第1章 - 狩人の道:最初の犠牲
撃ち抜かれるたびに、魂に刻まれる罪の重み。
己の行いが、何度も、何度も、胸の奥で響く。
倒れゆく妖怪たちは皆、同じ問いを投げかける。
「本当の怪物は誰だ?」
果たして、武雄は贖罪を見つけられるのか…?
それとも、後戻りできぬ闇の道を歩み続けるのか?
今、彼の物語が始まる——。
口裂け女……それともクシサケだったか?覚えてねぇな。ただ一つ覚えているのは、あのクソ忌々しい妖怪だってことだ。
神に誓って言うが、あの女に顔を裂かれた子供を見た時は、吐きそうになった。チビは顔を無惨に切り裂かれて、もう誰だか分からない。
それでも、あの女は何度も何度も繰り返すんだ。まるでルーチンワークみたいに。
思い出すだけでムカつく。
あの妖怪を探していたが、やっぱり上手くいかない。何かしら邪魔が入るんだよな。
森の中の廃屋に足を踏み入れた。
ホラー映画好きにとっては夢のようなシチュエーションだろうな。
埃と蜘蛛の巣に覆われた窓は光を遮り、まるで太陽すら入ることを拒んでいるみたいだ。
床は俺が歩くたびにギシギシと軋み、まるで家自体が「お前なんか来るな」と文句を言っているようだ。
壁にはカビが這い、湿気に侵食されている。当然だろうな。どうせ誰も掃除なんかしてねぇだろうし。
空気は重く、ジメジメしていて、まるで昔の親友に抱きしめられているみたいだ。ただし、その親友は墓から這い出てきたゾンビってところがミソだがな。
「はぁ…最高だな、ここは。」
自嘲気味に呟いた。
こんな場所で休むとか正気の沙汰じゃねぇが、まぁ、床に死体が転がっていないだけマシだろ。
俺はそっと腰を下ろし、ようやく少し休めるかと思った。その時だった。
ドン…ドン…ドン…
重い足音が響いた。まるで巨人が歩いているみたいな振動だ。
俺は一瞬で警戒し、パーカーのポケットに手を突っ込み、身体を硬化させるルーンを握りしめた。
これがあれば、万が一の時に攻撃を耐えられる。
「誰だ?」
自分でもバカだと思いながら声をかけた。
返事があるとは思っていなかったし、どうせネズミか野良猫だろうと高を括っていた。
……だが、違った。
2メートルを超えるオニが現れた。
全身筋肉でゴリゴリのクソデカい女。
顔は怒りに歪み、拳は握りしめられている。
見た感じ、俺のケツにキスして『シンデレラ』を朗読するつもりじゃなさそうだ。
オニは俺に向かって怒鳴り声を上げた。
「このクソ虫がぁぁぁ!石にタマを潰してやる!!」
思わず金玉がヒュッと冷たくなるのを感じた。
「……勘弁してくれよ。」
俺は即座に護符を取り出した。
これは非常時用のやつだ。
人間界の存在が俺に物理的ダメージを与えられなくする効果がある。
オニは突然動きを封じられ、もがき苦しむ。
「なんだコレはぁ?!この骨野郎め!!」
ふっ……効いてやがる。
俺は護符をバックパックにしまい、ポケットから重力を操るルーンを取り出した。
こいつはお気に入りだ。
何せ重力を無視できるし、使っていて面白いからな。
「おい、化け物。」
俺はルーンを発動し、オニの身体を宙に浮かせた。
両手はポケットに突っ込んだまま、余裕の表情を作った。
「お前、大人しくするか、それとも痛い目見るか?」
オニはルーンの力に抵抗しながら暴れる。
まるで駄々をこねるガキみたいに手足をジタバタさせていた。
「この卑怯者ぉぉぉ!!放せ!!このクソガキぃ!!貴様の頭蓋骨をかじりつくしてやる!!」
俺は肩をすくめて笑った。
「そうか。なら、これが警告ってことで。」
俺はオニを家の外へ放り投げた。
バキィィィン!
木製のドアが粉々に砕け、オニは芝生に転がる。
「ほらよ。これが一発目の警告だ。」
俺はゆっくりと外に出た。
まだ本気を出すつもりはなかったが、逃がすわけにもいかない。
こいつを放置すれば、きっと次の犠牲者が出るだろうからな。
オニはぐったりと倒れている。
どうやら気絶したようだ。
俺はため息をつき、彼女を抱えて森へと足を踏み出した。
「……ふぅ。まぁ、一人よりはマシか。」
オニを担ぎながら苦笑いする。
「……ダメだな、このジョーク。」
Ha
ああ、森か。
まるで錆びた熊罠のように温かくて優しい場所だな。
背の高い黒々とした木々が、月明かりをどれだけ遮れるか競い合っている。
地面は乾いた葉で覆われ、踏むたびにバリバリと音を立てる。
「その鬼を川に投げ込んでさっさと逃げろ」と囁いてくるようだ。
湿気と腐臭が漂うこの空気は、悪夢の舞台にはぴったりだ。
まさに、デカいハサミとコンプレックスを抱えた妖怪と死闘を繰り広げるにはうってつけだな。
歩き続けた。
退屈な旅だった。
クマに襲われたり、縄張り意識の強いシカに角で貫かれたりする方が、ジェフ・ザ・キラーの性転換版の鬱屈バージョンに遭遇するよりよっぽど怖かった。
暇すぎて、隣で寝ている相棒を横目にラップでも即興でやって時間を潰すことにした。
「クチサケオンナ?いやいや、ただのハサミバカだろ!
イエッ!腹ペコよりブサイクで〜
マスクが手放せねぇ!
だって自信ねぇからさ〜
そーれは〜!」
女の声が聞こえた瞬間、背筋がゾクッとした。
「ふふっ… 他人の悪口を背中で言うのは失礼だって、知らないのかしらぁ?」
反射的に振り返ると、いた。
噂通りの姿だった。奇妙な着物にマスク姿。
けど、一番不気味なのはやっぱりあの忌々しいハサミだ。
…どこであんなバカでかいのを手に入れたんだ?
「へぇ、妖怪狩りか」
不気味な声でそう言いながら、マスクを外す。
耳から耳まで裂けた口があらわになる。
「待っていたわよ」
俺は拳を握りしめ、オニを木に寄りかからせる。
「…ああ? そりゃ奇遇だな。
俺も待ってたぜ」
素早く考えなきゃならなかった。
このバカ女に何を使うべきか、どのルーンやお札を選ぶか…。
H
再生と強化のルーンで攻撃を耐えるのもありか?
けど、それをバックから取り出すには時間を稼ぐ必要がある。
俺はバックからルーンを取り出し、睨みつけながら確認する。
• Algiz(守護の刻印・しゅごのこくいん) – 耐久力を大幅に上げるルーンだ。
• Thurisaz(粉砕の刻印・ふんさいのこくいん) – これで頭蓋骨を一撃で粉砕したのを思い出すな。
• Eihwaz(不屈の刻印・ふくつのこくいん) – 臆病な俺にはこれが欠かせない。
「で…」
そう言いながら、護符を首にかける。
「まさか質問でもするつもりか?」
クチサケはニィッと笑い、
顔の皮と傷跡を不快なほど引きつらせる。
「そうよ、じひひっ… 若き狩人さん。
もちろん質問があるわ」
俺はポケットに手を突っ込み、
防御姿勢を取りながら睨む。
「…言ってみろよ」
そう言うと、
あいつの笑みがさらに歪み、醜悪さを増していく。
ゆっくりとハサミで口元をなぞりながら、
不気味で脅迫的な声で囁く。
「ねぇ… わたし、かわいい?♡♡
タカハシ・タケオ?」
俺は眉をひそめ、嫌悪感と共に思わず笑みがこぼれた。
この状況があまりにも不快で奇妙でバカバカしいからだ。
別にサイコパスってわけじゃねぇ。
こんなヤバい女を見て楽しんでるわけじゃない。
ただ、伝説とまったく変わらない手口で殺しを続けてるのが、なんだか滑稽で面白いだけだ。
そういう意味では… まぁ、興味深いって言えるか?
…いや、それでも気持ち悪いことには変わりねぇな。
可愛くはない。
だが、それでも「はい」と答えなきゃならない。
俺は皮肉っぽい口調で答える。
顎に手を当て、考え込むフリをしながら。
「そうだな…
バラみたいだ。
綺麗だけど、トゲがあるってな」
クチサケオンナは頬を染め、背を反らせながら大声で笑い出す。
「アハハハハッ…!
へぇ、狩人さんったら詩人なのねぇ。
でも、その気遣い… 嫌いじゃないわ。
マスクを外した顔を見ても、そう言ってくれる人はなかなかいないのよ?」
彼女はハサミの先を指でなぞりながら、挑発するような視線でこちらを見る。
まるで刺すのを我慢しているみたいに。
…だが、俺だって耐えている。
こいつが今までやってきたことを思えば、口をもう一つ増やしてやりたくなるのをな。
「でも… どうして攻撃しないの?
こんな人気のない森で二人きりなのに」
クチサケは挑発的な笑みを浮かべながらハサミを見つめる。
「ねぇ?
やっつけるつもりはないの?」
Ha
俺は顎をかいていた手をパーカーのポケットに戻す。
「…おやおや。
レディファーストって知らねぇのか?」
彼女の姿を見つめながら息を深く吸い込む。
喉がひりつくほど唾を飲み込んだ。
俺の頼みの綱は魔法の道具だけだ。
それしか武器がねぇ。
…こいつは最強クラスの妖怪じゃない。
だが、それでも舐めるわけにはいかない。
クチサケはハサミの先を唇に当て、
満足そうに目を細める。
「うふっ… 礼儀正しいのねぇ。
ちょっと感心しちゃったわ、狩人さん」
彼女は傲慢な仕草でハサミをクルリと回す。
その目には憎悪と嗜虐、そして侮蔑が宿っていた。
「じゃあ…
私からいくわね」
彼女は猛スピードで駆けてきた。
常人の目では捉えられない速さだ。
ただの人間なら、ただの瞬きにしか見えないだろう。
だが、俺の呪われた才能は違う。
そのせいで俺は、あいつが口を全開にして突っ込んでくる様子を、
首を狙う巨大なハサミと共にハッキリと見届ける羽目になる。
だが、俺も負けちゃいない。
素早く反応し、奴のハサミを紙一重でかわす。
だが次の瞬間には再びハサミが振り下ろされる。
ポケットから手を抜く間もない速攻だった。
…だが、それでいい。
ルーンはポケットの中にある。
そのままで構わない。
俺の防御を強化する力が十分に発動しているからだ。
一瞬、クチサケは目を見開き、動きを止めた。
その顔には苛立ちと憎悪が滲んでいた。
「やるじゃない、タックン♥︎
そんな速いなんて思わなかったわぁ」
…は?
彼女はニッと嘲るように笑った。
あの呼び方は間違いなくからかっている。
ふざけんな。
誰がそんな呼び方を許した?
こいつ、一体何様のつもりだ?
あのふざけたあだ名に動揺する間もなく、
クチサケはさらに凶暴な姿勢で襲いかかってきた。
さっきよりも速い。
必死に避けようとするが、奴の刃は追いすがるように迫る。
そして、
ハサミの先が俺の眼球を貫かんとする――。
…その瞬間。
見えない力がハサミをはじき返した。
奴の攻撃は止まる。
クチサケは困惑した表情で固まった。
「…なっ…?」
彼女はハサミをまじまじと見つめ、刃先に指を這わせる。
「…なんで…?」
そして、奴は眉をひそめてこちらを見る。
まるでコントみたいな顔だった。
そのままの顔で固まってくれたら、どんなに楽だろうな。
だが、すぐに気づいた。
俺の首にかけた護符に。
クチサケの表情が怒りと屈辱で歪む。
「…っ!
このクソ妖怪狩りめ…!
お札なんぞ使いやがって!」
俺は軽く眉を上げてニヤリと笑う。
図星だったようだな。
自分が押されるのが気に食わないらしい。
「ルーン、護符…」
俺は視線を定め、呪文を唱えた。
"瞬閃"――そう名付けられた術。
見つめた場所に瞬きと同時に移動する魔法だ。
次の瞬間、
俺は別の位置で目を開く。
「…あぁ?
誰かに対等に立たれるのはお嫌いか?」
クチサケは鋭く振り向く。
ハサミを振り上げ、
怒りと殺意に満ちた目で俺を睨みつけた。
「卑怯だわ!
そんな安っぽい手で私を上回るなんて…!
それでも男なの!?」
クチサケは憤慨した様子で叫ぶ。
俺は顔をしかめ、
静かに二歩後退した。
こんなイカれた女を二歩の距離で相手するのは、
正気の沙汰じゃねぇ。
…最低でも五歩は離れていたいもんだな。
「…えっとさぁ?」
俺は肩をすくめながら皮肉混じりに言った。
「子供や若者を殺しまくっておいて…
しかも妖怪パワーまで使ってんだろ?
それで俺に『卑怯だ』ってか?」
俺は鼻で笑った。
「期待してなかったけど…
やっぱりお前はただの負け犬だな」
その言葉にクチサケはさらに激昂。
ハサミを強く握り締め、
歯ぎしりしそうな勢いで睨んできた。
「っ…!
負け犬じゃないッ!
私は何世紀にもわたって人間どもを恐怖に陥れてきた!
畏れられる妖怪なのよ!」
彼女は地面を踏みつけながら怒鳴った。
…だが、その姿は駄々をこねるガキみたいだったな。
思わず昔の自分を思い出した。
悪ガキだった俺が祖母に叱られていた頃のことを。
その光景を思い出したせいで、
吹き出しそうになった――
その時だった。
突然、クチサケが突進してきた。
今度は容赦なしだ。
ハサミを振り回し、ギャアギャア叫びながら襲いかかる。
こいつ、完全にブチ切れてやがる。
奴の叫びと共に唾が飛び、
頬に生温い滴が落ちた。
…マジでイカれてんな、この女。
「なぁ、ブタ女!
よく聞けやッ!」
俺は素早く両手を突き出し、
ハサミの刃を両掌で挟み込む。
奴の動きを完全に封じた。
「人間どもはもう十分だとよ!」
俺はすかさず蹴りを叩き込む。
クチサケは後方によろめき、
地面に張った木の根に足を取られて転倒した。
ドサッ!
「ぐぅっ…!」
奴は拳を地面に叩きつけ、
それを支えにして勢いよく立ち上がる。
「今度こそ分からせてやる…!
妖怪の真の怒りってやつをなッ!」
クチサケは獣のように飛びかかる。
俺の背中は木に激突した。
「…ッ! がぁッ…!」
すかさず、
俺は奴の肩をつかみ、
身体をひねってそのまま木に叩きつける。
「この…
クソアマがッ!」
俺たちは殴り合いと斬り合いを繰り返した。
俺の拳はルーンの力で強化され、
護符のおかげで耐久力も底上げされている。
だから、一撃ごとに奴の骨を粉砕していった。
だが、
奴の巨大なハサミは容赦なく俺の肉を裂く。
何度も刃が俺の身体を貫き、抜け、抉る。
内臓がズタズタにされていくのを感じた。
だが、どちらも速度を緩めない。
異常な速さで互いに攻撃を浴びせ合う。
まるでどちらが先に死ぬかを競う狂った舞踏だ。
どっちが先に息絶えるか――
それがこの勝負のすべて。
どちらもそれを理解していた。
戦いは凄惨を極めた。
クチサケはありったけの力で襲いかかる。
刃が俺の首と肋骨を何度もかすめ、抉る。
肉を削ぎ、骨を刻もうとする。
俺は痛みを無視して拳を叩き込む。
何度も、何度も顔面に打ち込んだ。
自分の傷なんざ構ってられない。
どうせ、
こいつを殺せなきゃ俺が死ぬ。
それだけの話だ。
奴の骨が砕ける音が聞こえた。
拳が頬骨を押し潰し、
顎を砕く感触が手に伝わる。
だが、奴も怯まない。
ハサミが肉を突き刺し、引き裂く。
奴の刃が憎悪と悪意で俺を貫くたびに、
俺は理性を削がれていった。
骨が砕ける音と肉が裂ける音が森に響く。
だが、俺たちは止まらない。
お互いが血にまみれても、動きを止める気はない。
そして――
クチサケは怒りと苦痛の混じった絶叫を上げた。
「アアアアアアアアアアアッ!!」
クチサケの絶叫は耳をつんざくほど凄まじかった。
鼓膜が焼けるような痛みに襲われ、
頭の中で耳鳴りが鳴り響く。
「…ッ!
うるせぇんだよ、イカれ女がッ!!」
俺は叫び返した。
そして――
俺は容赦なく指を突っ込んだ。
クチサケの裂けた口に。
そのまま力いっぱい引き裂いた。
傷跡と皮膚が裂け、
血と膿が飛び散る。
だが、
奴は容赦なく俺の背中を抉った。
ハサミが何度も突き刺さる。
だが、俺は構わず引き裂き続けた。
「ぐぁっ…! がはっ…!」
苦痛に満ちた呻き声を上げ、
クチサケはよろめきながら後退する。
口元を押さえ、
血で染まった指が震えていた。
「…な、なにを…
なにをしたぁ…?!」
奴は震える声で搾り出すように呟いた。
だが、
血と痛みに溺れた声は、
かすれた囁きになっていた。
「…ッまさか…
エクソシスト…!?」
クチサケの咆哮が森に響き渡ったことで、
お姫様は目覚めたようだ。
オニ女は恐怖に染まった目で俺たちを見つめる。
蒼白な顔で、
血塗れの戦いを呆然と見ていた。
クチサケは背中から木に叩きつけられ、
ずるずると地面に滑り落ちた。
俺も膝に手をついて荒い息をつく。
身体中が血まみれだった。
呼吸は乱れ、
膝は震え、
耳からは血が滴る。
クチサケは地面を這い、
ずるずると逃げようとする。
必死に許しを乞い、
哀れに懇願した。
「…お願い…
やめて…?」
奴の震える声が耳に届く。
だが、
俺はふらつきながら奴の巨大なハサミへ向かって歩いた。
血だらけの手で刃を掴む。
俺は血を吐いた。
耳から血が流れ、
身体の感覚は麻痺していた。
…全部こいつのせいだ。
こいつは俺をこれだけズタズタにした。
歴史の中で数えきれないほどの子供たちにも
同じことをした。
それでいて、
今さら命乞いだと?
俺に慈悲を求めるだと?
…ふざけるな。
報酬のためだけにやっている――
そう思っていた。
だが――
こんな卑劣で醜悪な存在が
惨めに命乞いする姿には
何とも言えない快感があった。
プライドを引き裂かれ、
尊厳を踏みにじられ、
無様に這い蹲る姿――
たまらなく心地よかった。
クチサケは俺がハサミを手にするのを見て、
びくりと肩を震わせた。
怯えた目で振り返り、
唇を震わせながら
必死に囁いた。
「や、やめて…
ねぇ…ダーリン…
私は…あなたの妻よ…
いい子にするから…
約束する…!」
俺は黙って見下ろしていた。
奴が恐怖と絶望に染まっていく姿を。
…思い出させてやる。
己の地獄を。
醜く歪んだ顔。
死に際に見た自分の姿。
そして――
死に至らしめた愚行。
…これが
こいつの罰だ。
…クソッ、
胸がざわつく。
気分が悪い。
だが――
それでも
こいつに慈悲は不要だ。
「…ゆっくりくたばれ。
オンナ。」
俺はゆらりとハサミを振り下ろした。
ザクッ。
一閃で、
奴の口はさらに裂けた。
さっきまでの裂傷と、
俺が指で引き裂いた傷跡が重なり――
顔は見るも無惨に崩れ果てた。
俺は荒い息を吐き、
膝に手をついてしばらく動かなかった。
…この感覚…
こんなんだったか?
――いや。
こんなことに慣れるはずがない。
だが――
これが俺の仕事だ。
そう思い込まなければ、眠れない。
俺は震える手でスマホを取り出す。
写真を撮る時間だ。
そして――
死体の証拠を持ち帰るために
何か目印になるものを探す必要がある。
…だが、
自撮りは得意じゃない。
「…あーあ、誰かいればなぁ。」
ふと視線を上げると――
オニがいた。
いつから起きていたのかは分からない。
だが、
奴はずっと震えていた。
木にもたれかかり、
目を見開いて、
恐怖で顔が引きつっていた。
どうやら、
俺たちのショーはお気に召さなかったようだな。
「…はぁっ…!」
息を呑む音が漏れた。
俺は床に転がったハサミを拾い、
ふらつきながらオニに向かって歩いた。
全身がズタボロだった。
だが――
ルーンが俺の身体を修復していた。
…それでも遅くて痛い。
「…なぁ、
おい、お前…」
俺は血だらけの笑みを浮かべながら言った。
「ちょっと頼まれてくれないか…?」
俺はできるだけ優しい声で話そうとした。
だが――
言葉がうまく出てこない。
体が限界だった。
声が掠れて、
息が詰まる。
それでも、
俺は必死に言葉を絞り出そうとした。
だが、
オニは震える足で立っているだけだった。
恐怖に凍りつき、
足がすくんでいた。
オニの顔を見た瞬間、すべてを悟った。
…俺が奴を倒すなんて思ってもいなかったんだろう。
クチサケを――
この手で仕留めたことに。
…まぁ、最初の印象がすべてってことか。
そして――
俺は見事にぶち壊した。
大画面にも収まりきらない壮絶な演出でな。
…クソッ、現実はいつもフィクションを超える。
だが――
今はそれどころじゃない。
俺はどうしても頼みたいことがあった。
だが、
周りには誰もいない。
唯一の頼みの綱は――
この震えるオニだった。
だが、
奴は怯えた瞳で俺を見上げ、
かすれた声で答えた。
「……な、なに……?」
俺は木にもたれかかる。
そのすぐ横にはクチサケの死体が転がっていた。
肺に穴が空いているせいで、
言葉を紡ぐのが辛い。
頸動脈の傷も酷く、
声を出すたびに激痛が走った。
「…しゃ…写真…」
血を吐きながら、
必死で伝えようとした。
だが――
俺の頼みに対する返答は、
思いもよらないものだった。
「…お願い…
傷つけないで……」
…え?
俺は思わず目を見開いた。
奴の瞳をまっすぐ見つめる。
…恐れているのか?
人を襲い、傷つけるために生まれた存在が――
俺を恐れている?
…そんなバカな。
それってつまり――
俺は妖怪よりも恐ろしい存在だということか?
いや――
俺こそが怪物なのか?
……
…そもそも、俺は何のためにこんなことをしている?
2017年3月23日
あぁ……春か。
若者たちが心待ちにする季節だな。
ビーチやプールで遊び、
バカ騒ぎのパーティーを開き、
絶対に手に入らない女たちの肌を眺める――
……まぁ、少なくとも俺の頭の中ではな。
理想的だろ?
だが――
俺にとっては地獄のような季節だった。
クソッタレな春だ。
……春が俺の不幸の原因じゃない。
それくらいは分かってる。
だが――
誰かを責めたかった。
そうでもしなきゃ、自分を責めずに済まなかった。
……俺は、最低な野郎だ。
夜だった。
手持ちの金は一銭もなかった。
家には食い物がなく、
祖母は癌に侵されていた。
悔しさで涙が出そうになった。
この重圧に潰されそうだった。
街灯だけが俺の苦しみを見ていた。
だが――
俺は金を手に入れた。
……合法でも道徳的でもないやり方でな。
だが、クソッ……
俺は奴らよりも、この金を必要としている。
……分かってくれよ。
道のりは短かった。
だが、誰かに見られているような気がした。
何かが……妙だった。
ピースが一つ、噛み合わない。
それが気に入らなかった。
だが――
あの頃の俺は馬鹿だった。
家の玄関をバットでガンガン叩いている泥棒にも気づけないくらいにはな。
ましてや、こんな神秘的で得体の知れない違和感に気づけるはずがない。
"見られている"と感じながらも、それが誰なのか、何なのか分からない――
そんな不気味な感覚に。
---
祖母の部屋は、年老いることと貧しさが手を取り合い
仲良く寄り添っているかのような場所だった。
……まるで古い友人同士みたいに。
ベッドは、もうずっと昔に寿命を迎えた。
毛布が何枚も重ねられていて、寝床というよりは鳥の巣のようだった。
小さな豆電球がチカチカと灯り、
必死に闇を押し返そうと抗っている。
だが、その頼りない光が作り出す影は、
子どもを怯えさせるには十分すぎるほど不気味だった。
……いや、悪い日なら俺だって怖いと思うだろう。
壁は灰色で剥き出しのまま。
そこには、苦しみと日々の闘いが染み付いていた。
そして――
薬の匂い。
あぁ……絶望と衰退の香りだ。
それでも、ようやく辿り着いた。
祖母の部屋だ。
祖母は古びたベッドに横たわり、
夏だというのに毛布を三枚も被っていた。
俺は何度も説得した。
冬じゃないんだと。
目覚まし時計の日付を変えてまで騙そうとした。
"今日は冬だ"と思わせようとしたんだ。
だが――無駄だった。
祖母はいつも同じことを言った。
「だって寒いんだよ。
窓を閉めておくれ。
風が入ってくると、家中が冷えちまうからねぇ。」
「あぁ、この婆さん……ついに頭のネジが外れちまったか。」
俺はそう思った。
……だが、一番最悪なのは――
結局、祖母の方が正しかったってことだ。
俺は薬の入った袋を祖母の枕元の小さなテーブルに置き、
彼女がトイレに行くときに使う小さなランプを灯した。
暗闇に抗うような、頼りない光だ。
「ばあちゃん? 俺だよ。薬、持ってきたから。」
祖母には名前がなかった。
彼女は"名もなき"家系で生まれた。
ただ子供を産むためだけに存在させられたような人生だった。
……まるで"道具"みたいに。
学校に通うことすら許されなかった。
その"愛情深い"家族には、教育なんて概念はなかったんだろう。
あぁ、畜生。
地獄にでも落ちればいい。
そしたら俺が直々に、"ご家族様"とご対面してやるさ。
祖母は震える手で俺の手をそっと握った。
その手は、昔よりずっと小さくなった気がした。
「坊や……そんなにお金を使わなくていいのに……」
彼女は、掠れた声でそう言った。
俺は眉をひそめ、
そっと、だがしっかりと彼女の手を握り返した。
力強く、けれど優しく――
"俺はここにいる"と伝えるように。
「おばあちゃん……そんなこと言わないでよ……」
彼女は黙ったまま、静かに俺の手を握り続けた。
しばらく、二人とも言葉を交わさなかった。
……祖母は、妙だった。
一点をじっと見つめたまま、何も言わない。
時折、手の震えが止まったりした。
時には、俺の名前さえ思い出すこともあった。
"薬が効いてるのか?"
俺は思った。
それだけで胸がいっぱいになり、希望が膨らんだ。
――だが、その希望は彼女の次の言葉で一瞬で砕かれた。
「坊や……ひとつ頼みがあるんだがね……」
俺は祖母のベッドの端に腰を下ろし、彼女を見つめた。
混乱していた。
"……一体、何を提案するつもりなんだ?"
家族に対しては無礼な態度は取りたくない。
ましてや年長者には。
……だが、それでも――
"彼女はもう役に立たない"
という考えが頭をよぎった。
彼女はもう、終わりが近い。
それでも俺は黙っていた。
彼女の言葉を聞いてやろうと思ったからだ。
「もうね……昔みたいに元気じゃないのさ……」
祖母はそう呟いた。
「ただのお荷物になっちまったねぇ……」
俺は歯を食いしばった。
思わず、声が荒くなる。
「違う! そんなことない! 何度言ったらわかるんだよ――」
その時だった。
祖母が俺をじっと見つめた。
まるで感情が消え失せたような、無機質な目で。
「……最後まで聞きなさい。」
俺は口を閉じ、俯いた。
彼女の言葉に耳を傾けるしかなかった。
「この家の土地ね……坊や……」
彼女はゆっくりと話し始めた。
「政府がね、この土地を欲しがってるんだよ……公共施設を建てるためにね。」
俺は思わず首を傾げた。
"は?"
意味がわからなかった。
状況が唐突すぎて、思考が追いつかなかった。
ついさっきまで盗みを働いていたせいで、まだアドレナリンが体を駆け巡っていた。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「でもさ、ばあちゃん……」
混乱しながら、ようやく言葉を絞り出した。
「この家は売れないだろ……だって、そっちの世代が全員亡くなるまでは手放せないはずだろ?」
「それに……ばあちゃんは最後の生き残りじゃんか。」
その瞬間――
祖母はそっと手を伸ばし、俺の頬に触れた。
その手はひどく細く、冷たかった。
彼女は、微笑んだ。
優しく、どこか儚げに。
「だからね……タッくん……」
「私を……殺しておくれ……」
言葉を失った。
脳内に一つの言葉だけがこだました。
"ダメだ"
"ダメだ……ダメだダメだダメだ!"
祖母は狂っているのか?
ありえない。
彼女がそんなことを言うはずがない――
"いや……もしかしたら……?"
何を考えているんだ?
何を躊躇っている?
何を……正当化しようとしている?
だが、俺は覚えている。
……はっきりと。
まるで今、あの時に戻ったように――
俺はそれを"見て"いる。
"かつての俺"が、
トランス状態で祖母の細い首を握り潰していく姿を。
「……ごめん……ごめんよ……」
ああ、もちろんさ。本当に申し訳なく思ってるよ。
――とでも言うと思ったか?
昔の傷を抉られるのは慣れている。
むしろ、こうして開きっぱなしの傷を見つけるたびに――
"まだ後悔できる自分がいる"
と、思い知らされる。
……それでも。
分かってる。
俺のせいじゃない……はずだ。
その時だった。
突然――
部屋の隅から、男の笑い声が聞こえた。
「ククク……」
血の気が引いた。
まるで体内の血液が液体窒素に変わったかのように、冷え切った。
ゆっくりと振り返る。
そこに――いた。
狐の耳と尾を持つ、獣のようなシルエット。
"キツネ"だ。
まさか……俺は騙されたのか?
妖狐に……?
「どうしたんだい、タッくん?」
妖狐はニヤリと笑った。
「まるで幽霊でも見たような顔してるぜ?」
その瞬間――
目の前で、そいつの体が変化していく。
祖母の姿に。
表情も、声も、仕草までもが――
"あの祖母"そのものだった。
「ククク……これであとはお前を殺すだけだな。」
「そしたら、お前になりすまして家を売ってやるよ。」
理解が追いつかない。
俺は……
"何をした?"
"何を……してしまった?"
"自分の祖母を……"
"俺は――殺した?"
膝が崩れそうになった。
喉に焼けるような痛みが走る。
込み上げる怒りと自己嫌悪が、胃を蝕むように広がっていく。
"まただ……"
"また俺は愚かさで全てを壊した……"
"今日の過ちは――"
"重すぎる"
「おばあちゃん……!? 何やってんだよ……!」
涙があふれた。
震える手で、祖母の肩を揺さぶる。
彼女は動かない。
冷たい。
その時、耳にこびりついた。
あの"笑い声"が。
毒のようにねばつく、不快な嘲笑が――
「ハハハハ! 人間のガキが泣いてやがる!」
ゆっくりと顔を上げた。
妖狐を睨みつける。
――コイツが。
このクソったれの詐欺師が。
俺から"唯一の希望"を奪ったのに。
ヘラヘラと笑ってやがる。
「……てめぇ。」
ゆらりと立ち上がった。
足は震えていた。
体はボロボロだった。
それでも――
"コイツだけは許さない"
「俺を笑いやがったな……」
「この俺を――!」
「高橋武夫を!!」
その時だった。
肩ががくりと落ちた。
視線が揺らいだ。
目の前で――
俺の"祖母"が嘲笑った。
いや、違う。
"祖母の姿をした妖狐"だ。
「ククク……」
笑い声はねっとりと耳にまとわりつく。
あまりにも歪んでいた。
その邪悪さが、俺を恐怖で満たしていく。
でも――
もう、怖がっている場合じゃない。
俺は……"何も失うものがない"
恐怖はあった。
だが、それ以上に――
"このままでは終われない"という感情が勝った。
"何か……"
"何か武器を……"
"何か、手に取れるものを――"
視線が揺らぐ。
部屋の隅を探る。
家具の影。床の隙間。何でもいい。
"何か使えるものを見つけろ"
散弾銃だ……!散弾銃!
リビングに掛けてあるはずだ……
もし、それさえ手に取れれば――
……いや、違う。
"クソが"……!
キツネ野郎が"入り口に立っている"
"クソッ……!"
逃げ道がない。
時間が必要だ。
"考える時間が――"
俺はとっさに手を伸ばし、
ランプの光を弱めた。
部屋は薄暗くなったが――
"奴の瞳は"依然として林檎のような緑色に輝いていた。
"クソ……こいつは暗闇でも見えている"
視線を窓へ向ける。
開いている。
だが――
"もし驚かせたら"
奴は窓から逃げるだろう。
そうなれば、もう捕まえられない。
……いや、違う。
"こいつは逃げるつもりなんてない"
"ここで狩るつもりだ"
「なあ……」
"できるだけ落ち着いた声を出す"
「"和平交渉"は……できないか?」
最低だ。
"こんな場面で"
"こいつと交渉する羽目になるなんて"
キツネ野郎は喉の奥でククッと笑い、
ゆっくりとドアから離れた。
そのまま"祖母のベッド"に腰掛ける。
俺は背を壁に押し付けながら、
"ゆっくりと後退"した。
背中が"ドアノブ"に触れた。
"よし……逃げ道はある"
「"何を提案するんだ"……若造?」
唾を飲み込む。
"考えろ"
"説得力のある口実を――"
「"取引"だ」
"かすれた声"で言う。
「祖母を……"埋葬する時間をくれ"」
「代わりに……遺産の"七割"をお前に渡す」
キツネ野郎は"芝居がかった動作"で胸に手を当て、
わざとらしく目を見開いた。
「おお……"なんと寛大な"提案だ、若き人間よ」
"その瞬間"
"俺の奥歯がきしむ"
"祖母の冷たい足"を撫でるように指でなぞるその仕草――
"腸が煮えくり返る"
胃の奥から"吐き気が込み上げる"
「だがなあ……」
キツネは"ねっとりと"言葉を続ける。
「"契約書"が必要だな?」
"チャンスだ"
"騙せ"
「……だったら」
"意識的に声を落ち着ける"
「外に紙とペンを取りに行かせてくれ」
「"契約書"を書いてやる」
キツネは数秒"思案するように唸った"
そして――
「……いいだろう、"タックン"」
"嫌味たっぷりに呼び捨てた"
「"好きなだけ時間をくれてやる"」
俺は本能的にドアを開けると、大股でリビングへと歩き出した。この汚くて、くたびれた、死にかけの家の廊下を進む。ああ、崩れゆく家の哀れなメロディーが歓迎してくれるじゃないか。壁には古びた写真が飾られていた。おそらくは親戚だろうが、今の俺と同じくらい惨めな顔をしていた。芸術は現実を映すとはよく言ったもんだ。
一歩ずつ、リビングへと近づいていく。そこには俺が狩猟用に使っていたレミントン870が暖炉の上に掛けられている。家の中で唯一まだ少しだけ誇りを保っている存在だろう。
この廊下の空気はカビと埃が入り混じった芳しい香りだ。廃墟マニアならきっと喜ぶだろうな。この家はかつて命があった場所だが、今は空っぽで見捨てられている。その皮肉な哀愁に思わず笑いがこみ上げる。まるで俺自身を見ているようだ。壁に映る影はきっと俺を嘲笑っている。必死にもがく俺を見てゲラゲラ笑っているに違いない。
ようやくリビングに到着した。そこには暖炉があった。空っぽで、すすけて、灰まみれの冷たい暖炉。その上に、まるで戦利品のように掛けられている俺のレミントン870。もしこいつに意思があったら、きっと軽蔑した目で俺を見下ろしてこう言うだろう。
「またくだらねぇことに俺を使う気か、タケオ?」
俺は暖炉に歩み寄り、銃を手に取る。冷たい金属の感触が妙に心地よい。こいつは少なくとも俺を裏切ったりしない。過去の誰かとは違ってな。
「さて、相棒。」
俺は眉をひそめながら呟いた。怒りと無力感が入り混じる声だった。
「ちょっと散歩に付き合ってくれ。」
銃を握りしめ、俺は再び廊下へと引き返した。まるで過去の亡霊が蠢くような暗く長い廊下だ。そこは悪夢のトンネルみたいに終わりが見えない。でもな、俺はとっくに迷子なんだ。これ以上道を見失うことはない。
「今度はお前が泣く番だ。」
震える声で呟きながら、俺は銃を装填した。手は慣れた動きで滑らかに作業を進める。スライドを引き、薬莢が排出される音が部屋に響く。「カチャッ」と床に転がる薬莢の音は、これまで幾度となく聞いた馴染み深い旋律だ。
再びスライドを引いて押し戻す。「チャキッ」と新たな弾が薬室に送り込まれる。心の中では、祖母が息も絶え絶えに喘いでいた姿がフラッシュバックする。その度に指が震える。だが俺はもう引き返せない。この弾丸は復讐の誓いだ。
廊下の闇が徐々に薄れていく。リビングの微かな明かりが、暗雲に覆われた夜空の星のように俺を導いていた。影たちはまだ俺を嘲笑いながら踊っている。いいだろう。今夜はどっちが笑うか決めてやる。
俺は何度もスライドを引いた。念入りに装填を確認しながら、怒りと悲しみを込めて銃を握りしめる。ついに寝室のドアの前に立った。背後には灰と冷たさだけが残る暖炉。そして目の前には再び戦場が広がっている。
深呼吸してドアを押し開ける。銃を構え、指はトリガーにかけたまま、部屋を素早く確認する。だが――いない。キツネはどこにもいなかった。祖母もいない。
そこには、空っぽのベッドと床に落ちた毛布だけがあった。ランプの灯りが頼りなく点滅している。あたりは静寂に包まれていた。
「ばあちゃんはどこだ?!この汚えクソ野郎はどこにいやがる?!?」
奴はいなかった。窓は開いていた。
くそっ、あのクソ窓を開けっ放しにしてたのか!
「くそったれがぁぁ!!」
俺は窓に駆け寄り、外を覗き込んだ。しかし、何も見えない。ただ暗闇と、裏庭に広がる森があるだけだ。
だが、森には行けないはずだ。あんな不安定な地形でばあちゃんを担いで移動できるわけがない。岩場で何度も転ぶに決まってる。
「どこだよ…どこへ行きやがった…?」
俺はばあちゃんを失った。二度も。
皮肉だよな?一度じゃ足りなくて、また失うなんてな。さっき自分で言ったことは間違いだった。
同じ道で二度迷うことはあるんだ。
俺はショットガンを握りしめたまま、道路に飛び出した。もうどうでもよかった。
夜中だし誰も見てないだろうしな。
それにしても…今更だけど、通報して警察に言うか?
「俺、妖狐に騙されて祖母を殺しちゃいました」
…言えるわけがない。
精神病院行き確定だろうな。
そういえば、精神病院の飯ってうまいのかな?
…馬鹿な考えは置いておいて、問題は手がかりがないことだ。
計画もねえ。俺はただの狂った野郎だ。
脚を吹き飛ばせるような銃を持ったまま、夜の道路をうろついてるだけだ。
だが…考えろ。
奴は確実にこのあたりにいるはずだ。
ばあちゃんの遺体を運んでるなら、遠くには行けない。
そう考えると、細い裏道を選んだ可能性は高い。
そうだ。通りに隠れられる場所はひとつ。路地裏だ。
そこで息を潜めれば、奴が通る可能性はある。
俺は猫か?それともネズミか?
どっちがどっちだかわからないが、今夜はその勝負だ。
夜は暗闇のベールに包まれ、月は雲の隙間からかろうじて顔を覗かせていた。
俺の足音は静まり返った路地に不気味な反響を響かせる。
まるで、この悪夢が現実だと何度も思い知らせるように。
俺は自動操縦のように無意識に足を動かし、角を曲がるたびに身をかがめる。
街灯に照らされないように。
誰かに見つかるわけにはいかない。
そしてついに、見つけた。
奴だ。
狐は滑るようにレンガの壁に溶け込むような扉の隙間へと消えていった。
俺は一度、深く息を吸い込む。
怒りと決意を肺に満たし、声がかすれるほどの叫びを吐き出した。
「ぶっ殺してやる!ばあちゃんを返せ、このクソ野郎!!」
扉の向こうから奴の声が返ってくる。
その瞬間、俺はショットガンの銃床でドアを殴りつける。
「はははっ!泣き虫がまだいるのか?この年寄りみたいにぶっ殺されてえのか?」
もう十分だ。
理性は吹き飛んだ。
俺は迷わず引き金を引いた。
「ドンッ!」
銃声が狭い路地に響き渡る。
扉は弾け飛び、俺はすかさず蹴りを何度も叩き込む。
枠ごと吹き飛ばし、ついに突入する。
だが、そこはただの部屋じゃなかった。
奴らの巣窟だった。
ちらつく紙灯籠の薄明かりが、黒い装束を身にまとった狐たちを照らし出す。
まるでヤクザの密会だ。
しかも、そいつらは銃を構えていた。
「ふざけるな…」
俺は震える手でショットガンを握りしめる。
指先に力を込めようとするが、わずかに震えが走る。
奴らはそれを見逃さなかった。
ひとりの狐がニヤリと笑い、ふざけた調子で言う。
「おいおい、人間は水鉄砲でも怖いのか?」
狐たちは俺を見て嘲笑った。
そして俺の足は、まるで安物のゼリーみたいに震えていた。
だが、もう引くつもりはない。
ここで怯んだら終わりだ。
たとえ無謀でも、俺は必ずばあちゃんを取り戻す。
震える指でショットガンのポンプを引く。
「ガチャンッ!」
薬莢が床に転がる音が耳に残る。
そして俺は、声を震わせないように絞り出すように言った。
「覚悟はできてんだろ…神様に会いに行く準備しとけよ」
だが、奴らはまた笑った。
まるでガキの戯言だとでも言うように。
「ハッハッハ!何だぁ?威勢だけはいいなぁ!」
奴らは油断していた。
それが俺の狙いだった。
俺はショットガンを腰だめに構え、一気に引き金を絞る。
「ドンッ!!」
轟音が室内に響く。
衝撃で一匹の狐が吹き飛んだ。
血が床と壁に飛び散る。
「ぐっ…がぁぁっ!!」
至近距離だった。
奴は即死だ。
目の前で崩れ落ちる狐を見ながら、俺は迷わずもう一発撃つ。
「ドンッ!ドンッ!!」
二発目と三発目は立て続けに別の狐を撃ち抜く。
奴らは苦しそうにのたうち回った。
「うわぁぁっ!くそっ、伏せろ!!」
狐たちが慌てて身を屈め、遮蔽物を探す。
何匹かは床に倒れ込みながら、必死でリボルバーを俺に向けて引き金を引いた。
「パァンッ!パァンッ!パァンッ!!」
銃弾が壁をかすめ、火花が散る。
そのうちの一発が俺の肩をかすめた。
「くっ…!」
痛みが走るが、構っている暇はない。
俺はとっさに身を低くし、床に飛び込む。
「ドサッ!!」
背中が床にぶつかり、天井が視界いっぱいに広がる。
荒い息が乱れ、耳鳴りがする。
だが、そこで俺は見た。
天井越しに飛びかかる狐の影。
目が合った瞬間、奴は咆哮とともに突進してきた。
「ギャアアアッ!!」
咄嗟にショットガンを構える。
仰向けのまま引き金を絞る。
「ドンッ!!」
爆音とともに奴の胴体が吹き飛んだ。
血と臓物が宙を舞い、壁に叩きつけられる。
「バシャッ!」
内臓が床に飛び散り、狐は壁にめり込むように崩れ落ちた。
血の臭いが鼻を突く。
視界が赤く染まる。
だが、まだ終わりじゃない。
俺は床に這いながら壁際へと転がり込む。
通路に逃げ込み、奴らの視界から外れる。
だが、背後から怒声が響く。
「クソガキィ!ぶっ殺してやる!!」
狐の一匹が机を倒して遮蔽物にしながら叫ぶ。
銃声が耳元で鳴り響く。
だが、俺は構わず逃げた。
まだ終わらせるわけにはいかない。
必ず、ばあちゃんを取り戻すまで。
それでも…怖かった。
「くそっ!こんなの無理だ!七対一だぞ!!」
銃弾が壁に当たり、破片が飛び散るたびに肩がビクッと跳ねる。
俺は思わず両耳を塞いだ。
爆音が鼓膜を突き破りそうで、頭の中が真っ白になる。
「おお神様…お願いだ…こんなのは嫌だ…!!」
息が浅くなる。
胸が苦しくて息が吸えない。
視界がぐにゃりと歪む。
「くそっ、落ち着け…落ち着けって…!!」
でも、手が震えてショットガンのポンプがうまく引けない。
指が引き金から滑る。
何度も深呼吸するが、息が乱れるばかりで意味がない。
「頼むから…震えるな…震えるなよ…!!」
自分に必死に言い聞かせる。
涙で視界がぼやける。
それでも、俺はショットガンを抱え直し、なんとかポンプを引いた。
「ガチャンッ!!」
空薬莢が床に転がる音が、やけに遠く感じた。
もう一度、ポンプを引く。
指が滑ってポンプが空振りする。
心臓が喉までせり上がってくる。
「頼む…お願いだ…こんなとこで死にたくねぇ…!!」
目の前が霞んで、何も見えなくなりそうだった。
撃ち返してこないのを見て、銃声が止んだ。
静寂が訪れた瞬間、キツネの一人が叫ぶ声が聞こえる。
「出るな!あのガキは狂ってるぞ!!」
次に、弾を込め直す音が響く。
俺は壁に背をつけたまま、目を見開いて荒い息を吐いていた。
「なんで撃ってこねぇんだ!?」
別のキツネが訝しむ声を上げる。
「アイツ、リロードしてるぞ!捕まえろ!!」
その言葉に反応するより早く、俺は通路を駆け出した。
頭を低くして走る。
全力で足を動かす。
だが――
「バンッ!!」
キツネの一人が俺よりも素早く引き金を引いた。
弾丸が俺の脚を貫く。
焼けるような熱が太ももに突き刺さり、ズボンにじわりと湿った温もりが広がる。
「ぐっ…ハァァッ!!」
唾が飛び出るような叫びが喉から漏れた。
脚に力が入らない。
それでもなんとか通路を曲がり、目の前にあった扉に飛び込む。
しかし――
「…クソが…行き止まりかよ…!!」
背後から迫る銃声を聞きながら、俺は扉を蹴り破るように押し開けて部屋へ転がり込んだ。
鍵もかけずにそのままドアを閉め、壁に背中を預けた。
「はぁ…はぁ…マジでふざけんな…」
荒い息とともに膝を抱えた。
ズボンに染みた血がべっとりと張り付き、ジワリと滲み出す。
汗かと思った?
違うよ、血だよ。
おめでとう、俺。
出血多量で死ぬか、キツネにズタズタにされるか。
どっちがマシだろうな。
その時、ふと視線の先に気づく。
薄暗い部屋の隅――
椅子に縛り付けられた老人がいた。
彼の瞳は恐怖と希望でいっぱいだった。
まるで、俺が彼の救い主であるかのように。
…いやいや、何を期待してるんだよジジイ。
俺だって死にそうなんだぞ。
老人の腹には深い傷が刻まれていた。
…見るだけで吐き気がする。
こんな傷、見てられねぇ。
俺は目を逸らした。
だけど、その男はかすれた声で呟いた。
「若いな…坊主…」
俺は薄暗く陰鬱な部屋に身を隠していた。
ここはまるで痛みと苦しみの物語が染みついた場所。
どれほどの絶望がこの壁に刻まれてきたのかなんて、想像もしたくない。
隅で荒く息を吐きながら、俺はぼんやりと視線を彷徨わせた。
目の前には荒い呼吸をする老人と、妙な光を放つバッグがあった。
太ももからじわじわと広がる鈍痛が思考を鈍らせる。
キツネどもがドアを叩く音が鼓膜を揺らす。
このまま押し破られたら終わりだ。
それでも――
それでも年寄りを無視するのは、いくら俺でも失礼だろう。
「…こんな所で…顔を合わせるなんてな…ははっ…」
掠れた声で、かろうじて冗談めいた言葉を絞り出す。
けれど、笑おうとした瞬間、目の前の老人の傷に気づいて顔が引きつった。
まるで内臓が引きずり出されたかのような傷。
見るに堪えない。
「大丈夫か」なんて聞けるわけがない。
そんなわけがない。
…俺だって大丈夫じゃない。
喉が渇いている。
心臓はドラムのように打ち鳴らされ、手は震えている。
体中から冷や汗が噴き出していた。
「……奴らは…私の知識を欲しがった…だが…私は屈しなかった…」
ふいに老人が呟いた。
その声は弱々しかったが、どこか誇りを感じさせた。
ゆっくりと顔を上げた彼は、俺の目をじっと見つめた。
まるで心の奥を見透かされるような感覚に襲われる。
その目には恐怖も怒りもなく、ただ静かな決意があった。
「……すごいな…」
思わずそう漏らした。
言葉が喉につかえて、まともに声にならない。
ただの震えた囁きだった。
俺は無理に立ち上がろうとするが、足がもつれて倒れ込む。
焼けるような痛みが脚を貫き、冷たい床に突っ伏した。
「……聞け…坊主…」
老人はかすれた声で言った。
「私の命はもう尽きる…だが…私の知識と術具を…お前に託す…」
彼は血の滲んだ唇を震わせながら続ける。
「…それさえあれば…お前は奴らを…すべて殺せる……」
俺は彼を見つめた。
半信半疑だった。
こんな瀕死の男の言葉を信じるべきなのか?
いや…
もう選択肢なんてない。
俺はここに来た時点で、すでに覚悟は決めていた。
キツネを皆殺しにするために。
「……わかった…やってくれ…」
俺は震える手で頷いた。
何をされるかも分からないのに。
いや――
分かっていた。
それでも、他に道はない。
「……そのバッグの中に…お前に必要なものが…ある…」
「目を閉じろ…坊主…さぁ……」
老人はかすかに微笑みながら目を閉じ、低く呟き始めた。
聞き取れない古代の言葉。
まるで風に溶けるような、不思議な響き。
「……ッ!?」
突然、部屋に風が吹き荒れた。
……いや、ここに風などあるはずがない。
窓はない。
換気口もない。
なのに、風が吹き荒れている。
「や、やめろ…!!」
反射的に叫んだ。
だが、老人は構わず詠唱を続ける。
彼の手が淡く輝きはじめた。
柔らかい黄金の光が指先から漏れ、俺の体に流れ込む。
「――ぐっ……!」
何かが俺の中に流れ込んでくる。
知識が、記憶が、歴史が――
まるで無理やり脳に詰め込まれるような感覚。
数えきれない術式。
封印の法。
戦いの記録。
妖怪たちとの闘争の歴史。
古代から脈々と続く魔術師たちの知恵が、俺の頭を焼くように溢れた。
「うっ……おぇっ……!」
限界だった。
床に手をついて、胃の中のものをすべて吐き出した。
酸っぱい液体が喉を焼く。
体が震える。
吐きながら、涙がこぼれた。
「……ふふ…これで…いい……」
老人はかすかに笑い、静かに目を閉じた。
そして――
二度と開くことはなかった。
「ジロー……」
俺は老人の名前を呼んだ。
その名が俺の口から零れ落ちる頃には、彼はすでに息を引き取っていた。
虚ろな瞳が、床に向かって沈むように伏せられる。
「……ありがとう…ジロー……」
俺は膝を引きずるようにして彼に近づいた。
震える手でバッグを掴む。
中には、符や霊符、古びた魔術の道具が詰まっていた。
「……約束する…」
「お前の遺した力で…奴らを殺す……」
俺は立ち上がる。
脚が痛むが、それでも立った。
振り返り、ジローの顔を見た。
静かで安らかな表情だった。
「……安らかに眠れ…」
そう呟いて、俺は背を向けた。
バッグを握りしめたまま、ドアへと歩き出した。
振り返ることなく――
だが、心には彼の名と想いを刻み込んだまま。
俺は混乱したまま、冷たい鉄の扉に手を置いた。
脳内はぐるぐると渦巻いている。
頭に流れ込んできた膨大な知識は、ただの符や妖怪に関するものだけじゃない。
戦術、奇襲、罠の張り方、果ては古い銃器の扱い方まで――
いや、待てよ。
レバーアクションのショットガンとか、火縄銃の再装填方法なんて今さら覚えたところで、何の役に立つ?
……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は扉の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばした。
だが、その瞬間――
胸の奥からふと疑念が湧き上がった。
「……この先には何がいる?」
手が止まる。
もしこの力を受け継いでいなければ、今頃間違いなく死んでいただろう。
だが、俺はまだ生きている。
それでも、この扉の先にいる奴らは間違いなく俺を殺すつもりだ。
そう――
扉の向こうには「死」が待っている。
俺はそっと耳を扉に押し当てた。
息を殺して、微かな音に意識を集中する。
すると――
外から聞こえてきたのは、低く抑えた会話だった。
しかも二人じゃない。
少なくとも四人はいる。
「ははっ、で?どうするよ?」
「決まってんだろ、ぶっ殺すんだよ、バカが」
一人が嘲笑混じりに言った。
そして――
「カチッ」
小さな金属音が聞こえた。
……くそっ、装填の音だ。
奴らは武器を準備している。
「まさか、あのガキが俺たちを傷つけられるとでも思ってんのか?」
「馬鹿かよ、アイツはただの獲物だ」
外から聞こえるキツネどもの笑い声。
ふざけやがって。
こっちは死に物狂いだってのに――
奴らにとっちゃ、ただの「遊び」か?
「……その小僧をバラして、さっきのジジイみたいに臓物を引きずり出してやるぜ」
静かな殺意が、言葉に滲んでいた。
笑い声とともに、壁の向こうで銃が打ち付けられる音が響く。
「聞いたか?あのガキ、今頃震えてやがるぜ!」
「ははっ、ビビってションベン漏らしてるんじゃねぇの?」
また笑い声が響いた。
その瞬間、心臓が跳ね上がった。
理不尽なまでの怒りと恐怖が混じり合い、喉が渇く。
それでも――
それでも俺は、静かに装填を始めた。
カチャッ…
ショットガンのガードを引く。
手は震えていた。
だが、着実に――一発ずつ――
カートリッジを込めていく。
「おいおい、何やってんだ?あのガキが撃ち返してきたらどうする?」
「はぁ?アイツが?ははっ…無理無理!あんなガキに何ができるってんだよ!」
ドアの向こうで笑い声がこだまする。
まるで俺がただの玩具であるかのように。
「おーい!ビビってんのか?出てこいよ!
お前のマンコの臭いがここまで漂ってきてんぞ!」
――チッ。
悪態が耳に焼きついた。
指が引き金にかかりそうになる。
だが――
俺は深く息を吸い込んだ。
今はまだ撃たない。
まずは――
「……鷹の眼よ…隠されしものを我が視界に晒せ……」
かすれた声で呪文を唱えた。
目を閉じ、額に浮かぶ汗を感じる。
息を止めて――
ゆっくりと目を開けた。
「……っ!?」
視界が歪む。
いや、違う。
歪んだんじゃない。
見える。
壁の向こうが――
扉の向こうにいるキツネどもが――
はっきりと見える。
4人――
いや、6人いる。
ライフルを構えた奴。
銃剣を携えた奴。
笑っている奴。
退屈そうに欠伸をする奴。
全部――
全部が見えている。
「……フッ…見えたぞ…」
俺は震える手でショットガンを握りしめた。
心臓が爆発しそうなほど鼓動が早い。
だが――
奴らはもう俺の獲物だ。
俺は今、確信している。
いや――これほど確信したことはない。
間違いなく、俺はコイツらより速く、強い。
しかも――
奴らには、俺が持つ知識はない。
「……これで決まりだな」
そう呟くと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
鼓動は落ち着いていた。
もう迷いはない。
ここで引き返す道なんて、とうの昔に消え去っていた。
俺は視線を壁に向けた。
向こう側には、一匹のキツネが背を向けて立っている。
……あいつだ。
最初の犠牲者は――あの哀れな野郎だ。
怒りが指先まで込み上げる。
拳を握り――
振りかぶった。
「……はぁああああッ!!!」
拳が壁を貫いた。
コンクリートが砕け散り、穴が空く。
壁の向こうで、キツネが息を呑んだ。
「な…なにィ!?!?」
奴の首を掴むと、俺は無言で壁に叩きつけた。
「ドゴッ!」
鈍い音と共に、奴の後頭部がコンクリートにめり込む。
「……はぁッ!」
力任せに壁に押し付けるたびに、骨が軋む感触が手に伝わる。
奴はもがき、呻き声を上げた。
「ぅぐッ…ふぐ…!」
だが――
俺は止めない。
もう一度、壁に打ちつける。
もう一度――
そして、もう一度。
「グァッ…!ガッ…!」
絶叫が濁った悲鳴に変わる。
首の骨が折れる感触が指先に伝わった瞬間――
俺は奴の身体を壁に突き刺すように引き抜いた。
「ボギャッ…!」
乾いた音が響く。
キツネの首は、俺の手の中で無惨に崩れ落ちた。
血が噴き出し、コンクリートに赤黒い染みが広がる。
「そこだ!撃てぇ!!」
キツネたちは一斉に叫んだ。
壁の穴に銃口が並び、一斉射撃が始まる。
「バババババッ!!!」
火花と鉛の雨が壁に降り注いだ。
だが――
俺はすでにそこにはいない。
「……フッ」
背後に回り込んでいた。
一瞬で――
「パッ」と消え去るように。
「なっ…!?」
キツネたちは俺を見失い、混乱する。
壁の穴を覗き込みながら叫んだ。
「どこだ!?」
「見たか!?あいつ…壁をぶち抜いて消えやがった!!」
一匹のキツネが穴に顔を突っ込む。
その顔は蒼白だった。
「どこにもいねぇぞ!!!」
その瞬間――
「カチャッ…」
背後で銃の装填音が響いた。
キツネどもは一斉にビクリと肩を跳ね上げる。
だが――
誰も振り返らない。
俺がいるはずがないと思い込んでいる。
愚かな奴らだ。
奴らは互いに顔を見合わせる。
恐怖で声を出すこともできない。
ただ――震えていた。
「……自業自得だな」
俺はゆっくりと銃口を持ち上げた。
照準はしっかりとキツネの後頭部を捉えている。
「……まだ誇りがあるなら答えろ。
お前らのボスはどこにいる?」
しばし沈黙が続いた。
やがて、一匹が口を開いた。
「い、い…い……」
声が震えていた。
口ごもるキツネを見下ろしながら――
俺は静かに言った。
「……どこだ?時間を無駄にさせるなよ」
だが、奴は答えられない。
目には涙が滲んでいた。
恐怖で声も出せないのだろう。
無理もない。
壁をぶち破り、仲間の首を握り潰した男を見たのだ。
だが――
別のキツネが、震える声で答えた。
「……そ、地下だ…二階下……」
――地下か。
ベタだな。
まるで三流映画みたいだ。
どうせ地下に行けば見張りが待ち構えてるんだろう。
「そいつはご親切にどうも」
皮肉を込めて呟くと、さらに質問を続けた。
「で……ボスは一人か?」
すると、別のキツネが苛立ったように振り向いた。
目を血走らせ、歯を剥き出しにしながら怒鳴った。
「……テメェ、何だと思ってんだ!?」
俺は肩をすくめ、奴を見つめた。
「そうか……悪かったな」
――そして。
引き金を引いた。
「ドォン!!」
一匹目が崩れ落ちる。
「ドォン!!」
二匹目が血を撒き散らしながら倒れる。
「ドォン!!」
三匹目の頭が吹き飛ぶ。
彼らが振り返る暇すらなかった。
ただ――
三発の銃声。
それだけで――
彼らの命は終わった。
静寂が訪れた。
奴らが持っていた命は、ただ無情に消え去った。
一瞬の衝撃。
それだけで、全てが終わった。
俺は深く息を吐き、再び散弾銃を装填した。
だが――今度は違う。
手の震えは消え、動作は無駄なく、滑らかで機械的だった。
「……そうか。悪かったな。質問して」
静かな声で呟くと、銃口をゆっくりと下ろした。
辺りに静寂が戻る。
――そのとき。
左手側から微かなすすり泣きが聞こえた。
「……ひっ、く……」
俺はそちらに目を向けた。
一匹のキツネが――震えていた。
生き残りだ。
俺から数歩離れた場所で、体を小刻みに震わせながら、壁にもたれかかっていた。
「ど、どうして……こんな……たった一瞬で……!」
泣きながら呟く。
震える手はゆっくりと腰に伸びる。
そこには――リボルバーがあった。
奴は、震えながらもそれに手をかけていた。
「……やめとけよ」
俺は静かに言った。
無表情のまま。
だが――
奴は止まらない。
歯を食いしばり、恐怖を押し殺すように銃を引き抜こうとした。
その瞬間――
世界がスローモーションになる。
俺には見えた。
奴の手がわずかに動くたびに、皮革のホルスターが引き裂かれる音。
指がトリガーにかかろうとする瞬間。
関節がこわばりながら、無理矢理銃を引き抜こうとする動き――
だが――
遅い。
俺の身体はすでに動いていた。
高速で銃口を持ち上げる。
視界の隅で、奴の手が銃を抜く瞬間が見える。
だが、奴は撃てない。
なぜなら――
「……遅い」
「バァンッ!!!」
散弾が奴の胸を吹き飛ばす。
一瞬で――
奴の身体が仰け反る。
「ッハ……!」
かすかな声を漏らしたまま、壁に叩きつけられる。
身体が痙攣し、指先が虚しく空を掴む。
だが、もう二度と引き金を引くことはできない。
――静寂が戻った。
硝煙の匂いが漂う中、俺はゆっくりと息を吐く。
足元には、まだ温かい血がじわりと広がっていく。
「……バカめ」
呟くように吐き捨てた。
「……数を数え間違えたか?」
辺りを見回し、独り言のように呟く。
「さて、タケオ……どうする?」
何事もなかったかのように階段へ向かう。
だが、胸の奥にはまだ吐き気が渦巻いていた。
それでも――慣れてしまえば、どうということはない。
まるで自転車に乗るようなものだ。
最初は怖くても、一度慣れれば、後は流れるままに。
恐怖は消えない。だが、それ以上に、この異様な自信が心を支配していた。
まるで、これは"仕事の一環"だとでも言うように。
……この能力、本当に大丈夫なのか?
自分に問いかけるように思考が巡る。
だが、足は止めなかった。
キツネどものアジトの空気は重い。
血の匂い、埃の臭い、そして何より――死の気配が充満していた。
ここでどれほどの悲鳴が響き、どれだけの命が消えたのか。
壁には何かのシンボルや落書きが描かれている。
彼らにとっては大事な"象徴"なのかもしれない。
だが、俺にはただの子供の落書きにしか見えなかった。
――結局、みんな"強者"のふりをする。
俺もまた、そのゲームのプレイヤーに過ぎない。
「へぇ、こいつら、意外とインテリアにこだわるんだな。」
そう呟きながら、しっかりとレミントン870を握る。
まるで、新しいおもちゃを手に入れた子供のように。
アジトの奥へ進むと、いくつかの部屋が並んでいた。
どれも、見るに耐えないほど陰鬱な空間だった。
ある部屋には、机の上に書類や地図が散乱している。
次の"観光計画"でも練っていたのか?
アカプルコでも行くつもりだったなら、是非俺も誘ってほしいものだ。
……まあ、もう誰も行くことはないが。
別の部屋には檻が並んでいた。
空っぽのものもあれば、何かの"残骸"が放置されているものもある。
……何が入っていたのか、考えたくもない。
どうやら、絶滅危惧種がお気に入りのようだな。
そして――
俺は、地下へと続く階段の前に立っていた。
この下にいる。
俺を騙し、俺に"祖母"を殺させた張本人が。
「……オバアチャン、そっちから見えてるか?」
もし"天国"なんてものがあるのなら、どうかこの瞬間を見届けてくれ。
ゆっくりと足を踏み出す。
階段が軋む音が、不気味に響く。
――地下第一層
倉庫のような空間。
武器のラック、弾薬の箱、爆薬の詰まったコンテナ。
警察がここを放置しているのが不思議でならない。
いや――もしかすると、そういうことか?
だが、それを考えるのは後だ。
「遠慮なく使わせてもらうぜ。」
俺は肩掛けホルスターを拾い、それぞれにUZIを差し込んだ。
これで少しは火力が増す。
――タリスマンと符術の確認も忘れずに。
「行くぞ、タケオ。あと少しだ。」
自分に言い聞かせる。
……まるで励ますように。
いや――自己暗示か?
実際のところ、俺の脳裏には別の考えが渦巻いていた。
"今ここで、自分の頭を撃ち抜けば、全部終わるんじゃないか"
――地下第一層、第二の部屋
扉を開けると、異様な静寂が広がっていた。
誰もいない。
警備すら、いない。
違和感。
そして――悪臭。
足が止まりそうになる。
喉の奥が焼けるような臭い。
だが、好奇心に負け、俺は部屋の灯りをつけた。
次の瞬間――
「……クソが。」
そこにあったのは、黒い袋に詰められた死体だった。
首と膝をガムテープで巻かれた"人間"たち。
まるで、この部屋自体が"墓場"のように。
俺は反射的に口を押さえた。
血の臭い、死の臭い、腐敗の臭い――
吐きそうになる。
すぐに部屋を飛び出し、階段へ向かう。
この場所に長くいるのは、危険すぎる。
そして――
――地下第二層
俺の目の前には、強化された金属扉が立ちはだかっていた。
だが、それ以上に問題なのは――
――26人の"兵士"たちが、武器を構えて俺を待っていたことだ。
アサルトライフル、ボディアーマー。
俺を蜂の巣にするには十分すぎる装備。
そして俺は、一人。
"魔法が使えるガンマン"……か。"
……誰も笑わないジョークだな。
歯を食いしばり、強くドアを蹴った。目の前に広がったのは、大きくて豪華な部屋だった。まるで高級な会議室のようだ。中央には長い会議テーブル、奥には俺を裏切ったあのクソ野郎が座っている。
「クソったれども!」
キツネたちの視線が一斉に俺に集まった。その目は重く、鋭く、まるで俺の魂の奥底まで見透かそうとするかのようだ。こんなことが一日に二回もあるなんて不思議だ。でも、それが何だって言うんだ?俺はただ、やるべきことをやるだけだ。
「ガキ、お前が関わっている事柄はお前の範疇を超えているぞ」 一匹のキツネが冷静にお茶を一口飲みながら言った。テーブルの奥に座っている一番年長のキツネが顔を上げ、軽い笑みを浮かべて、銃をテーブルの上に置きながら言った。
「お前が誰かは知っている。ただし、個人的には知らないがな。」
その声は、形式的で冷淡、でも何か不気味な緊張感を伴っている。まるでビジネスの会話みたいだ。だが、戦いは既に始まっている。
次々と他のキツネたちも銃をテーブルに置き、挑戦的に俺を見据えた。これは脅しではない。明らかなメッセージだ。俺が新人相手だと思っていたら大間違いだと、彼らは知っている。
「無駄な暴力を避けるべきだろうな」と最年長のキツネが言った。その声は柔らかくも、確固たるものだった。「結局、誰もが自分の利益を守ろうとしている。」
「そうだな。利益ね。」俺は冷静に呟きながら言った。「でも、どうやら俺たちの利益はだいぶ違うようだ。」
部屋の中に静寂が広がった。誰一人動こうとせず、誰一人深く息をしなかった。力関係を見極めるための時間が流れる。だが、俺はその中で一歩も引かない。
「まぁ、そろそろ始めるか?」と若いキツネが皮肉っぽく言った。
奥の席に座っているリーダーがゆっくりと頷き、全員を見渡した。その目は冷徹だが、全てを見透かしているようだった。緊張感がますます強まっていく。言葉は、ただの前置きに過ぎなかった。嵐の前の静けさだ。
古いキツネは葉巻を灰皿に置き、こう言った:
「倫理なんて、欲望が人々の額に書かれている世界では通用しない。人々は、勝つためなら誰を傷つけても構わない。勝って、さらに勝ち続ける。すべてを手に入れ、金をむさぼり食って、最後には癌で死ぬ。だが、何があろうと、カルマは必ず自分に返ってくる。肌の色も、社会的地位も関係ない。みんな同じように死ぬんだ。それでも、嘘の救世主のままでいるだろう。偽りの演説で国を売り、あなたの信頼を得ようとする。もしかしたら、それはあなたの親友か、兄弟か、さらには母親かもしれない。自分にとって、知ってはいけないことを知ってしまったことに、初めて喜びを感じている。」
あいつが言ってることには一理ある。結局、強者のルールが全てだ。なんでそんなことを言ったのか、よくわからない。でも、あいつの長生きしてきた経験からくる言葉なんだろう。俺はその言葉を、後でじっくり考えてみることにする。
「そうか、結局はお前の言う通りだな…あいつらは、得意なことをやっているだけだ。」
そう言いながら、俺はゆっくり歩き、散弾銃のガードハンドルを引き、薬莢を落とした。そして、散弾銃を地面に放り投げた。まだUziが二丁残っている。今、俺を遅くするようなものは必要ない。弾を避けなきゃいけない状況になるのはわかっている。そして、それをやってやる。
「俺も得意なことをやるだけだ。」
古いキツネはテーブルからピストルを取った。おそらく、俺の額を狙って撃つつもりだったんだろう。でも、あいつが動く前に、俺はすでに銃を抜いていた。
「トラタタタタタ」
銃撃音が部屋中に響き渡り、キツネたちは次々と床に伏せるか、俺に向かって撃ち始めた。
「クソ!」
俺は床を転がりながら、もう一丁のUziを引き抜いてキツネたちに向けて撃ち始めた。それでも、俺は止まらず動き続けなければならなかった。そう、弾丸の動きを見えるようになったが、ただ体を動かすだけでは避けられない。それは『マトリックス』の映画みたいに簡単じゃない。弾丸も散弾も、全部避けるために動かなければならない。それはとても難しい。
俺はテーブルの上に飛び乗り、武器を探しているキツネたちを撃ちまくった。後ろに飛び退きながら、ボスに向けて撃とうとしたが、あいつは跳ねてテーブルの後ろに隠れた。
「アッ!」
背中が地面に叩きつけられる感覚は、まるで玉袋を蹴られたようだったが、足に弾が貫通するよりはマシだ。これは間違いない。
「何を待ってるんだ? あのクソ野郎を殺せ!」キツネの一匹が叫んだ。
「クソッ。」立ち上がろうとしたが、何かが悪くなる予感がした。まるで、もう完全に詰んでいるとわかっているときのようだ。だから目を閉じて、最悪の事態に備えてじっとしていた。速く立ち上がることができなかったからだ。君たちが思うかもしれない。「なんでブリンク(瞬間移動)を使わないんだ?」うーん...実は俺も使いたいけど、どう使うかよくわからないんだよね。今はひたすら繰り返しパラペンしてるだけだ。
体に弾が当たる感覚がした。特有の緊張感が全身を襲う。冷や汗が流れ、体の内側が痛む。うん、気持ちいいよ。これ、またやりたいかもしれない。
早く考えなきゃならなかった。口の中に金属の味が広がり、俺はターゲットにされるのに飽きていた。いろんな方法があるけど、これはかなり面白い。重力を操るなんて、かなり不公平だと思うけど、12対1だって不公平だろう?
手を伸ばして、暖炉のガスボンベがテーブルに激突して爆発するようにした。キツネたちが爆風で吹き飛ばされ、バラバラになった。すぐに前方に這い寄り、散弾銃と、地面に落ちていた弾を拾い、浮遊しながらすぐにそれを装填した。
「アッ!」キツネのボスが、天井からわずか数センチの距離で素早く飛んでくる俺の姿を見て叫んだ。空中で弾を素早く装填し、ボスに向かって弾を撒き散らした。
「トラタタタタタ!」(バラバラバラバラ)
俺は何度もボスに向かって撃った。最後にもう一発引き金を引き、ボスの頭を直撃させた。
速度を制御できず、俺は背中からテーブルにぶつかり、その後、紙の上を転がり、最終的に床に倒れ込んだ。
「うっ…クソ…」頭がぐるぐる回って、立ち上がれないほど目が回っていた。少しだけ横になろうと思ったその時、手と体に湿り気を感じた。まさか、俺はお漏らししたのか?いや、そんなことはない、これは…
「血だ!」目を開けると、数センチ先に倒れたキツネが見えた。こいつの頭から血が流れ出し、その周りには血だまりができていた。
「神様、マジか…」
俺は血を払おうとしたが、すでにかなりの量が服に染み込んでいた。これで俺の好きなシャツは終わりだ…いや、待て、俺の好きなシャツって、実はこれが唯一のシャツだったんだ。そしてパンツも、下着も…全部終わった。
アドレナリンが下がるのを感じ、傷が癒え始めるのがわかった。体から外れた弾が床に落ちる音がした。そして、俺が引き起こした惨劇を見て、吐き気を抑えきれなかった。
血と嘔吐が床に広がり、俺がしたことの醜悪な証として残った。手を見つめると、乾いた赤と灰に覆われていた。全員、死んだ。できれば地獄で、存在するならな。証人は残さなかった。容赦はなかった。ただの火薬、焼けた肉、そして夜空に響く爆発音だけだ。
建物が粉塵と炎の咆哮と共に崩れ落ち、俺だけが瓦礫の中で立っていた。しかし、すべてを吹き飛ばす前に、俺は重要なものを拾い集めておいた。証拠の書類、犠牲者たちの身分証、少しの金。なんでって? 道徳なんて贅沢は俺には必要ない。俺は祖母を見つけなかった。彼女の痕跡はどこにもなかった。きっとバラバラにされたんだろう。まあ、葬式なんて出せるわけないし…それに、誰も出席するわけない。
数日後、俺はその場所に戻った。殺し屋は常に現場に戻るって言うからな。崩れた建物の残骸の前に立ち、かつてのその場所に目を向けた。瓦礫の中には即席の祭壇が作られ、ろうそく、花、そしてその地獄で命を落とした者たちの写真が並べられていた。
泣き声と絶望の叫びが空気を満たしていた。女性たちはひざまずき、手で地面を叩きながら愛する人々の名前を叫んでいた。子供たちは、亡き父母や兄弟、友人たちの遺体にしがみつきながらすすり泣いていた。中には恐怖を処理できずに気を失う者もいた。そして、私は…ただ見ていた。
私はあの場に立っている自分が滑稽に感じた。昨夜の朝に祖母の小さな写真を置いたことを思い出し、それをじっと見つめていた。私の顔は石のように無表情だったが、目は…疲れていた。とても。おそらく、もう多くのことを見すぎて、誰もが耐えるべきではないことを耐えてきた男の目だろう。涙は流さなかった。今、どう感じていいのか分からなかった。ただ、静かにそこに立ち、他人の痛みが空間を満たしていくのを見守っていた。
突如として、悲痛なすすり泣きが私の思考を引き裂いた。中年の女性が息子の写真の前で崩れ落ちた。「私の子、私の美しい子…ここに来るべきではなかった!」彼女は必死に叫んでいた。ある男性が彼女を支えようとしたが、彼自身も涙をこらえることができなかった。
「どうして彼らが…どうしてこんなことが起きたんだ?」誰かが呟いた。
「神は私たちを見捨てた…」と、一人の老人が震える手でろうそくを灯しながらすすり泣いていた。
私はあごを引き締めた。「神なんて最初からここにはいなかった」と心の中で思った。
私の考えが苦しみに漂う中、一つの声が私を現実に引き戻した。それは柔らかく、しかし確かな声だった。
「あなたも誰かを失ったのですか?」
私は少しだけ体を動かした。少女が私の横に立っていた。彼女は他の人々ほど壊れている様子はなかったが、目には悲しみが宿っていた。
「私の祖母です。」私は簡単に答えた。何も加えず、即席の祭壇に置かれた写真を指さした。
彼女はその写真をしばらく見つめてから、再び私を見た。「本当にごめんなさい…」
私は答えなかった。その瞬間、何を言うべきか分からなかったし、彼女が理解してくれるとも思っていなかった。しかし、なぜか彼女は離れなかった。
「彼女について話したい?」と、しばらくの沈黙の後、彼女が尋ねた。
私は深く息を吸った。おそらく、久しぶりに…話したかった。
「私の祖母は…」
私は即席の祭壇に指を指した。息を吐きながら、話し始めた。
「彼女は…皮膚癌だった。私はできる限りのことをしたけど…お金がなかった。ほとんど生き延びるので精一杯だった。私は彼女と一緒に生きていたけど…まあ…起こるべきことが起きたんだ…運が悪かったと思う…どう感じればいいのか分からない。私は…もし時間を戻せるなら…」
私は唾を飲み込み、胸に痛みを感じた。
「彼女は、いい人生を送ったわけではないんだ。私も同じだけど、少なくとも、死んで安らかに眠れることを願っている。」
彼女はしばらく黙っていた。唇をかみしめていた。
「私は…兄を失った。」と彼女は囁いた。その声は少し震えたが、続けて話した。「彼は…まだ12歳だった。家から引き離されて…売られた。私は…何もできなかった。」
彼女の足が震え、彼女は自分を抱きしめた。現実の冷たさが彼女を突き刺しているようだった。
「ここで見つけた。」と彼女は続けた。「あるいは、彼の残骸。彼を…彼のシャツでわかった。」
彼女はコートの布を指で押さえ、目を伏せた。
「時々、もっと何かできたんじゃないかと思う。もっと強く戦うべきだったんじゃないか。もしかしたら…何らかの方法で…彼はまだここにいるかもしれない。」
私は顎をかみしめた。彼女の言葉は予想以上に強く私を打った。
「考えない方がいい。」と私は、普段より低い声で言った。「無駄だ。」
彼女はすすり泣き、涙を目にためてうなずいた。
「少なくとも、責任者は死んでいる…それだけがいいことだと思う。」
私は彼女の肩に手を置いた。私はこういうことが得意ではない、慰めや優しい言葉が苦手だ。でも、何かが私をそうさせた。おそらく、私は一人でいることがどういうことかを理解していたから。
彼女は深呼吸をし、私の言葉が十分だと自分に言い聞かせるかのように思えたが、声は震えていた。
「はい…そうかもしれない。」
彼女は唇を固く閉じ、何かを言いたそうだったが、結局何も言わなかった。彼女の目は瓦礫の中、人々が泣いている姿、かつて存在したものの灰の中をさまよっていた。
「でも、それでも…それは戻ってこない。」
私は答えなかった。言うべきことはなかった。
世界はそんな風には動かない。実際、正義なんてものはない。ただ、少なくともこの事を起こした者たちがもう息をしていないという冷たい満足感だけだ。しかし、それは空虚を埋めることはない。実際、私もこのすべてを行ったことが満たされることはなかった。
彼女は苦い笑いを漏らした。
「なんでこんなことを話しているのかも分からない。あなたのことを知らないし、誰なのかも知らない。」
私はちらりと彼女を見た。
「それは関係ない。」
彼女は少し眉をひそめた。
「関係ない?」
私は苦い顔をして頭を振った。実際、どうでもよかった。私は冷たい人間だと思われているかもしれないが、実際にはそんなに冷酷ではない。私は同じ経験をしていなくても共感できる。おそらく私の感傷は両刃の剣だろう。誰かと話すことなんてなかった。祖母だけだった。でも、彼女は私にとって唯一だった。もう無駄に考えない方がいい。答えよう。
「時々、知らない人と話す方が楽だ。」
彼女は小さな笑みを浮かべたが、それは現れるのが早すぎて、すぐに消えてしまった。
「多分ね。」
再び私たちは静かになった。長く、気まずい沈黙。
私は再び祖母の写真をじっと見つめた。彼女は私の視線に気づき、興味を示した。
「あなたの祖母の名前は何ですか?」
私は少し目を横に向けてため息をついた。唾を飲み込み、どう説明すればいいのかを考えた(結局、思いつかなかった)。私は答えを決めた。
「私の祖母には名前がなかった。」
彼女はただ黙って、亡き祖母の写真を見つめていた。そして数秒後、彼女は言った。
「…ああ。」
再び気まずい沈黙が訪れた。私は自分の手がまだ彼女の肩に置かれていることに気づかなかった。それで、そっと肩から手を離し、ポケットに入れた。
彼女は喉を軽く鳴らして言った。
「ええと…私の兄はハルって名前だった。」
私は「ふむ」と軽く返した。それは、誰かが言ったことを突然考えるような反応だった。まるで、今まで信じていた現実に新しい形が与えられたかのように。だが、私は何も言わなかった。
再び沈黙が私たちの間に降りてきた。それは重く、気まずく、空気に漂う他人の痛みで満ちていた。周囲のすすり泣きが聞こえ、死者の名前を呼ぶ声が震えていた。その後、彼女が再び口を開いた。
「ねえ…このキツネたちも、ハルと同じように苦しんだと思う?」
彼女の声は子供のようで、ほとんど無邪気に聞こえた。まるで、本当に慰めになる答えを期待しているようだった。
私は視線を曇らせた。彼女が求めている嘘は言えなかった。真実も伝えられなかった。それでも、少しのヒントは必要だと思った。私はゆっくりと、重い手で彼女の肩に手を置いた。そして顔を向け、できる限り冷静に声を絞り出した。
「分からない。でも、早くはなかった。」
彼女の目が開き、純粋な不快感が浮かんだ。おそらく、彼女はその答えを期待していなかっただろう。心の中では、すでに真実を知っていたかもしれないが、それを口に出したくなかったのだ。
「待って、どうして…?」
彼女の目が動揺し始めたが、私を再度見ようとした時には、もう私はそこにいなかった。
「知ってるか…」
誰かが消えると、周囲の人々はまるで世界が止まったかのように振る舞う。しかし、実際はそうではない。太陽はまた昇る。人生は続く。ただ、誰かにとってその道は閉ざされた傷となり、二度と癒えることはない。
彼女は周りを探していたが、私はもう道路の反対側にいた。何もない場所へ向かって歩きながら、私は新しい人生を始めていた。
私は妖怪ハンターとして。
第1章 終わり
こんにちは。読んでくださって、本当に感謝します!(*^▽^)
この物語は、私にとって大切なものです。だから、日本の語や文化に慣れていないのにもかかわらず、日本語に翻訳してみました。もし誤った表現があったら、ごめんなさい!m(_ _)m
よければ、コメントや感想を聞かせてください。良い点や改善できる点を知りたいです!
読んでくだって本当に感謝します!ありがとう~!( ^▽^)/