考えられない。心臓の鼓動音に合わせた締め付ける痛みと、その次の拍動までの一瞬の間のじわっと滲む痛み。二つの嫌な痛みが波打ち際のように繰り返し交互に押し寄せる。

 痛覚がしきりに思考を阻害しつつも、順序立てて情報を整理していく。前に立つ女性は白衣を着ている。さらに、俺の肩を握る男子はブレザーを着ている。制服だ。

ふと辺りを見回す。カーテンが囲むベッドが並び、体重計や身長計が部屋には置かれている。ここは学校の保健室のようだった。

「見たところ擦り傷はあるみたいだけど、それ以外はどうだろう。吉川君、今はどんなかんじ? 気持ち悪いかんじとかはしない?」

 視力検査シートが壁に貼られており、Cの傾きがあらゆる方面に向いている。

「吉川?」

 天井には白の海を漂うようなうねりを見せる黒インクが無数に広がっているデザインが施されている。

「吉川隆太君?」

 女性が立ち上がった。肩を叩かれた後に問いかけられる。

「自分の名前、分かる?」

「……分からない、です」

 呼ばれているにも関わらず、やけに応じる人がいないと思っていた。それもそのはず、呼ばれていたのは他でもない自分だったのだ。しかし、先ほどから呼ばれている吉川という名字が一向にピンとこない。

 辿るように今までのことを思い返す。学校までは自転車を押して歩いてきたはずだ。しきりに大丈夫か、と聞かれながら学校へ着いたことを覚えている。坂を上ってきて……その前は?

「うーん……これは一回検査してみないとかな。親御さんに連絡取らないと」

 保健室の先生と思われる女性は何かを書きながら呟いた。

「先生、大丈夫なんですか?」

「今はまだ何とも。病院行って検査してもらってからだね。それじゃ、奈辺君はもう授業始まるし教室戻ってて」

「はーい……吉川、お大事にな」

 その男子生徒は、最後までこちらの様子を見ながらドアを閉めた。すぐにベッドに寝かされたが、なぜだか目が冴えていて眠る気にもならない。妙な高揚感が余熱のように体に残り、脳の働きを促進させていた。

バタバタとスリッパを床に響かせながら走る音が響く。意識が明瞭なだけに、その音にはすぐに気が付いた。ドアの前でそれが止まる。ガラガラと音を立てて引き戸が開けられて入ってきたのは女性だった。

「隆太! 大丈夫なの?」

 目が合ったと同時に女性は叫んだ。それは保健室の先生が言っていた名前だった。それなら自分ということになる。イコールを二回経由するまどろっこしい過程を経て、自分が呼ばれていることを理解する。

「吉川さん、ご連絡した通り隆太君は記憶が判然としないみたいで」

「そんな……」

まずは病院で検査してもらいましょう、それからです。保健室の先生にそう促されるとすぐに病院に連れていかれ、検査が始まった。その上での診断結果。

「目立った異常は見られませんでした。おそらく外傷による一時的な記憶障害といったところでしょう。明日には元通りになると思います」

 医師の言葉に母は心底安心したようで、大きく息を吐いた。家で療養していても構いませんよ、と言われたことで家に直帰することとなった。

「ともかく、何にもなくてよかった。安心したらなんか体も軽いわ」

 母とされる女性の表情は診察室を出てからずっと柔らかい。助手席に乗り、シートに身を預ける。車が動き始めて五分と経たないうちに、眠りに落ちてしまった。保健室では眠れなかったのに、今寝れたのは治ると知って安心したからか。そうだ、保健室で感じていたのは高揚感だった。それがない今だから、こうして──

「おお、眠ったか」

気付くと、耳にスマホを当てていた。開口一番そんな奇妙な語り口をする人がいるのか。

「そうか。普通はこんな話し始めなんかないもんなあ」

 噛んだ笑いがスピーカーから聞こえる。声に出さずとも自分の思ったことが相手に伝わり、相手がそれに合わせた答えを口にしている。いったいなぜ?

「ま、そんなことより。ものの見事にすっかり記憶失くしちゃって。ええ?」

 この人は誰なのだろう。どういった関係なのだろう。

「俺か。まあ、包み隠さずに言うんなら俺はお前ということになる」

 声にならない聞き返しを頭の中に思い浮かべる。特徴からして自分の声と判別はつくが、口調が粗野で自分が話しているとは思えない。

「ま、それが当然の反応だ。でも、これが本当なんだから不思議なもんだ」

 心の中で息を吐くような相槌をした。

「あ、信じてないな? まあでも、どっちも俺っていうのもなんかややこしいな。そうだな、うーん……じゃあ、俺がビタ、お前がジミタ。ほら、これで分かりやすい」

 ジミタ? 地味って。

「そのジミじゃない。まあいいじゃないか。ベンギジョー? ってやつだ」

 習いたての英単語を暗唱するように語尾を不自然に上げて取り繕う。ただ、不思議とその発音はうっかりすると自分も言ってしまいそうだった。

 ともかく、いたずら電話に過ぎない。そう思って耳から端末を離そうとした。

「まあ待てって。俺には記憶がある、記憶。ジミタの失くした記憶を持ってるんだ」

 その言葉に、耳から離したスマホを再度当てるどころか顔から近づける勢いで反応する。

 本当?

「ああ、本当も本当。俺はジミタの記憶を失くす以前の記憶を覚えている限り全部知ってる。言おうと思や一日じゃ足りないくらいな」

 それなら──

「だけど、ジミタに教えるつもりはない」

 言葉を遮ったのは、ビタの真っ向からの否定だった。喉奥で待機していた精一杯の丁寧口調が行き場を失った。

 なぜ。

「俺はジミタが記憶がない状態からどんなふうになっていくのかを見てたいんだ。そんで、俺とおんなじ行動をするか、はたまた全くの別もんとなるかを見てみたい。だから、言わん」

 先ほどまでのせせら笑いはもうない。それだけに、ビタが本心から語っていることが分かってしまう。

「ともかく。どんな行動をこれからとろうが、ジミタの自由だ。それを俺に見せてくれ」



 これは夢だ。なぜ眠っているところに電話が掛けられて、それに受け答えができるのだろう。なぜ他でもない自分が今電話に出ているのに、電話口には自分と名乗る男が現れたのだろう。そう思うと同時に、強引に目を見開いた。

 前の小さなモニターに赤、黄、緑のガイドが映っている。車がバックしているようだ。

「あ、起きた? いいタイミング。やっぱり疲れてたのかもねー、ぐっすりだったよ」

 母らしい女性が招き入れたということは、ここが自宅なのだろう。全く心当たりはないが、ドアを開けられて家の中へ入る。

「少しでも早く思い出せるように、自分の部屋の中見てみたら?」

 手持無沙汰そうに廊下をうろうろしていたところを見かねたのか、母にそう促された。階段上がってすぐという母の説明を頼りに、その部屋に入る。

中は酷い有り様だった。床に散乱した衣服に、学習机を埋める教科書。防弾チョッキのように厚い、プリントがところどころはみ出したクリアファイル。触りはせずとも顔を近づけると、明日までに提出のプリントだった。

その後、どうにかこうにか部屋を踏み分けて記憶が戻る手掛かりを探した。だが、机の引き出しを見ても感情が揺れ動かず、アルバムを出して出生から現在までを辿っても思い出せる何かがあるわけでもない。

そこで、母にも話を聞いてみることとした。直接思い出話を聞けば、何か解決できるかもしれないと踏んでのことだった。

「隆太の小さい頃?」

「はい」

 昼ご飯の焼きそばを挟んで向かい合ったところを聞いてみる。

「まあ一言で言うと、かなりやんちゃだったねえ」

 困ったように笑っているが、過去を懐かしんでいるようにも見て取れる。

「そうなんですか」

「そうそう、小学校の頃から結構無茶なことをするタイプでね。小さい頃サイクリングに行った時、両手を離して漕いでる人を見て、やるって言って聞かなくなったことがあってさ。渋々いいよ、って言ったんだけど、そしたらいきなり一輪車みたいに腕広げてバランスとり始めるし、急斜面でそんなことやったもんだから盛大に転んだしで大変だったなあ」

 遠くを眺めて感慨深そうに母が呟く。相変わらず自身の姿と重なる部分が見えてこない。記憶が戻る一助となればと思い聞いてみたが、逆に今の自分のことと思えない。それどころか、信じたくない。

「それじゃあ……中学に入った後はどうでしたか?」

「中学かあ。中学に入ってからは急に大人しくなってたね。あんまり無謀なこともやらなくなってた。成長期だし、精神面も変化があったのかな」

 小学校までの思い出話を聞く限りだと電話口の先の自分と似通っていたように思えたが、中学時代の話では真逆だった。

「高校に入ってからは?」

「高校も基本的には中学と変わらずかな。でも、勉強が難しいのかなんなのか、少しだけ成績が落ち込んでて。大丈夫か聞いてみたんだけど、まあ素直には答えてくれなかったな。なんかあったのかなあ……って、こんなこと本人を目の前にして言うことじゃないか」

 自身にツッコミを入れて雰囲気が固くならないようしている。それは母を赤の他人としか思えない今の自分から見ても明らかだった。

 どうやら自分は行動に移すのが早い性質らしい。気付いた時には母に尋ねていた。

「あの、今から高校に行ってきてもいいですか? 友達にも話、聞いてみたくて」

 母は目を丸くして、被せるように言った。

「今日は安静にしてください、って言われたでしょ。二階で寝てきた方が──」

「それなら学校の保健室でもできます。ちょっとでも早く記憶を元に戻したいんです。お願いします」

 母は何か言いたげだったが、それらを押し殺した。

「じゃあ学校に聞いてみるから。ダメって言われたらダメだからね」

そう言って焼きそばの残りを集めて口に運んだ。

片付けを済ませた後、母は電話の子機と分厚いファイルを持ってきた。ページを繰り、機械音がとりとめのない音階を刻む。お世話になっております吉川です、と様子を窺うように語尾にかけて緩やかに声色を上げて母が話す。はい、はい。お手数をお掛けします。失礼します。切ボタンが押された。

「じゃ、行こっか」

 シートベルトをカチリと締めたところで、母が確認のように聞いてきた。

「そういえば、隆太はなんで記憶が曖昧になったかは覚えてるの?」

「いえ、全く覚えてないです。原因とかって……?」

「あ、さっき車でちらっと話した時、隆太はもう寝てたのか」

 あの電話口からのせせら笑いが一瞬頭によぎった。

「自転車での自損事故だったよ。今から行く通学路の途中に坂道があるんだけど、そこでね」

母は、高校は小高い山が並ぶうちの一つの上にあると説明した。そのため、一度坂を下ってから高校前の上り坂を通るルートが通学路となっているようだった。

「登校する時に下り坂から上り坂に変わるところの横断歩道にいた猫を助けるために事故ったみたい。路地の方から来てる車が猫に気付かずに迫ってるのを見て、下りなのに全力でペダル漕いで、片手を差し出した。でも、子猫は全力で近づいてくる自転車が怖かったのかすぐさま逃げてっちゃって。車の運転手も自転車に気付いて一時停止。で、残された隆太はバランスを崩して転んじゃったみたい。なんか久々だね、ここまで隆太が無茶したのも」

 母は笑っているが、それは大怪我をしたり誰かを巻き込んでいたりしていないからだろう。その点においては幸運と言わざるを得ない。

「あっ、ここ」

 母がハンドルを握りながら、顎を差し出す。下り坂の終わり際に、細い路地へつながる横断歩道が目に入った。

「どう? 見てもやっぱり思い出すものはない?」

「はい、何にも」

「そっかあ。ここまでってなるとちょっと心配になってくるなあ……もし具合悪くなったらすぐに先生に言うこと。分かった?」

「はい」

 横断歩道の前を通り過ぎると高校までの最後の上り坂だった。上り切ったところのロータリーで送り出され、そこから歩いて保健室へ向かう。

「吉川!」

 その途中でふいに背中から声を掛けられ、振り返る。彼には見覚えがあった。

「病院行ってきたか? 記憶があやふやって聞いたけどどうだ? 俺の名前、分かるか?」

 並べられた質問全てには答えられない。保健室の先生が言っていた名前を口にしてみる。

「奈辺、君……?」

「そう、奈辺。奈辺雄二。元に戻ったのか?」

「ああ、いや。保健室の先生がそう呼んでたので……」

「なんだ。うーん、やっぱり思ったより重症なのかな」

「今日一日安静にしていれば大丈夫と言われたので、そこまでではないとは思うんですけど」

「おお、そうか。それならよかった。でも、じゃあなんで学校来たの? まさかその状態で授業出るとか……?」

「いや、保健室に居ようと思ってます」

 それもそうか。奈辺が安堵したような表情で言った。

「それで、学校に来たのは俺のことについて聞きたいことがあるからで。後で俺の高校生活について色々話聞きたいんですけどいいですか?」

「おお、そりゃあもちろん。五時間目終わってからでもいいか?」

「はい。待ってます」

 そう答えるとお大事にな、と言って校舎の方へ走っていった。保険室へ入ると、先生が出迎えてくれた。事情は聴いていたようですぐにベッドに案内され、枕に頭を預ける。

「どうして俺が記憶を失くしたか、分かったみたいじゃん」

 知らず知らずのうちに耳に当てていたスマホから、自分の声が聞こえる。

 俺ってあんなに破天荒だったんだ。

「ああ。母さんから話も聞いたんだろ?」

 小さい頃から自転車で事故ってたみたいじゃん。

「なんか挑戦してみたくなっちゃうんだよな。これだけはどうしようもできない」

 それで、まだ昔のことは話してくれないの?

「ああ。話す気にはならん。ジミタがどう行動するかが気になってるんだからな」

 ビタは尊大な態度を崩さない。

 じゃあ、記憶を戻す気はないの? 元の自分に戻らなくていいの?

「正直言うと、ない」

 戻らなくていいの?

 ああ、とビタは短く返す。

「なあジミタ、俺のことを話すことになっちゃうけどいいか。記憶を失くしたお前に聞くのも変な話だと思うが、性善説と性悪説って知ってるか?」

 まあ、どんなものかは。

「曖昧だな。性善説は生まれながらにして人は善で、そこから人生の過程で悪性を知っていく、ってやつだ。性悪説はその逆。んで、これは善悪っていうはっきり二分したものだけど、そこまでいかずとも人間には似たような年代ごとの変化、ってものがあると思うんだ」

 それは?

「大人びてくのと、子供じみてく、っていうのだ。ほら、子どもの頃真面目だったやつが反動で大人になり切れない、っていう話はよく聞くだろ? で、大人びてくのはいわゆる普通のやつで、子どもから大人に変わってく」

ビタの言いたいことがどことなく分かるような気がする。

「な? で、俺は小さい頃はそれはもうやんちゃしてた。母さんの言ってた通りな。でも、中学入ったころから丸くなってたのも聞いてたろ? 高校生になってからはなおさらだ。でも、高校に入ったぐらいの時に思い始めたんだ。こうして大人になってくと無茶なことも段々できなくなってく、って。周りからの圧力もあるかもしれないけど、結果が見えてそれを自分の意志で避けちまうようになっちゃってる、って思ったんだ」

 なるほど。そう相槌を打つと、ビタがさらに続ける。

「だから、今日のことはチャンスだと思った。子猫がいて、このままだと車に轢かれる。でも、ここで俺が行けばなんとかなるかもしれない、って。そんな作りもんみたいなシチュエーション、この先いつ起きる? これを逃すと一生チャンスはないんじゃないか? そう思ったら、やるしかない、って体が動いてた。大人びていく一方の俺が子供じみた無茶をすることを許されたような気がしたんだ。これで成功したら、俺は今後の人生無茶でいられることを証明できる、って。だから、俺は自転車で突っ込んでった」

 そこまで無謀になれるのか。自分とのあまりの考えの違いに押し黙る。

「ま、失敗したんだけどな。でも、記憶が曖昧なのは二度目の転がり込んできた幸運だ。このまま俺がジミタに記憶を教えていって、記憶を取り戻したとする。そうすると、たちまち俺は大人びていく過程の中にあるただのつまらない人間に逆戻りだ。それなら、どう転ぶかは分からないけどあえて記憶を戻さないことで、子供じみた無茶を気にすることなくできる俺になれるっていう可能性に賭けたい」

 ビタは一通り語ると、最後に押し付けるように言った。

「だから、記憶は返さんからな」

 でも、明日には記憶が戻るらしいけど、それはどうするの?

「それはそれだ。記憶が戻ったら俺は大人しくレールを辿る」

 それに、俺が落ち着いた人生が好きで、そう過ごしていくかもしれないし。

「言ったろ、これは賭けだ。今のままだと大人びていくのは目に見えてる。だから、少しでも変われる可能性に乗っかりたいんだ」

 ビタの意志は固いようだ。

「ま、でもな」

 彼はいきなり間の抜けた高い声を上げた。

「お前は俺だ。記憶が無くったって、俺とお前は共通項があると思ってる」

 電話口の先の男がどんな顔をしているのか、嫌な笑い方で容易に想像できてしまった。



「失礼します、吉川君いますか」

 ビタのせせら笑いから逃げるために、眉ごと上げて強引に目を開けると誰かが入室してきた。先生の案内でカーテンを開けられると、そこにはロータリーのところで会った生徒が立っていた。

「おお吉川。俺だ、奈辺雄二。調子どうだ?」

 ふと壁に掛けられた時計を見ると、すでに四時を回っていた。

「寝たらだいぶすっきりしました」

「そりゃあよかった。お前についての話なんだけど、早く帰った方がいいだろうし帰りながら話すよ。先生、吉川ってもう帰っていいんですか」

 保健室の先生には母から本人が満足したなら帰していいですから、と伝えていたため、すぐに許可が出された。今日のお礼を言って保健室を後にする。

 青白い蛍光灯が照らす校舎の中を、二つの影を落としながら並んで歩く。

「やっぱあの時、保健室に連れてって正解だったな。もう学校終わったのに記憶がぼんやりしてるんだし」

「え、奈辺君が連れってってくれたんですか?」

「君付け、なんかむずがゆいな。まあ、だって一緒に登校してたし」

 事故を起こしてから学校まで大丈夫か、と声を掛けていたのはこの人だったのか。合点がいくと同時に、面倒見の良さを感じた。友人には恵まれていたようだ。

「その……自分って高校ではどんなかんじなんですか?」

「おお、そうだった。どんなかんじかあ……でも、別に普通かな。部活も勉強もそれなり。クラスで浮いてることもないし。なんなら今日皆お前のこと心配してたぞ。あ、でも最近結構悩んでたな」

 気になっていることを奈辺君の口から最初に言われ、顔を見て尋ねる。

「その悩み、っていうのは?」

「進路希望調査票」

 奈辺が短く言った。

「提出期限が迫ってるのに、一向に決まらなくて悩んでたな。うちの高校、一応進学校だし大学行く人が多いけど、吉川はそうじゃなかったのかな」

 そうか、進路希望調査。ビタが大人びていくことに対してやけに焦りを覚えていたのは、その提出期限が迫っていたから。机に置いてあったファイルから見えたプリントを思い出す。将来を決める重要な決断を前に、大人びていく自分を再考したかったのかもしれない、と考えた。

 校舎と一本道路を挟んだ反対側の駐輪場に着いた。これが、お前の自転車。カゴは歪んでるけど、漕ぐ分には問題ないだろ。そう奈辺君が言った。

 ストッパーを蹴り上げ、サドルにまたがる。すると、どこかで覚えた妙な高揚感が再度体を走った。いつかの時は冷めていく一方のそれだったが、今感じているこの感覚は徐々に温まってきているような錯覚を伴っている。

 下校が表すように坂道を下っていると、例の横断歩道が見えるところに差し掛かった。

 その時だった。朝、子猫が轢かれそうになったその横断歩道に、小さい子供が飛び出していくところが目に入った。その姿は真横から差す車のハイビームに照らされていない。母親は抱えていた赤ん坊のことで手一杯だったところに、はしゃいで飛び出して行ってしまったのだろう。

次の瞬間には、下り坂の中を目一杯ペダルを踏み込んでいた。タイヤがスピードに乗って一直線に転がる。もう十分だ。ハンドルから手を浮かし、自転車に乗りながら体勢をできるだけ下げる。そして、両腕を左へ、体の重心を右に。

 母親のすぐ隣を通り過ぎる。幼児のすぐ前にバンパーが迫る。最後に、ペダルに置いた足に力を込め、車体をさらに右へ傾かせる。幼児の体重と釣り合わせるほどに。

 脇腹を抱え上げた。タイヤが一回転する間もなく、抱き寄せて重心を中心へ移動させる。片手で抱いたまま、右手でブレーキレバーを染み込ませるように徐々に力を込めて握りしめる。

 自転車が、止まった。最後まで車体は立っていた。

「しゅん!」

 母親が駆け寄ってきた。子どもを離してやると、目に涙をためて母親に向かって走り出した。

 母親からは何度も頭を下げられ、運転手は車から降りて平謝りしていた。何ともないことをその場にいた全員が確認すると、子連れの母親は最後に本当にありがとうございました、と礼を言って後にした。運転手も気まずそうに謝ってから走っていった。

 周囲が静かとなった瞬間、後頭部を叩かれた。

「危ないだろうが。いいか、あの道幅のせんまくてでこぼこの坂で、ハンドルなんか離したらどこに自転車が向かうか分からんぞ。下手したら子供助け出す前に親を轢いてた。分かるか?」

「おい、ナベちゃん」

「なんだよ──って、ナベちゃん?」

 その呼び方は、昨日まで奈辺のことを指していたあだ名だった。ふいに呼びかけられ、ナベちゃんが聞き返す。

「俺よ、自転車で食ってくわ」



「おお、思い出せたのか」

 ぶっきらぼうな物言いが俺にそっくりだ。

「まあ」

 続く言葉もどこか投げやりだ。

 ともかく、記憶は元に戻った。

「そだな。一件落着だ」

 お前はどうするんだ。

「記憶が戻った以上、俺はもういらんだろう。だから、今日にでもいなくなる」

 そっか。

「俺は長電話は嫌いなタチなんだ」

 まあ、俺もだけど。でも、たまに掛けてくるぐらいならいいだろ?

「考えとく」

 それで、結局記憶は戻っちゃったけどそれでいいのか?

「いいんだよ。ジミタは迷ってた俺に、好きなことして生きてく、っていう一つの正解を示してくれた。それで十分だ」

 電話口の沈黙は、いつもよりも特段長く感じた。

「ま、でも昨日他でもないお前が決めた将来の夢は、他でもない俺が決めたことだ。記憶が戻った、その瞬間にな」

 納得してもらえてよかったよ。

「おお。それじゃあ、そろそろ俺は行くわ」

 じゃあな。おっと、そうじゃなかった。またな、ジミタ。

電話がビジートーンを三回鳴らしてホーム画面へと戻った。

 目が覚める。

瞼が自然とめくれるように起きた、爽快な朝だった。

 今日も学校か。でも、まずやらなくてはいけないことがある。衣服が思い思いに肢体を伸ばす床を踏み分け、教科書が山積みの机の前へ。無造作に置かれた防弾チョッキのように分厚くなったクリアファイル。そこから飛び出す一枚のプリントを手に取る。

 進路希望調査票。その第一希望欄に、夢日記でも付けるようにペンを走らせた。

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