第3話 避けられない未来
俺はマンションまで走って帰り、息を切らしながら、自室に入った。そして、リビングのテーブルにビニール袋に入った弁当を置くと、眼鏡を外した。
眼鏡を持つ手が震えた。
そしてゆっくりと眼鏡をテーブルの上に置いた。
テーブルの上の眼鏡を見つめていると、それが禍々しく、怖ろしい何かに思えた。
眼鏡をかけて外出するようになってから、二度も死にかけた。これは偶然なのか、それともこの眼鏡のせいなのか。ただ、一方で、眼鏡が見せる未来のおかげで俺は死ぬことはない。
「だったら、何の問題もないじゃないか」
俺は胸の内から沸き起こる恐怖を飲み込み、ふぅと大きく息を吐いた。その時、スマホがメッセージアプリを受信するメロディを奏でた。スーツのポケットからスマホを取り出した。
それはタクからのメッセージで、今日もゲームをするかどうかを聞くものだった。俺はテーブルの上の眼鏡をチラリと見ると、胃液が逆流するように恐怖が湧いてきて、とてもゲームをする気になれなかった。
タクには体調が悪いので今日は無理だと伝えた。そして、俺はスーツとワイシャツを脱ぐとそのままベッドに入った。
朝、目覚めると、多少気持ちも落ち着いていた。寝る前の気分の悪さも幾分軽くなっていた。
普段より早く起きたので、ゆっくり時間をかけて出勤の支度をした。整容をすませ、スーツを身に包み、玄関に向かった。そして、ドアを開けようとノブに手をかけた。
「眼鏡、かけなくてもいいかな」
俺は振り返り、廊下の向こうのリビングを見つめた。
眼鏡があるから、死にかけたのなら、かけない方が良いに決まっている。だけど、昨日と一昨日のことは全くの偶然で、眼鏡のおかげで命拾いしたのなら。
眼鏡をかけた場合とかけない場合を、それぞれ頭の中でシミュレーションして、俺はどうすべきかを悩んだ。
例え、死にかけても眼鏡があれば死なずにすむ。だったら、かけた方がいいに決まっている。
俺はそう結論付けると、靴を脱いで、リビングに戻り、テーブルの上の眼鏡を手に取った。そして、震える手で眼鏡をかけ、正面を見据えた。
いつもの俺の部屋だ。何もない。
俺はかけても問題ないと自分に言い聞かせて、再び玄関に向かい、家を出た。
駅に向かういつもの道だが、俺は何かの事故に巻き込まれるのではないかと思い、びくびくしていた。しかし、そんな俺の心配は杞憂で、何事もなく駅に着いた。
ビビりすぎだ。やっぱり、あれは偶然だよな。
そう思った次の瞬間、視界が急激に変化し、自分がぐるぐると回っているように見えた。俺はその場で立ち止まり、何事かと身構えた。すると、数メートル先に階段が見えた。
今の光景は階段から落ちた時のものに思えた。どうやら他の路線の電車が到着してきたようで、そこから乗り換え客がこちら側に大量に押し寄せてきていた。あの人混みに押されて、階段から落ちてしまったのかもしれない。
やはり、油断はできない。
既に10秒以上経過しており、死を回避できたが、俺は油断をしないように手すりをしっかり握りながら、ホームに向かう階段を降りた。ホームにはホームドアと柵があるので危険はないが、それでもできるだけホームドアから離れた位置に立った。
電車を降り、会社に向かう際も車や落下物に気を配りながら歩いた。余裕をもって家を出た割にはいつもと同じ時間に会社のオフィスに入った。
午前中はデスクワーク中心で、会議が一件あっただけで、基本的にはオフィスから出ることはなかった。このまま、オフィスから出なければ大丈夫だろうと考えた。
「藤村さん、飯行きませんか?」
「ああ、ごめん。ちょっと、金欠だから俺はカップ麺で」
「ええ、マジっすか? 給料日までまだありますよ」
「いや、金がないんじゃなくて、新しいゲーミングマシン買いたいから金貯めてるんだ」
「またゲームっすか~。ほどほどにした方がいいですよ」
俺はオフィスから出たくなくて、後輩からの飯の誘いを断り、デスクの一番下の引き出しから非常用に入れて置いたカップ麺を取り出した。そして、お湯を入れるために給湯室に向かった。
午後も外勤などはなく、一日オフィスで仕事をしている分には何の問題もなかった。そのとき、俺は屋内なら死ぬことはないのではないかと考えた。そう思うと、オフィスの入ったこの貸しビルを出るのが怖くなった。
ここから家までの間、再び死の危険が訪れるかもしれない。
「だ、大丈夫。この眼鏡があれば回避できる」
俺は自分にそう言い聞かせて、自動ドアを抜け、建物の外に出た。そして、来た時と同じように周囲を警戒しながら駅に向かった。何の未来も見えないまま、駅のホームに到着でき、俺は電車が来るのを待った。
『通勤快速が参ります。〇〇でお降りのお客様は、次の各駅停車をご利用ください』
俺はホームにやってきた電車の先頭車両に乗った。帰宅ラッシュ時で車内は混みあっていた。通勤快速なら10分程度で自宅最寄り駅に着くので、座れなくても問題なかった。
ドアが閉まり、電車が動き出した。俺はつり革につかまりながら、早く家につかないかとソワソワしていた。この電車は通勤快速なので、この先、数駅は止まらずに走る。そのため、かなりスピードが出ていた。
電車が速い分には早く家に着くから助かるが、それにしては速すぎる気がした。そのことが気になって俺は運転席の方を見ようとしたその時だ、視界が大きく揺れ、車内が歪んでいき、周囲の乗客が自分に覆いかぶさる光景が目に入った。
「うっ」
俺は声が出そうになったが、周囲に人がいるので咄嗟に手で押さえた。そして、今のが未来の映像だと気付いた。とにかくこの場を離れようと考え、「すみません」と言いながら、他の乗客をかき分けながら移動した。
しかし、今見た光景を思い出した。もしかして、電車の事故ではないのか。電車が脱線して猛スピードで周囲の建物に突っ込んでいったのだとしたら、この電車から出ないと意味がないのではないか。
そのことに気付いた俺は無理やり他の乗客を押しのけ、運転席に向かった。
「おい、スピードを落とせ!」
そう叫びながら、運転席のガラス窓を叩いた。しかし、運転手はこちらを振り向こうとしない。周囲の乗客も異変に気付き、戸惑いの声が上がっていた。
「おい、聞いているのか!」
俺の叫び声も虚しく、猛スピードで走る電車はやがて大きく右に傾き、10秒前に見た光景と全く同じように俺は周囲の乗客に押しつぶされた。
そして、そこから先、俺が語れるものは何もなかった。